2018年09月20日

助けを借りる力がいる話

 災害被災の場面では、受援力。

 心理系では、
 援助要請行動などの分野で研究されている

 誰かの助けを借りてやっていく力

 についての記事です。

 困難を抱える人のうち、

 長いこと困難が解消しない場合や、

 幼い頃から誰かの助けが十分に得られなかった場合など、

 誰かの助けを借りて、自分の困難を解消できた経験が乏しいと、

 誰かの助けを借りるという発想がなくなり、

 誰かの助けを借りるといいことがあるという希望もなくなり、

 自分の力頼みでやっていくしかない。

 誰もアテにならない。

 誰も信頼できない。

 自分の望みは自分で叶えるしかない。

 できることは限られているから小さな少しだけの望みを叶えよう。

 として、

 小さく小さく暮らしを縮めた生き方を選ぶ場合があります。

 長年こもっている場合。

 社会でどうにも上手くやっていけないと思った場合。

 そもそも誰かが自分のために役立つことをしてくれたことがこれといってなくて、

 どちらかというと自分ただれかのために役立つことばかりで、

 結局のところ、いつも自力でやっていくしかなくて、

 それを誰もが期待している場合。

 などです。

 この場合、
 他者への
 不信感
 不信頼感
 不審感
 がとても強く、

 これまでの人生で自分の能力の限界を痛切に感じることが多いために、
 自分への
 不信感・不信頼感
 もまた同様に強いことが多いようです。

 それは、
 自分の人生への
 不信感・不信頼感であり、

 自分の人生を
 肯定しない
 ことにもつながり、

 自分の未来に
 希望を持てない
 ことにもなります。

 だから、
 誰かの助けを借りる気も起きない。
 それで、問題は解消せず

 暮らしていく不満は募るばかり。
 という悪循環。

 自助グループで学んだことの一つに
 手放すというのがあります。

 都合これは、
 誰か、なにかに委ねる。
 ということを意味しています。

 何を?

 自分の手に負えない問題をです。
 
 そしてこれには、
 自分の処理能力以上の問題。
 と、
 自分の問題じゃなくて誰かの問題だから。

 の2種類があるようです。

 医師や福祉職、相談職などの専門職を頼り、
 自分の手に負えない部分を委ねる。

 少しでも問題解決に役立ちそうな誰かからの提案を
 試しにやってみる。
 少しだけ提案に委ねてみる。

 自分のこだわり、
 怯え、
 恐怖、
 意地、
 を手放し、

 暮らしが楽になりそうな手立てに委ねてみる。

 自助グループでのたとえ話では、

 箱の中のキャンディーつかみ取りの時、
 手一杯に物をつかんでいると箱の出口にひっかかって何も手にできないけど、
 少し手放すと、なかなかの数が手に入る。

 と学びました。

 不信というこだわりを手放すことで、
 楽が手に入ることはあります。

 助けを借りる力を手にする話でした。

  


2018年07月20日

支援者に必要なのは想像力だと思うのです。

 人を支え、手助けする人。

 それを支援者と呼ぶならば、

 支援者に必須の要件は、

 想像力だと思います。

 相手の立場、

 状況、

 可能性、

 苦痛、

 考え方、

 傷み、

 気持ち、

 責務、

 権利、

 等々への。

 さて、
 支援者は、以下のような対応をよくやります。

 若いのだから未来は明るいよと励ます。

 40代でも仕事はありますよと希望を持たせる。

 学校は楽しいよと登校を誘う。

 ひきこもりはPCが得意だから、PCを基軸とした就労支援をする。

 不登校は学校が嫌いだから学校に行かないですむ社会にする。

 ニートは自己肯定感が低いからとにかくほめる。

 野良犬に噛まれたようなものだと思って過去を忘れて生きるように支援する。

 自分を大切にしていないからと、命の大切さを説く。

 支援者は、
 自分たちのこれまでの人生をもとにして、自分たちのが苦労や頑張りが報われたからといって、

 その人がその職に就けるかどうかが分からないのに、

 自分たちが、学校では嫌なことやつらいこともあったけど全体的に楽しかったから、
 
 自分がPCが役立つと思っているから、
 PC得意じゃない、否、持ったこともないこもる人は多いだろうに、

 自分が学校嫌いだからといって、
 相手は学校嫌いじゃないかもしれないのに、
 むしろ行きたいのかもしれないのに、
 そして、
 学校に行かないですむ社会はいつ実現するかも分からないのに、

 対人支援のブームが自己肯定感を高めるためにほめることだからといって、
 ほめられるとむなしくなることも多いのに、
 上手に折り紙ができたところで仕事につながらないのに、

 相手の様子が痛々しいからといって、
 簡単に忘れられたら20年前から楽に暮らせてるのに、

 自分の命をぞんざいに扱われているのに、

 ありきたりな関わり方をさも当然に、
 自分たちがゆるぎなく正しいとして、

 自分たちの貧しい想像力をもとに、
 支援を組み立てるのはナンセンスです。

 想像しましょう。

 そうしてその人に会った支援の仕方を創造しましょう。
  


2018年07月10日

自信を持って逃げているかが大事な気がする話

 恐ろしいことに対する人間の反応は、

 闘争か逃走か降参か。の3種と言われています。

 恐ろしいこと、

 問題、

 難問、

 嫌なこと、

 めんどくさいこと

 に、

 立ち向かうか

 立ち去るか

 立ち止まるか

 して平和と安全になろうとするのですね。

 この時大事なのは、

 自ら立ち向かい、
 
 または
 自ら立ち去り、

 あるいは、
 自ら立ち止まって悪い事が過ぎゆくのを待つ、

 かどうかと言うこと。

 望まないのに立ち向かったり、
 
 心残りがあるのに立ち去ったり、
 
 どうしようもなくなってその場に留まったり、

 すると、

 心は傷むようです。

 だから、
 納得して
 立ち向かう、

 立ち去る、

 立ち止まる
 必要があるのです。

 立ち去ることは逃げることで恥ずかしいこと。
 と、言うそう珍しくない考え方があります。

 闘うか、居残るかして問題解決を図ることがいいとされやすいですね。

 でも、立ち去って再起を図るという効果的な方法は、昔から多くの人が採用しています。

 引き際が肝心とも言われています。

 危険から立ち去ることは自然です。

 適切に逃げることはとても重要なんです。

 世の中でやっていく選択肢としていつもしっかり持っていることは大事です。


 立ち去ることは、 
 

  
タグ :逃走撤退


2018年07月05日

親からの自立は身を切る覚悟がいるかもしれない話

 親からの自立。

 という考え方があります。

 それまで親の保護のもとに生活していたけど、

 これからは自分で自分を保護しながら生きていく。

 ときに親を頼り、甘え、

 ときに親を保護しながら。

 自立のイメージって、こんな感じでしょうか。

 具体的には、

 経済的自立と心理的自立

 なんて言われること。

 自分で働いて収入を得て、日々の暮らしをまかなっていく。

 これが経済的自立。

 こもる人やニートの親の人がよく口にする自立はこれですね。
 とにかく働いてほしい。切なる願い。

 一方の心理的自立は、

 気持ちの上で親を頼らなくなること。
 代わりに自分を頼みに生きていくこと。

 とでもなるでしょうか。

 それまで親の考えに従い、
 親の許可を得、
 何かにつけ親に相談していたものを、
 
 自分で考え判断し、行動する。

 そういう風になることですね。

 一言でいうと、
 (自分のことに関して親が担っていた責任を)
 自分で担うようになる。

 こうなると、
 親を自分の管理監督者みたいに上位に置くのではなく、
 対等なオトナとして付き合っていくようになります。

 互いに尊重しあって。
 互いの考えや意見か気持ちや立場を思いやって。

 オトナ同士。

 日本のルールでは、オトナになるのは20歳です。
 一人前の社会人として認められ、だから自分の行動について法的にも責任を持たねばならなくなる年齢です。
 この時から、オトナとしての権利と義務が生じるのですね。

 さてこの自立、人によって差があります。
 その人がどれくらい自立しているかの指標を自立度なんて言いますが、

 人によっては、20歳過ぎても自立度が低い人がいます。
 人によっては、10代のころにオトナレベルの自立度の人もいます。
 ときに一ケタの年齢の頃からオトナとして暮らしている人もいるでしょう。

 親をアテにしなくなる。
 親から自立する。
 親と境界を引く。
 親をクビにする。
 親を切り捨てる。

 子どもが、自分を頼みに生きていく際に、
 そのやり方には穏当なものから過激な力強いものまでいろいろな表現があります。
 
 それまでの親子関係によって表現は違うでしょう。

 穏当で、良好で、成長を促し見守る親との関係だったなら、穏当な表現になるでしょう。

 過激で、一方的で、略奪・侵襲的で、成長の邪魔をし、
 むしろ自分が保護してもらうことを期待しているような親との関係だったなら、

 表現は激烈になるでしょう。

 それは、子ども自身を傷つけることにもなります。

 自分が自立して社会の中で生きていくために、
 親子関係を引き裂くことをせねばならないのですから。

 親は期待するほど自立を手助けしてくれないのだから。
  
タグ :自立


2018年06月20日

ストレスホルモンコルチゾールについて考えてみた話

 人はストレスを受けると、コルチゾールというホルモンが体内を巡るのだそうです。

 その働きについて、文芸的に解釈してみた記事です。

 コルチゾールは、心拍や血圧を上げたり、糖や脂肪の分解を促進したり(エネルギー作り)、炎症を抑える働きがあるのだそうです。

 つまり、身体をストレスに立ち向かえる態勢に変える働きですね。

 闘ったり、窮地から脱したりするのには、体中に、エネルギーとそれを補充するためにたくさんの血液が必要になるからです。

 そして、ある意味フル回転の身体は、傷みやすく炎症を起こしやすい状態です。

 実際に傷を負うこともあるでしょう。

 その時に、ちょうどいいくらいに炎症を抑えるようにコルチゾールは働くのでしょう。

 闘ったり、避難したり、癒したりと、ストレスに対抗するために、コルチゾールは日々働いているようです。

 さてこのコルチゾール、長期間たくさん体内にあるとどうなるか?

 脳の海馬という部分が小さくなるのだそうです。

 海馬は記憶を司る部分です。

 そこが小さくなると、記憶の能力が低くなります。

 これは一般的には問題です。

 でも、とても恐ろしい体験を明確に記憶に留めなくていいなら、
 それは、望ましいことかもしれません。

 衝撃的な出来事を記憶しない、思い出せないという記憶障害となることによって、

 心の安定を図る。

 コルチゾールが海馬を萎縮させる働きには、そんな意味あいがあるのかもしれません。

 こう考えると、
 海馬を小さくする。
 という言い方は、

 衝撃的な体験も記憶する海馬の容量を小さく収めるために大きくなるのを妨げる。
 と言い換えられるかも。

 ストレス・脅威から身を守り生き残っていくための人体の意図

 をそこはかとなく感じてしまうのでした。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)トラウマ

2017年12月30日

虐待を受けると脳にも影響が出る話

 年末最後の記事は何がふさわしいかとちょっとだけ悩んだ末に、
本の紹介をさせて頂くことにしました。

いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳
(友田明美著 診断と治療社 新版)

です。

 著者が熊本大学におられた頃、宮崎での講演を拝聴しましたが、
 暴力が、心理的・機能的だけでなく脳の部位の大きさにも影響があるという報告に衝撃を受けつつ、
 なぜか納得したことを覚えています。

 以来ずっと研究に期待していました。

 私聞風坊は、過酷な環境で大人になった子どもたちをテーマにしていますが、

 著者の研究によると、過酷な環境で育つと、その環境に適するように脳が発達するのだそうです。

 またその脳機能は、発達障害と同じような特性を持つこともあるのだそうです。

 虐待を受けた子どもの行動特性がADHD(注意欠損多動障害)と診断される。

 というのは割と有名な話ですが、その理由も、本書を読むと納得がいきます。

 特に印象に残ったのは、
 暴力を受けるよりも、暴力を受けている現場にいて見聞きした方が脳への影響は大きいということです。
 ※暴力場面に暴露されたなんて言うそうです。

 殴られてないから大丈夫。
 怒鳴られてないから心配ない。

 ということにはならないようです。

 このことは経験的に知っています。
 暴力場面への暴露はのちのち大きな影響を及ぼします。

 暴力場面に適した脳は、平和な環境では不適応をおこしやすいもの。
 生きづらさの理由の一つが脳にもあるのですね。

 同時に著者は言及します。
 脳の可塑性に。
 平和な環境に適応するように脳はまた発達するのだそうです。

 トラウマケアの大原則は、まず安全・安心。
 その状況を確保することが最優先。

 脳的にもいいみたいです。
 
 まず、今日一日安全であること。安全であったこと。

 安心できる時間があったこと。心穏やかな時間を受け容れること。

 そんなとこから始めるといいみたいです。

 皆さまどうぞ穏やかな年の瀬をお迎え下さい。
  
タグ :虐待暴力


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)本の紹介トラウマ

2017年11月06日

障害とか納得がいけばあきらめもつくかもの話

 久しぶりに当事者としての発言です。

 当事者は、

 なぜ?

 という思いを多く持っています。

 日常の中でとてもたくさんの

 なぜ?

 と思う場面に出くわすからです。

 フツー学校行くよね。

 フツー結婚するよね。

 気持ちよい朝です。皆さんいかがお過ごしですか?

 止まない雨はありません。元気を出して。

 盆には帰省して、おふくろの味を味わってくるっちゃね。

 帰省の混雑で、渋滞40㎞です。

 挙げればきりがありませんが、こんな場面でいろいろです。

 これに加えて、自分の身に起きる不調も。
 
 急な出来事にとてもあたふたする。そして消えたくなる。

 外に出ることがとてもしんどい。気が散ってしようがない。

 人の言っていることが分からない。しゃべりが速すぎたり、2~3人一緒だと誰が言っているのか分からなくなる。 

 どうしても感情の起伏が収まらない。

 みぞおちあたりが不快で、そわそわして落ち着けない。

 なんでなんだろう? ま、そんなもんやし。みんな違うの?

 こんな思いで子どもの頃から大人の今まで暮らしてます。

 そして、それが、かつて経験した過酷な経験のためだったとか。
それにより、脳の機能のバランスが悪くなったからだとか。

 説明があると、

 あぁ、なるほど。それならば、フツーと違う今の自分も納得だわ。

 という風に、落ち着きのなさが減り、気持ちが少し安らぎます。

 フツーにはなれないこと。フツーではないこと。フツーになるには努力がいること。

 などの理由に納得ができるからでしょう。

 あきらめるにしても、あきらめねばならない理由に納得できれば、

 落ち着いて自分自身を引き受けることができるようです。

 フツーと違う理由の解明。
 当事者にとってはとても重要なことです。

参考図書
『いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳』 新版 (友田 明美  2011 診断と治療社)

  
タグ :障害受容


2017年10月06日

フラッシュバックで悔やむこと

 トラウマケアの話の中でフラッシュバックと言えば、一般的に、

 トラウマを負った場面に瞬時に戻り、その時の恐怖にまつわる感情や体の状態を再体験するとされています。

 これは、害を被った体験を再び味わうというものです。

 一方で、自分が害を与えたことをフラッシュバックして再体験して、自分の行いの未熟さを悔やむことを繰り返す形もあるようです。
 
 あの時、あんなことしてしまった。

 または、あんなことしなかった。

 よく吟味しないで発した不用意な発言。

 慎重さを欠いた態度。

 を、不意に思い出し、全身を緊張させて、自分を叱りつけるのです。

 たまらず頭をたたいたり、大声を出したりして。

 でも実際は、悔やむほど配慮がなかったわけではありません。
 完璧ではないかもしれませんが、その場面では十分な配慮をしていたのです。

 にも関わらず、もっとこうすればよかった、と自分の愚かさを悔い、全身で恥じ入るのです。

 良心の呵責にも似ています。

 その人に最善のことをしてあげられなかった罪責感。
 
 無言の求めに応じられなかった無能感。

 を繰り返し繰り返し悔やんでいるかのよう。

 悔やむ必要のなことをあえて悔やむ。しかも不意に瞬間的に悔やむ。
 それはなぜなんだろう?

 繰り返し繰り返し考えたところ、一応の答えにたどり着きました。

 それは、

 危険を冒したから。
 です。
 
 気を許した言動。
 それは、相手の不興を買うリスクが高い。

 そういう認知だからでしょう。

 完璧な応対でなければ、安全は確保されない。
 危険はあとからたっぷりいつでもやって来る。
 そんな信念があるのでしょう。

 だから、
 自分の身を危険にさらすリスクを冒した行為を責めさいなむようです。

 もっと安全に配慮せよ!

 自分をさらけ出すな! 隠せ!

 相手が望むような態度をとれ!

 危険を冒すな!

 緊張せよ!

 虐待や養育者が精神的に不調な環境で育った子どもは、こういう思いになるかもしれません。

 養育者の暴言暴力、感情の激しい起伏、がいつ起きるか、いつまで続くか予想がつかない恐怖環境の中では、

 自分の言動1つで、自分の身の安全が左右されるからです。

 失敗は命取りのリスクをはらんでいるからです。

 または、アテにならない大人のかわりに、自分だけはまともであらねばならない。
 しっかりと自分を律していなければならない。

 そうでなければ家庭が崩壊する。命の危険がある。

 そう無意識に思っているかも。

 そんなこんなで、完璧な対応がデキない自分を責めるのでしょう。
 実のところ今はもう、その必要はないのに。

 TA理論的には、Pが侵襲しているとか、
 一時的に力を失ったPの隙をついて調子に乗った行動をとったCを勢いを取り戻したPがとっちめてる。
 なんて考えるだろうフラッシュバックのお話でした。

 
  


2017年09月12日

精神療法の前提が違うということ

 アダルトチルドレン、ひきこもり、不登校、トラウマ関連の書籍や各種調査でよく指摘されていることに、

 治療効果がない。

 支援継続が難しい。

 分かってもらえない。

 逆に傷つく。

 というような、治療・支援と当事者本人がうまく協調できていない点があります。

 支援のミスマッチなんて言われることもあります。

 さて、心理・精神療法は治療モデルというものがあります。

 当事者本人が困難をかかえるに至ったいきさつや、

 そこから困難解消までの道筋を、

 ある程度パターン化したものです。

 この、状態が悪くなってきたパターンとよくなっていくパターンをもとに、治療が進められます。

 認知の歪みが原因だから、ゆがみを直せば改善する。とか、

 感情を抑え込んでいるから、感情を解放すればいい。とか。

 一人で問題を抱え込んでいるから、しっかり聴かれる経験をすれば自然と回復する。とか。

 本当はまったく怖い要素はないのに、不安でいっぱいで行動を起こせないから、まず行動するよう少し強引でも行動を起こさせる。とか。

 です。

 ところが、このモデル・パターンには、前提があるんです。

 人と関われる。

 健康になりたい欲求がある。

 社会生活を送りたい気持ちがある。

 将来展望がある。

 どうもこんな感じ。

 そのため、

 人と関わることに一番困難を感じる。 ※人である治療者と関わることが難しい。

 だから、健康になって人と関われるようになる意味を感じない。
 
 だから、社会と関わる気がない。

 そんな自分だから、将来の夢や希望がない。

 そんな人に対しては、そもそも治療が成り立たないのです。

 治療モデルの前提が違いすぎる。

 当事者本人が、町の医療機関、支援機関に行っても、

 あの有名な医師や、治療家や、支援者を頼っても、

 今ひとつ効果がないと感じることはよくあります。

 前提の違いの影響のように思えます。

 そもそもこの世に足場のある人を前提に作られた治療モデルだからでしょう。

 では、どうすればいいのか?

 足場を築くことが先決なようです。

 足場のない人がそのまま違和感なくいれる場で、足場は築かれます。
 
 受容支持的な治療空間や、

 いわゆる当事者グループは、その足場になるのでしょう。

   
タグ :足場前提


2017年09月06日

トラウマケアのこと 9 まとめ

 身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法
 ( べッセル・ヴァン・デア・コーク著 柴田裕之訳 紀伊國屋書店 2016)

 を読んで、自分がこれまでやってきたことと照らし合わせてみるシリーズの一応の最後です。

 トラウマについて、科学的根拠を元に解説とケアの仕方が網羅されている本書は、
 これまで、自分の身に起きているなんとも言えないスッキリしない感じの理由がよく分かります。
 自分はどうにもフツーとは違う。という感覚の理由もふに落ちます。

 例えば、
 トラウマを負うと、アドレナリンの量が減りづらくなるのだそうです。

 一般的に、神経伝達物質とか脳内ホルモンとかは、必要な時に一気に分泌され、状況が終わったらすぐに無くなっているものだそうです。
 アブナイ! と感じた瞬間に自動的にアドレナリンが分泌され、アブナくなくなった。と感じたらアドレナリンは無くなっていきます。

 ところが、トラウマを負うと、アブナくなくなった。と感じづらくなるのだそうです。
 脳の危機感知部分(扁桃体とか)が日頃からものすごく活動的になってしまっているかららしいのです。
 常に、アブナイ! と感じているような状態にいるのがトラウマを負った人。
 
 興奮や、ストレスから解放されづらい脳の状態、身体の状態になっているのだそうです。
 だから、怒りがおさまりづらく、すぐドキドキするし、なかなか静まらないし、いつもイライラしてるんです。

 また、目を閉じると心が静まるのがフツーだとすると、トラウマを負うと気が高ぶるのだそうです。
 危機を感知するために、より耳をすましてしまうからでしょう。

 だから、
 眠りに入ることに困難があります。
 リラックスもできません。

 私は子どもの頃から不眠なんです。

 こんな感じで、トラウマを負った人が感じる
 なんかフツーの人と違う。
 点についても詳細に解説があります。

 全体的にトラウマを負った人への思いやりあふれる筆致です。
 特に、
 「どうせ誰も助けてくれないんだし、自分でやるしかないじゃん」的な、
 虐待によるトラウマを負った人の特徴の、現実的でありつつも多少皮肉交じりの世界観も愛情豊かに受け入れている印象です。
 
 トラウマを負うと、常識世界とは違う、あべこべな世界で生きている感じなんです。
 生きる場所が無い。
 居場所がない。
 ※フツーの世界では。トラウマを負うような世界ならあるけど。
 そんな思いを持っています。

 そんな私たちの思いを代弁してくれる一書なんです。

 さて、
 私は、この本を読んで、たくさんの気づきを得ました。

 特に、これまで自分が興味を持ってやってきたことは、実はトラウマケアだったんだと気づいたんです。

 それは、
 人は、自分をOKにするように、なにかやっている。

 どうすれば自分がOKな状態になるか知っている。本能的に。

 というTAの考えをなぞるものでもありました。

 今、悩みの中にある人。

 なにかやっている日常ささいなことが実は、自分のケアになっているかもしれませんよ。

 スゴイですよ私たちって。
  
タグ :トラウマ




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