年の瀬のご挨拶

2021年12月27日

皆様、寒波襲来の令和3年西暦2021年の年の瀬、いかがお過ごしでしょうか。

新型コロナで緊張が強いられる毎日ですが、ワクチンや薬も開発され、少しずつどうやって行けばいいかが分かりだした今年でした。

新しい生活様式への転換は戸惑うことも多いのですが、愚痴をこぼしながらもなんとかやれるようになってきましたね。

本年も、ご来訪ありがとうございました。
思うところあって発信を控えるようにしました。
ひきこもりに関するたいがいのことは伝え尽くした感じもしています。

気まぐれに、また何か伝えたくなったら、
発信するかもしれません。
それは、この場かもしれませんが、新しい形でお伝えすることになるのかもしれません。

ご縁がありましたら、またお目にかかることもありましょう。

どうぞ皆様、ご健康でありますように。

よいお年をお迎えください。

令和3(2021)年12月27日(月)

聞風坊 
  
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Posted by 聞風坊 at 11:05Comments(0)社会のこと

よりよくとより悪くならないようにの違いでした。

2021年08月15日

対人支援フィールドの違い。
について考えました。

試みに、フィールドをものすごくざっくりと分けてみました。

社会参加している人向けのフィールド
と、
社会参加していないあるいは大きな困難を抱えつつ社会参加している人向けのフィールド

の2つです。

前者は、既にもう社会でよろしくやれているのだから、
これを支援するとなると、

より自分らしくなるため、より暮らしやすくするため、より便利に、より幸せに、より楽しく・・・。
なんて、その人の状態をよりよくするための支援となるでしょう。

具体的には、
より学力が上がる、より収入が上がる、今健康だけどこの先も健康でいつづけるできればより健康になる、より楽しくなる、よりやりたいことができるように、よりチャレンジする、よりきらきら充実した人生を送れるように支援する。

例えば、
学校に行っている子どもに、
より自然とふれあうために屋外活動をさせる、より世界を広く知るために留学させる、
社会構造をより知るために工場見学させる、よりコミュニーションが取れるようにスマホを与える・・・。

働いている人に、
より給料のいい転職先を案内する、より自分らしい働き方を提案する、より能力を発揮するためにコミュニケーションやリーダーシップや職業技術スキルアップ研修を実施する・・・。

とか。

一方後者の、社会参加していなかったり、とっても苦労しながら社会参加していたりの場合は、

その要因ごとに、
生活費の工面をしたり、仕事の世話をしたり、家事育児看護介護サービスが利用できるようにしたり、
病気やケガの治療を促したり、障害サポートにつないだり、
それらが実行できるための事前練習、気持ちの整理、理解促進のための説明、レクチャーを繰り返したりする。

でしょう。

そうして極端な話、今日一日生きられるように支援する。
だって次また支援できるとは限らないし。

だから、
よりよくなんて贅沢は言えない。言わない。

まずは、
よい状態に持っていくのが一番の目標となるから。

なぜなら、
標準以下の生活状態(QOL)だから。

だから、
世間一般の人の暮らしの標準に達するように支援することになる。
せめて、
今より少しでも近づくように。
そう、今より悪くならないように。

こんな風に考えてきた結果、結論めいたものにたどり着きました。
私が感じたフィールドの違いはつまり、

よりよい状態を目指す支援
と、
より悪くならないようにを目指す支援

のフィールドの違いみたい。
なのでした。

読者皆さんのなにかのお役に立てれば幸いです。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと

虐待・逆境体験によって身も心も混乱する話

2021年06月20日

養育者などの親密な人からのひどい仕打ちや、
戦争や犯罪などのひどい環境の影響を受けて育った人は、

いろいろ混乱してるなぁと、ふと思ったのでした。

1つは、
感情の混乱です。

優しくしてくれる人がひどいことをするのです。喜びうれしさの感情と怖い嫌だ怒りの感情がない交ぜになってしまいます。

だから、
自分の今の感情が嵐のようになる。

感情が混乱している。
興奮しているのか喜んでいるのか悲しんでいるのか怒っているのか混乱している。

子どもの頃からそうであり、大人になってもそう。
情緒不安定とか、ストレス脆弱性とかって指摘される。

※こんなことから、感情を切り離して感じなくしている人も少なくありません。

もう1つは、
行動の混乱です。

気持ちが混乱して嵐のようなので、つまりはちょっとしたパニック状態なので、何をどうしていいかが分からない。

つまり、
目的をもって行動できない。行き当たりばったりで行動する。条件反射的な行動が多くなる。
挙動不審、他動で落ち着きがないなんて指摘される。

人へ近づく際も、この混乱が影響する。
近づいていいのか悪いのか混乱する。

近づいてくると避ける。
親しくなったかと思うとすっと離れていく。
抑制。

逆に密着して離れない。
脱抑制。

親しくしてるのか距離を置いているのかがよく分からない。
無秩序。

都合、
人間関係が混乱する。

もちろん思考も混乱する。
考えが整理できない。やりたいこととやりたくないこと、好きなことと嫌いなことが弁別できずに混乱している。
好きなことをしないで嫌いなことを頑張ったり。
考えもなくいろいろ行動したり、判断したり。

何をしていいかが思考できないい。

都合、会話も混乱する。
素っ頓狂なことを言ったり、かみ合わない会話もする。
配慮のないことも言う。

自分らしさについても混乱しているかも。
自分の考えなのか人の考えなのか不明かも。
ひょっとしたら性別や、性の指向も。

そして、
記憶も混乱する。
過去と現在が混乱する。何があったかも混乱している。何がなかったかも混乱している。
だから、
未来を描くことができない。

混乱が普通だから、葛藤状態がいつもの状態。
混沌、カオス。
そのストレスの中にいることになじんでいる。

問題解決してスッキリした生き方を知らない。
予想もできない。

混乱葛藤状態を長引かせる。

だから、
さしあたり集中できることがあると激しくのめり込む。
遊びだったり、ゲームだったり、勉強だったり、ネットだったり、人間関係だったり、筋トレだったり、仕事だったり、
アルコール薬物自傷だったり。
(親や兄弟姉妹や親友や悪友や先生や上司や配偶者からの・・・)指示だったり、頼まれごとだったり、いろいろなお誘いだったり。

意識の焦点があい、一本筋が通る感じ。
心と体と意識が一致してなにかしてる充実感が強い。
これは快感。

経験にもとづいて、
こんなことを考えたのでした。

補足
感情を感じないために混乱すらしないパターンの場合は、人のやりたいことに意識が向きやすいかもしれません。
自分のやりたいことを感じないない代わりに、人のやりたい気持ち(感情)に同調するかも。
都合、頼まれごとや自分のやるべき仕事に没頭しているかもしれません。
感情を感じないようにしているから、嫌なことがあまりないので、たいがいのことをいとわずやっているでしょうか。


  
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我が家を施設のようだと思った話

2021年06月12日

自分の家は、施設のようだとの感覚を持ったのは、ごく最近です。

You Tubeなどで施設で育った人たちの体験談を見聞きするようになって、近しい感じがいっぱいあったからです。

一般家庭とは違う暮らしの独特のルールがあって、なによりもそれが優先される。
だから、
基本我慢している。
一定の緊張感が持続している。

自分を養育する大人は、
親じゃない。
世話をよくしてくれる人。

だから、敬語を使う。

許可を取らねばならない人。

食事の世話や病院に連れて行ったりの世話をしてくれる人。

よくしてくれる人。
一定の範囲で甘えられる。条件付きで欲求をかなえてくれる。

自分が子どものうちの今、
育ててくれてる人。

そういう意味で感謝してるし、心も寄せている。

そんな感じ。

さて、我が家は、
親たちの気まぐれでどうとでもなるルールに支配された緊張感のある場でした。
だから、気まぐれにいつ自分が捨てられるか分からない。

このことはきっと、
親が同じような境遇で育ったことの影響は大きいでしょう。
私と同じような緊張感を持っていたかもしれません。

片親は他人の中で育ち、力による支配を学んだようです。
家族でない他人が支配する環境です。
※丁稚奉公のイメージが近いでしょうか。

片親は折檻する実親を恐れています。
こちらも親の機嫌に振り回されるところの、力による支配の養育体験です。

※虐待の英語表記は、ub-useです。きっと親の力の不適切な利用って意味でしょう。親の権限の悪用です。
力・権限を濫用しての養育は虐待になるということですね。

言葉を手にすることは救いになります。
施設のようだった。
との言葉は、私の苦悩を言い表すのに適切です。

最近、宗教2世という言葉を知りました。
親の宗教が自分の人生を縛っている子って感じです。
私これそうなんです。

クリスマスは経験したことありませんし、そもそも話題にも上りませんでした。
地区の子どもみこしを担ぐの担がないので親は役員さんと一悶着ありました。
宗教行事の日には、学校を休むのが本来だが、うちは学校に行かせてやっているとして、親は自分の寛容さを何度も主張していました。

世の中のルール・常識より宗教が優先されていました。
もちろん子どもの気持ちよりも。
ひょっとしたら、親の気持ちよりも。

当時の私は、
死んだ人だけ大事にする家だと評していました。

今改めて考えると、
実は親も宗教に縛られていたように思えます。

信仰の喜びが両親から感ぜられなかったからです。
死んだ人を大事にするために、やらねばならないことばかりの、義務感ばかりが際立っていました。

言葉は、気づきを促します。
救いにつながります。

最近の救いにつながる言葉は、他に、
ヤングケアラーがあります。
幼い頃から、親の世話をすることが役目となって、自分の人生に大きな制限がかかっている人って感じです。
これも私です。

精神疾患や障害のためや、宗教のことで手一杯で、
いろいろなことがおろそかになる両親に配慮するのが子である私の役目でした。
そうじゃないと、家が持たないのです。
暮らしがやっていけないのです。

これまた最近、
親を捨ててもいいですか? という刺激的なNHKの番組がありました。
NHKのクローズアップ現代+です。
URLは、
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4541/index.html

どんな親でも捨ててはならないという世間の常識に呪われている大人になった被虐待児。
って印象を持ちました。

嫌なら会わなければいいじゃない。
縁を切ればいいじゃない。
という、これまた世間の常識にもとづく通説が役立たないことが明らかにされます。

家族は家族の世話を、親の世話を焼くもんだという社会の常識があるために、
たといしばらく会わなくても、縁を切ったとしても、

親が死んだとき、病院に入院したとき、などひどい状態で、
連絡を受けた方としては逃げられない状態で、

自分の元に親とのつながりが無理矢理やってくる予想ができるから、

親を捨てられない。

なんだか、
結局つけが回ってくる感じ。

だから、そういう夢は捨てて親と関わり続ける。
親の世話を焼く。

番組に出た当事者の人は、そんな感じなんだろうなと思えました。

私も同様です。

結局、社会は家族とつなげて来る。
それが社会常識的に正しいことだから。
戸籍でつながっているから。

そんな予想がつくから、親と縁が切れた人生を捨てている。
親がつきまとわない人生を捨てている。
そんな人たちに、

親を捨てる。

という言葉は、救いになるかもしれません。

実のところ、そういう心持ちになると、
親との新しい関わり方ができるようになるようです。

親の世話を専門業者に頼むとか、割り切って世話を焼き、新しい関係を築くとか。
いろいろ。

  


「失敗してもいいから」「失敗を恐れずに!」を軽々しく使わない方がいい話

2021年04月10日

支援業界特に、教育系ではよく見聞きする定型句の一つに、

「失敗してもいいから!」
(安心して伸び伸びとやればいいんだよ)

「失敗を恐れずに!」
(やってみればいいんだ。失敗したとしてもそこから何かを学べばそれは失敗じゃなくなるんだから)

があります。

これ、使い方を間違えないようにしなければならないと思うのです。

失敗を恐れる人は、
失敗することを恐れてるんじゃなくて、
失敗した後のことに怯えてるんです。※ほぼ。

きっと、
失敗した後にどうカバーすればいいのか?
つまり、
どう対処すればいいのか?

それから、
失敗した後に、
自分がどんな風になって、
どんな風な助けがあれば挽回できるのか?

そんなことが分からずに、
あるいは、
そんなことを知らずにいるのでしょう。

教えてもらっていないからかもしれません。

失敗した後に誰も助けてくれなかったからかもしれません。

失敗をひとりで抱え込んできたからかもしれません。

独両の肩に担えないほどの全責任を負っていたから。
担わされているから。
担わないとならない状況だから。
誰も担ってくれないから。
誰も分担してくれないから。
アテになる人がいないから。


だから、失敗した後を極端に怯える。
失敗した後の、
あの孤立感、無力感、やるせなさ、痛み、悔しさ、慚愧の念、などの身もだえるする感覚に耐えられないから。
かもしれません。

そんな人に、
「失敗してもいいから」
「失敗を恐れずに」

なんて軽々しく言うものじゃないと思うのです。

相手は、
失敗したら自分の存在が危うくなるほどの恐怖を感じている人だもの。

だからまずは、
失敗した後、どういうフォローがあるのか?
どういう慰めがあるのか?
独りにしない、見捨てないということを伝えること。
独りにならない、見捨てられないという実感を持つこと。
が何より大事。

エイヤって飛び込めるのは、
危険に飛び込んだ後もちゃんと見守ってくれている人がいることが分かっているから。

そういう経験をたくさんしてきて、自分の中にしっかりとアテになる慰めの場所があるときだけ。

まずは、
自分が相手にとってのそういう人になってから、
「失敗してもいいから」
「失敗を恐れずに」
って言うようにした方がいいと思うのでした。

  
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Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のことトラウマ