トラウマと罪の意識と宗教と

2020年08月04日

子どもの頃から、自分がやらかしたことについての自責の念がとても強いのです。

打擲自傷するほどに。

やらかした記憶が、
フラッシュバックとしてふいに日常生活に侵入してきます。

トラウマ反応ですね。

子どもの頃からこうでした。

さて、
「恥」の概念は、
過度な自責の念も含むのだそうです。

到らない自分を恥じる。

そんな意味で。

自分を恥じる。

さて、
宗教には、罪意識というのがあります。
キリスト教では原罪が有名ですね。
また、神の意志に反することは罪になるようです。

仏教では人間界に生まれてきたのは罪滅ぼしのためだと考える場合があります。

これらのために、
人は、そもそも罪を犯しやすいのだから、いつも自分を厳しく戒めて、または戒められて生きねばならない。

今受けている苦痛は過去の罪滅ぼしなのだから、むしろ甘んじて受けるべきだ。
そうじゃないとと罪が消えるまでいつまでもついて回るよ。

という風に、人を罪人として扱いがち。

特に、
過去の罪滅ぼしのために、今受けている仕打ち、過酷な体験を受容するように促されることが多いようです。

本来は、現状をしっかり認識して、立ち向かう、逃げる、助けを求めるなど最適な行動をとるという教えのようですが、加害行為を正当化し被害を受忍する方向で解釈されることが珍しくありません。

宗教と罪は関係が深いのです。

私の家族は、宗教と縁が深かったのでした。
つらい目に遭うのは、過去世の自分の罪が重かったから。
それをいま償っている。
そういう考えになじんでいました。

そうして罪深い自分を恥じていたのでした。
子どもの頃から。

自分を誉れとすることなく生きてきたのでした。

恥の感覚。
虐待トラウマと密接に関係しているようです。

自責の念、自分をほめられない、価値を置けない源泉は、
親などの密接な関係にある大人から過去にうけた仕打ちにあるのかもしれませんね。


  


トラウマを負うと恥を感じるとあるけれど

2020年07月30日

子どもの頃の虐待やトラウマのケアについて語られるとき、
よく取り沙汰されるのが「恥」の概念なんです。

虐待やトラウマを受けた子どもたちは、恥を感じているので、その点に特段の配慮が必要だよ。
という文脈です。

でも、虐待児童当事者を自認する私は、恥を感じていたかというとそうでもありません。
それで、長年、???な状態だったのです。

恥というのは、自分のことを恥ずかしい、情けない、世間に対して面目がない、なんて思う時の、あの身が縮む感覚、穴があったら入りたい感覚のことを言うのだと思っています。
時代劇などでお家の恥とか、カンフー映画で一門の恥なんてセリフがよく出てきますが、私にとって恥とは、名誉を傷つけた行為に対する感覚なんです。

もっと身近にすると、
道徳的にいかんでしょ! 的なことをやらかしたことを、
または、
大人気ないことをやらかしたことを
※怒りにまかせて子どもを怒鳴りつけて泣かせたとか。

あるいは
本来なら造作もなくやれることが気持ちがたるんでいたためにやれなかったことを、
※確認を怠ったばかりに洗濯機から水があふれ出してそこら中びしょびしょになったとか。

認識した際に感じる感覚でしょうか。

ところが、
ひどい目に遭っていた当時も、今になって思い返す際も、そんな感覚にはなりません。

どんな感覚かというと、
悔しい! 
これにつきます。

そしてなによりも、
自分が恥ずかしいという感覚はありません。
自分がなにか恥ずかしいことをやらかしたという感覚もありません。

なぜなら、
やらかしたのは親だからです。
恥ずべきことをしたのは親だからです。
そんな親の行動に怒りの感情はあります。
でも自分を恥とは思わないのです。

そんな親のことを愚かとは思いますが、恥とは思いません。
そう、私には恥の感覚がない。恥の感覚がない被虐待児だった。
どういうこっちゃ?
そんなこんなで、???だったのです。

そんなところに最近、
『児童期虐待を生き延びた人々の治療』という本に出会ったのでした。

これは、大人になった虐待児童のケアの本です。
大人の視点から説明があります。とても助かっています。
これまで子どもの視点の本は割とたくさんあったのですが、ケアを受けずに大人になった人向けの本はまずなかったからです。

一読して、
虐待やトラウマのケアでの「恥」のイメージが私のと少し違う感じを持ちました。
悔しいとか、情けないとか、自分の人生や過去の出来事に価値を置けない、未来を描けない感覚、
当時の無力感、自分のためになにもしなかったことなどを思い返す際の反省する感覚、
誇りに思えない過去、家族、自分、
など、だいたいのネガティブな自分にまつわる感覚を「恥」と捉えるようなんです。
ならば、よく分かります。
まったく腑に落ちます。

愚かな親を持った自分の人生を誇りに思えない≒恥じる。
そんな親に育てられた自分に不満がある≒恥じる。
誰かに自分の親を紹介するときに感じるあの不思議な感覚≒誇れない恥かしさ。
自分がこの人たちの子どもであると紹介するときの胸苦しさ≒自慢できない恥かしさ。
あの頃と同じようなことをしている自分を恥じる。
あの頃と変わらず親の顔色をうかがっている自分を恥じる。
いつまでも親に振り回される自分の人生を情けなく恥じる。
親に対して持っている怒りの感情をいつまでも抱いて暮らしている自分の生き方を評価できない。生き方を変えられない自分を恥じる。
標準的でない人生を送ってきた自分の一般社会での身の置き場に困る=恥じる。
なんて風に考えると、「恥」も納得がいくのです。

当時の感覚と言うより、
今現在、自分のことをどう認識しているかという意味で考えるようなんです。

究極、
自分は「恥」だ。
と思っているならば、これを虐待によってもたらされた負の影響として捉えるようなんです。

とはいえ、
ここまで理解がすすんでも、やっぱりどうにもしっくりこない感じが残ります。
それで考えたのです。
「恥」という漢字、または翻訳が合致しないんじゃないかと。

試行錯誤した結果、一つの結論に達しました。

「恥」というより

「辱」

の方がしっくりくる。自分的には。

屈辱

恥辱

侮辱

辱めを受けた歴史。
尊厳を奪われ、価値も置かれず、物扱いされた、
あの、無力ゆえにひたすら忍耐を貫いた頃を思い出したとき、

成長しては、
例えば、朝毎日幼稚園に行く。
またはランドセルを背負って小学校に行くなんて
世間の常識を教えてもらえなかったばかりに、
世間の常識を知らないばかりに、周囲から冷笑を浴びたとき、

思いやりを教えてもらえなかったばかりに、
友だちとの関わり方を知らないで、友だちを傷つけ友だちから傷つけられ、
周囲から嫌われたとき、
の感覚。

苦心惨憺屈辱を覚えながら社会常識を身につけ、いっちょまえの大人になった今、
ほめられないことをした自分、
到らない自分を思い返すとき、
の感覚。

それは、辱

侮辱、屈辱、陵辱、汚辱、忍辱、


栄辱とは、衣食足りて知ることらしいですが、
親からの屈辱的な関わりが少なくなってきて、
自力で衣食を充足できるようになった大人の現在、やっと栄誉と恥辱に思いをいたせるようになってきたのかもしれません。
今に到るまでに50年以上かかりました。

児童虐待は、これぐらい大きな影響を与えるのですね。


参考文献
『私は親のようにならない 改訂版 嗜癖問題とその子どもたちへの影響』
(クラウディア・ブラック著 斎藤学監訳 誠信書房 2004)

『児童期虐待を生き延びた人々の治療 中断された人生のための精神療法』
(メリレーヌ・クロアトル、リサ・R・コーエン、カレスタン・C・ケーネン著 金吉晴監訳 星和書店 2020)
http://www.seiwa-pb.co.jp/search/bo05/bn1001.html  


発達障害は発達するチャンスが障害されているのかもしれない話

2020年07月18日

生まれついての脳の機能の特性による障害(困難)とされている発達障害は、
英語表記だとDevelopmental Disorderだそうです。

発達上の障害と訳すこともできるでしょう。

すると、

生まれた時(点)からの、
生まれついての、
生来の、

という意味合いとはちょっと違う感じになります。

これ、以前から疑問でした。

そして、発達障害の場合は、薬で治すというより、特に人と関わる中で、どうすればいいかを身につけていく練習が困難感軽減の主軸です。

自分のトリセツを作る。
※支援者的には、その人(支援を受ける人)との関わり方の手引きを作るとなるでしょうか。

なんてことをやります。

このことからも、発達特性は、生まれたときからのものだから、変わりようがないとか、だからなにもできないからあきらめるしかないとかって考えは当てはまらず、
むしろ、(ゆっくりと)発達していくんだ。
という意識で、発達を促すこと、発達を促す環境を提供することが一番重要とされています。
いわゆる特別な配慮ですね。

これは、
特別な配慮があれば発達特性による障害は軽減される。
と言うことを意味しています。

逆を言うとそれは、
発達特性による障害があると言うことは、特別な配慮を受ける機会が十分になかったことを示唆しているようにも思えるのです。

そんなこんなを考えつつ、英語表記に立ち戻ります。

すると、
Developmental Disorder
発達上の障害。
は、
発達する上でなんらかの障害があった。
なんて意味に捉えられるのではないかと思い至りました。

「なんらか」に当てはまることとしては、
「特別な配慮を受ける機会」
つまり、
発達するチャンス。

そう思えてきたのでした。

となると、
発達障害と呼ばれるほどの困難を抱える人を前にして、
支援者や家族や思いのある人が心がけることは、

この子は、あるいは、この人は、どんな発達のチャンスが不足していたのだろう?

私は、あるいは、私たちは、どんな風にそのチャンスを今ここで提供できるだろう?

と考え、そして過去十分に提供されなかったチャンスを提供することのように思えてきたのでした。
  


ネガティブなことばかり口にするのは性格じゃなくてうつなのかもしれない話

2020年07月06日

何かにつけ、ケチをつける。
とりあえず、けなす。
テレビのニュースを見ていても、悪い方へ悪い方へ解釈する。
ダメな所ばかりに注目して、ダメ出しする。

こんな性格の人がいます。

でも、性格じゃないかもしれないとふと思ったのでした。

実は、
抑うつ状態だと、悪い点、嫌なこと、つまりネガティブなことにばかり意識が向いてしまうのです。

そして、
考え方もハッピーな方には行かない。
ぐるぐると悪い方へ悪い方へスパイラルしていきます。

そうして、
全体的にやる気が起きなくなって、ため息すら弱くなる。

毒親とかヒドい上司とかあり得ない教師とか評価されている人たちは、
ひょっとしたら、その人自身が抑うつ状態で、痛みを抱えているのかもしれません。

だから、特に人間関係に害をなすことばかりやる。

自分の親を見て、そう思うのでした。

抑うつ状態とするならば、
害をなす行動は、心が痛みから来る。
性格から来るのじゃなくて。

痛みを持つその人は、問題を抱えているのだから、手当てが必要となります。
病院に行くとか、心理ケアを受けるとか。

害をなす人の立場に思いがやれる。

視点の転換は大事みたいです。
  
タグ :抑うつ毒親


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)心理・カウンセリング

人格適応論とポリヴェーガルと関連付けてみた話

2020年06月28日

TA・交流分析の有名な理論に、人格適応論というのがあります。
他者との交流の中で、自分なりの適応の仕方を身につけ、
それは人格=パーソナリティ=性格としてパターン分けできるという理論です。

そのうち、
幼い頃、生き延びるのに適応した人格として3つ示されています。
1つは、魅力的操作者。自分の欲求を満たすために人と関わることを好みます。
2つは、創造的夢想家。人と関わるより1人でいることを好みます。ひきこもり型と呼ぶ人もいます。
3つは、才気ある懐疑者。明晰な思考にもとづく言動を好みます。都合、批判的になることも少なくありません。人との関わりは1つ目と2つ目を行き来する感じ。

一方、
ポリヴェーガル理論は、命を守る自律神経系の働きを解明した理論です。
大きく3つの場合があるとされています。
(ア)人と関わる働きをする神経が優位な場合と、
(イ)人と関わらない働きをする神経が優位な場合と、
(ウ)人と闘争・逃走する働きをする神経が優位な場合があるとされています。

2つの理論を試みに関連付けてみたら、
1の魅力的操作者は、(ア)の状態になりやすい。
2の創造的夢想家は、(イ)の状態になりやすい。
3の才気ある懐疑者は、(ウ)の状態になりやすい。

のではないかと思ったのでした。

自律神経は、命を守り生き残るために反射的に自分の振る舞いを決定します。
幼い頃の生き延びるための(社会)適応パターンが、それと関連していても不思議ではないように思えたのでした。

参考文献
『交流分析による人格適応論 人間理解のための実践的ガイドブック』
(V・ジョインズ、I・スチュワート 白井幸子・繁田千恵監訳 誠信書房 2007)

『ポリヴェーガル理論入門 心身に変革をおこす「安全」と「絆」』
(S・W・ポージェス 花丘 ちぐさ訳 春秋社 2018)