2018年07月20日

支援者に必要なのは想像力だと思うのです。

 人を支え、手助けする人。

 それを支援者と呼ぶならば、

 支援者に必須の要件は、

 想像力だと思います。

 相手の立場、

 状況、

 可能性、

 苦痛、

 考え方、

 傷み、

 気持ち、

 責務、

 権利、

 等々への。

 さて、
 支援者は、以下のような対応をよくやります。

 若いのだから未来は明るいよと励ます。

 40代でも仕事はありますよと希望を持たせる。

 学校は楽しいよと登校を誘う。

 ひきこもりはPCが得意だから、PCを基軸とした就労支援をする。

 不登校は学校が嫌いだから学校に行かないですむ社会にする。

 ニートは自己肯定感が低いからとにかくほめる。

 野良犬に噛まれたようなものだと思って過去を忘れて生きるように支援する。

 自分を大切にしていないからと、命の大切さを説く。

 支援者は、
 自分たちのこれまでの人生をもとにして、自分たちのが苦労や頑張りが報われたからといって、

 その人がその職に就けるかどうかが分からないのに、

 自分たちが、学校では嫌なことやつらいこともあったけど全体的に楽しかったから、
 
 自分がPCが役立つと思っているから、
 PC得意じゃない、否、持ったこともないこもる人は多いだろうに、

 自分が学校嫌いだからといって、
 相手は学校嫌いじゃないかもしれないのに、
 むしろ行きたいのかもしれないのに、
 そして、
 学校に行かないですむ社会はいつ実現するかも分からないのに、

 対人支援のブームが自己肯定感を高めるためにほめることだからといって、
 ほめられるとむなしくなることも多いのに、
 上手に折り紙ができたところで仕事につながらないのに、

 相手の様子が痛々しいからといって、
 簡単に忘れられたら20年前から楽に暮らせてるのに、

 自分の命をぞんざいに扱われているのに、

 ありきたりな関わり方をさも当然に、
 自分たちがゆるぎなく正しいとして、

 自分たちの貧しい想像力をもとに、
 支援を組み立てるのはナンセンスです。

 想像しましょう。

 そうしてその人に会った支援の仕方を創造しましょう。
  


2018年07月05日

親からの自立は身を切る覚悟がいるかもしれない話

 親からの自立。

 という考え方があります。

 それまで親の保護のもとに生活していたけど、

 これからは自分で自分を保護しながら生きていく。

 ときに親を頼り、甘え、

 ときに親を保護しながら。

 自立のイメージって、こんな感じでしょうか。

 具体的には、

 経済的自立と心理的自立

 なんて言われること。

 自分で働いて収入を得て、日々の暮らしをまかなっていく。

 これが経済的自立。

 こもる人やニートの親の人がよく口にする自立はこれですね。
 とにかく働いてほしい。切なる願い。

 一方の心理的自立は、

 気持ちの上で親を頼らなくなること。
 代わりに自分を頼みに生きていくこと。

 とでもなるでしょうか。

 それまで親の考えに従い、
 親の許可を得、
 何かにつけ親に相談していたものを、
 
 自分で考え判断し、行動する。

 そういう風になることですね。

 一言でいうと、
 (自分のことに関して親が担っていた責任を)
 自分で担うようになる。

 こうなると、
 親を自分の管理監督者みたいに上位に置くのではなく、
 対等なオトナとして付き合っていくようになります。

 互いに尊重しあって。
 互いの考えや意見か気持ちや立場を思いやって。

 オトナ同士。

 日本のルールでは、オトナになるのは20歳です。
 一人前の社会人として認められ、だから自分の行動について法的にも責任を持たねばならなくなる年齢です。
 この時から、オトナとしての権利と義務が生じるのですね。

 さてこの自立、人によって差があります。
 その人がどれくらい自立しているかの指標を自立度なんて言いますが、

 人によっては、20歳過ぎても自立度が低い人がいます。
 人によっては、10代のころにオトナレベルの自立度の人もいます。
 ときに一ケタの年齢の頃からオトナとして暮らしている人もいるでしょう。

 親をアテにしなくなる。
 親から自立する。
 親と境界を引く。
 親をクビにする。
 親を切り捨てる。

 子どもが、自分を頼みに生きていく際に、
 そのやり方には穏当なものから過激な力強いものまでいろいろな表現があります。
 
 それまでの親子関係によって表現は違うでしょう。

 穏当で、良好で、成長を促し見守る親との関係だったなら、穏当な表現になるでしょう。

 過激で、一方的で、略奪・侵襲的で、成長の邪魔をし、
 むしろ自分が保護してもらうことを期待しているような親との関係だったなら、

 表現は激烈になるでしょう。

 それは、子ども自身を傷つけることにもなります。

 自分が自立して社会の中で生きていくために、
 親子関係を引き裂くことをせねばならないのですから。

 親は期待するほど自立を手助けしてくれないのだから。
  
タグ :自立


2018年02月10日

欲にまみれた支援をしてはなりませんの話

 カウンセラー

 相談員

 教師

 医師

 看護師

 セラピスト

 コンサルタント

 弁護士

 柔道整復師

 鍼灸師

 心理士

 サポーター

 支援員

 などなど、

 誰かの手助けをする人たちがいます。

 生業にしていたり、金銭的に無償であったりして。

 その時に肝に銘じていなければならないことがあると思っています。

 それは、自分の欲をよくわきまえていること。

 人助けをしたい。

 この子の笑顔が見たい。

 この子にもっと喜んでもらいたい。
 
 病に打ち勝ってもらいたい。

 権利を大事にしてもらいたい。

 もっと儲けてもらいたい。

 感情を介抱してもらいたい。

 認知のゆがみを直してもらいたい。

 などなどの思いは、すべて、

 支援者側の欲です。

 相手の思いからまったく独立した支援者の勝手な願いです。

 支援の動機がその人にこうあってほしいという願いであったとしても、

 それを相手に押しつけることをしてはなりません。

 相手を自分の欲を叶える道具にすることになるからです。

 この思いはときに、

 私が誰かにご飯を食べさせたいから、ご飯を食べていない子どもを探す。

 そんなことにもなりがち。

 支援者は自分の欲にまみれた支援をしてはなりません。

 自分の欲とよく折り合いをつけて、相手と向きあう必要があるでしょう。

 
  
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2017年11月15日

専門職と当事者・家族が折り合えない話

 専門職というのは、専門の範囲で仕事をする人のことです。

 ということは、範囲の外の仕事はしないし、してはならない面も強い。となります。

 ケータイ電話を販売することを専門に仕事している場合、
ケータイ電話に関する範囲は専門的な知識と技能があります。当然です。
 むしろ、持っていなければなりません。

 逆に、それ以外の専門性、例えば飛行機の操縦については知識も技能も要りません。
 別に、なくても構いません。

 医療や教育や福祉やカウンセラーなどの相談の専門職も同様です。

 自分の仕事の範囲については、
 しっかり専門的な知識と技能を習得し、責任を持って仕事します。

 ですが、その範囲の外は、さほど詳しくなくてもいいし、責任はもちろんありません。

 医療は、内科なら内科、精神科なら精神科の範囲で責任を持って専門的に関わります。

 教育なら、小中高の各学校を卒業するまで、教育的な面について責任を持って専門的に関わります。

 福祉も相談職も同様です。

 自分の仕事の範囲に集中します。

 都合、範囲外には意識はあまり向けません。
 それするぐらいなら(人の仕事の心配するぐらいなら)自分の仕事をもっとちゃんとしろ!
 みたいな気持ちもあるからでしょう。

 つまり、専門職は、自分の専門的技量を発揮して相手の利益を向上させる視線の送り先が、

 自分の仕事の範囲までなのです。

 医療なら病気やケガが治るまで。その先の仕事については関わらない。

 学校なら卒業するまで。その先の進学先や仕事についてはその先の専門職に委ねる。

 福祉も相談職も同様です。

 一方で、そういう支援を受ける側はそうではありません。

 病気やケガが治った後、

 卒業した後、進学した後、就職した後、

 福祉サービスを使い始めた後、

 相談した後、相談が終了した後、

 がある意味本番なのです。

 支援が終わったのだから、
 その後は、自分の力でやっていかねばならないからです。

 だから、支援を受ける人、つまり当事者や家族は、

 常のその後を気にしています。

 病気やケガが治った後。
 学校が終わった後。
 福祉の利用が始まった後、回復したりして利用できなくなった後。
 カウンセリングやセラピーが終わった後。

 言うなれば、当事者や家族は一生目線なんです。

 対して専門職は一時的目線と言えるでしょうか。

 専門職は自分たちのことを考えてくれていない。

 そんな思いを持つ当事者や家族は少なくありません。

 ひょっとしたら、自分たちと専門職の目線の送り先の限界が異なっているからかもしれません。

 教育場面では進路保障と言うようですが、

 この人の一生涯を少しばかり見すえて、支援の終結の形を考える支援。

 はとても大事なことのように思えています。

   


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)発達障害ニート

2017年10月18日

障害者就労を学んだのでした。

 この前、宮崎市自立支援協議会 就労支援部会さん主催の

 障がいのある方の「働く」を知る事例発表会を拝聴してきたのでした。

 一般企業で働いている障害当事者の3人が自分の体験を語られました。

 皆さん
 たくさんの苦労を重ねながらも今の仕事に就かれたようです。

 皆さんに共通するのは、
 相談に乗ってくれる人がいたということ。

 一般の人には、※福祉職以外の専門職にもですが
 障害者就労の仕組みはまだよく知られていません。

 だから、
 その人の困難を障害者就労に結びつける人材に出会えるかどうかが肝となるようです。

 この人の働きづらさ、暮らしづらさは、努力不足じゃなくて、障害から来るものではないか?

 そう、ピンと勘が働く人。

 こういう人材が地域にたくさんいるようになると、もっと暮らしやすい社会になるのでしょう。

 印象的だったのは、
 どんな点が仕事をする時の喜びですか?
 の問いに、

 職場の人やお客様から感謝されることに加え、
 職場の人たちとの慰労会などのレクレーションが楽しみという答えです。

 仕事のやりがいを重視している風潮がありますが、

 どっこい、福利厚生が労働者の喜びになっているようです。

 日々、しゅくしゅくと仕事をこなし、

 時折、ねぎらいがてらのレクレーションがあって、

 あぁ、この職場でよかったなと思う。

 働き続けようと思う。

 働くって、存外そういうものかも知れないなと思ったのでした。

 そうして、
 日常の日課のようになっていく。
  
タグ :就労障害


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のことニート

2017年09月11日

【告知】札幌でひきこもり当事者の就労を考えるイベントがあります。

NPO法人レター・ポスト・フレンド相談ネットワークさんが、
10月29日(平成29・2017年)に、札幌で、
ひきこもり当事者の就労にまつわるいろいろなハードルについて、
全国各地から当事者を招いて意見交換するイベントを開催します。

私聞風坊も、お話しさせて頂きます。

就労支援職目線ではない、支援を受ける側目線=当事者目線での、
就労、就労支援、働き方などなど意見交換できればいいなと思っています。

ただ今、
宮崎からどうやって行くんだ札幌は?
と悪戦苦闘しています。
無事に現地にたどり着きましたら、
イベントのご報告はまた改めて。

案内チラシ↓

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)告知ニート

2017年07月02日

野生の労働について考える

 
 に関連します。

 以前、100分de名著「野生の思考」を観たのですが、

 労働を意味するフランス語はトラヴァイユで、これは”労苦(travail)”、つまり「厭わしい時間を耐えなければいけないというニュアンスが含まれて」いるそうです。

 「ところが、例えばメラネシアのいわゆる未開社会の言語には、travailにあたる語や概念自体が」なく、

 「古代ギリシャにも、travailに相当する言葉は」ないそうです。

 「西欧の労働概念には、神によって科せられた「罰」という、ユダヤ=キリスト教特有の考え方が影響しているよう」なのだそうです。 
      (引用いずれも番組テキストp89より)

 楽園であるエデンの園を、自らの行いによって追放されたために、人は働かねばならなくなったということなのでしょう。

 また、西欧の考え方では、自然は人間の脅威であり、だから、人間が生きるために支配し、管理すべきもののようです。

 人間社会を発展、拡大させていくという歴史を作るためには、自然の驚異を徹底的に排除し、支配、管理せねばならないようです。
 となると、そのための営みである労働は、徹底管理されることになりそうです。

 さて、
 支配と管理の思想と労働が結びつくと、
 1日8時間で週5日、合計週に40時間働くことが、基準の労働の姿。
 このルールに従うように、このルールを基準に生活するように。
 
 そうじゃないと自然の脅威には対抗できない!

 こんな風になりそう。
 労働や労働する者をしっかり管理する姿勢は、ややもすると拘束する印象すら持ちます。
 ※労働社会の縮図でもある教育現場も、なんだか似た感じがします。

 一方で、ポイエーシスという取り組み方があるそうです。

 これは、自然や自然物の中にある「はたらき」を、うまく活用して道具や料理などを作り出し、暮らしに役立てる取り組みのようです。

 科学技術などの人智を駆使して、目的に合致するように、がっちり設計して、材料を調達し加工して、予定通りに作り上げるのではなく、

 自然物がそもそも持っている特性を取り出して、組み合わして、人間に有用なナニカを作り出すのだそうです。

 これを可能にするのが、私たち人間が本来持っている野性的な思考力なのだそうです。

 後者は、素材を活かした。なんて表現されますね。

 自分が決めた型にはめていくのが前者。
 自然の持ち味を考慮せず、自分の都合を最優先にする。

 型にはまらない自由さがあるのが後者。
 自然の持ち味をどうすれば活かせるかを終始考える。

 後者的な働き方をする職場環境は、きっと働く人の特性、持ち味を活かし、うまく活用して利益を上げるでしょう。

 そこにあっては、労働は喜びになるでしょう。
   


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のことニート

2017年06月15日

自分でレッテルを選べるかどうかが重要かも

 いわゆる支援機関がサービスを提供するにあたっては、

 対象者

 を設定します。

 医療だと、病気やケガの人。
 ※最近は健康な人の健康指導も予防医療としてやってますね。

 サポステや子ども若者総合相談センターなどの若者支援機関は、15歳以上40歳未満の若年層が対象。

 困窮者支援事業は、今困窮しているか、将来高い確率で困窮するであろう人。

 障害者支援は、障害者手帳を持っている人、または疾患やケガなどの診断を受けた人も多くの機関が対象にしています。

 これは、対象に当てはまる人にのみサービスを提供するということです。
 それ以外は対象外なので十分なサービスが提供できないとなります。

 これを、逆の立場から考えます。

 自分の利益のためにサービスを利用しようとするとき、

 だから私たちは、自分が対象であるかどうかということを無意識に考えます。

 そして、
 自分がサービスの対象であると判断したとき、

 それはまた、
 自分が困難を抱える者であるということを引き受けたとき、

 つまり自分は、

 病気である。

 ケガしている。
 
 困窮している。

 働くことの困難を抱えている。

 障害者である。

 疾患を持っている。

 などということを、受け入れたとき、初めて、サービスを利用しようと思い立ちます。

 もし、これらのことを受け入れなかったら、サービスを利用しようとは思いません。

 オレは病気じゃない。

 こんなケガ病院行くほどじゃない。

 困ってるけど困窮者じゃない。自分でなんとかできるもん。

 障害者じゃない。

 疾患はない。

 こんな認識だと利用しません。

 それは、自分が、そういうジャンルに割り振られたくない。
 そういうカテゴリーの人として扱われたくない。
 という思いを含んでいるでしょう。

 私たちがサービスを利用する際は、常にその対象の名前で扱われます。

 お客様。ユーザー。市民。県民。日本人。として。

 患者。障害者。病者。当事者。利用者。として。

 ひきこもり。不登校。ニート。困窮者。子ども。若者。として。

 これら私たちをジャンル分けする名前。

 カテゴリーごとのレッテル。

 で扱われることを引き受けられるか?

 支援機関利用の肝心のようです。

 自分はひきこもりである。

 そう思える人はひきこもり支援制度の恩恵にあずかれるでしょう。

 自分は、精神の病を抱えている。も然り。

 自分は、就労困難者である。も然り。

 自分が自分の利益のために、
 どのレッテルなら引き受けられるか?
 どのレッテルは引き受けたくないか?

 それを知ることは大事なようです。
   


2017年04月25日

その人らしさは他人が決めるということ

 医療界には、操作的診断という言葉があるようです。

 病気やケガの診断を下す条件を決めて、その条件に当てはまるかどうかをチェックする感じで診断していく方法のことをそう呼ぶみたいです。

 ○○な症状はあるか?

 △△はないか?

 みたいにやっていきますね。

 実は同じようなことを支援者もよくやっています。
 そしてこれは、支援者の視点が違うと、同じ人に対しても違う印象が生じることを意味します。

 ある支援者は、学校を怖がっているかどうかという条件で、人を見ています。
 だからもし、ある人がその条件に当てはまると、その人を学校恐怖症と名づけ、恐怖が軽くなるように働きかけます。

 またある支援者は、学校を怖がっているというより、登校することを拒んでいるかどうかという視点から人を見ています。
 ある人がこの条件に当てはまると、その人を登校拒否と名づけ、その価値観にもとづいて働きかけます。

 拒否なので、自由意思にもとづき主体的に学校に行かないというニュアンスでしょう。
 となると、学校をさぼる性根を叩き直すという働きかけになるかもしれません。

 またある支援者は、登校を拒否しているというより行きたいけど行けないのかもしれないという視点から人を見ています。
 となると、学校に行けない弱者としてその人を見るかもしれません。

 そして、無理して学校に行かず傷を負って弱った心を癒すように働きかけるかもしれません。
 または、弱者でも行ける学校を作ろうとするかもしれません。

 またある支援者は、社会からこもっているかどうかに注意を向けているので、社会との接点がなく家で静かに暮らしている人を見ると、ひきこもりだとして、ひきこもり対応の手順に従って働きかけるかもしれません。
 
 またある支援者は、働いているかどうかに関心があるので、家で静かに暮らしている無職の人を見ると、その人をニートと判断して就労支援するかもしれません。

 またある支援者は、お金に困って生活が苦しいかどうかに意識が高いので、家で静かに暮らしている無職の人を見ると、将来的に困窮生活を送る可能性が高い人だと判断して、困窮者支援を始めるかもしれません。

 これらのことから分かることは、医療者を含め対人支援者は、人のある一面にのみ注目しているということです。
 支援者同士の意見の相違、関わり方の重点の相違はここらへんから生じます。

 だから、
 ある支援者は、心に寄り添いながらのひきこもり支援をしようと考えるのに、ある支援者はサボり癖を叩き直そうとするのです。

 病気の治療を積極的に行うことが優先だと思う支援者もいれば、そんなことより穏やかに刺激しないことが重要だと考える支援者もいるでしょう。

 その人全体を見ているのではないということ。
 そして残念ながらその人全体を支援することはできないということ。

 このことを、
 支援する方も支援を受ける方も、お互いに知っておくことが大切に思えています。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のことニート

2017年04月19日

プライドが高いから、社会参加できないについて考える

 思いつきシリーズです。

 ひきこもり、ニート界隈では、

 プライドの高さが邪魔してる。

 みたいな発言をわりとよく見聞きします。

 プライドが邪魔して、
 外出しづらくなっている。
 就労先が限られてくる。

 なんて感じです。

 当事者本人の立場からすれば、
 
 そこまでして。
 とか、
 そんなまでして。

 社会参加したくない。

 社畜になりたくない。

 なんて、感覚でしょうか。

 それは、

 そんなことに自分の人生を使いたくない。

 自分の時間を使いたくない。

 それならば、自宅でじっとしている方がまし。

 自宅でじっとしている時間の使い方がいい。

 そういう気持ちが働いているのではないかと思い立ったのです。

 就労を極端に単純化して説明すると、労働の対価として収入を得る行為、というのが一般的でしょう。
 
 この点、ひょっとしたら、
 ひきこもりやニートの人たちは、
 「自分の人生の時間を仕事に提供した対価」として収入を得るという感覚なのかもしれません。

 この考えを就学に当てはめると、
 自分の人生の時間を学校場面に提供した対価としてなんらかの利益(学力・地位・安全・承認・将来・・・)を得る。

 だから、

 オレの時間をそんなものに使いたくない!
 自分の時間はそんなに安いものか?!
 お前らにオレの時間を評価されたくない!
 俺の人生を管理されたくない!

 こんな思いなのかもしれないなと思ったのです。

 こんな風に、
 自分の人生時間に対するプライドがあると、それに見合わない社会参加、就労、就学は難しいのかもしれません。

 割に合わない。ということ。

 自分の人生時間を自分の思い通りに使える。
 少なくとも他人のいいようには使わせない。

 それが、
 社会と距離を置いて暮らす人々の思いの一つかもしれないな。

 と思い立ったのでした。

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)交流分析ニート


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