2019年04月20日

支援者にかみついた話 その4

 普段はわりかし温厚なのだけども、どうにも辛抱たまらんときは、かみつく聞風坊の、

 支援者にかみついた歴史の最後です。

 会議の場で支援者にかみついたことが幾度もあります。

 たいがい、こもる本人たちの都合を無視して、自分たちの都合でだけ話を進めているにもかかわらず、

 本人たちに寄り添っている勘違いを平気でやっている勘違い支援者の会議の場。
 
 の時です。

 なかでも、
 自己肯定感が低く、人見知りが激しく、だからとっても世話が焼ける。

 まるで大きな子どもみたいな当事者たち。

 を、傷つけないように傷つかないように、

 自己肯定感が高まるように、寄り添うのだから、

 自分たちは、大きな心で、大きな大人として、寄り添い、導き、温かい目で見守る。

 優しい親のように。

 という姿勢が、私の逆鱗に触れたことがありました。

 なんて偽善でしょう!

 裏を返せば、自分たちは正しく、自分たちは力強く、自分たちはよく社会適応できており、

 あの子たちは、間違っているわけじゃないけど自分たちみたく正しいわけじゃなく、

 力不足能力不足で、うまく社会でやっていけない、

 未熟者。能力の低い者。愚かな者。
 自分たちより下の者。
 みたいな腹の内を感じ取ったからです。

 さて、
 ひきこもり支援のモデル解説の際、
 必ず出てくるステップアップの図があります。
 
 階段状で細かいステップを丁寧に踏んで自立に至るモデルなのですが、

 その一番下に置かれているのがこもる人なんです。

 そして、
 一番上にいるのが支援者などの社会人。
 時に通学している児童生徒学生(=不登校じゃない児童生徒学生)

 まさに、
 上から目線の支援の傲慢さが一目瞭然な図なんです。

 自分たちは上位にいて、ノブレスオブリージ的に下位の者に心を配る。

 このうわべの優しさにムカついたのでした。

 対等平等でも支援はできます。

 むしろそうでなければひきこもり支援は成り立ちません。

 だから、
 偽善な傲慢な支援については、これからもかみついていくでしょう。

 この項、終わり。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる不登校

2019年04月15日

支援者にかみついた歴史 その3

 支援者や支援法にかみついた歴史の3です。

 今回は、自己○○感などの自己評価が低いことについての支援者の姿勢についてです。

 一番有名なのは自己肯定感でしょうか。

 自己有用感、自己効力感
 というのもあります。

 関連で、
 自尊感情
 自己評価
 自信

 があります。

 自分をOKだと思う。
 自分を認めている。
 自分を受け入れている。

 などの指標として使われてるようですが、

 この指標の使い方にかみついたのです。

 これらが低いからいろいろ問題行動してる。
 これらが低いためにあんなことになった、こんな風になった。
 だからこうやって高める。
 という使い方にです。

 例えば、
 自己肯定感が低いことが不登校の原因なので、
 自己肯定感をあげれば不登校は解決する。
 ゆえに、自己肯定感を高めるために、ほめる。

 あるいは、
 自信がないことが社会参加を邪魔しているので、
 自信が付けが社会に参加する。
 ゆえに、自信をつけるために、得意なものを発表しよう。
 そしてみんなから褒められよう。

 それで肯定感や自信がつく人はそれでいいんです。

 問題は、
 こもっている人のほとんどは、それぐらいじゃ効果がないこと。
 逆に、
 自分のできなさ加減を味わってしまうかもしれないこと。
 なんです。

 褒めるなどのプラスの評価を受けて、
 それで肯定感とかが溜まっていけばいいのですが、

 溜まっていかない人がいるのです。
 こもる人の多くに。

 まるで、
 底が割れている感じ。
 褒めても褒めてもOKな感じが増えていかない。
 
 そうならないのは、褒めが足りないからと、今以上に褒める。
 もはや、子ども扱い。
 上手に絵が描けたね~。

 それでまた自尊感情が削られる。

 そんなことに陥ってる懸念を持っています。

 自己○○感などの自己評価が不足しているとして、それを高めるために躍起になる支援者。
 それを一番のターゲットにしている支援者。

 にかみついていた。
 今もかみついている。
 のでした。

 この項続く。次回は「リアルに支援者にかみついた話」
  
タグ :肯定感


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる不登校

2019年04月10日

支援者にかみついた歴史 その2

 聞風坊が支援法にかみついた歴史を記すシリーズの2です。

 今回は「待て」

 不登校界でよく言われていました。今でもそうなのかしら。

 焦らず待て。

 今は待て。

 学校に行くのを待て。

 社会に出るのを待て。

 やんや言わずに待て。
 
 本人が動き出すまで待て。

 とにかく待て。

 いつまでも待て。

 やっぱり待て。

 何があっても待て。

 20年近く前、
 私が不登校界に触れたときは、そんな雰囲気すらありました。

 でも私は知っています。
 いつまで待っても変わらない事態があることを。

 8050問題みたく。

 親が80歳になって、健康を害していて、本人も50歳になって同じく健康良好じゃないであろうに。
 それでも待て。

 そんなのありえません。

 「待て」
 を薦めた偉い先生方は、
 自分たちが「待て」を勧めた結果責任をとるのでしょうか?

 いいえとりません。
 だってとれませんもの。

 偉い先生方の言葉に従い、
 待ちつづけたのは家族や本人だからです。

 行動に責任が伴うの理屈で、
 待ち続けた責任は、家族と本人にあります。
 偉い先生方には責任なし関係なしとなってしまうからです。
 
 別に強要したわけじゃないし、選択したのは自己責任だし。
 家族が待つって言うんだし。本人も待ってと言ってるし。
 そんな言い草すらも聞こえてきそう。

 偉い先生方や、支援者のアドバイスを真に受けた
 しわ寄せはいつも従順な家族・本人が引き受けます。

 そんな偉い先生方や支援者の無責任な姿勢にかみつきました。
 基本的に文章で。
 時に、「いつまで待ちます?」と質問する形で。

この項続く。次回は「自己○○感」
  
タグ :待て


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる不登校

2019年04月05日

聞風坊が支援者にかみついた歴史の話

 ひきこもり支援関連で、

 それはおかしい!

 と思うと、率直に文句を言う聞風坊です。

 もちろん、こうしてほしいという要望も添えて。

 基本文章で。
 時にその場で口頭で。

 その歴史を少しばかり記します。

 「当事者」に文句を言う

 こもって、よし! にも書いたと思いますが、「当事者」という呼び名がどうにも気に入りませんでした。

 「当事者」」は、
 「家族」「親」「兄弟姉妹」「親戚」「学校の先生」「医師」「支援者」「近所の人」

 のように、「その人」の立場を明確にするものとして使われる言葉ですが、

 これを、親・家族が平気で使うことにものすごく怒りを覚えたのです。

 自分の息子、娘、兄弟姉妹を、「当事者」と呼ぶときの、

 冷たく突き放したあの感じ。

 愛情のかけらも感じられない。

 思いやりの片鱗すら見えない。

 私は「当事者」ではない。
 息子や娘や兄弟姉妹の問題とは関係ない。
 悪いのは息子や娘や兄弟姉妹だからだ。

 私たちは「当事者」ではない。
 関係ない。
 
 親・家族・支援者と関わるときに、そんな印象をたくさんたくさん持ちました。

 思いました。
 この言葉には愛がない。

 だから、かみつきました。

 日本語には「その人」を指す別の言葉があります。

 「本人」または「当人」などなど。

 私は「本人」を主張しました。

 その人は当事者ですか? えぇ、当事者です。

 その人は本人ですか? えぇ、本人です。

 言い換えても全く問題ありません。実証済みです。

 現在、
 ひきこもり界では、「当事者」という呼称は減ってきたようです。
 少なくともこの表現に問題があることを知っている人が増えたようです。
 
 この項続く。次回は「待て」  
タグ :当事者


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(2)ひきこもる

2019年03月20日

ほめてもムダな人の話

 自己肯定感や自尊心などを高めるために、

 最近大ブームの「ほめる!」ですが、

 こもっている人の中には、

 ほめてもほめても自己肯定感や自尊心が高まらない人がいます。

 この時、
 自己肯定感が低いからこもっているんだ! と判断した支援者は、

 肯定的な面を強調し、いい評価を与え、
 つまり、ほめます!

 支援者の意地にかけて。

 でも、
 何年も辛抱強く、諦め悪く、ほめ続けても、
 徒労に終わることが少なくありません。

 なぜなら、ほめられる本人が望んでいないからです。

 ほめられることを。

 肯定的な評価を。

 プラスのストロークを。

 自己肯定感が強いと言うより、自己否定感が強いからかもしれません。

 だから、肯定的なメッセージを受け付けないのでしょう。

 試みに、否定的なコメントを言うとたいがい受け付けます。

 そうね、それもできなかったね。あぁ、あれ嫌だったね。それ、嫌いでしょ。

 否定的なコメントについては肯定することは少なくありません。

 ひょっとしたら、否定形の評価ならいいのかもしれません。

 短気ではない。サボらない。ケガをしない。

 逆に、
 辛抱強い。責任感が強い。健康だ。

 という風に肯定的な表現は好まないかもしれません。

 事実の否定的な面にのみ注目する。

 できないことについてだけ意識を向ける。

 嫌な気持ちだけ感じ取る。

 そんな、心の状態でいる人は、

 客観的な評価、社会からの評価がいくら肯定的であっても、

 意味をなしません。

 心に響かないのでしょう。

 一方で、否定的な評価ならば受け容れます。

 自己評価と一致するからでしょう。

 否定的な自己評価に囚われている状態。

 だと、ほめるのはムダ。

 と言うより、

 ほめられるとその反動で、
 いっそう否定的な自己評価が高まる気がします。

 いいや、そんなもんじゃない。もっと自分は悪いんだ!

 って感じで。

 そう、逆効果!

 なんでもほめれば丸く収まる。

 支援がうまくいく。

 なんて安直な思い込みは捨てた方がいいように思っています。
  


2019年03月15日

寄りそっちゃダメな話

 一般的に、
 誰かを支援する際には、相手に寄りそうことが大事とされています。

 だから、
 支援職は、まず寄りそいます。

 そして、寄りそいます。

 なにがあっても、寄りそいます。

 やっぱり、寄りそいます。

 いつでも、寄りそいます。

 どうしても、寄りそいます。

 それしかやっちゃいけないかのように、

 寄りそいます。

 寄りそわねばならない!

 という呪いをかけられているように。

 否定もせず、肯定して、受容して、傷つけないように、厳しいこと言わないように、

 ほんとは病気なんだけど、その事を言わないように。
 
 ほんとは学力が足りないのだけど、それを言わないように。

 ほんとはそっちの方向だとうまくいかないんだけど、それは言わないように。

 相手の気持ちに寄りそいます。

 そして、状況に変化が起きない。ずっと、今のまま。何年も一緒。

 なんてことは割とありがち。

 こんな風になること、
 特に、ひきこもりや不登校系の支援場面では多い感じがしています。

 それゆえ、
 今ここで、相手の気持ちや行動に共感し、支持し、応援することが、

 人から助力が受けられる可能性を閉ざすことに、
 協力することにならないか?

 結果的に、
 支援者である自分の寄りそいが、
 心や身体の健康を害することに協力することにならないか?

 と、
 寄りそい・共感を批判的に考え直してみることは重要に思えます。

 例えば、
 ひきこもることで、安全を確保し、自分の心や身体を守っている場合、
 数十年これをやっているとデメリットの方が上回るようになります。

 動かないと身体は働きが悪くなります。
 また、
 社会と関わらなないと孤立により他者からの手助けも得られなくなるからです。
 ※自分がここにいる事を知っている人がとても少なくなる。

 それは、心と身体の健康を害することにつながります。

 だから、
 こんな状態になっている時、そうなりそうな予測ができるとき、
 ありきたりに共感、受容しちゃダメなんです。

 もし、ありきたりに共感受容すると、
 相手は、今のままでイイんだ、今のやり方しかないんだと思っちゃうことになりがちだからです。

 だから、
 支援する人の責任として、

 今後のリスクなり、予想されるデメリットなり、

 今のやり方以外の方法なり、

 を伝える必要はあると思っています。
 ※説明責任なんていわれてます。

 それは、
 相手が自分を否定されたと思うリスクをはらんでいます。

 それでも、伝えねばならないと思っています。

 それが、責務だからです。 
 ※支援職としておまんまくってる人は特にそうですね。

 傷つけないように、傷つかないように、当たらず障らずで、

 相手の自己回復をひたすら待つ。

 という関わり方は、この責務を果たしてないかもしれません。

 回復する力が弱っている相手には、
 こちら(支援する人)の助力が強く要されるというのは事の道理。

 だからとりわけ、
 支援職は、腰の抜けた寄りそいじゃなくて、

 腰のすわった、リスクを引き受けた寄りそい方が求められているように思えます。

 相手の困難の度合いが強ければ強いほど。

 支援する人には、心の強さ・タフネスが必要なようです。

   


2019年03月10日

眠れないのは、眠ることが恐怖だからかもしれない話

 寝入りが難しい。床に入って数時間眠りにつけないこともある。

 寝ても1~2時間で起きてしまう。

 朝、とんでもなく早く起きてしまう。

 いつも眠たい。なんだかすぐ眠くなる。ときにたまらなく眠くなる。

 と言う状態がフツーの状態になっている人は少なくないようです。

 ひきこもりで有名な昼夜逆転生活も、ある意味眠りの問題です。

 さて、この眠りの問題、

 人間は、起きたら数時間後に眠くなると言うリズムを持っています。

 このリズムが乱れることで眠りの問題が起きることがあります。

 この場合は生活リズムを整えることで対処します。

 同じ時間に起きて、同じ時間に食事して、同じ時間に仕事して、運動して、入浴して、同じ時間に眠くなってみたいに。 

 一方で、
 気持ちの問題から眠りの問題を抱える場合もあります。

 緊張が続いているとよい眠りが取れません。

 悩みごとが多く、深く、気になってしょうがないと、おちおち寝ていられないからです。

 考え事をして寝入りが悪くなり、

 気が安らいだ状態で寝入ってないので、ほどなく起きる。

 ときに悪夢を見て起きる。

 そんなこんなで朝早く起きてしまう。

 または、
 眠ることがとっても怖いから眠れない、眠りたくないという場合もあるようです。

 眠った状態は一番無防備な状態です。

 意識を無くすので、周囲を警戒することができません。

 少しでも警戒しておくために、気を高ぶらせた状態で眠りにつかねばなりません。

 いざというときにすぐ行動できるように、緊張を保ったまま眠らねばなりません。

 自分の安全のために。

 眠ることに抵抗がある。

 リラックス、心を安らげることに恐怖を感じる。

 そんな眠りの問題を抱えた人も少なくないようです。

 きっと薬は効きづらいでしょう。

 薬で眠ったら怖いことが起きそうなんだもの。

 自分の眠りの問題のパターンを知ることは大切です。



  
タグ :不眠恐怖


2019年03月05日

ひきこもりは社会問題としてより個人間の問題じゃないかと思った話

 ひきこもり問題の解決法について考えていて、ふと思いついたことです。

ひきこもりは社会問題ではない!

 ってこと。

 なぜこもったのか? なぜこもり続けるのか?

 関わりの深い特定の人、特定の人たちとの関係がどうにもうまくいかなくなったから、

 関係を絶つ、

 その人たちを始めその他の人たちとのあらゆる関わりから撤退する決断をしたからではないか。

ならば、
 こもる人が今思いつく特定の人との関わりが、もしもあのとき少し違っていれば。

または、
 こもる前のどこかの段階で、うまくできていれば。

あるいは、
 こもり始めてからのどこかの段階で、うまくできていれば、

または、
 今改めて思い返してみて、
 あぁしとけばよかった、本当はこうしたかったという思いを、あの時に少しでもできていれば、やっていれば、

今とは少し違ったように暮らしていたかもしれない。

こもり方も変わっていたかもしれない。

ひょっとしたらこもっていなかったかもしれない。

 たとい思いやりのない社会の中で生活していたととしても。

もし今、
 自分がこもることをなんとなく決断した際に、大きな影響(多くの原因)を与えたあの人、あの出来事。

 との関係を新しくできたとすれば、

 なんかもうこもらなくてもいいかな、なんかもう十分だと思えるようになるのではないか。

そんな、
 さしあたり自分に悪影響を与えた数名の人とのパーソナルな関係(認識)を変えればいいのではないか。

 社会を変えようとするんじゃなくて。

 そんな小さな身近な問題が核心なのではないか。

なのに、
 社会問題として扱うから手に負えなくなっちまうんじゃないか。
 何十年も同じ要望を社会に訴え続けることになるんじゃないか。
 そしてその要望は不十分にしかかなえられない。

もちろん、
 そんなパーソナルな問題だからとはいえ、
長期間苦痛を抱えて社会からこもっている人が100万人いるとすれば、
 それは社会的に大きな問題であるし、

 不良関係の一方の当事者である社会や他者には責任がないとか変わらなくていいとかの理由はないのだし、
 むしろ変わらねばならない責任があると思うのだけど。

 それを強く求めたとして、相手は変わるのか?
 私たちのことを思いやって。

 もし(運良く)社会が望ましく変わったとして、
 それでこもっている人が他者と関わり社会に参画するようになるのだろうか?
 
 電池の向きを逆にはめ直したから、今度こそは動き出すとでもいうように。
 
こう考えてくると、
 問題解決の核心・ツボは
 パブリックでなくパーソナルな関係の中にあるのではないか。

 復讐よろしく自己の被害を喧伝し、社会批判し、社会を変えることに躍起になるあまり、

 受けた傷を自らほじくり返し、または新しく傷つき、落胆し、社会からの疎外感を強めてしまい、

 結果として価値観の違う人たち(社会)とよろしくやっていくことができづらくなるのであれば、

 価値観の合う人とだけなら仲良くやっていける状態に仕上がっていくのであれば、

 それは望ましいことだろうか?

 こもる人の利益に叶うのだろうか?

 こもる人が今より自由に暮らしていけるようになることに貢献しているのだろうか?

 ひきこもり社会問題運動の功罪のうちの罪の部分ではないか?

 なんてことを思ったのでした。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる

2019年02月28日

親が変われば子が変わる話

ふと、こんな風に思ったのでした。

親が変われば子は変わる。
言い習わしだ。

親が変われば必ず子は変わる。
という人もいる。

きっとそうだろう。

ところが、
親は変わらない。

だからといって、
親が変わらないから子は変わらない。
親が変わらないから自分は変われない。
ということではなかろうに。

親が変わらなくても自分は変わるよ。
親は変わらないなら自分が変わる。
というチョイスは子どもの手の内にある。  
タグ :変化境界


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる

2019年02月20日

瞑想すらできなかった話

 現在、トラウマケアから健康な人のストレスケアまで幅広く活用されている瞑想です。

 一般的に、目を閉じて行われます。

 が、この目を閉じる行為ができなかったんです私。

 瞑想では、
 気持ちを落ち着かせるために目を閉じるのですが、

 つまり、
 目からの情報を遮断するのですが。

 目からの情報がなくなるととても緊張が高まるのです。

 目から情報が来ない分、耳をすましてしまいます。

 身体全体で情報を補足しようと全身を緊張させます。

 結果的に、気持ちが高ぶります。
 リラックスしない。

 つまり、
 目をつぶる意図が台無し。

 ちなみに、
 夜、寝つきが悪いのもこのからくり。

 目を閉じると緊張する。
 こんな身体の状態なので、

 身体が感じる緊張・不安と付き合いながら、

 緊張をほぐしていく必要がありました。

 目を開いたままで、瞑想呼吸をする。

 それも数分はできないので、

 2~3回やる。

 2~3回分、緊張がほぐれたことを実感する。

 次は1~2回、回数を増やす。

 その次は、数十秒リラックスした時間を味わう。

 その次は、上がった肩、偏った姿勢など、気づいたところからこわばっている筋肉を緩める。

 そんな感じで自分にできる範囲で、緊張をほぐし、

 リラックスを味わい、

 そうして、

 そうして、

 そうして、

 やっと最近、フツーに目を閉じることができるようになりました。

 いたずらに緊張しなくて済む機会が増えました。

 フツーの人ってきっと、こんな状態が多いのだろうな、一日のうちに。

 なんて思います。

 そんなこんなで、やっと瞑想ができるようになってきたというお話でした。

  
タグ :瞑想瞑目


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもるトラウマ


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