2017年11月24日

寄り添う支援のこと

 誰かを手助けするやり方について、

 問題の解決法をアドバイスし、問題の答えを出し、
 代わりにやってあげたり、尻をたたいたり、背中を押したり、手を引いたりするやり方と、

 相手の気持ちを汲み、相手が物事に取り組むペースに合わせ、
 相手の優先順序を尊重し、アドバイスも控え、相手が答えを見つける手伝いをし、
 基本的にそっと見守るやり方があります。

 前者は指導型、後者は寄り添い型の支援と呼ばれている手助け法になるでしょう。

 さてこの寄り添い型を実践するにあたって必須の心構えがあります。

 それは、

 相手の能力を信頼すること。

 前者の指導をしたくなる時は、

 なんらかの相手の能力を低くみていることが多いもの。

 裏を返せば、自分の能力が相手より勝っていると無意識に思っている。

 支援する立場にある皆々様、

 ご注意をば。


  


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2017年11月03日

子どもの望ましい行動を伸ばすためにほめられるなんてイヤだ! の話

 行動理論にもとづいた子育て支援、不登校支援、ひきこもり支援の思想に、

 子どもの望まし行動と、望ましくない行動をよく見極めて、

 望ましい行動をした時は、究極的には相手にしないなどの最低限の関わりに留め、

 望ましい行動をした時は、しっかりほめる。

 というのがあります。

 すると、子どもは望ましい行動を繰り返すようになるからですね。

 極端な例を挙げると、
 食べ終わった茶碗を流し台に持っていくとほめる。

 学校に行くとほめる。

 外に出るとほめる。

 そんな感じです。

 さて、このやり方、子どもの立場になると、ちょっとムカつきます。

 動物の調教よろしく、芸をするとえさをあげて、芸をしないとえさを与えない。
 原理はこれと一緒だからです。

 どの芸をするか、どんな風に芸するか?

 それを決めるのは調教師。

 どの学校に行くか、どんな風に学校に行くか?

 どんな風な行動をすればいいのか? 悪いのか?

 決めるのは、親や教師や支援者です。

 子どもが望む行動ではなく、親や教師や支援者が望む行動をするとほめられ、そうじゃないと軽く無視される。

 なんだか、バカにされている感じ。

 だからか、自分がやったことを「望ましくない行動」なんて言われると、
 逆にやりたくなってしまいます。

 どうせ望まれないんだから、勝手にやらせてもらうわ! なんて風に。

 もっとゲキしてくると、

 テメーが勝手に決めてんじゃネーよ!

 とジョジョ的な物言いになってしまいます。

 これ、両価性の原則と言ったりします。

 一方に肩入れすると、もう一方の気持ちが強くなるんです。

 では、
 どんな風にすればイイのでしょうか?

 我が子を含め他人様の行動を、望ましい行動、望ましくない行動と判断したのは、ほかならぬ私。

 実は私の主観。

 一方の主観はOK、一方の主観はダメ。

 こんな風に、主観と主観がぶつかり合うから上手くいかないようなんです。

 ならば、主観を合一させればいいように思えます。

 それは、
 「私が思う望ましくない行動」
 「私が思う望ましい行動」
 から
 「私たちが思う望ましくない行動」
 「私たちが思う望ましい行動」

 を話し合い、合意するとなる作業でしょう。

 そうなると、
 私たちが思う望ましい行動をとるためなら、

 少しばかりの損害も引き受けられることでしょう。

 なぜなら、
 望ましい行動をとった結果得られる喜びは、一人自分だけでなく

 私たちで共有できるのですから。

 一緒に喜び合えるのですから。

  


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2017年10月27日

イジメとからかいの境目の話

 その行為は、
 イジメているのか、からかっているだけなのか?

 境目はあいまいです。

 そもそも、多少のからかいはOKという認識だからですね。

 ちょっとしたいたずらは許されるのが人間、人類としてのデフォルトだからなんでしょう。

 でも、やりすぎてはなりません。

 やり過ぎると、イジメになったり、暴力になったりします。
 だから、その境目はとても大事。
 そしてそれはとてもあいまい。

 さて、
 その境目の基準となるのは何か?

 それは、からかわれた人の気持ち、思いとなるようです。

 そのため、
 相手が嫌がったらなんでもイジメになる。

 みたいな風潮があります。

 かつて、セクハラが知られ出したころ、女性に「髪切った?」と訊くことがセクハラだと物議をかもしたことがあったように記憶しています。
 「髪切った?」
 と聞かれた女性が少しでも嫌な気持ちを持ったら、即セクハラになってしまう。大問題だ! みたいに。

 そのため、女性のことに対して何も口にできない雰囲気も一時期ありました。

 イジメについても、相手が嫌だったらイジメになるという理屈で言うと、
 嫌だと思えばなんでもイジメになるし、

 もし、
 嫌だと思いません。
 と返答すれば、どんなひどいことでもイジメではなくなりそう。
 
 そんなこんなで、嫌だと思えばハラスメント・イジメになるという説には私聞風坊は慎重なのです。

 そんな折、やめてほしいと思えばイジメになると言う判断があると知りました。

 LITALICO発達ナビさんの記事です。

 これによると、
 「悲しい」や「やめてほしい」と思うかどうかも判断の基準になるとのことです。

 嫌だけど、我慢できるからいい。と言う理由で嫌とは思わない・言わない場合でも、

 悲しい。とは感じるかもしれません。
 なんか涙が出る。うつむく。言葉にならない元気がなくなり感から。

 そして、

 やめてほしい。

 そうじゃないやり方ならなおいい。もう少し軽くなら大丈夫。
 だから、今のはやめてほしい。今までのはやめてほしい。

 こんな感じだと、どんな風にしたら、よい関係が築けるかの提案ができそうです。

 髪切った? と言う時は、さらりと言ってほしい。失恋しただろうなんてうがった思いはナシで。
 みたく。

 今回は、相手に害を加え続けることを主な目的とする悪意を持ったイジメとは別の、からかいがイジメになってしまう場合について考えました。
 前者は純粋な暴力です。
   
タグ :イジメ境界


2017年10月21日

生きるには割り切る力がいるみたい

 最近よく思うのは、いろんな力を総合して人は生きているんだなということです。

 人に自分の思いを伝える力。

 人の言い分を聴く力。

 人に質問する力。

 それは、
 自分の「?」 を言葉にする力。につながる。

 人の気持ちを察する力。想像力。

 自分の状態を知る力。セルフモニタリング力。

 何事かに注意を向ける力。

 その注意を維持する力。

 体力。

 知識力。

 活動すると必ず疲労するので、
 休む力。

 そして特に最近気になるのが、

 割り切る力です。

 叶わないことは叶わない。

 諦めることは諦める。

 その方が暮らしやすい時、

 割り切ることがとても大事。

 どうしようもないことに意識を固着させて、どうしようもない状態に居続けるより、

 他のどうにかこうにかやりようのあることに意識を向け直して、よく暮らす。

 そんな注意の切り替えがとても大事。

 安売り¥220で買ったトイレットペーパーが、
 翌日¥180で特売されていたとして、
 ¥40の差額に注意を向けて嫌な思いで暮らすより、

 トイレットペーパーが家にたっぷりあってスッキリ安心だ。
 の方に注意を向けて暮らす方が、心地よい。

 そんなことを思いながら日々を暮らしております。

  


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2017年10月09日

自分に利益のある感情の話

どうも、人には、それぞれお好みの感情があるようです。

 やたらと怒る人は、怒りの感情。

 なにかと悲しむ人は、悲しみの感情。

 とにかく喜ぶ人は、喜びの感情。

 すぐに不安になり怖がる人は、不安や恐怖の感情。

 などなど。

 行動理論によると、人が繰り返すことにはなんらかの利益があるようです。

 こう考えると、

 感情を、怒ったり、悲しんだり、喜んだり、不安で怖がったりする形で行動として表出することを

 子どもの頃から繰り返しているとするならば、

 その人にとって、その感情を感じそれをもとに行動することは、なんらかの利益があるのかもしれません。

 例えば、

 怒ると、うってかわってまわりの人が自分の言うことをきく。

 悲しむとまわりの人ががいつもより優しくしてくれる。

 喜ぶと、嫌な気持ちをスッパーンと忘れられる。

 不安で怖がると、あれやこれや思いを巡らして完璧な行動をとることが出来る。
  完璧な対応。それは親から求められた行動なので、親の期待に応えることにもなるし。

 理不尽なことをされたので怒りを感じると、悲しみや情けなさを感じなくてすむかもしれません。
 
 他の望まない感情を感じなくてすむ。

 まわりの人から関心を持ってもらえる。

 改めて考えると、子どもの頃、親などのまわりの人からその感情を持つことを推奨されてきたみたい。
  泣くんじゃない、笑うんだ。
  悲しむんじゃない、怒りなさい。
     みたく。

 その通りにすると、OKがもらえる。
    生き延びられる。

 だから、私はその感情を抱きやすい。
 それは私の、お好みの感情。

 さて、
 自分のお好みの感情を抱いている時、

 横に置いている感情。

 を知ることは、素の自分を知るのに役立つでしょう。

 まわりに迎合するために感じている感情ではなくて、

 素の自分が自然に感じている感情かもしれないからです。

 この辺のこと、TA・交流分析ではラケット感情として指摘されています。

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)心理・カウンセリング

2017年10月06日

フラッシュバックで悔やむこと

 トラウマケアの話の中でフラッシュバックと言えば、一般的に、

 トラウマを負った場面に瞬時に戻り、その時の恐怖にまつわる感情や体の状態を再体験するとされています。

 これは、害を被った体験を再び味わうというものです。

 一方で、自分が害を与えたことをフラッシュバックして再体験して、自分の行いの未熟さを悔やむことを繰り返す形もあるようです。
 
 あの時、あんなことしてしまった。

 または、あんなことしなかった。

 よく吟味しないで発した不用意な発言。

 慎重さを欠いた態度。

 を、不意に思い出し、全身を緊張させて、自分を叱りつけるのです。

 たまらず頭をたたいたり、大声を出したりして。

 でも実際は、悔やむほど配慮がなかったわけではありません。
 完璧ではないかもしれませんが、その場面では十分な配慮をしていたのです。

 にも関わらず、もっとこうすればよかった、と自分の愚かさを悔い、全身で恥じ入るのです。

 良心の呵責にも似ています。

 その人に最善のことをしてあげられなかった罪責感。
 
 無言の求めに応じられなかった無能感。

 を繰り返し繰り返し悔やんでいるかのよう。

 悔やむ必要のなことをあえて悔やむ。しかも不意に瞬間的に悔やむ。
 それはなぜなんだろう?

 繰り返し繰り返し考えたところ、一応の答えにたどり着きました。

 それは、

 危険を冒したから。
 です。
 
 気を許した言動。
 それは、相手の不興を買うリスクが高い。

 そういう認知だからでしょう。

 完璧な応対でなければ、安全は確保されない。
 危険はあとからたっぷりいつでもやって来る。
 そんな信念があるのでしょう。

 だから、
 自分の身を危険にさらすリスクを冒した行為を責めさいなむようです。

 もっと安全に配慮せよ!

 自分をさらけ出すな! 隠せ!

 相手が望むような態度をとれ!

 危険を冒すな!

 緊張せよ!

 虐待や養育者が精神的に不調な環境で育った子どもは、こういう思いになるかもしれません。

 養育者の暴言暴力、感情の激しい起伏、がいつ起きるか、いつまで続くか予想がつかない恐怖環境の中では、

 自分の言動1つで、自分の身の安全が左右されるからです。

 失敗は命取りのリスクをはらんでいるからです。

 または、アテにならない大人のかわりに、自分だけはまともであらねばならない。
 しっかりと自分を律していなければならない。

 そうでなければ家庭が崩壊する。命の危険がある。

 そう無意識に思っているかも。

 そんなこんなで、完璧な対応がデキない自分を責めるのでしょう。
 実のところ今はもう、その必要はないのに。

 TA理論的には、Pが侵襲しているとか、
 一時的に力を失ったPの隙をついて調子に乗った行動をとったCを勢いを取り戻したPがとっちめてる。
 なんて考えるだろうフラッシュバックのお話でした。

 
  


2017年09月27日

奪われる恐怖と与える喜び

 こもっている人と話しているとき、わりとありがちなのが

 搾取・さくしゅとか、収奪・しゅうだつとか、略取・りゃくしゅとか、

 という言葉に表される、

 自分たちから、社会や権力者が奪う、盗むという感覚・発想です。

 そのため、
 自分たちは、社会や権力者から奪われる、盗まれる。

 オイシイ思いをするのは、力ある人たち。

 自分たちではない。

 そういう感覚・発想です。

 世界は自分の物を奪う。取り上げる。盗む。

 そんな意識なのでしょう。

 となると、

 社会と関わるということは、

 奪われる。

 と言うことになります。

 だから、
 社会に関わることがとても命がけ。

 必死の思いで社会と関わる。

 かつて、とても怖い目に遭ったからでしょう。

 実は、
 これとはまったく逆の感覚・発想もあります。

 自分は社会に何を与えられるか?

 自分はあの人に何を提供できるか?

 社会・他者から奪われる感覚・発想ではなくて、

 社会・他者に逆に与える感覚・発想です。

 こんな感覚・発想に触れると、余裕と力強さや思いやりを感じます。
 
 与えると思うと、恐怖と自分の力強さを感じます。

 時間、スキル、知識、笑顔、お金・・・。

 自分の何を与えるかは自分で決める。主体的。

 逆に、
 奪われることばかり意識して
 自らなにかを与えることを考えられない人は、

 人からもらうことばかり考えているのかもしれません。

 だって、自分はとても弱い存在だもの。
 人になにかを与えることなんてできない。

 と言うか、奪われたものを返してもらわないとならない。
 その権利がある。
 自分は債権者だ。

 残念ながら、望むような返還はなされません。
 優しくされても、承認されても、労いとともに給料もらっても、きっと宝くじ7億円当たっても。

 まだ足りない。

 ところが不思議なことに、
 与えることに意識を向けると、

 無くなったはずのものが、蓄えられて来ることに気づきます。

 無くなったはずのもの。

 奪われ続けたもの。

 それは、自尊心。

 自信。

 ほどなく気づくはずです。  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)心理・カウンセリング

2017年09月18日

病院がふわっと断ってくることについて 2

 患者に治療意欲がないという理由で医療者が患者の受け入れを実質断る場合について。
の続き記事です。

 各種調査ではっきりしているように、
こもっている人は、医療が必要な人がほとんどなのですが、
いざ受診するとなると、大きな壁が立ちはだかります。
 絶望するほどの厚く高い巨大な障壁です。

 それが治療意欲。

治療意欲がないと、医療の効果が期待できないので、実質「お断り」される場合は多いのです。
 つまり、拒否らレる。

確かに、こもっている人は受診をしないし、継続通院もなかなかしません。
つまり治療意欲がない。
 そういう面は間違いなくあります。

さて、この治療意欲。
もっぱら患者にそれがないと言うことだけ取り沙汰されますが、

 実は、患者に治療意欲がないという面に加え、
医療者にも意欲がないという面があるようです。

 なぜなら、医療者の
患者のために働きたい! 
 という意欲をくじく患者だからなんです。
治療意欲のない患者は。
治療意欲の見られない患者は。
治療意欲が感じられない患者は。

 そしてそれは、
長年精一杯やるだけやっても治らない回復の困難から、

医療に対して期待しなくなったこと、
自分の健康に対して希望を持たなくなったことなどの、
 思いを持った患者が、

医療者に対して、そういう思いで接しているからではないかと考えます。

どうせ無理でしょう? あなたも。 自分も。

 視点を変えると、
自分のくじけた意欲、解消不可能と思われる困難を抱える自分の痛みを、
医療者に無言で伝えているとも考えられます。

 でも、無言で伝えようとすると、伝わりづらいもの。
誤解すらされます。
治療意欲がない。
みたいに。

だから、なるべく言葉にして伝えることが大切。
医療者に分かりやすいように。

できれば、よくなりたいです。
でもその自信はありません。
それほど期待もしていません。
諦めています。

治ればイイと思っています。
でも・・・。

正直な思いを言葉にして、伝えてみる価値はあるでしょう。
にも関わらず、それを受け止められない医療者なら、
他をあたりましょう。

この項終わり。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)心理・カウンセリング

2017年09月15日

病院がふわっと断ってくることについて

患者に治療意欲がないという理由で医療者が患者の受け入れを実質断る場合について。
の記事です。

具体的にどんな状況かというと、

家族が相談に行った場合、
「本人が来ないことにはどうにもできません」
「本人が、病気を治したいという気持ちがないと難しいです」
と言われたり、

本人が行った場合、
「もし、なにかあったら来て下さい」
と言われたり、
「どうします?」
「お薬を飲んでみますか?」
なんてなことを訊かれたりする場面で、

患者の治療意欲を確認しています。

理由としては、
患者自身が、今の心や身体の状態に困っていて、
それをどうにかしたいという強い意志がないと、
医療効果が上がらないという現実があるのですね。

具体的には、
食事をしっかりとるとか、お酒を控えるとか、睡眠時間を確保するとか、
薬をちゃんと飲むとか、運動をするとか。

患者自身が自分の心と身体のために
日頃の生活を変えてまでも、
やらねばならないことがいっぱいあるので、

やり続ける意志の強さが必要だからなのです。

治療・回復のための重要度を比較すると医療よりもむしろ患者の方が重いくらいなんです。
医療にできることが限られているって言ってもいいくらい。

でも、これ、ホントに難しい。
よっぽどの気合いがないと。

この項続く。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)心理・カウンセリング

2017年09月12日

精神療法の前提が違うということ

 アダルトチルドレン、ひきこもり、不登校、トラウマ関連の書籍や各種調査でよく指摘されていることに、

 治療効果がない。

 支援継続が難しい。

 分かってもらえない。

 逆に傷つく。

 というような、治療・支援と当事者本人がうまく協調できていない点があります。

 支援のミスマッチなんて言われることもあります。

 さて、心理・精神療法は治療モデルというものがあります。

 当事者本人が困難をかかえるに至ったいきさつや、

 そこから困難解消までの道筋を、

 ある程度パターン化したものです。

 この、状態が悪くなってきたパターンとよくなっていくパターンをもとに、治療が進められます。

 認知の歪みが原因だから、ゆがみを直せば改善する。とか、

 感情を抑え込んでいるから、感情を解放すればいい。とか。

 一人で問題を抱え込んでいるから、しっかり聴かれる経験をすれば自然と回復する。とか。

 本当はまったく怖い要素はないのに、不安でいっぱいで行動を起こせないから、まず行動するよう少し強引でも行動を起こさせる。とか。

 です。

 ところが、このモデル・パターンには、前提があるんです。

 人と関われる。

 健康になりたい欲求がある。

 社会生活を送りたい気持ちがある。

 将来展望がある。

 どうもこんな感じ。

 そのため、

 人と関わることに一番困難を感じる。 ※人である治療者と関わることが難しい。

 だから、健康になって人と関われるようになる意味を感じない。
 
 だから、社会と関わる気がない。

 そんな自分だから、将来の夢や希望がない。

 そんな人に対しては、そもそも治療が成り立たないのです。

 治療モデルの前提が違いすぎる。

 当事者本人が、町の医療機関、支援機関に行っても、

 あの有名な医師や、治療家や、支援者を頼っても、

 今ひとつ効果がないと感じることはよくあります。

 前提の違いの影響のように思えます。

 そもそもこの世に足場のある人を前提に作られた治療モデルだからでしょう。

 では、どうすればいいのか?

 足場を築くことが先決なようです。

 足場のない人がそのまま違和感なくいれる場で、足場は築かれます。
 
 受容支持的な治療空間や、

 いわゆる当事者グループは、その足場になるのでしょう。

   
タグ :足場前提




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