【告知】ケアニン上映会とトークイベントのご案内

2020年01月04日

障害者というのは、社会の障害となる人ではなくて、
社会参加する際に障害が生じてしまう人という考え方があります。

私はこの考え方に依っています。

病気やケガや環境の悪さなどから苦労を負っている人が、
地域社会で参加の障害を感じずに暮らすにはどうすればいいか?

意思疎通の問題、感覚過敏による問題、姿勢保持の問題などなど社会参加の場で生じる障害はどう解決するか?

社会参加の場に行くまでの、移動の際に生じる障害はどう解決するか?

そもそもの病気やケガや生きづらさなどの問題から生じる参加の障害はどう解決するか?

いろいろ考えるところです。


NPO法人 宮崎もやいの会さんが下記チラシの通り、
映画ケアニン上映会とモデルとなった加藤氏のトークイベントを開催します。
皆さま、どうぞのお運びを。

チラシ↓


  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)告知社会のこと

1件1件は正しいことだけど、全体をまとめると困ったことになる話。

2019年12月29日

 社会からひきこもっている人たちは、

 おおよそ、

 社会のことを

 悲観的、批判的、否定的に捉え、

 非難し、避難しています。

 もっと希望が持てれば、もっと公正であれば、もっと受容的であれば、

 出て行けるのに。

 なんて思いながら。

 そんな人たちだから、

 社会の悪や、ひどさや、不条理や、危険性や、加害性を
 指摘する情報に触れたら、


 とっても、敏感に反応しがち。

 事故が起きると、何度も何度も被害状況が報じられ、

 事件が起きると、犯罪の様子の再現が繰り返され、

 犯人を糾弾する論調が吹き荒れることが多くなっています。

 テレビやラジオや新聞などの既存のマスメディアの他に

 SNSやブログで。

 もはや国民全員が放送局のように、

 簡単に情報を発信しできるようになっているからですね。

 
 さて、
 ここで気になることがあります。
 
 社会の害になってそうな気になることを、

 社会に知らせ、注意するよう訴えるのは、

 おおよそ社会の役に立ちます。

 例えば、
 あそこの道路に穴が空いている。気をつけよう!

 みたく。

 ところが、

 この情報が、誰も彼もから発信され、メディアにあふれたとしたら、

 受け手はどんな思いになるでしょう?

 特に不安強くこもっている人たちは?

 世界中が穴ぼこだらけのような感覚を持ちそうな気がします。

 これが、もし、

 人に原因がある出来事だとしたら。

 犯人がいたとしたら?

 あそこの学校でいじめがあった。

 あの家で犯罪が起きた。

 それだけで緊張が高まります。

 その上さらに、

 出来事の原因を探り、犯人を探り、

 悪人をあぶり出し、

 正義を果たそうと糾弾する情報の嵐に出会ったら?

 自分が犯人になり、

 自分が悪人になり、

 悪事の原因にされ、

 糾弾される恐怖を味わいそう。

 
 世の中には、合成の誤謬(ごびゅう)と呼ばれる事態が起きることがあるそうです。

 一つ一つの行為は適切で正しいけど、多くの人がそれをやってしまうと、全体として望ましくない結果になることです。

 余分な支出をしないようにと国民全員が一人一人の財布のひもを締めると、国全体の経済がしぼんでしまい、結果として一人一人の暮らしがきつくなる。と言う風に。

 悪を暴き不正を正し、悪事を働いた人を糾弾すること事態は、社会のために役立つのかもしれません。

 でも1件1件(の悪事を正すこと)は正しく適切なことだけど、全体として、誰か(自分が気に入らない人)を糾弾する風潮が蔓延する社会になったとしたら?

 社会全体が、悪を暴き悪人を糾弾するために、鵜の目鷹の目で暮らすようになったとしたら?

 事実として悪を為したか、
 または風評によって悪を為したとされたかのいずれかだとしても、

 悪人認定されたら、その人をとことんまで叩いていい。
 それが許され、正しいとされる世の中になったとしたら?

 およそ、
 ひきこもる人は、社会から害を受けた、優しくされなかったとの思いを持つ人は少なくありません。

 悪人評定されたら誰でもとことんまで糾弾していい風潮は、
 そんな人たちに復讐のチャンスを与えることになるかもしれません。

 正当に人を害していいチャンス。

 相手は悪人認定されているから。

 自分がされたことを仕返す。

 それは正しいこととされている。

 なぜなら、メディアを通して世間が当たり前のようにやっているから。

 こもる人だけの話に限らず、

 この1年、
 世界中の人々の意識が、そんな合成の誤謬状態になりそうでとても心配な日々を送っているのでした。

 
   
タグ :合成の誤謬


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと

家族が社会化しすぎるとまずいように思う話

2019年12月17日

 社会のことを考えて、自分の行動を律する。

 相手のことを思いやって、してはならないことをせず、すべきことをやる。

 自分の、欲求を少し抑えて。

 こんなのを社会化するとか、

 社会性があるとか言うようです。

 社会で受け入れられるような言動をする。ってことですね。

 望ましい行動なんて言われることもあります。

 さて、
 こもる人の家族は、世間体を気にする。

 とよく言われます。

 社会的に正しいことをしていない自分の子ども兄弟姉妹を

 恥ずかしいと思い、望ましくないと思うのです。

 社会を軸にした考え方。
 で、家族の有り様を決めています。

 社会を基準にした家族のあり方。
 ですね。

 社会が一番優先。

 社会のために生きる。

 そんな気持ちもあるかもしれません。

 それは大切な生き方です。

 同時に、自分たちのことを軽んじるリスクをはらんでいます。

 社会よりも家族のことを優先する。

 そんな場合は必ずあるでしょう。

 家族が痛みを抱えているときです。

 そのときにも、社会のことを優先するとしたら、

 社会を軸にした考え、言動だとしたら、

 家族の痛みはいやまし、

 家族の傷は深まるばかり。

 人様に顔向けができないという恥の感覚を持つから。
 または、
 社会のお役に立てれば幸いだから。

 社会を優先する暮らしをする。

 それによって、家族が後回しにならないように、

 いつも気をつけねばならないなと思ったのでした。
  


被害者に「100%あなたは悪くない」と言うことについての気づき

2019年11月08日

 DVやイジメや犯罪などの被害に遭った人のケアやサポート場面でよくいわれる言葉であり、支援者研修などで推進されることとして、

 「あなたは100%悪くない」

 があります。

 害を受けた人が、自分が悪いから被害に遭ったんだと、暴力を受けた自分が悪いとして、
自分を責めることをしないように勧める意図があります。

 誰しも、ミスや注意不足はあります。

 だからといって、暴力を受けていい、犯罪に遭っていいということはありません。

 暴力を受けなくていいのですし、犯罪に遭わなくていいのです。

 悪いのは、ミスや注意不足に付け入ったり、端からその人の尊厳を無視して暴力や犯罪をする加害者の方だからなんです。

 とはいえ、100%悪くないという言い方には、少し抵抗がありました。

 なんだか、ミスや不注意をしてもいいという風に聞こえてしまうのです。
 とにかく悪いのは相手なんだから。という風に。

 暗い夜道を無防備に歩いたり、危険地域に出入りしたり、暴力犯罪リスクの高い場面に居続けることをしないことはまずもって大事なことです。

 決して安全が保証されているわけではない日常を生きる私たちは、
 うかつにもリスクの高いことをしてしまわないよう、暴力や犯罪を受けないよう、注意を怠らないようにせねばなりません。

 こんな思いでいたせいか「100%悪くない」の言葉に対して、
 なんだかそういう注意責任がないような、自分の安全のための注意配慮をすることを軽んじるような感覚を持つのでした。
 だから「100%悪くない」という言葉は使いませんでした。

 もちろん、
 暴力する方が悪いのです。あなたが悪いわけではありません。とはっきり言ってはいましたが。

 さて先日、
 この長年の懸案事について、少し気づきがありました。

 被害を受けると、
 もしあの時、自分がこうしていれば相手は暴力をふるわず、自分の身の安全は保てたのではないか?

 そういう思いになりがちなんです。

 自分がどうにかすれば、自分の身の安全、安心は確保できるのではないか?

 自分の心と身体を守るために、自分になにかできたのではないか?

 そう思うものです。

 私は経験的に知っています。

 この思い、
 自分の力を再確認したいためでもあるようです。

 自分に対する影響力を再び取り戻したい。 ※自己効力感

 自分の力がまったく及ばず、
 あまりにも無力で、
 自尊心など粉みじんで、
 屈辱でしかないあのとき、

 なんとか自分にできたことはないか?
 そうならないためにできたことはないか?

 そういう思いからです。

 でも、それはかなわぬこと。
 圧倒的な力は存在します。

 その力の前には、
 屈するしかありません。

 100%なにもできないことはあります。

 相手の尊厳を踏みにじる
 そんな力の使い方は100%間違っています。

 100%悪いのは相手です。

 そして、

 100%相手が悪いのはわかっていても、

 自分の力が100%まったく及ばなかったことを認めることはとてもつらいこと。

 悲しいこと。

 この、いいようのない怒りや悲しみをしっかり感じること。

 それは、きっと回復に役立つのだろう。

 あなたは悪くはない。
 あなたに被害の責任はない。
 の奥に、
 そのときあなたは100%無力だったから。
 という事実があるのかもしれない。

 そんな気づきでした。
  
タグ :加害被害


誰にでも何事にも落ち度はあると思った話

2019年10月05日

 ふと思ったことです。

成功や失敗。
達成や未達成。
勝利や敗北。等、

なにごとかの後、振り返ると、

あの時はヤバかったけど、よく踏ん張って成功できた。
今考えれば、あの時気をつけてれば負けずにすんだなぁ。
なんて思うもの。

そして、そのとき必ず、
なにかしら自分の落ち度は見つかる。

危険が予知できるのに、
暗い夜道を一人で歩いていた。
とか、

朝でがけに、家族の様子が普通と違っていたと感じていた。
とか、

友だちづきあいで、空気を読まない言動が多かったなぁ。
とか。

だからといって、
加害されていいとか、
犯罪被害に遭うのもしようがないとか、
いじめられても仕方がないってことはない。

落ち度があれば、改めればいいだけだ。
害を受けねばならないことはない。


そもそも、
誰かに害を加える権利証は誰も持っていない。

だから、
相手に落ち度があるから加害または制裁してもいいという理屈は成り立たない。

にもかかわらず加害者は加害する。

このとき、
被害者はその加害者の行動をコントロールはできない。
加害するしないの判断から、加害の程度を決めるのは加害者の専決であり、

それを実行するのは加害者であり、
そも実行するからこそ加害者となるのだが、

いずれの過程においても被害者はまったく関与していない。

だから、
加害者の加害行動の責任は、被害者にはない。
責任は、加害者が一身に負っている。

とはいえ、
落ち度を減らし、自分が被害を受けないように気をつけること、
つまり被害リスクを下げる努力は大事だ。

しかしそれは、
加害されないという保証を与えるものではない。

そんな現実を引き受けて自分のためにできるだけのことをする。
それは自分に対する責任だ。

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと