自分って、いつも現場にいるなと思った話

2020年01月02日

 20年近く前から10年ほどは、当事者としてなんやかややってました。

 10年近く前からどちらかというと支援側になり、

 現在は、支援者として、なんやかややってる聞風坊です。

 この状況、
 一般的には、立場が逆になったと解釈されます。

 患者と医者。

 生徒と教師。

 でも、
 実のところ気持ちはそんなに変わってないんです。

 面と向かうときは、境界は感じています。

 支援者と当事者の境界です。

 でも、結局同じ土俵にいる感じなんです。

 当事者という立場か、支援者という立場科の違いはあれ、

 同じ土俵に立って、一緒に何かやっていく。

 課題を達成できるように。

 問題を解決するために。

 健康になるために。

 楽になるために。

 考えを整理するために。

 気持ちがすっきりするために。

 ・・・その他諸々。

 現場にいる。

 そんな思い出いつもやってます。

 きっと今年も。
  


つまらないものですが。の意味が分かった話

2019年12月21日

つまらないものですが。
社交辞令にあります。

あなたにとってはつまらないものですが、私は心を込めて贈ります。

きっとあなたは、けなすでしょうが、私はあなたに贈ります。

ひょっとしたらうち捨てるかもしれません。それでも私は贈ります。

私の気持ちに従って。

これは、

親があまりにも自分の今の気持ちに正直で、

おかげで子どもの気持ちに疎く、平気で傷つけることが1日中であり、

それは子どもが幼い頃から大人になっても変わらず続いている場合に、

子どもが親への贈り物をする際の気持ちです。


一般的な社交辞令として「つまらないものですが」と言う場合、

それは、相手が実は喜んでいる場合がほとんど。

相手は、もらったものをつまらないものだと思うことはまずありません。

たといもらって困るものでも、それを自分に贈ってくれたという行為自体は喜ばしいので、
相手の気持ちを忖度して、ありがとうと喜ぶ場合がほぼ100%。

なので、
なんで自分が心を込めて贈るものをつまらないなんて言うんだろう?
なんて疑問をもつことがあります。

ところが、
自分がつまらないと思ったので、
「あんたの贈り物はつまらない」と子どもに言ってのける親を持っている場合、
この疑問を持つ必要はありません。

つまらないからつまらないと言ってのける。
社交辞令なしのとても正直な親だから。

あぁ、本気でつまらないと思ってるんだ。
として親の本音がはっきり分かります。

そんな親であっても、何かを贈りたくなる子ども。


あなたにとっては本当に心底つまらないものでしょうが、
私は心を込めて贈ります。

受け取らなくてもかまいません。
私は私の気持ちに従います。

こんな風に、
悲しい気持ちを抱えながら、親に贈り物をする子どもは少なくないようです。
  


30歳でシナリオが終わった話

2019年12月01日

最近、人生設計という視点から、改めて自分の半生を振り返ったところ、

30歳になったら実家に戻ってケリをつけよう!

そう思ってたのでした。

ケリをつけるために30年間準備して、

あらゆる(やりたい)ことを先送りして、

親子関係にケリをつける準備に費やし、

生きてきたのでした。

そうして親と勝負!

見事惨敗!

こうして私の30歳で勝つか負けるかはっきりケリをつける人生は終わりを迎えました。

これ、TA・交流分析の根幹理論の脚本で言うと、

脚本を達成したとも考えられます。

脚本成就!
見事にその通り!

ところが、
その先のシナリオはありません。

死ぬまでのシナリオを書いていないからです。

結末のない・オープンエンドと呼ばれる脚本のパターンです。

だから、
その後の20年は、まさに生まれ変わりの日々でした。

ノーシナリオ。
アドリブの連続。

詳しくは拙著やこのブログに記してあります。

それは、新しい人生をどう生きるか?

その後をどう生きるか?

残された人生をどう生きるか?

脚本が終わった後どう生きるか?

と言うことです。

脚本が終わり、
どうしようもなくなってこもり始めてからの期間。

布団の中で小さく縮こまって泣いていたあの頃から、
自分の好きな仕事に就くまでの日々は、

確かに、
赤ちゃんから大人になっていく過程をたどった20年でした。
  


ここじゃないと思うのは「属するな」という命令に従っているからかも

2019年10月20日

 これまで何回か紹介してきましたが、

 TA・交流分析の根幹理論の一つに

 禁止令(最近は強制命令という場合もあります)と言うのがあります。

 生き残るために、自分を律するメッセージのうち、否定形のものです。

 その1つが「属するな」です。

 集団に属するな。

 という意味で、

 具体的には、

 うちの家族に属するな。

 地域に属するな。

 学級に属するな。

 国に属するな。

 友人関係に属するな。

 なんてなります。

 そんなことするのは子はうちの子じゃない。

 と言うメッセージをしばしば強く受けた子は、

 家族に属することを禁止するようになる。

 家族の一員であることを許可しないようになる。

 と考えます。

 こんな感じで、

 地域住民に属せず、

 学校や学級の一員となることを認めず、

 友人が集う場にあっても、
 ここに属しちゃいけないとして、

 とその一員であることを認めません。

 具体的には、

 ここは違う。

 自分の居るべき場所じゃない。

 なんか違う。

 という認識、感覚として感じられると思われます。

 この感覚、

 不登校やひきこもる人の多くが、

 または、

 死にたいより消えたい感じ。

 を持つ人の多くが抱くようです。

 ここじゃない。

 ここでもない。

 どこにも居場所がない。

 属する場所がない。

 そもそも属したら息苦しい。

 とはいえ、
 そこにいるのもなんかイイ感じ。

 と言うことで、自分なりに折り合いをつけます。

 属している感じがしなければ、いてもいい。

 だから、気配を消していればいい。

 消えた状態・見えないならいてもいいかな。
 ※かつて「見えるな」という禁止令がある! と議論になったこともあったとか。

 姿形は見えないから、属してることにはならないし。

 人が集まる場の辺縁にいて、機嫌がいい人。

 みんなとは距離を置いているけど、いつもいる人。
 
 属していることが目立つ感じじゃないけど、属している。

 そんな交流をしている人。

 「属するな」の命令に従っているかもしれません。

 とはいえ、実のところ集団の他のメンバーは、
 あなたが、そういう感じで自分たちの集団に所属していると当たり前に思っていることも少なくありません。

 客観的な結論として、
 つまりすでにもう属しているんです。

 となると、

 所属する集団の名前を自己紹介の時に使うなど、
 少し属してもイイかもしれません。

 自分の意見を言うなど、
 少しばかり姿形をはっきりさせてもイイかもしれません。
  


信仰が支えとなる話。

2019年08月25日

虐待環境だったり、
イジメにあったり、
何もかもうまくいかなかったりして、

誰のことも信用できなくなったり、
自分に自信がなくなったり、
未来に希望がなくなったり、
したとしても、

何か、
大きな存在とつながっている感覚があると、
けっこう辛抱がききます。

何かから見守られている。
そう思っているだけでも。
少し心が安らぎます。

およそ信仰は、
何か大きな存在。
自分より大きく抱いて力強く包容力ある存在。
とのつながりによって成り立ちます。

大きな存在と対話し、
癒され、あわれみを持たれ、励まされ、心をよせられている感じを持ち続けることで、

親からの心ない仕打ち、

友人からの冷遇、

理解のないオトナたちからの理不尽な扱い、

などから、

社会に居場所のない心許なさを感じていたとしても
なんとか忍耐できます。

自分には寄る辺がある。

いつでもどこでも何が起きていてもつながっている。

見守ってくれている。

そばにいる。

そういう実感があるからです。

目には見えないけど、
偉大な慈悲深い、力強く優しい存在、

サムシンググレート・Something-Great

を感じることは一人を生きる支えになります。
ひとりでないと感じられるから。

私聞風坊もそうして生きてきました。  
子どもの頃から。