自助グループの言い伝え

2024年03月10日

数年ぶりの投稿は、改めて私の原点である自助グループの言い伝えを記したいと思います。
世界中の多くのグループで採用されている言い伝えです。
日本では、平安の祈りと呼ばれています。

神様、私にお与えください。
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変える勇気を、
そして、二つのものを見分ける賢さを。


自分のこれまでの生き方を「まともじゃない」としぶしぶながら認めた人たちが、
まともな人生を歩むために日々祈っています。

グループを卒業して十数年経ちますが、今でも頭の片隅にこの言い伝えは残っていて、
いろいろな場面でしらず口にしています。
人生の指針になる言い伝えです。

さて、
自分に変えられるものと変えられないものについては、
心理療法でもよく話題に上ります。

変えられないものを必死に変えようと人生をかけている時、苦悩は絶えません。
ひきこもる我が子を動かそうとしたり、自分に冷たい社会を自分好みに変えようとしたり。
どうにもならない過去を恨んだり。

変えられない他人と過去についてばかり意識を向けて生きていると、不満はたまるばかりです。

一方で、自分に変えられるものとしては、自分自身のことがあります。
考え方、受け止め方、距離のとり方、期待の持ち方、何をするか、しないか。
全部自分で変えられます。変えないこともできます。

自分が望めば、
過去の選択を変えて新しい選択はできるのです。

もし、これまでは選択肢が少なすぎて「そうやるしかなかった」としても、
これからも、「そうやるしかない」ことはありません。
今までは、「そうやるしかなかった」けど、
これからは、「そうじゃなくて、こうします」
ができるのです。

自分を苦しめる自分の選択を変えて、
穏やかに暮らしていける選択を選ぶ。

そんなことが今より楽にできるように。
祈っています。  
タグ :平安の祈り


Posted by 聞風坊 at 00:00Comments(0)自助グループ

人を排除したくなる気持ちについて考えたこと

2020年11月13日

いじめ、障害当事者、人種、格差、などなどいろいろな問題に共通することの最も重要な問題点の1つは、

排除でしょう。

自分たちの集団になじまない人を除きたい。
集団に来て欲しくない。
近づきたくない。

そんな気持になるのは、自然です。

私たちは、どんな人を排除したくなるでしょう?

肌の色が違う人?

性別が違う人?

病気の人?

暴力・暴言する人?

なんだか、
自分たちとは見た目やふるまいや価値観などが違う(と思った)相手、
こちらが不快に感じる人、
恐怖を感じる人を排除したくなるようです。

このうち特に最近は、
暴力・暴言する人を排除することは、正しい行いとして広く認められるようになってきた感があります。

相手を尊重しない一方的な言動(暴言、暴力、侵入、誹謗中傷、脅迫など)は暴力なので、
それは非難していいし、
その言動に従わない
という風潮が高じて、
その言動をする人そのもの、
つまり、
暴力暴言する人自体を排除してもいい、
それは正しいことだという雰囲気になってきたのかもしれません。

ところがこの排除。
それ自体が実は暴力的なんです。
相手の意向を無視して強制的に関わりを断つ、集団のメンバーから除外するからです。
強制的に排除する側の意志に従わせるのですね。

さて、
自助グループは、癖のある人たちの集まりです。
仲間の姿を見て、自分の姿を見直します。
そうして共に成長します。
それが目的だからです。

一癖も二癖もある人たちの集まりなので、
対立はしょっちゅう起きます。

そして、それはメンバーとグループの成長の機会と捉えます。
成長するためにはミーティングで分かち合う。
これが決まりごと。
だから、
対立についてのミーティングを繰り返します。

都合、仲間の排除を考えることはとっても後回しになります。
だって、
排除したら、自分たちの成長のチャンスを提供してくれる仲間を排除することになるのだもの。

もし、暴力・暴言するメンバーがいたらどうするでしょう?
自分たちの中に、暴力・暴言する要素はないか見直すでしょう。

メンバーの姿からなにを学び、自分の成長にどう活かすか?
そして、なによりもそのメンバーの成長にどう役立てるか?

何度も何度もミーティングするでしょう。
自分たちの、暴力性をテーマとして。
もちろん、誰かを排除したくなる自分たちの気持ちについても。

実のところ、
排除という言葉が頭をよぎったときは、すでに気持ちとしては相手を排除しています。
排除をミーティングで取り上げれば、
そこに到るまでの自分の心の動きに気づくことができるでしょう。
これまでの人生での自分を振る舞いを振り返ることができるでしょう。

人を排除したくなるときの自分の心の姿勢はどうであったか。
実際に排除するしないに関わらず、排除すべきかどうか言葉にし悩んでいる段階でもう相手を仲間と思っていなかったことにも。

突き詰めると、
人を排除するのではなく、暴力・暴言を排除したいだけだ。
そんな気づきが1つあるかもしれません。

こうしてもらいたかっただけだ。
なんて暴言暴力以外の行為を望んでいたことに気づくかもしれません。

私たちにそんなに期待しないでくれ。
精一杯やってこれなんだ。
ってことを受容してほしいとか。

ほかにもいろいろ気づく。
たくさんたくさん。

それらはとっても大きな人生の糧となるのでしょう。
きっと。

そして、
ここまでやっても、やはり分かりあえない。
協調できない結果になることもあるでしょう。

それはそれで仕方ありません。
排除するしかないのでしょう。

それはひどい痛みを伴います。
それは自分の分身を失う痛みかもしれません。
その痛みすら分かち合うのが自助グループです。
メンバーを排除せねばならない事態にまで到った自分たちの未熟さをかみしめて。
  


当事者が持つようになる社会的役目感のこと

2020年07月22日

長いこと当事者活動をやってきていましたが、
そのなかで、当事者がある役目感を感じるという指摘があります。

病気やケガや被害は、実はとても個人的なことです。
その人が一身に苦痛を負います。
誰も身代わりになれません。

だから、
病気を患ったり、ケガを負ったり、被害を受けた当事者は、
誰とも自分の苦痛を共有できない孤独を感じます。

ところが、あるとき、
同じような苦痛にあえいでいる人が他にもいるのではないか?
自分のことを表明することは、自分と同じように苦痛にあえぐまだ知らぬその人たちのためになるんじゃないか?

広く見れば、それは社会のためになるんじゃないか?

なんてふと思い立つことがあります。

自分のことが他人様のことにもなり、
社会全体の福利のことにもつながるという感覚を持つのです。

これが、
当事者が感じる社会的役目感です。

新型コロナウィルスが猛威をふるい、世界中の人々が未知の恐怖におびえています。

感染した人や感染リスクのある人は、そんな世間の恐怖の標的となり、
差別、排除を受けています。

先日テレビのニュースで、
回復した新型コロナウィルス感染当事者の人が、自分のことを知らせることが、差別の解消に役立つとして、あえて自分のことを表明しながら仕事をしている姿が報道されました。

自分という当事者のことを世間に知ってもらう。

当事者活動の原点をみた思いでした。

私もひきこもり当事者、アダルトチルドレン当事者のことを知ってもらうために、
20年前に当事者活動を始めたのですが、

このニュースに接し、
その頃の思いを改めて感じることとなったのでした。

当事者活動は、よい社会を作るためにある。

この一点にこだわってやっていくのだと思っています。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと自助グループ

自助グループは、今の仲間だけのことを考えてるんじゃないという話

2019年11月23日

 『当事者研究と専門知 生き延びるための知の再配置 臨床心理学増刊第10号』(熊谷晋一郎責任編集 金剛出版 2018)
 http://kongoshuppan.co.jp/dm/75010.html

を読んだのでした。

 綾屋紗月さんが指摘する自助グループの関係には、仲間としての横の関係と先輩後輩としての縦の関係があるという指摘がとても心を打ちました。(p9)

 自助グループは同朋関係の効果ばかり取り沙汰されがちですが、同じくらい重要なのが、過去現在未来という時間軸での縦関係なんです。

 先ゆく人なんて言われることもあるのですが、自分より前に問題に取り組んできた、取り組んだ先人の奮闘の財産を今のグループに引き継いでいるんです。

 だから、自分たちの変化と成長がある。

 それは先人がまだ見ぬ人である未来にグループにつながる人=つまり私たちへの思いやりから、
残してくれたものが、作用しているからなんです。

 過去連綿と受け継がれてきたそういう縦関係の基盤の上に、私たちはグループ活動できているんです。

 だから私たちは、未来を見すえねばなりません。

 まだ見知らぬ仲間のために、どんな財産を残せるか?

 それは、自分たちがよく生きることにほかなりません。

 よく生きられなかった私たちが、グループの先人達が残した英知に触れることで、

 よく生きられるようになった。

 それをまた財産として残し、未来に受け渡す。

 そうして、思いやりが伝承されていきます。

 そんな思いやりの流れの中にいる自分を実感し、孤立は癒やされ、成長がなされるのです。

 自助グループの縦の関係の話でした。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)本の紹介自助グループ

自助グループのダークサイドの話。

2019年11月19日

 伝統的な自助グループで、気づきと成長を得た私聞風坊です。

 その伝統に則り、自分に役立つことを自分の生活に取り入れ、誰かの役に立つだろうことをお知らせしてきました。
 なので、基本ポジティブな内容ばかり。

 でも、世の出来事はすべて光と影があります。
 今回、影の部分もお知らせしようかと思います。

 自助グループは、問題を抱えた人たちの集まりです。
 人間関係やら、お金の問題やら、健康上の問題やら、なんやらかんやらうまくいってない人たちの集まりです。

 そして、
 こんなことが起きた、こんな気持ちになった、こんな風にした、いつものようにややこしいことになった、
 そこで今度はこうしてみた、少しよくなった、そこはこだわらなくていいんだと気づいた、
 それらについてはこういう工夫があるんだとメンバーの話を聞いて知ったなど、

 グループで自分の体験を共有し合うことで、自分をよくしていき、生活がうまくできるようにしていきます。
 おおよそこれが伝統的自助グループ。

 とはいえ、
 その過程、つまり変化・成長過程では、いろいろな問題が起こります。
 これまでの悪い癖が出るからです。
 特に、グループの運営面でよく起こります。

 私が経験した中で一番印象に残っている出来事があります。
 大枠だけを記します。

 地域の同系グループ全部が集まる席上のことです。
 私は、親の悪い影響を受けて大人になった子どもたちのグループのうちの、初心グループ代表として参加しました。

 数十年にわたり先輩諸氏の知見を記した書籍を熟読し、
 メンバーで話し合いながら、自分たちにとってのよりよい方法を探求するグループ活動で、
 自分が成長していく実感を強く持っていた私は、

 同じ道を歩んでいるであろう先輩諸氏との初会合が、とても楽しみだったのですが、
 それが見当違いであったことは会議開始後、程なく明らかになりました。

 並み居る先輩方は一様に他ののグループを非難してばかり、自分たちの言うとおりにしなさい愚か者! 
 という姿勢で会議をずっと進行していたからです。

 私たちは、実際に愚か者であることは自覚していますので、その点はおっしゃる通りでこれを指摘されることに驚きもしないのですが、
 
 だからどうする。愚かでない生き方をするにはどうすればいいかの体験を分かち合わないのには驚きました。

 後輩の私たちの成長のために役立つ話をしない先輩諸氏。

 そればかりか、
 ひたすら「あなたたちは愚かだから私たちの言うことを聞きなさい」
 の趣旨の発言を繰り返すばかりだったからです。

 実はこれ、かつて私たちが実家で親からされたことなのです。
 
 そのために、
 生きづらさを身につけてきた。
 自分を苦しめる生き方をしてきた。
 だから今、その呪縛を解き、新しい道を歩むために、仲間とともに喜びとともに切磋琢磨していたところでした。

 ところが、
 先輩諸氏が作った会合の場は、「昔のあの親」が君臨する場だったのでした。
 まさに、ダークサイド。暗黒自助グループ集会。

 その先輩諸氏の所属グループは、
 我が子などの自分の家族を力で押さえつけよう、コントロールしようという欲のために、
 家族を破壊する自分を反省し、コントロールを手放し、家族とともによくなっていこうというというグループです。

 そのグループの人たちが、この場で、自分たちに向かって、過去と同じことを繰り返している!

 これこそ愚かです。
 成長していない。

 こうなると、自分たちの成長のためにグループで実施されているプログラムにすら疑問を持つようになりました。
 
 そして、
 この系列のグループにいることは自分の役に立つのか?
 疑念を持ち始めました。

 先輩が成長してなかったからです。
 加害親のままだったからです。
 成長していない人が先輩となり支配する。
 そんなダークな一面を持つリスクが自助グル-プにはあります。

 次第に、
 こんな先輩しかいないグループとそれを指摘もできないグループに魅力は感じられなくなりました。

 そしてこの後、
 私がこの系列のグループを離れるのに、そう長い時間はかかりませんでした。
 
 実は、自助グループ内では諍いが頻繁です。
 先ゆく先輩ー後輩関係が強いので、権威主義が起きやすいのです。

 権威主義(を起こしやすい自分たち)。
 それを、
 自分たちの課題として取り扱うことができるか?
 自分たちの成長に役立てられるか? 
 ここが肝心なのです。

 これができるグループは成長します。
 メンバーが成長するからです。

 痛みから学ぶ。
 個人がそうであるように、グループもそうして成熟していく。

 その英知すらグループの伝統は持っています。
 先輩諸氏もかつてやらかしまくっているからなんです。グループ内で。
 そこから学んで成長して今がある。

 きれいごとだけじゃない自助グループ。
 すべてを糧とする自助グループ。

 だからこそ人生がどうにも行かなくなった人ですらまともな人生を送るようになれる成長の場を提供できるのです。

 自助グループのダークサイドの話でした。