2018年12月15日

ひきこもり状態の人がどんな風に自分を変えたがっているかの研究の話

「ひきこもり状態にある若者は自己受容をどのように志向するか」(古志めぐみ 青木紀久代 カウンセリング研究第50巻第2号)
によると、

ひきこもり状態にある若者は、

今の自分を全面的に変えたい人がとても多かったそうです。
自分を気に入っていない人が多いのでしょうね。

分かる気がします。
自己肯定感や自尊心が低いと言われていることと関連があるのでしょう。

でも、
自分を取り替えるなんて現実的にあり得ません。

それゆえ、
嫌だけど替えられない、どうしていいか分からない状態。
変えたくても変えられない、もんもんとした状態。
のままになってしまっているようです。

そして、それだからか、
せめて、現在のひきこもり状態ぐらいは変えたいと望んでいるようです。

フルモデルチェンジみたく自分を全面的に変えることは難しいけど、
今の自分でありながら、ひきこもらない状態には変化したいようです。
現実的に、こう考える人もまた多いとのことです。

ところが、
いざ変容しようとすると、
どうにもやりたくなくなるようです。
誰しも変化は怖いもの。

それは、
こもる人の特徴の、
社会からの期待にしっかり応えねばならない。でも応えられる自信がない。
という恐れからも来るようです。

そしてそれは、
そもそもどうやって変わればいいかが分からないことと関係しているかもしれません。

この研究によると
憧れている人や周りの人を模倣する気持ちがとても低いのです。

これを裏返すと、
もし、モデルとなる人がいれば、その人を軸に、その人を目指して、
軸を1本決めてやってこられたのではないかと思えます。

困難に出会った時、どう変化すればいいかのモデルがいると、
自分が困った時、どうすればイイかのイメージが湧きやすいもの。

こんな時、あの人はどんな風にしたか?
あの人ならどう考えるだろうか?
って、参考になる人がいれば。

そうして、
ピンチで自分の能力を発揮して苦境を脱していたなら、
そんな力を持っている自分を実感できていたなら、
今のような苦悶の中にずっとひきこもっていることはなかったかもしれません。

こう考えてくると、
モデルがいて、自分の力を発揮できる機会がいっぱいある自助グループが、
魅力的・効果的だという理由が少し解明されたような思いになるのでした。

  


2018年11月25日

ひきこもりは平成をどう受け止めていたか?

 平成最後の年と言うことで、そこかしこで「平成」を振り返る企画が行われています。

 ご多分に漏れず、ひきこもりについてもこの企画があり、チョビッと関わったのでその作業を通して感じたことを記します。

 平成とは、西暦1989年の1月に始まりました。

 直前に自粛ブームがあり、当時学生だった私は学祭が催されないのじゃないかと学校側に問い合わせたものでした。

 まだバブル景気は続いており、竹藪から1億円が出てきたり、24時間戦えるか? という風に長時間労働がもてはやされたり、バイトの方が正社員より収入がよかったためにフリーターという働き方がはやったり、消費税が導入されたり、ベイブリッジが開通したり、ジュリアナ東京が盛り上がったり、東京新都庁が開庁したり、元気で活動的な話がいっぱいでした。

 一方で、少年少女が関係する残虐な事件が次々にニュースに出て来るようになりました。

 海外では、民主化運動を戦車で押しとどめたシーンで有名な天安門事件が起き、中東で起きた湾岸戦争に自衛隊が派遣されました。

 やがて、バブル景気が崩壊し、不良債権が重くのしかかった日本経済は下降の一途をたどります。

 失われた20年の始まりです。※30年という人もいるとか

 それは就職氷河期の始まりを意味します。
 バブルの頃は、新卒予定の学生が会社説明会に応募した会社から毎月接待してもらってたほど売り手市場だったので、本当に雲泥の差です。

 ロイヤルウェディングのような明るい話題もありました。

 女性の社会進出にともない政界も激変し、日本の政治が大きく変わり出したころ、

 冷夏・飢饉で米がなくなり、外国から米を輸入する事態も起こりました。
 私もタイ米の炊き方に苦労した覚えがあります。

 サッカー日本代表がドーハの悲劇を経験した頃、
 イジメで命を落とす少年少女が連日ニュースで取り上げられました。

 この頃宮崎はシーガイアが営業を始めました。

 阪神淡路大震災が起こり、オウムはテロを起こし、PCはWindows95が発売され、ちびTやポケベルがブーになった頃、
 女子高生ブームが起こり、その裏には、子どもで金を稼ぐ大人がいました。

 そのうち、
 薬害エイズ問題が明らかになり、O-157が広まり、
 金融破綻、金融業界再編となり、自分の財産を安心して預けるところがなくなる不安が日本全土を覆いました。

 日本がサッカーワールドカップに初出場したり、長野で冬季オリンピックがあったりと、にぎやかな反面、
 
 ストーカー犯罪が目立つようになり、
 食品事故や事件、医療ミスが連日報道され、
 コンピューターが使えなくなるというY2K問題が世界中をざわめかせ、
 少年が関わる残虐犯罪のニュースは増え続けるばかりでした。
 自殺者が年間3万人を超えだしたのもこの頃です。

 2001年には、アメリカの潜水艦が日本の高校の船に衝突する事故が起きました。
 同じ年、アルカイダによるアメリカでの航空機テロが起きました。

 日本では、犯罪により弱い立場の人が被害に遭う事件が多発しました。

 また、
 重症呼吸器症やノロウィルスや人や鳥のインフルエンザなどの感染症が流行し、パニックとなりました。

 この時、こもっているのならば感染リスクが低いので、外に出ないようにしようと思ったのを覚えています。

 サッカーワールドカップ日韓共催、北朝鮮拉致被害者帰国など喜ばしい出来事もある反面、

 この頃から、雇用・就労の問題が重大事項となりました。
 若者が引き起こした重大事件も雇用の問題の影響が大きくありました。
 派遣社員は、一方的にくびきりに遭い、住む場所すら失う事態となりました。
 宮崎では、バブルの負の遺産であるシーガイアが倒産しました。
 台風により浄水場が被害を受け、断水生活が続いたこともあります。

 しばらくすると、
 東日本全域を大地震が襲います。

 宮崎では、直前に口蹄疫が起こり多くの人が悲嘆に暮れましたが、続けて鳥インフルエンザと新燃岳の噴火が起きました。
 立て続けに災難が降りかかってきたのでした。
 その後も、緊張は続いています。

 最近では、熊本や大分で大地震が起き、その影響を受けました。

 さて、こうして、
 社会で何が話題になっていたかという視点で、ほんとに大ざっぱに平成の30年を振り返ってみましたら、

 おおよそどんな気持ちで過ごしてきたかが分かってきました。

 不信と不安です。

 偽装や虚偽記載、不祥事など、嘘がまかり通っていた社会が明らかになりました。
 誰も(会社も国も医師も銀行も教師も)何も信用できない思いです。

 感染症や自然災害の頻発は、誰しもがいつ何時受傷するか分からない時代であることを痛感しました。
 逃げ場がない気持ちです。

 感染は逃れたとしても、健康不安をあおるネタばかりのテレビや雑誌などのマスメディア。
 関節はすり減り、生活習慣病が忍びより、がんになる率も上がっている。
 そのままの生活をしているだけでもじょじょに健康が蝕まれている感じになってきます。

 国内国外では、犯罪や戦争ばかり。
 世の中全体が常に危険であると思えます。

 全般的に安全が脅かされた30年のようでした。

 地平らに天成る。
 が由来の平成ですが、元号に込められたその願いは残念ながら叶わなかったようです。

 こもる世界の住人は、
 こんな物騒な世界で暮らしていく自信はありません。

 こう考えると、
 平成というのは、こもらない理由が見つかりづらい時代だったようです。

 ところがそれは平成では、
 全部自己責任として片付けられます。

 社会でやっていく理由を見つけることができなかったり、
 社会でやっていく力がないのは自分の努力不足。

 社会でやっていかないと決めた責任はその人にある。
 だから社会には責任がない。

 何かやる気になったらサポートはする。
 やる気がないならなにもサポートしない。

 それが社会の基本姿勢であった平成の30年。

 ざっと振り返ってみても、
 これほどまでに多くの困難が起きた平成は、個人に思いを向ける余裕が不足していたようです。
 国や世間は自分たちが生き残ることだけで手一杯。
 国や世間の活動から距離を置いて生きている人たちまで思いをやる余裕はない。

 個人や、個人の集合である社会全体が、
 不信で不安で、
 心と身の安全が脅かされていた。

 そんな時代だったのかもしれません。

 来年2019年の春。平成は終わりを迎えます。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる社会のこと

2018年11月15日

会話が続かないのは、関心があるかどうかにかかってる話

 会話が続かない。

 話しかけられたら返事はできるのだけど、その先が続かない。


 よく話題になる悩みごとです。

 対処法として、

 聞き手にまわって、相づちを打つ。

 なんてのがよく使われます。

 でも、こんなこと、悩んでいる人のほとんどはすでにもうやってます。

 こんな受身の会話に飽き足らず、もっと会話を続けたいのですね。

 そういう悩みみたいなんです。

 

 そこで問題。

 会話を続けようとするその人に関心があるだろうか?

 その話題に関心があるだろうか?

 その人が自然と話したくなるほどに。


 一般的に人は、
 その人のことをもっと知りたいと思えば質問します。

 その人に共感したい、同感したい、親密になりたいと思っているならば、
 その人と同じ感情を持つように努めます。

 その人が、その話題に関心があるならば、自分の知っていることをつい話したくなります。

 自分と同じ関心事に関心のある人に親しい感じを持てば、
 自然と言葉が出て来ます。

 どんな風にしてその関心事と付き合っているか?
 自分はこんな風にしてるけど。
 なんて。

 例えば、どんなガンダムを観ているか? ファーストかダブルオーかユニコーンか
 地上波か、ケーブルか、DVDか、ネットか、マンガか、
 自分はネットでサンボルだけど。
 みたく。

 言葉でなくとも行動します。
 「この前の話のだけど、これ持ってきたんだ」的に。
 ガンプラ持ってきたり。

 会話の技術よりも、
 その人、その話題にどれほど関心があるかがポイントなのではないかと思います。

 関心がないならば、話が弾まないのも仕方ありません。
 そんな時こそ、聞き役に徹するのもいいかもしれませんね。

 サンボルってなに? 教えてもらえない?

 わくわく関心を持って。 

  


2018年11月05日

消えたいと願うことと身体イメージの話

 別に死にたいわけじゃないけど、

 いえいえ、
 死ぬのは怖いし、むしろ死にたくない。

 死ぬことには反対。
 
 とはいえ、

 消えたい。

 消えてもいい。

 という感覚を持つ人は、私聞風坊をはじめ少なくないと思っています。

 私に限って言うと、この願いは、

 意識は今のままでいいけど、

 存在を消したい、

 見えない存在でいたい、

 そうして、

 世界中をふわふわ自由に行き来したい、

 誰かのそばにいたい、

 気に入った場所にいたい、

 そんな感じなのです、

 この感覚についてだいぶ前から気にしていたのですが、

 少し前にふと気づきました。

 あぁ、身体が嫌いなんだと。

 自分の身体が好きでなく、

 それはきっと身体にまつわる嫌なことがたくさんあるからで、

 だから、
 身体なしで生きられたら、なんだか自由になれそうな気がするのです。

 自分の身体について、ほめられた経験がありません。

 そのためか自分の体に対する自己評価は低いです。

 正直、自分の身体を持てあましています。

 だって、
 食べないといけない、排泄しないといけない、そこかしこがかゆい、痛い、お腹の調子が悪い、歯磨きしないといけない、呼吸しないといけない、あたまの形が悪い、親から受け継いだもの・・・なんだもの。

 精神的に酷い状態のときは、不意に震える、こわばる、胸の中がゾワゾワする、頭がじんじんする、なんてことはざらでした。

 身体が思う通りにならない。
 身体が不穏で、何をやっているのか分からない。
 自分の体について、そんな思いのようです。

 ときどきは、
 自分の思いを裏切っているなんて思ってるようです。
 
 ホント、身体って扱いづらい!

 だから、
 身体に縛られている。

 そんな感覚もあります。

 だから、自由になりたい。

 消えて生きたい。

 そんな思いなんだなと思ったのでした。

 とはいえ、
 マインドフルネス瞑想などして、身体からのメッセージを受け取れるようになると、身体が何をしようとしているのかは分かるようになるし、以前よりよろしく身体とつきあえるようにはなってきました。
 
 思いを裏切る身体を嫌いつつ強引に思いに従わせようとするより、
 身体に思いを寄せるほうが無理せず楽に暮らせることを知りました。

 身体の声に耳を傾ければ、ものすごく役立つありがたいメッセージを発していることを知ったのでした。

 自分の身体への悪感覚は、育ちの悪環境のせいであって、身体が悪であったり、自分が悪であったりしたからではないことも。

 だってそもそも、
 私の身体は価値があるんです。

参考文献
『自傷行為治療ガイド 第2版』(B.W.ウォルシュ 松本俊彦監訳 金剛出版 2018)

  


2018年10月30日

子どもの相談に来た親と支援者との会話の1例

 もし、こんな会話がなされたらどうなのだろう?

 と考えたのでした。

 支援者「息子さんにどうなってほしいですか?」
 親「働いてほしい」

 支援者「なるほど、では、息子さんがそうなるために、今の息子さんは、何から始めた方がいいと思いますか?」
 親「ハロワに行く、風呂に入る、人と話す・・・朝起きること」

 支援者「外出せずに、人と話さずに、自分の力でできることと言えば、自力で朝起きることでしょうか」
 親「そうですね。時々朝起きてきますし」

 支援者「なるほど、すでにやっていると。なら、できそうですね。息子さんは、朝起きることについてどう思われてますか?」
 親「できれば朝起きたいと思っているようです。昼間図書館とか行くことありますし。他に用事もあるようですし」

 支援者「そうなのですね。ならば、朝起きることをちょっと頑張ってみるのはいいことかもしれませんね。自分がやりたいことができるようになるのだし」
 親「ええ、でも夜ゲームばかりしていて、なんべん言っても聞かないし」

 支援者「そうですか。では、息子さんが自力で朝起きるために、どんな手助けがあるとよさそうですか? そしてあなたには何ができるでしょうか?」
 親「あまりうるさく言わないで。言うと逆にゲームに熱中するようです。起きてきたときに、ご飯できてるよとか」

 支援者「息子さんが自力で起きてきたときに、ご飯できてるよって、普通に言うのでしょうか」
 親「ええ、それならよさそうです。いいんじゃないかなぁ」

 支援者「息子さんが働くために、さしあたりあなたにできそうなことは、息子さんが自力で朝起きてきたときに普通に接する。それのようですね。やってみますか」
 親「そうですね。ま、やってみます」
   
タグ :親子の会話


2018年10月20日

喜びの数を数えてみるとおもしろい話

 いくつか質問するだけの記事です。。

 ゲームをして、喜びはいくつ?

 街のゴミ拾いをして、喜びはいくつ?

 仕事をして、喜びはいくつ?

 病人の世話をして、喜びはいくつ?

 犯人を逮捕して、喜びはいくつ?

 ご飯を作って、喜びはいくつ?

 自慢して、喜びはいくつ?

 悪口言って、喜びはいくつ?

 誰かを讃えて、喜びはいくつ?

 学校に行って、喜びはいくつ?

 あなたに会えなくて、寂しさはいくつ?

 あなたが健康になって、喜びはいくつ?

 道路を造って、喜びはいくつ?

 探し物が見つかって、喜びはいくつ?

 自分が喜ぶと、喜びはいくつ?

 ひとりの喜び

 誰かとの喜び

 いくつ?

 
   
タグ :喜び


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる不登校

2018年10月15日

自分の金で酒を買うとおいしい話

 ひきこもりやニートや不登校成人の話題で時々出てくるのが、

 酒の美味さです。

 曰く、働いて稼いだ金で飲む酒は格別。

 なるほどそうでしょう。

 でも、私聞風坊は思うのです。

 おごってもらったただ酒もやっぱり美味しい。と。

 どっちが美味しいんだ?
 どっちも変わらずなのか?

 ずっと悩んでいました。

 そんなとき、
 先日スーパーの酒棚で物色していたときにふと答えがひらめきました。

 自分の稼いだ金で酒を買うのはとてもワクワクする!

 これが親からのお小遣いだと、なんかビミョー。
 飲んだとき、若干マズいかも。

 このワクワク感の源泉をたどれば、
 子どもの頃です。

 親からもらったお小遣いで、お菓子を買うのにどれにしようかと迷うワクワク感とプレッシャーがありました。
 この時と同じワクワク感です。

 違うのは、
 お菓子かお酒か。
 
 どうも、
 大人の楽しみであるお酒は、自分が稼いだ金で買う方が喜びにつながるようです。

 金を稼ぐというのが大人の証だからでしょう。
 お酒を飲むというのも大人の証。

 しっかり仕事をして、達成して、ご褒美にお酒を買う。
 大人だからできること。
 胸を張って。

 さてこの仕事、
 種別はないように思えます。

 労働でもいいし、ボランティアでもいいし、勉強でもいいし、

 何かを一つ成し遂げた。

 そういう成果が感じられるもの。

 作業、役目、責任。

 なんでもいい。

 自分の労力、知識、知恵、時間を提供して、何かが生じた。

 少し便利になった、楽になった、問題が解決した、先に進んだ、混乱が整理できた、安らいだ、喜びが生まれた、

 そんな
 なにかに貢献した実感、
 なにかを達成した実感を
 胸に、大人だから買える買い物をする。

 だから、喜びを感じるのでしょう。

 そしてきっと、
 自信につながるのでしょう。
  
タグ :達成感自信


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる

2018年10月10日

ひきこもりには就労支援がいるという話

 学校時分から、

 または一度職について離職してから、

 数か月、

 数年、

 数十年、

 ほぼ家にいて、

 人との関りがとても少なくて、
 
 だから、リアルな社会とのかかわりも少ない暮らしをしている人が、

 日に数時間、

 誰かと関わりながら、

 対価をもらえるほどの仕事をする。

 それを数日続ける。

 それを数年続ける。

 数十年続ける。

 となると、

 誰かの手助けがいるはずです。

 特に、最初のころは。

 つまり、ひきこもっていて、働こうかなと思いだしたころ。

 サポートなしで就労状態になれる。

 その状態を維持できる。

 かというと、それはなかなか難しいことでしょう。

 だって、どうやって職探しすればいいのか?

 手順が分かりませんもの。

 誰かの手助けがあったほうが着実。
 そして楽。

 ひきこもりの就労支援はいります。
 私聞風坊はそう思います。

 そしてそれは、こもっている人が働こうかなと、思ったという事実が大前提。

 さらに加えると、
 今まさにこもっていて、
 人と関わるのもものすごく緊張して、
 外出した後はへばって身動きできなくなるような状態のときではありません。

 まだ就労に向けて何かする段階ではないと考えます。

 心や身体のケアとか、緊張を減らすとかのことをする段階でしょう。

 就労に向けて活動できそうな段階になったら、就労支援。

 この見極めが大事。

 こもる人の状態をしっかり見極めて、就労支援が適切だとなったら、就労に向けた支援をちゃんとやる。

 これが大事。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる

2018年09月30日

お金を稼ぐことに嫌らしい感覚を持つことについて考えてみた話

 実は、ひきこもり支援は就労支援が目立っているのです。

 国の方針も、就労を目指した支援が基本です。

 自分で働いて金銭収入を得て自活していく。

 この状態を目指しているからですね。

 日本人の基本生活姿勢だからなのでしょう。

 ところが、こもる人は働くことについてとても否定的な感覚を持っています。

 自分が働けるのか?

 働けるほどの能力があるのか?

 収入が得られるほど働けるのか?

 心や体を壊すほど頑張らねばならないのではないか?

 そんな自信はない。

 というかそんな社会ではやっていけない。

 なんでそこまでして働かないとならないの?!

 いろいろな否定的な考えが次から次に襲来します。

 そして、やる気をなくして落ち込みます。

 特に、 お金を稼ぐことに気乗りがしない人は多いみたい。
 私聞風坊もその一人。

 そんなにしてまでお金を稼がないとならないのか?!

 なんて考えてしまう。

 別にお金を稼がなくても、少ない金額でなんとか暮らしていけるし。

 今より暮らしの質を落としてもいいし。

 なんて風にも。

 お金を稼ぐ意欲が低いみたい。
 気力がわかないというか。
 動機づけが弱いというか。

 一方で、お金をたくさん稼ぐ人たちもたくさんいます。
 特に昨今はやりのIT社長さん、起業家の皆さんたちとか。

 お金をたくさん稼いでたくさん使って楽しんで、社会貢献もやって。
 みたいな人たちは少なくありません。

 エネルギッシュ!

 何が違うんだろう?
 考えました。

 そしてある日ふと思いつきました。

 お金をたくさん稼ごうとする人たちは、
 お金を使うことをまず考える人たちなんじゃないかと。

 どんな風にお金を使いたいか?
 お金の使い途をまず考えついて、

 そのために、仕事してお金を稼ぐ。

 こんな順序でお金を稼ぐことを考えるのではないかと思ったのです。

 お金を稼ぐ目的がしっかりしている。
 それは自分の欲を満たすためであったり暮らしをよくするためであったり、家族のそれであったり、または社会のためであったりする。

 いいことをするためにお金を稼ぐ。

 お金の使い途が決まっている。

 一方で、私たちはそれが決まってない。

 お金を稼いでも、どう使っていいか分からない。

 これといって思いつかない。

 にもかかわらず、稼がねばならない。

 ジレンマ。

 お金って、流通することで価値が生まれるんだそうです。

 人から人に渡ってめぐっていくことがお金の役目。
 そうやって社会を活性化する。

 こう考えると、私たちの考えの中では、お金の流通が止まっているよう。

 使い途がないのに、お金を稼がなければならない。

 出口がイメージできないのに、収入を得なければならない。

 こう考えると、

 出ていく先がイメージできれば、稼ぐ気持ちがわいてくるかもしれません。

 さ~てと、
 お金を何に使おうか?
 
 自分のために、家族のために、好きな人のために、未来のために・・・。

 そのために、お金を稼ごうか。

 稼いだ一部は社会のために納めようか。

 そんな気持ちに。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる社会のことニート

2018年09月20日

助けを借りる力がいる話

 災害被災の場面では、受援力。

 心理系では、
 援助要請行動などの分野で研究されている

 誰かの助けを借りてやっていく力

 についての記事です。

 困難を抱える人のうち、

 長いこと困難が解消しない場合や、

 幼い頃から誰かの助けが十分に得られなかった場合など、

 誰かの助けを借りて、自分の困難を解消できた経験が乏しいと、

 誰かの助けを借りるという発想がなくなり、

 誰かの助けを借りるといいことがあるという希望もなくなり、

 自分の力頼みでやっていくしかない。

 誰もアテにならない。

 誰も信頼できない。

 自分の望みは自分で叶えるしかない。

 できることは限られているから小さな少しだけの望みを叶えよう。

 として、

 小さく小さく暮らしを縮めた生き方を選ぶ場合があります。

 長年こもっている場合。

 社会でどうにも上手くやっていけないと思った場合。

 そもそも誰かが自分のために役立つことをしてくれたことがこれといってなくて、

 どちらかというと自分ただれかのために役立つことばかりで、

 結局のところ、いつも自力でやっていくしかなくて、

 それを誰もが期待している場合。

 などです。

 この場合、
 他者への
 不信感
 不信頼感
 不審感
 がとても強く、

 これまでの人生で自分の能力の限界を痛切に感じることが多いために、
 自分への
 不信感・不信頼感
 もまた同様に強いことが多いようです。

 それは、
 自分の人生への
 不信感・不信頼感であり、

 自分の人生を
 肯定しない
 ことにもつながり、

 自分の未来に
 希望を持てない
 ことにもなります。

 だから、
 誰かの助けを借りる気も起きない。
 それで、問題は解消せず

 暮らしていく不満は募るばかり。
 という悪循環。

 自助グループで学んだことの一つに
 手放すというのがあります。

 都合これは、
 誰か、なにかに委ねる。
 ということを意味しています。

 何を?

 自分の手に負えない問題をです。
 
 そしてこれには、
 自分の処理能力以上の問題。
 と、
 自分の問題じゃなくて誰かの問題だから。

 の2種類があるようです。

 医師や福祉職、相談職などの専門職を頼り、
 自分の手に負えない部分を委ねる。

 少しでも問題解決に役立ちそうな誰かからの提案を
 試しにやってみる。
 少しだけ提案に委ねてみる。

 自分のこだわり、
 怯え、
 恐怖、
 意地、
 を手放し、

 暮らしが楽になりそうな手立てに委ねてみる。

 自助グループでのたとえ話では、

 箱の中のキャンディーつかみ取りの時、
 手一杯に物をつかんでいると箱の出口にひっかかって何も手にできないけど、
 少し手放すと、なかなかの数が手に入る。

 と学びました。

 不信というこだわりを手放すことで、
 楽が手に入ることはあります。

 助けを借りる力を手にする話でした。

  




【お知らせ】
これまでの発表や記事原稿を、「聞風坊の図書館」で適宜公開しています。
別サイトになります。こちらもご覧下さいませ。


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