2017年10月09日

自分に利益のある感情の話

どうも、人には、それぞれお好みの感情があるようです。

 やたらと怒る人は、怒りの感情。

 なにかと悲しむ人は、悲しみの感情。

 とにかく喜ぶ人は、喜びの感情。

 すぐに不安になり怖がる人は、不安や恐怖の感情。

 などなど。

 行動理論によると、人が繰り返すことにはなんらかの利益があるようです。

 こう考えると、

 感情を、怒ったり、悲しんだり、喜んだり、不安で怖がったりする形で行動として表出することを

 子どもの頃から繰り返しているとするならば、

 その人にとって、その感情を感じそれをもとに行動することは、なんらかの利益があるのかもしれません。

 例えば、

 怒ると、うってかわってまわりの人が自分の言うことをきく。

 悲しむとまわりの人ががいつもより優しくしてくれる。

 喜ぶと、嫌な気持ちをスッパーンと忘れられる。

 不安で怖がると、あれやこれや思いを巡らして完璧な行動をとることが出来る。
  完璧な対応。それは親から求められた行動なので、親の期待に応えることにもなるし。

 理不尽なことをされたので怒りを感じると、悲しみや情けなさを感じなくてすむかもしれません。
 
 他の望まない感情を感じなくてすむ。

 まわりの人から関心を持ってもらえる。

 改めて考えると、子どもの頃、親などのまわりの人からその感情を持つことを推奨されてきたみたい。
  泣くんじゃない、笑うんだ。
  悲しむんじゃない、怒りなさい。
     みたく。

 その通りにすると、OKがもらえる。
    生き延びられる。

 だから、私はその感情を抱きやすい。
 それは私の、お好みの感情。

 さて、
 自分のお好みの感情を抱いている時、

 横に置いている感情。

 を知ることは、素の自分を知るのに役立つでしょう。

 まわりに迎合するために感じている感情ではなくて、

 素の自分が自然に感じている感情かもしれないからです。

 この辺のこと、TA・交流分析ではラケット感情として指摘されています。

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)心理・カウンセリング

2017年10月06日

フラッシュバックで悔やむこと

 トラウマケアの話の中でフラッシュバックと言えば、一般的に、

 トラウマを負った場面に瞬時に戻り、その時の恐怖にまつわる感情や体の状態を再体験するとされています。

 これは、害を被った体験を再び味わうというものです。

 一方で、自分が害を与えたことをフラッシュバックして再体験して、自分の行いの未熟さを悔やむことを繰り返す形もあるようです。
 
 あの時、あんなことしてしまった。

 または、あんなことしなかった。

 よく吟味しないで発した不用意な発言。

 慎重さを欠いた態度。

 を、不意に思い出し、全身を緊張させて、自分を叱りつけるのです。

 たまらず頭をたたいたり、大声を出したりして。

 でも実際は、悔やむほど配慮がなかったわけではありません。
 完璧ではないかもしれませんが、その場面では十分な配慮をしていたのです。

 にも関わらず、もっとこうすればよかった、と自分の愚かさを悔い、全身で恥じ入るのです。

 良心の呵責にも似ています。

 その人に最善のことをしてあげられなかった罪責感。
 
 無言の求めに応じられなかった無能感。

 を繰り返し繰り返し悔やんでいるかのよう。

 悔やむ必要のなことをあえて悔やむ。しかも不意に瞬間的に悔やむ。
 それはなぜなんだろう?

 繰り返し繰り返し考えたところ、一応の答えにたどり着きました。

 それは、

 危険を冒したから。
 です。
 
 気を許した言動。
 それは、相手の不興を買うリスクが高い。

 そういう認知だからでしょう。

 完璧な応対でなければ、安全は確保されない。
 危険はあとからたっぷりいつでもやって来る。
 そんな信念があるのでしょう。

 だから、
 自分の身を危険にさらすリスクを冒した行為を責めさいなむようです。

 もっと安全に配慮せよ!

 自分をさらけ出すな! 隠せ!

 相手が望むような態度をとれ!

 危険を冒すな!

 緊張せよ!

 虐待や養育者が精神的に不調な環境で育った子どもは、こういう思いになるかもしれません。

 養育者の暴言暴力、感情の激しい起伏、がいつ起きるか、いつまで続くか予想がつかない恐怖環境の中では、

 自分の言動1つで、自分の身の安全が左右されるからです。

 失敗は命取りのリスクをはらんでいるからです。

 または、アテにならない大人のかわりに、自分だけはまともであらねばならない。
 しっかりと自分を律していなければならない。

 そうでなければ家庭が崩壊する。命の危険がある。

 そう無意識に思っているかも。

 そんなこんなで、完璧な対応がデキない自分を責めるのでしょう。
 実のところ今はもう、その必要はないのに。

 TA理論的には、Pが侵襲しているとか、
 一時的に力を失ったPの隙をついて調子に乗った行動をとったCを勢いを取り戻したPがとっちめてる。
 なんて考えるだろうフラッシュバックのお話でした。

 
  


2017年09月27日

奪われる恐怖と与える喜び

 こもっている人と話しているとき、わりとありがちなのが

 搾取・さくしゅとか、収奪・しゅうだつとか、略取・りゃくしゅとか、

 という言葉に表される、

 自分たちから、社会や権力者が奪う、盗むという感覚・発想です。

 そのため、
 自分たちは、社会や権力者から奪われる、盗まれる。

 オイシイ思いをするのは、力ある人たち。

 自分たちではない。

 そういう感覚・発想です。

 世界は自分の物を奪う。取り上げる。盗む。

 そんな意識なのでしょう。

 となると、

 社会と関わるということは、

 奪われる。

 と言うことになります。

 だから、
 社会に関わることがとても命がけ。

 必死の思いで社会と関わる。

 かつて、とても怖い目に遭ったからでしょう。

 実は、
 これとはまったく逆の感覚・発想もあります。

 自分は社会に何を与えられるか?

 自分はあの人に何を提供できるか?

 社会・他者から奪われる感覚・発想ではなくて、

 社会・他者に逆に与える感覚・発想です。

 こんな感覚・発想に触れると、余裕と力強さや思いやりを感じます。
 
 与えると思うと、恐怖と自分の力強さを感じます。

 時間、スキル、知識、笑顔、お金・・・。

 自分の何を与えるかは自分で決める。主体的。

 逆に、
 奪われることばかり意識して
 自らなにかを与えることを考えられない人は、

 人からもらうことばかり考えているのかもしれません。

 だって、自分はとても弱い存在だもの。
 人になにかを与えることなんてできない。

 と言うか、奪われたものを返してもらわないとならない。
 その権利がある。
 自分は債権者だ。

 残念ながら、望むような返還はなされません。
 優しくされても、承認されても、労いとともに給料もらっても、きっと宝くじ7億円当たっても。

 まだ足りない。

 ところが不思議なことに、
 与えることに意識を向けると、

 無くなったはずのものが、蓄えられて来ることに気づきます。

 無くなったはずのもの。

 奪われ続けたもの。

 それは、自尊心。

 自信。

 ほどなく気づくはずです。  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)心理・カウンセリング

2017年09月18日

病院がふわっと断ってくることについて 2

 患者に治療意欲がないという理由で医療者が患者の受け入れを実質断る場合について。
の続き記事です。

 各種調査ではっきりしているように、
こもっている人は、医療が必要な人がほとんどなのですが、
いざ受診するとなると、大きな壁が立ちはだかります。
 絶望するほどの厚く高い巨大な障壁です。

 それが治療意欲。

治療意欲がないと、医療の効果が期待できないので、実質「お断り」される場合は多いのです。
 つまり、拒否らレる。

確かに、こもっている人は受診をしないし、継続通院もなかなかしません。
つまり治療意欲がない。
 そういう面は間違いなくあります。

さて、この治療意欲。
もっぱら患者にそれがないと言うことだけ取り沙汰されますが、

 実は、患者に治療意欲がないという面に加え、
医療者にも意欲がないという面があるようです。

 なぜなら、医療者の
患者のために働きたい! 
 という意欲をくじく患者だからなんです。
治療意欲のない患者は。
治療意欲の見られない患者は。
治療意欲が感じられない患者は。

 そしてそれは、
長年精一杯やるだけやっても治らない回復の困難から、

医療に対して期待しなくなったこと、
自分の健康に対して希望を持たなくなったことなどの、
 思いを持った患者が、

医療者に対して、そういう思いで接しているからではないかと考えます。

どうせ無理でしょう? あなたも。 自分も。

 視点を変えると、
自分のくじけた意欲、解消不可能と思われる困難を抱える自分の痛みを、
医療者に無言で伝えているとも考えられます。

 でも、無言で伝えようとすると、伝わりづらいもの。
誤解すらされます。
治療意欲がない。
みたいに。

だから、なるべく言葉にして伝えることが大切。
医療者に分かりやすいように。

できれば、よくなりたいです。
でもその自信はありません。
それほど期待もしていません。
諦めています。

治ればイイと思っています。
でも・・・。

正直な思いを言葉にして、伝えてみる価値はあるでしょう。
にも関わらず、それを受け止められない医療者なら、
他をあたりましょう。

この項終わり。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)心理・カウンセリング

2017年09月15日

病院がふわっと断ってくることについて

患者に治療意欲がないという理由で医療者が患者の受け入れを実質断る場合について。
の記事です。

具体的にどんな状況かというと、

家族が相談に行った場合、
「本人が来ないことにはどうにもできません」
「本人が、病気を治したいという気持ちがないと難しいです」
と言われたり、

本人が行った場合、
「もし、なにかあったら来て下さい」
と言われたり、
「どうします?」
「お薬を飲んでみますか?」
なんてなことを訊かれたりする場面で、

患者の治療意欲を確認しています。

理由としては、
患者自身が、今の心や身体の状態に困っていて、
それをどうにかしたいという強い意志がないと、
医療効果が上がらないという現実があるのですね。

具体的には、
食事をしっかりとるとか、お酒を控えるとか、睡眠時間を確保するとか、
薬をちゃんと飲むとか、運動をするとか。

患者自身が自分の心と身体のために
日頃の生活を変えてまでも、
やらねばならないことがいっぱいあるので、

やり続ける意志の強さが必要だからなのです。

治療・回復のための重要度を比較すると医療よりもむしろ患者の方が重いくらいなんです。
医療にできることが限られているって言ってもいいくらい。

でも、これ、ホントに難しい。
よっぽどの気合いがないと。

この項続く。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)心理・カウンセリング

2017年09月12日

精神療法の前提が違うということ

 アダルトチルドレン、ひきこもり、不登校、トラウマ関連の書籍や各種調査でよく指摘されていることに、

 治療効果がない。

 支援継続が難しい。

 分かってもらえない。

 逆に傷つく。

 というような、治療・支援と当事者本人がうまく協調できていない点があります。

 支援のミスマッチなんて言われることもあります。

 さて、心理・精神療法は治療モデルというものがあります。

 当事者本人が困難をかかえるに至ったいきさつや、

 そこから困難解消までの道筋を、

 ある程度パターン化したものです。

 この、状態が悪くなってきたパターンとよくなっていくパターンをもとに、治療が進められます。

 認知の歪みが原因だから、ゆがみを直せば改善する。とか、

 感情を抑え込んでいるから、感情を解放すればいい。とか。

 一人で問題を抱え込んでいるから、しっかり聴かれる経験をすれば自然と回復する。とか。

 本当はまったく怖い要素はないのに、不安でいっぱいで行動を起こせないから、まず行動するよう少し強引でも行動を起こさせる。とか。

 です。

 ところが、このモデル・パターンには、前提があるんです。

 人と関われる。

 健康になりたい欲求がある。

 社会生活を送りたい気持ちがある。

 将来展望がある。

 どうもこんな感じ。

 そのため、

 人と関わることに一番困難を感じる。 ※人である治療者と関わることが難しい。

 だから、健康になって人と関われるようになる意味を感じない。
 
 だから、社会と関わる気がない。

 そんな自分だから、将来の夢や希望がない。

 そんな人に対しては、そもそも治療が成り立たないのです。

 治療モデルの前提が違いすぎる。

 当事者本人が、町の医療機関、支援機関に行っても、

 あの有名な医師や、治療家や、支援者を頼っても、

 今ひとつ効果がないと感じることはよくあります。

 前提の違いの影響のように思えます。

 そもそもこの世に足場のある人を前提に作られた治療モデルだからでしょう。

 では、どうすればいいのか?

 足場を築くことが先決なようです。

 足場のない人がそのまま違和感なくいれる場で、足場は築かれます。
 
 受容支持的な治療空間や、

 いわゆる当事者グループは、その足場になるのでしょう。

   
タグ :足場前提


2017年08月10日

トラウマを負うとコトバの意味が一般と違ってくること。

 8/7の記事の関連です。
 そして次からのトラウマシリーズ記事の序章。

 言葉の意味が、一般社会ととても違う。

 虐待など一般社会ととても違う環境で育った人、

 戦争や犯罪など一般社会ととても違う環境を経験した人の場合、

 こういうことはよくあります。

 社会人の
 「今度の休みは2、3日はひきこもりたいなぁ」
 と、
 40年こもっている人の「こもること」の意味は違っているでしょう。

 職業人の
 「仕事しないと食べていけないからね」
 と、
 仕事のストレスで食べることもできなくなった人の「仕事」と「食べる」の意味は違っているでしょう。

 居酒屋で友人と飲みながら
 「アイツ上から目線でやだよね」
 「いつも一方的だよね」
 と
 怯えて震えている人がやっと口にする
 「上から目線が苦手です」
 「あの人一方的なんです」
 の意味は違っているでしょう。

 「もやし食ったら、鼻に中に入って取るの大変で、それからもやし食うとき緊張して、まじトラウマなったし」
 と
 なにかのきっかけで、その瞬間に放り投げられた感じで全身が硬直して、頭が働かなくなる体験が頻繁に起こる人の
 「トラウマ」
 の意味は違っているでしょう。

 身の危険を意味する強さについて。

 家庭、親子、ご飯、家族、友だち、おしゃべり、笑顔、喜び・・・。

 一般的に、安全、安心、安らぎ、信頼、を意味する好ましい言葉も、

 危険、恐怖、脅威、硬直、嫌悪を意味する言葉になっている人たちはいます。

 トラウマを負った人たちです。
   


2017年08月07日

失敗というコトバの重みがフツーとは違うこと

 失敗を恐れずにチャレンジを!

 失敗してもイイんだ。それをバネにすれば!

 失敗から学んでいこう!

 失敗について、こんな感じの教育的なアドバイスは珍しくありません。

 これ、たぶん、前提が

 失敗は怖くない。

 だと思います。

 死ぬほど、痛め付けられるほど、ケガするほど、暴力ふるわれるほど、親がヘンになってしまうほど・・・。

 ところが、

 失敗が命取りの環境で育った子どもはこの前提が通じません。

 その子たちにとって、失敗とは?

 親から殴られたり、馬鹿扱いされたり、、夜中怒鳴り散らされたり、ため息つかれて相手にされなくなったり、

 親がご飯も作れないほど激しく落ち込み寝込んだり、より酒を飲んで暴れるようになったり、

 気が変になったんじゃないかと思うほどわめき出したり・・・、

 と、親の心や身体の調子が悪くなったり、感情の調節が利かず機嫌がものすごく悪くなったりと、

 親や周囲の人間から強力なネガティブな反応が返ってくることを意味しています。

 つまり、失敗は身の危険をもたらします。

 安全な失敗なんてないんです。

 その子たちには。

 だから、失敗しないようにまず親や周囲の人間を観察し、失敗しないように周到に準備し、言葉を選び、行動を選び、恐ろしいことが起きないような感情を選びます。

 それが成功するように、常に緊張感を高め、確認を繰り返し、

 実行する前のシミュレーションと実行後の検証を繰り返します。

 だから、ナニカをやる時は、いつも命がけ。

 だから、ナニカをやる時は、ものすごいストレスがかかる。

 日々を過ごすだけでものすごく消耗する。

 そんな子どもたちに、
 または、
 大人になったそんな子どもたちに、

 軽々しく、失敗してイイよ! なんて言うのは控えた方がイイと思っています。

 それは、死んでもいいよ。

 って言ってるも同じ意味合いになるからです。

  


2017年08月01日

人間が社会と関わる順序は恐怖感からはじまること

 ポリヴェーガル理論を基盤とするトラウマケアの考え方によると、

 人が、なにか出来事に遭遇して、それにどう応じていくかについては、本能的に手順が決まっているようなんです。

 例えば、

 ゴトッ。と物音がした。

 サッと目の前をなにかがよぎった。

 なんか臭う。

 そんな風に、周囲になにかが起こったことを知覚した時、

 まず、恐怖感を感じ、安全かどうかを判断する作業を行うのだそうです。

 そのために、今やっている作業をおろそかにし、その分、知覚を研ぎ澄まします。

 何か音がしたのなら、聴覚を。

 見えたのなら、視覚を。

 臭ったのなら、臭覚を。

 同時に、行動しようと準備はじめます。

 行動の方向としては、その場から逃げ出すか、

 原因を探るために、何かの方に近づくかのどちらかです。

 その上で、危険度を測ります。

 もし、その何かが人間などの生き物だったなら、

 まずは、笑顔などを作って、親しくなろうとするのだそうです。

 「どうしました?」 みたいに声をかけるかもしれませんね。

 仲良くなることで安全を保とうとする本能的戦略です。

 そういえば、国と国の不調和の解決法に視点を変えてみても、まず外交で仲直りする努力を続けますね。

 さて、仲良くなる努力をしてみたところ、
 相手の応答から、相手の危険度を脅威だと判断したら、

 次の手順である、闘争するか、逃走するかの行動を選ぶことになります。

 物体(転がってきた空き瓶、落ち葉、ノラ猫の糞とか)だったら、危険度に応じて逃げたり、問題解決したり、脅威なしを判定してなにもしないことを選択するでしょう。

 国と国の不調和の解決手順でも、外向が不調に終わったら、武力による解決を図りますね。

 まとめると、

 恐怖を感じた何かに対して、自分から何かする。

 そうして、落ち着きを取り戻す。

 こういう手順です。

 もし、この手順が最後まで達成できなかったら、私たちは不調を抱えることになるようです。

 脳内にアラームが鳴り続けたまま、ストレスホルモンが出つづけたままだからですね。

 脅威な何かに対して、

 闘って安全を勝ち取る。
 安全な場所に逃げおおせる。

 そうすることで、心=脳は平静に戻ります。

 もし、安全を確保できないままだとしたら、身体は常に戦闘状態と一緒でしょう。

 この状態になると、世界全体が脅威となるでしょう。

 身体が常に恐怖を感じている状態だからです。

 この状態だと、
 言動が過度に攻撃的、過度に防衛的になるのも不思議ではありません。

 喧嘩っ早い人、こもり続ける人は

 こんな状態なのかもしれません。

 恐怖を感じながら、人や社会と関わる。
 日々を暮らしている。

 そんな状態、

 いわゆるトラウマを負った状態です。

 社会との関わりには手順があり、手順を最後まで終えないとトラウマになることがある。

 ということを知っておくことは人を理解する上で役立つでしょう。
  
タグ :覚醒状態


2017年06月21日

なにかあったら来て下さいという病院

 なにかあったらまた来て下さい。

 きっと世界中の病院で言われているセリフだと思います。

 今のところ治療を要するほどではないけれども、

 今後、何か変だなと不調を感じたら、遠慮なく来て下さい。

 その時の状態を見て、必要ならば治療しましょう。

 という意味でしょう。

 実はこれ、前提がスゴいんです。

 患者が、自分の心身の不調に気づく!

 その力があるというのが前提なんです。

 そして、それを病院で治す! という意思というか希望というか、

 そういう判断が下せて、

 実際に病院に行く行動力、

 そして病院で自分の具合の悪さを説明できる力、

 そんないくつもの力を患者がもっているという事、

 そして力を発揮できるという事。

 が前提になっています。

 患者力と言ってもいいかもしれません。

 患者力。
 医療って、そんな患者頼みで構築されているんだなと再確認したのでした。
  




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