自立を支援するってのは、自活の支援だけじゃないんじゃないかと思った話

2020年03月09日

およそ自立支援というと、

就労支援なんです。

なぜかしら。

自立支援をうたっているところで、仕事の話にならないところはまずありません。

だから、
ひきこもりの自立支援も、
ニートの自立支援も
困窮者の自立支援も
障害者の自立支援も
母子家庭の自立支援も
非行少年の自立支援も

就労支援の範疇になります。

就労支援。
それは、経済的自立と呼ばれる自立の1形態のみの支援なんです。

経済的に誰かに何かに庇護されず、自分の力でやっていけるようになる。
それを支援するのが経済的自立支援である就労支援なんです。

そこで、
他の形態の自立支援をいろいろ考えてみました。

他人の中で自力でやっていけるようになる。
ことを自立と定義するならば、

親の庇護からの精神的自立、
があります。

これは、
親の庇護という管理下からの自立。
自己責任を担い自由になることでもあります。

不自由からの自立と考えると、
病で不自由な生活を強いられている人が、病を治すことでの病からの自立。健康自立。
もあるかもしれません。

強いられている状態からの自立と考えると、
暴力などの力によって不自由な生活を強いられている人が、自力に目覚め脱出することで抑圧からの自立。自由自立。
もあるかもしれません。

無知蒙昧からの目覚め。未熟からの自立と考えると、
知識や技能が不足しているばかりに不遇を託っている人が、知識を深め技能を高めることで不遇を脱する自立。無知からの自立。
もあるかもしれません。

苦境からの自立と考えると、
苦しみの中にいる人が、労われ、癒やされ、自信を得て、今より楽な気持ちで暮らせるようになる苦しみからの自立。

ざっとこれぐらいの自立の形態を思いつきました。

そんなこんなで、改めて自立支援を考えると、

就労支援、医療支援、被害者支援、学習支援、心理支援、宗教・信仰的支援など、
およそ対人支援は、人のいろいろな自立を支えていく行為なのだろうと思ったのでした。
  
タグ :自立


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる不登校

予防という発想がおぞましい話

2020年03月01日

介護状態予防。インフルエンザ予防。メタボ予防。ガン予防。
新型コロナ感染予防。

不登校予防。ひきこもり予防。ニート予防。

非行予防。退学予防。

困窮予防。虐待予防。

世の中は予防が盛んです。

私たちは、なぜこんなにもいろいろなことについて予防するのでしょうか?

それは、
予防したい状態がとっても苦痛だからみたいです。

介護や看護が必要な状態は、心と身体の苦痛を伴います。

困窮や虐待もそう。

ありていに言えば、
それらは悪い状態です。
悪い状態にならないように予防する。
そういう発想でしょう。
おおむね納得いきます。

一方で、不登校やひきこもりの場合はどうでしょう?

そのほとんどが、
学校にいる状態、社会にいる状態が苦痛だから、
自宅などの学校や社会以外の場にいることを選んだ状態です。

つまり、苦痛は軽減している。
だから、苦痛ばかりの学校や社会にいるよりは健康なんです。

ありていに言うなら、
不登校状態やひきこもり状態は、よい状態なんです。
健康的な状態と言ってもいいくらい。

すると、
不登校やひきこもり状態になるのを予防するいうことは、
よい状態になるのを予防するということになります。

なんだかよく分からない話です。

※非行の場合は、
非行することで痛みが軽くなる、痛みから(一時的に)逃れられる、学校や社会か家庭にはないけど非行グループの中に居場所がある。
だから非行していると解釈されます。

また、
不登校してる人やこもる人の中には、不登校やひきこもりが自分たちらしさと重なる人たちがいます。
学校や社会に行かない今の状態が、まさに自分らしい生き様だという風に。
不登校やひきこもりじゃなくなったらそれはもう自分じゃない! というぐらいに。

そんな人たちは、
不登校やひきこもりの状態だからこそ、かろうじて自分はこの世に存在できている。
そう思っているかと思います。

ところが、
不登校・ひきこもり予防となると、そういう生き様、自分らしさは、イケナイことになります。
ありていに言えば、
悪い。
そんな存在の仕方は。

だから、予防せねばと発想するのですものね。

不登校、ひきこもり予防。
これを、
不登校やひきこもりが自分たちの生き様、存在形態になっている不登校の人やこもる人はどう受け止めるでしょう?

自分たちはイケナイことをしているイケナイ存在なんだ。
社会からは認められていないんだ。

学校や社会や家族や支援者や大人たち・・・は、
自分たちをウィルスみたいに駆逐しようとしているんだ。
との想いを抱きそうだということは想像に難くありません。

実際問題として、
不登校やひきこもりは社会の悪い見本として認識されているようですから、無意識に駆逐撲滅の対象とされているようです。

不登校やひきこもりしない社会の実現を目指すとき、撲滅の無意識が働いているように思えます。

だって、
不登校のまま暮らせる社会、ひきこもっていてもやっていける社会の実現。じゃないですもの。

不登校、ひきこもりの予防。
この発想には、こんなおぞましさが潜んでいるんです。

気をつけましょう。
とりわけ、予防に熱を上げる研究者の人たち。
予防じゃなくて、学校や社会でやっていける方法を開発することが、結果的に予防になるように思いますよ。

  


不登校とひきこもりの違いについて考えるシリーズ4 最終回

2020年02月25日

「不登校」と「ひきこもり」の解釈を変えた方が、
特に2つの違いを浮き立たせた方が、
より気の利いた関わりができるんじゃないかと思索を繰り返しています。
そのシリーズ最終回。※ちなみに次のシリーズは未定。

不登校は、ソリが合わないから。
あの学校と。あの担任と。あの校則と。あの友人と。・・・。

だから、ソリの合う何か、誰かを見つければだいぶ楽に登校できるようになる。
と希望を持っている。

ならばと、
「あの」で特定される登校阻害要因がない環境を提供することで困難の軽減を図る。
※あの先生いないから、あの教科は休んでいいから、午後からでいいから、じゃ家で勉強するかね

一方、ひきこもりは、
自分にはソリが合うところがない。
と思っているから。

友人とも、居場所とも、家族とも、当事者同士とも、自分とも。
つまり社会・世界と。
それで身も心も傷む。疲弊する。

希望を持てない。
希望を持つこと自体を拒む。
期待外れで傷つくのはもうほんとにウンザリだから。

だから、
なかなか楽にならない。傷みが癒えず痛みは続く。
疲弊から回復しない。
そしてひきこもり続ける。
誰か・何かとの接触を控えれば、痛みを感じる機会が減るから。

このようなことから、
不登校は、ソリが合うところを探す。
さらには、
ソリの合わせ方を身につける。
※環境調整と自身の環境調整力の向上により自信がつく

そうして、困り感を減弱し、自分の希望に近づいていく。

それらをやれるエネルギーがあるから。
世の中には、自分とソリが合うところがあるという希望も持っているから。
※フリースクールに行けば、通信制高校にいけば、大学に行けばデキる。

一方、ひきこもりは、ソリが合わない傷み・痛みを癒やす。
世の中に、自分とソリが合う場、人間関係はないようだと思っているようだから。
実存が脅かされているのだから。

手当てされる。癒やされる。いたわられる。
そういう経験をたくさんする必要がある。

つまり、
こもる人が、他者とソリを合わせられるようになることを目がけて働きかけるのではなく。
※コミュ力向上とか、就労支援とか、通いやすそうな学校を探したり、友だち作りを頑張ったり、適職探しを頑張ったり、じゃなくて。

こもる人には、もはや自助努力をするエネルギーは枯渇しているかもしれないから。

こもる人はまず、この世にいることを認めてもらう必要があるから。
そして、
そのままで、世の中の役に立つということを確認する必要があるから。

不登校とされている人の中には、上記のように実存が脅かされている人=ひきこもりが少なくないかもしれません。
その人の困難の核心をしっかり見極めることは大切です。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる不登校

不登校とひきこもりの違いの話 その3

2020年02月22日

不登校とひきこもりは根本的に違うような気がしてきたので、
その理由を考え続けるシリーズのその3です。

人には、発達課題というのがあるそうです。
幼体が成体となるまでに、必要な経験とか発達しておくべき能力とか。

赤ちゃんの時は、
自ら世界にタッチする。
そして、世界から応えてもらう。
これが課題らしいです。

泣くー誰かが応える。
笑うー誰かが応える。
タッチする-反応が返ってくる。
この課題を達成することで、人としてやっていける基盤ができるみたいです。

これが達成できないまま成長すると、
自分には、この世界に居場所がないって思うかもしれません。

やがて、この応じてくれる人間関係を基盤として、
人は自力で世界を探索始めるのだそうです。
自分の好奇心のままに。

そして、怖さを感じたときに、すぐに基盤の関係に立ち返る。
そこで、安心を感じて、再び探索に出る。

安全基地として人間関係がある。
このことが、人が生きていく基盤となるのだそうです。

もう少し成長すると、他人の中でやっていくことが多くなります。
基盤となる人間関係を元にして、他人ばかりの中で、ちょうどいい人間関係を築いていくことになります。
生きていくためには、他人の期待に応えることも重要になってきます。
これが、学齢期になった人の課題だそうです。

不登校は、この課題に取り組む機会が危うくなります。
だからまずは、この課題が達成できるような支援が必要なんです。
存外学力よりも大事な生きる力かもしれません。

勉強はしなくてもいいから、学校に行く。
学校的な人の場に行く。
その機会を確保することは、社会・大人の義務でしょう。

(児童)少年期ひきこもりの場合は、
人と関わることがつらいために人間関係を忌避しているので、
無理して人と関わると深く傷つくことが予想されます。
会っても大丈夫な人から始めて、少しずつ関わる人を増やす長い時間をかけた配慮が必要です。
課題に取り組むのは、二の次三の次になります。

成人・高齢ひきこもりの場合は、
少年期からずっとこもり続けている人たちと、
いろいろな困難、未達成な課題を抱えながらも、なんとか社会の中でやってこれた人たちと、
それぞれが半数ほどずついることを忘れてはなりません。

前者は、発達課題が未達でしょうね。
後者は、そこそこ達成できているでしょう。困難はあっても社会生活を送れていたのですから。

さて、少年期ひきこもりと成人・高齢ひきこもりの一番の違いは年齢でしょう。
前者(少年期ひきこもり)は、若いからこそ時間的な余裕が大きく、いろいろチャレンジして能力を開花すればいいのですが、
後者(成人・高齢ひきこもり)はそうでもありません。

後者(のうち特に少年期からこもっている場合の人)が、他人の中でやっていくという社会生活を送ろうとした際、
今から若い人に交じって学校に行くというのもなかなかすぐには難しいでしょう。

障害者支援が利用できるならば選択肢は多くなりますが、
そうでないとなると、就労での社会生活を探る必要が出てきます。
ところが、就労にあたっては年齢の問題がハードルとなります。

さらには、
健康的にも肉体的老化の問題があります。
一言で言うと、若くないんです。

そんなこんなで、
社会参加が制限されるんです。若さに任せていろいろできていた頃より選択肢が少なくなってしまう。

この場合は、
個人の力量を上げるよりも、そのままで(発達課題が未達のままであっても)やっていける場の提供が重要になってくると思われます。
個人が社会に合わせるよりも、
社会が個人に合わせると言うことです。

こんな風に、発達課題を軸に考えてくると、
不登校は、個人の成長に力を入れる。
成人・高齢ひきこもりは、マッチング先を探すことに力を入れる。
こんな違いがあるように思えています。

※少年期ひきこもりと高齢ひきこもりのくだりを論旨が通るように修正しました。2/22・21時
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(2)ひきこもる不登校

ひきこもりと不登校の違いを考えてみた話 その2

2020年02月19日

仮説です。

不登校は、学校にうまくなじめない状態。

学校不適応なんて言ってもいいかもしれません。

あの学校には、
あの教室には、
あの授業には、
あの先生には、
あのやり方には、
あの騒々しさには、
などなどなど、
なじめない理由がわりとはっきりしている。
だから、
あの学校じゃない、
あの教室じゃない、
あの先生じゃない、
あのやり方じゃない、
つまり、
あの環境じゃない学びの場なら、
通える。
なじめる。

環境・学校側が寄りそうことで適応しやすくなる。
つまり、環境調整が解決の鍵。

これが不登校。
じゃないか?

一方で、ひきこもりは、
あの学校でもこの学校でも難しい。
あのやり方でも、この環境でも同じように難しい。

環境が寄りそえるとしても、寄りそったとしても、こもっている。
社会が変わってもこもる。
これがひきこもり。
じゃないか。

となると、ひきこもり支援は、
本人の心への働きかけ。
痛みの軽減。
が必要じゃないかと思います。
環境を変えることよりも。

環境調整なのか?
本人への働きかけなのか?

支援に当たっては、
この見極めがとても大事な感じがしています。


  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる不登校