2018年11月15日

会話が続かないのは、関心があるかどうかにかかってる話

 会話が続かない。

 話しかけられたら返事はできるのだけど、その先が続かない。


 よく話題になる悩みごとです。

 対処法として、

 聞き手にまわって、相づちを打つ。

 なんてのがよく使われます。

 でも、こんなこと、悩んでいる人のほとんどはすでにもうやってます。

 こんな受身の会話に飽き足らず、もっと会話を続けたいのですね。

 そういう悩みみたいなんです。

 

 そこで問題。

 会話を続けようとするその人に関心があるだろうか?

 その話題に関心があるだろうか?

 その人が自然と話したくなるほどに。


 一般的に人は、
 その人のことをもっと知りたいと思えば質問します。

 その人に共感したい、同感したい、親密になりたいと思っているならば、
 その人と同じ感情を持つように努めます。

 その人が、その話題に関心があるならば、自分の知っていることをつい話したくなります。

 自分と同じ関心事に関心のある人に親しい感じを持てば、
 自然と言葉が出て来ます。

 どんな風にしてその関心事と付き合っているか?
 自分はこんな風にしてるけど。
 なんて。

 例えば、どんなガンダムを観ているか? ファーストかダブルオーかユニコーンか
 地上波か、ケーブルか、DVDか、ネットか、マンガか、
 自分はネットでサンボルだけど。
 みたく。

 言葉でなくとも行動します。
 「この前の話のだけど、これ持ってきたんだ」的に。
 ガンプラ持ってきたり。

 会話の技術よりも、
 その人、その話題にどれほど関心があるかがポイントなのではないかと思います。

 関心がないならば、話が弾まないのも仕方ありません。
 そんな時こそ、聞き役に徹するのもいいかもしれませんね。

 サンボルってなに? 教えてもらえない?

 わくわく関心を持って。 

  


2018年11月05日

消えたいと願うことと身体イメージの話

 別に死にたいわけじゃないけど、

 いえいえ、
 死ぬのは怖いし、むしろ死にたくない。

 死ぬことには反対。
 
 とはいえ、

 消えたい。

 消えてもいい。

 という感覚を持つ人は、私聞風坊をはじめ少なくないと思っています。

 私に限って言うと、この願いは、

 意識は今のままでいいけど、

 存在を消したい、

 見えない存在でいたい、

 そうして、

 世界中をふわふわ自由に行き来したい、

 誰かのそばにいたい、

 気に入った場所にいたい、

 そんな感じなのです、

 この感覚についてだいぶ前から気にしていたのですが、

 少し前にふと気づきました。

 あぁ、身体が嫌いなんだと。

 自分の身体が好きでなく、

 それはきっと身体にまつわる嫌なことがたくさんあるからで、

 だから、
 身体なしで生きられたら、なんだか自由になれそうな気がするのです。

 自分の身体について、ほめられた経験がありません。

 そのためか自分の体に対する自己評価は低いです。

 正直、自分の身体を持てあましています。

 だって、
 食べないといけない、排泄しないといけない、そこかしこがかゆい、痛い、お腹の調子が悪い、歯磨きしないといけない、呼吸しないといけない、あたまの形が悪い、親から受け継いだもの・・・なんだもの。

 精神的に酷い状態のときは、不意に震える、こわばる、胸の中がゾワゾワする、頭がじんじんする、なんてことはざらでした。

 身体が思う通りにならない。
 身体が不穏で、何をやっているのか分からない。
 自分の体について、そんな思いのようです。

 ときどきは、
 自分の思いを裏切っているなんて思ってるようです。
 
 ホント、身体って扱いづらい!

 だから、
 身体に縛られている。

 そんな感覚もあります。

 だから、自由になりたい。

 消えて生きたい。

 そんな思いなんだなと思ったのでした。

 とはいえ、
 マインドフルネス瞑想などして、身体からのメッセージを受け取れるようになると、身体が何をしようとしているのかは分かるようになるし、以前よりよろしく身体とつきあえるようにはなってきました。
 
 思いを裏切る身体を嫌いつつ強引に思いに従わせようとするより、
 身体に思いを寄せるほうが無理せず楽に暮らせることを知りました。

 身体の声に耳を傾ければ、ものすごく役立つありがたいメッセージを発していることを知ったのでした。

 自分の身体への悪感覚は、育ちの悪環境のせいであって、身体が悪であったり、自分が悪であったりしたからではないことも。

 だってそもそも、
 私の身体は価値があるんです。

参考文献
『自傷行為治療ガイド 第2版』(B.W.ウォルシュ 松本俊彦監訳 金剛出版 2018)

  


2018年10月30日

子どもの相談に来た親と支援者との会話の1例

 もし、こんな会話がなされたらどうなのだろう?

 と考えたのでした。

 支援者「息子さんにどうなってほしいですか?」
 親「働いてほしい」

 支援者「なるほど、では、息子さんがそうなるために、今の息子さんは、何から始めた方がいいと思いますか?」
 親「ハロワに行く、風呂に入る、人と話す・・・朝起きること」

 支援者「外出せずに、人と話さずに、自分の力でできることと言えば、自力で朝起きることでしょうか」
 親「そうですね。時々朝起きてきますし」

 支援者「なるほど、すでにやっていると。なら、できそうですね。息子さんは、朝起きることについてどう思われてますか?」
 親「できれば朝起きたいと思っているようです。昼間図書館とか行くことありますし。他に用事もあるようですし」

 支援者「そうなのですね。ならば、朝起きることをちょっと頑張ってみるのはいいことかもしれませんね。自分がやりたいことができるようになるのだし」
 親「ええ、でも夜ゲームばかりしていて、なんべん言っても聞かないし」

 支援者「そうですか。では、息子さんが自力で朝起きるために、どんな手助けがあるとよさそうですか? そしてあなたには何ができるでしょうか?」
 親「あまりうるさく言わないで。言うと逆にゲームに熱中するようです。起きてきたときに、ご飯できてるよとか」

 支援者「息子さんが自力で起きてきたときに、ご飯できてるよって、普通に言うのでしょうか」
 親「ええ、それならよさそうです。いいんじゃないかなぁ」

 支援者「息子さんが働くために、さしあたりあなたにできそうなことは、息子さんが自力で朝起きてきたときに普通に接する。それのようですね。やってみますか」
 親「そうですね。ま、やってみます」
   
タグ :親子の会話


2018年10月20日

喜びの数を数えてみるとおもしろい話

 いくつか質問するだけの記事です。。

 ゲームをして、喜びはいくつ?

 街のゴミ拾いをして、喜びはいくつ?

 仕事をして、喜びはいくつ?

 病人の世話をして、喜びはいくつ?

 犯人を逮捕して、喜びはいくつ?

 ご飯を作って、喜びはいくつ?

 自慢して、喜びはいくつ?

 悪口言って、喜びはいくつ?

 誰かを讃えて、喜びはいくつ?

 学校に行って、喜びはいくつ?

 あなたに会えなくて、寂しさはいくつ?

 あなたが健康になって、喜びはいくつ?

 道路を造って、喜びはいくつ?

 探し物が見つかって、喜びはいくつ?

 自分が喜ぶと、喜びはいくつ?

 ひとりの喜び

 誰かとの喜び

 いくつ?

 
   
タグ :喜び


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる不登校

2018年10月15日

自分の金で酒を買うとおいしい話

 ひきこもりやニートや不登校成人の話題で時々出てくるのが、

 酒の美味さです。

 曰く、働いて稼いだ金で飲む酒は格別。

 なるほどそうでしょう。

 でも、私聞風坊は思うのです。

 おごってもらったただ酒もやっぱり美味しい。と。

 どっちが美味しいんだ?
 どっちも変わらずなのか?

 ずっと悩んでいました。

 そんなとき、
 先日スーパーの酒棚で物色していたときにふと答えがひらめきました。

 自分の稼いだ金で酒を買うのはとてもワクワクする!

 これが親からのお小遣いだと、なんかビミョー。
 飲んだとき、若干マズいかも。

 このワクワク感の源泉をたどれば、
 子どもの頃です。

 親からもらったお小遣いで、お菓子を買うのにどれにしようかと迷うワクワク感とプレッシャーがありました。
 この時と同じワクワク感です。

 違うのは、
 お菓子かお酒か。
 
 どうも、
 大人の楽しみであるお酒は、自分が稼いだ金で買う方が喜びにつながるようです。

 金を稼ぐというのが大人の証だからでしょう。
 お酒を飲むというのも大人の証。

 しっかり仕事をして、達成して、ご褒美にお酒を買う。
 大人だからできること。
 胸を張って。

 さてこの仕事、
 種別はないように思えます。

 労働でもいいし、ボランティアでもいいし、勉強でもいいし、

 何かを一つ成し遂げた。

 そういう成果が感じられるもの。

 作業、役目、責任。

 なんでもいい。

 自分の労力、知識、知恵、時間を提供して、何かが生じた。

 少し便利になった、楽になった、問題が解決した、先に進んだ、混乱が整理できた、安らいだ、喜びが生まれた、

 そんな
 なにかに貢献した実感、
 なにかを達成した実感を
 胸に、大人だから買える買い物をする。

 だから、喜びを感じるのでしょう。

 そしてきっと、
 自信につながるのでしょう。
  
タグ :達成感自信


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる

2018年10月10日

ひきこもりには就労支援がいるという話

 学校時分から、

 または一度職について離職してから、

 数か月、

 数年、

 数十年、

 ほぼ家にいて、

 人との関りがとても少なくて、
 
 だから、リアルな社会とのかかわりも少ない暮らしをしている人が、

 日に数時間、

 誰かと関わりながら、

 対価をもらえるほどの仕事をする。

 それを数日続ける。

 それを数年続ける。

 数十年続ける。

 となると、

 誰かの手助けがいるはずです。

 特に、最初のころは。

 つまり、ひきこもっていて、働こうかなと思いだしたころ。

 サポートなしで就労状態になれる。

 その状態を維持できる。

 かというと、それはなかなか難しいことでしょう。

 だって、どうやって職探しすればいいのか?

 手順が分かりませんもの。

 誰かの手助けがあったほうが着実。
 そして楽。

 ひきこもりの就労支援はいります。
 私聞風坊はそう思います。

 そしてそれは、こもっている人が働こうかなと、思ったという事実が大前提。

 さらに加えると、
 今まさにこもっていて、
 人と関わるのもものすごく緊張して、
 外出した後はへばって身動きできなくなるような状態のときではありません。

 まだ就労に向けて何かする段階ではないと考えます。

 心や身体のケアとか、緊張を減らすとかのことをする段階でしょう。

 就労に向けて活動できそうな段階になったら、就労支援。

 この見極めが大事。

 こもる人の状態をしっかり見極めて、就労支援が適切だとなったら、就労に向けた支援をちゃんとやる。

 これが大事。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる

2018年09月30日

お金を稼ぐことに嫌らしい感覚を持つことについて考えてみた話

 実は、ひきこもり支援は就労支援が目立っているのです。

 国の方針も、就労を目指した支援が基本です。

 自分で働いて金銭収入を得て自活していく。

 この状態を目指しているからですね。

 日本人の基本生活姿勢だからなのでしょう。

 ところが、こもる人は働くことについてとても否定的な感覚を持っています。

 自分が働けるのか?

 働けるほどの能力があるのか?

 収入が得られるほど働けるのか?

 心や体を壊すほど頑張らねばならないのではないか?

 そんな自信はない。

 というかそんな社会ではやっていけない。

 なんでそこまでして働かないとならないの?!

 いろいろな否定的な考えが次から次に襲来します。

 そして、やる気をなくして落ち込みます。

 特に、 お金を稼ぐことに気乗りがしない人は多いみたい。
 私聞風坊もその一人。

 そんなにしてまでお金を稼がないとならないのか?!

 なんて考えてしまう。

 別にお金を稼がなくても、少ない金額でなんとか暮らしていけるし。

 今より暮らしの質を落としてもいいし。

 なんて風にも。

 お金を稼ぐ意欲が低いみたい。
 気力がわかないというか。
 動機づけが弱いというか。

 一方で、お金をたくさん稼ぐ人たちもたくさんいます。
 特に昨今はやりのIT社長さん、起業家の皆さんたちとか。

 お金をたくさん稼いでたくさん使って楽しんで、社会貢献もやって。
 みたいな人たちは少なくありません。

 エネルギッシュ!

 何が違うんだろう?
 考えました。

 そしてある日ふと思いつきました。

 お金をたくさん稼ごうとする人たちは、
 お金を使うことをまず考える人たちなんじゃないかと。

 どんな風にお金を使いたいか?
 お金の使い途をまず考えついて、

 そのために、仕事してお金を稼ぐ。

 こんな順序でお金を稼ぐことを考えるのではないかと思ったのです。

 お金を稼ぐ目的がしっかりしている。
 それは自分の欲を満たすためであったり暮らしをよくするためであったり、家族のそれであったり、または社会のためであったりする。

 いいことをするためにお金を稼ぐ。

 お金の使い途が決まっている。

 一方で、私たちはそれが決まってない。

 お金を稼いでも、どう使っていいか分からない。

 これといって思いつかない。

 にもかかわらず、稼がねばならない。

 ジレンマ。

 お金って、流通することで価値が生まれるんだそうです。

 人から人に渡ってめぐっていくことがお金の役目。
 そうやって社会を活性化する。

 こう考えると、私たちの考えの中では、お金の流通が止まっているよう。

 使い途がないのに、お金を稼がなければならない。

 出口がイメージできないのに、収入を得なければならない。

 こう考えると、

 出ていく先がイメージできれば、稼ぐ気持ちがわいてくるかもしれません。

 さ~てと、
 お金を何に使おうか?
 
 自分のために、家族のために、好きな人のために、未来のために・・・。

 そのために、お金を稼ごうか。

 稼いだ一部は社会のために納めようか。

 そんな気持ちに。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる社会のことニート

2018年09月20日

助けを借りる力がいる話

 災害被災の場面では、受援力。

 心理系では、
 援助要請行動などの分野で研究されている

 誰かの助けを借りてやっていく力

 についての記事です。

 困難を抱える人のうち、

 長いこと困難が解消しない場合や、

 幼い頃から誰かの助けが十分に得られなかった場合など、

 誰かの助けを借りて、自分の困難を解消できた経験が乏しいと、

 誰かの助けを借りるという発想がなくなり、

 誰かの助けを借りるといいことがあるという希望もなくなり、

 自分の力頼みでやっていくしかない。

 誰もアテにならない。

 誰も信頼できない。

 自分の望みは自分で叶えるしかない。

 できることは限られているから小さな少しだけの望みを叶えよう。

 として、

 小さく小さく暮らしを縮めた生き方を選ぶ場合があります。

 長年こもっている場合。

 社会でどうにも上手くやっていけないと思った場合。

 そもそも誰かが自分のために役立つことをしてくれたことがこれといってなくて、

 どちらかというと自分ただれかのために役立つことばかりで、

 結局のところ、いつも自力でやっていくしかなくて、

 それを誰もが期待している場合。

 などです。

 この場合、
 他者への
 不信感
 不信頼感
 不審感
 がとても強く、

 これまでの人生で自分の能力の限界を痛切に感じることが多いために、
 自分への
 不信感・不信頼感
 もまた同様に強いことが多いようです。

 それは、
 自分の人生への
 不信感・不信頼感であり、

 自分の人生を
 肯定しない
 ことにもつながり、

 自分の未来に
 希望を持てない
 ことにもなります。

 だから、
 誰かの助けを借りる気も起きない。
 それで、問題は解消せず

 暮らしていく不満は募るばかり。
 という悪循環。

 自助グループで学んだことの一つに
 手放すというのがあります。

 都合これは、
 誰か、なにかに委ねる。
 ということを意味しています。

 何を?

 自分の手に負えない問題をです。
 
 そしてこれには、
 自分の処理能力以上の問題。
 と、
 自分の問題じゃなくて誰かの問題だから。

 の2種類があるようです。

 医師や福祉職、相談職などの専門職を頼り、
 自分の手に負えない部分を委ねる。

 少しでも問題解決に役立ちそうな誰かからの提案を
 試しにやってみる。
 少しだけ提案に委ねてみる。

 自分のこだわり、
 怯え、
 恐怖、
 意地、
 を手放し、

 暮らしが楽になりそうな手立てに委ねてみる。

 自助グループでのたとえ話では、

 箱の中のキャンディーつかみ取りの時、
 手一杯に物をつかんでいると箱の出口にひっかかって何も手にできないけど、
 少し手放すと、なかなかの数が手に入る。

 と学びました。

 不信というこだわりを手放すことで、
 楽が手に入ることはあります。

 助けを借りる力を手にする話でした。

  


2018年09月10日

2つに1つの選択肢しかないと自分を追い詰める話

 不登校・ひきこもり界でよく見聞きする言説があります。

 是か非かです。

 学校は是か非か。

 不登校は是か非か。

 ひきこもりは是か非か。

 就労は是か非か。

 働かないことは是か非か。

 金儲けは是か非か。

 いずれもどちらかの立場に立って、相手を否定します。

 自分のほうが正しいと、強く主張します。

 そんなことが数10年続いています。

 先日、ひきこもりと就労について考えるイベントでもそうでした。

 是か非。

 自分の立場と一緒はOK

 反対の立場はNG

 議論は平行線。

 はるか昔から、きっとこの先も。

 是非。

 いいか悪いか。

 学校行くか行かないか。

 社会参加するかしないか。

 働くか働かないか。

 金儲けはいいか悪いか。

 どちらかがよくて、逆はダメ。

 どっちか一方しか認められない。
 評価されない。
 受容されない。
 肯定されない。
 同意されない。

 どっちか一方しか認めない。
 評価しない。
 受容しない。
 肯定しない。
 同意しない。

 どっちか一方だけ認める。
 評価する。
 受容する。
 肯定する。
 同意する。

 この極端性とお互いの立場の行き来がないこと。
 極の端と端に固着して相手を否定する。

 このことが
 問題解決の一番の障害、
 事態悪化の主因
 のように思えています。

 たとえばもし、
 学校に行かないことが正しいという立場を貫く(固着)としたら、
 行きたい学校に出会ったときに悩みます。
 すると、
 学びの機会が制限されます。

 もし、金を稼がないことこそ自分らしい生き方だと固執するならば、
 稼がなければならない事態に遭遇すると困惑します。
 自分の主張と違う・・・
 仲間を裏切ることになる・・・
 すると、
 金で解決できる問題や実現できることに取り組めなくなります。

 自分の考えとは違うけど、相手の意見も認める。
 それなりに評価する。
 そういう考えもあるなと受容する。
 相手の立場を肯定する。
 同意する部分もあることを知る。

 今のところ自分の立場は決まっているが、反対の立場に立つかもしれない。
 
 または、今現在で一部重なるかもしれない。

 固着しないで柔軟な発想を持っていれば、
 今の自分に最善の選択ができるように思えます。

 そのためには、
 なぜ自分が特定の考えや立場にこだわるのか?
 反対の立場の何が気に入らないのか?
 を知っておくことは役に立ちます。

 金を稼ぐということは、犠牲が大きくて、誰かが不幸になることだから稼ぎたくないんだ。
 労働者から搾取する形の稼ぎ方が嫌だ。
 稼いでしまうことで自分が堕落しそうで嫌だ。

 不幸にならない稼ぎ方、
 搾取とは言えない稼ぎ方、
 堕落しない財産の活用法、

 対策はありそうです。

 一方で、
 それほど稼がずともつましく暮らす方法も楽しそう。
 と反対の立場の人が考えたら、

 お互いの経験をシェアできそうですね。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる社会のこと

2018年09月05日

カウンターの歴史としてのひきこもり支援 3

 私聞風坊が語るひきこもりの歴史です。

 今回は、2015年(H27)頃から。

 この頃、
 新しい支援制度が動き出しました。
 生活困窮者自立支援制度です。

 2015年(H27)年から始まった生活困窮者自立支援制度のなかで、
 ひきこもり支援が明示されたことは、

 全国親の会等が中心となった、
 ひきこもりという新たなカテゴリーを作って支援する制度の制定を願っての社会運動の一つの成果です。
 
 生活困窮者自立支援制度は、
 生活保護状態になる前に、まだ頑張って自活している状態の時に手厚い支援があれば、
 保護を受けずとも困窮状態が解消されるということから始まりました。

 この中に、ひきこもりが含まれたのです。

 いきさつとしては、親の高齢化の問題があります。
 親も子も高齢だという8050問題です。

 長くは児童期不登校のころから、
 短くとも30代で離職してから10年以上、
 社会と距離を置いた生活をし中年を迎えた子ども、を抱えた親は高齢です。

 親は年齢的に就労での収入が望めなくなります。
 ところが、
 家族の内、他に働き手はいません。

 生活費がたりません。

 困窮となります。
 ※実はそのずっと前から困窮している気もしますが。

 そうならないように、
 または、
 そうなってからでも、
 なんとか、状況を改善していくための支援が始まっています。

 ひきこもりを病気でもなく働けないでもなく若者でもなく
 困窮でくくって制度支援しようという新機軸の支援です。

 これは、
 ひきこもりは若者の話じゃない!
 というカウンターと、

 お金に余裕があるわけじゃない!
 というカウンターの、

 2つのカウンターです。

さて、
 ひきこもり支援は現在、
 ひきこもり地域センターと困窮者支援の2つの窓口があります。

 ところが、
 困窮の専門家はひきこもりの専門家ではありません。
 就労支援としてひきこもりを支援する方向性だからです。

 一方で、
 医療に強いセンターは困窮・就労の専門家ではありません。

 支援機関には得意分野があります。
 それは不得意分野があるということです。

 だから、
 2つはもとより地域の支援関係者が連携することが重視されています。
 不得意分野を相互に補うのですね。

 こんな感じで現在のひきこもり支援がデザインされています。
 絵に描いた餅にならないように、実行が期待されています。
 
 ひきこもり支援は、模索の連続です。
 支援の歴史は模索の歴史です。

 それは、こもる人へのよりよい支援を模索しての
 それまでの支援法を批判する形、
 つまりカウンターとして進んできました。

 支援を受ける者としては、
 支援の方向性が大きく変動することで大混乱が生じているのですが、

 本質的には、
 思いやりの歴史なのです。

 終わり。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる社会のこと


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これまでの発表や記事原稿を、「聞風坊の図書館」で適宜公開しています。
別サイトになります。こちらもご覧下さいませ。


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