発達障害は発達するチャンスが障害されているのかもしれない話

2020年07月18日

生まれついての脳の機能の特性による障害(困難)とされている発達障害は、
英語表記だとDevelopmental Disorderだそうです。

発達上の障害と訳すこともできるでしょう。

すると、

生まれた時(点)からの、
生まれついての、
生来の、

という意味合いとはちょっと違う感じになります。

これ、以前から疑問でした。

そして、発達障害の場合は、薬で治すというより、特に人と関わる中で、どうすればいいかを身につけていく練習が困難感軽減の主軸です。

自分のトリセツを作る。
※支援者的には、その人(支援を受ける人)との関わり方の手引きを作るとなるでしょうか。

なんてことをやります。

このことからも、発達特性は、生まれたときからのものだから、変わりようがないとか、だからなにもできないからあきらめるしかないとかって考えは当てはまらず、
むしろ、(ゆっくりと)発達していくんだ。
という意識で、発達を促すこと、発達を促す環境を提供することが一番重要とされています。
いわゆる特別な配慮ですね。

これは、
特別な配慮があれば発達特性による障害は軽減される。
と言うことを意味しています。

逆を言うとそれは、
発達特性による障害があると言うことは、特別な配慮を受ける機会が十分になかったことを示唆しているようにも思えるのです。

そんなこんなを考えつつ、英語表記に立ち戻ります。

すると、
Developmental Disorder
発達上の障害。
は、
発達する上でなんらかの障害があった。
なんて意味に捉えられるのではないかと思い至りました。

「なんらか」に当てはまることとしては、
「特別な配慮を受ける機会」
つまり、
発達するチャンス。

そう思えてきたのでした。

となると、
発達障害と呼ばれるほどの困難を抱える人を前にして、
支援者や家族や思いのある人が心がけることは、

この子は、あるいは、この人は、どんな発達のチャンスが不足していたのだろう?

私は、あるいは、私たちは、どんな風にそのチャンスを今ここで提供できるだろう?

と考え、そして過去十分に提供されなかったチャンスを提供することのように思えてきたのでした。
  


フツーの発達障害者だっていいじゃないかと思った話

2020年07月10日

古今、映画やテレビドラマなどで、
発達障害と表明しているかどうかの差はあるとしても、
実質的に発達障害者が取り上げられる場合、

いずれもすごい能力の持ち主。

であることがほとんどであるように思えます。

また、
現実社会でも、芸術や学問などの高度専門分野でめざましい活躍をしている一部の人を取り上げて、
発達障害者は、すばらしい能力の持ち主だ!
という言説を多々見聞きします。

どちらもまるで、
発達障害者はフツーの人間とは違う特殊能力を持ったヒーロー。
みたいな扱いです。

どうも、
発達障害者には、
(あなたたちが気づいてないだけで)とてもすごく社会貢献する機能が備わっているんですよ。
だから、(あなたたち)社会は、この人たちが活躍するように合理的な配慮をすべきですよ。
その方が社会にとって有益ですよ。
みたいな論理みたい。

この論理は、
どれほど社会貢献しているかでその人の価値が決まる価値観。
にもとづいています。

そのたんびに思うのです。

フツーじゃダメなの?
フツーで生きちゃダメなの?。

だって、
機能がスゴい発達障害児者ばかりじゃないだろうにと。

その人たちは、立場がなくなるんじゃないかと。

例えば、
発達障害なのに、記憶悪いの? カレンダー全部覚えてるんじゃないの?
え、発達障害なのに、スゴい能力持ってないの? 
これといってないの? フツーなの?
みたく。

発達障害者じゃない人たちがそうであるように、
発達障害者でも、ヒーロークラスのすごい能力を持った人と、そこまですごい能力は持っていないいわゆるフツーの発達障害者の人がいるはずです。

現状、なんだか偏った情報発信がなされている感じがします。
リアルじゃ無い。
本来はもっと身近で庶民的だ。
そんな感覚を持っています。

そんなこんなで、
発達障害者だからって、特別でなくてもいい。
と、思うのでした。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと発達障害

ピア活動者は専門職より低く扱われるような気がする話

2020年07月02日

ピア(サポート)活動というのがあります。

生徒・学生どうしでの支援活動や、
病気やケガなど困難を抱えて暮らす人同士が、お互いに同朋を支援する活動として知られています。

自助グループはピア活動の一つです。

ネット検索したら、いくつかのサイトが見つかりました。ご参考まで

日本ピアサポート学会
http://www.peer-s.jp/idea.html

一般社団法人日本メンタルヘルスピアサポート専門員研修機構https://pssr.jimdo.com/%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4%E5%BA%A6-%E3%83%94%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E5%B0%82%E9%96%80%E5%93%A1%E9%A4%8A%E6%88%90%E7%A0%94%E4%BF%AE/

認定NPO法人キャンサーネットジャパン
https://www.cancernet.jp/

アルコホリークスアノニマスジャパン ※アルコール依存本人
https://aajapan.org/

アラノン家族グループ ※アルコール依存本人の家族・友人
http://www.al-anon.or.jp/


このように、いろんな形で行われているピア活動ですが、
現在では、病院や福祉などの対人支援現場で活動することも増えてきていると聞いています。

当然ですが、
ピア活動を行うスタッフは、(支援されるのでなく)支援する立場として活動しています。
※なかには治療やリハビリの一環としてスタッフを名乗っている場合もありますが、それでもやっぱり自分は支援者であるというプロ意識をもってピア活動しています。

(先輩・同輩)当事者が、ピアという専門的な立場から、(後輩・同輩)当事者にサービス(支援)を提供する。

そういう意識です。

つまり専門支援。
専門サービス。

ところが、
そのサービスは、他の専門医療・福祉・対人支援スタッフが提供するサービスより軽んじられている。
そもそも、ピアスタッフはそれ以外の専門職よりも、一段低く見られている場合が少なくないようなんです。
ピア活動している人たちの話を見聞きすると、どうにもそんな印象を持ってしまいます。

当事者こそ専門家だ!
という声はよく見聞きするのですが、

実際に専門家、専門職として扱われるかというと、そんなことはありません。
医師・支援職・研究者などの専門職の方が重く扱われます。
私もそんな経験をして来ています。

当事者の声は参考程度に耳を傾ける感じ。
それを重用して、支援方針やサービスは組み立てられません。
ピア以外の専門職の考えを元に策定されます。※職務だから当然と言えば当然
それを補完する感じでピアが活用されています。
※なんならピアはなくても支援は成り立つけど。という感じ。

さて一方で、
医師・支援職・研究者などの専門職の人が、自分が当事者であることを表明している場合が散見されます。

書籍やドキュメンタリー番組などでわりとよく見かけます。

では、その人たちは、ピアの人たちと同様に軽く扱われるでしょうか?
いいえ、そんなことはありません。
むしろ、当事者の立場をよく分かる信頼できる専門職として、そうでない専門職より重きを置かれます。※ほぼ。

なぜなら、専門職だから。

痩せても枯れてもやっぱり専門職だから。
そんな感じなのかもしれませんね。

こう考えると、
ピアという立ち位置。
は、やはり社会的に、専門職より低く見られるのだろうと思うのです。
どれほど、勉学していようと。
そこらの専門職の誰よりも経験豊富だろうと。
どれほどピアノ心に触れていようと。

ピアでやる以上。
当事者として振る舞う以上。

評価に上限規制がかかる。
これは事実のようです。

ピア活動者は、そこのところをよく腹にすえて、
ピア活動する必要があるようです。
すねずに。

ピア・当事者活動する同朋よ。
くじけずひょうひょうとやりなされ。
其方がゆくは正しき道ゾ。

もはやロートルの域に達した当事者活動人聞風坊の静かなる激励でした。
  


見えないものは無いも同じなのかもしれない話

2020年06月24日

物を捨てられないことはあります。

思い出の品だから。※手紙、写真とか。

いつか使えそうな気がする品だから。※包装紙とか。

捨て方が分からないというか捨てる手間がメンドクサイ品だから。 ※自転車を粗大ゴミで捨てるとか。

このうち、思い出の品について、
ふと思いついたことがあります。

思い出は、品物に宿らせるのではなく、記憶しておけばいいのではないか。
そうして、ときおり思い出せばいいのではないか。

自分の記憶や心に思いが保存されているならば、
品物は手放してもいいのではないか。
だって、品物がなくてもいつでもどこでも思い出せるのだから。

一方で、そんな風に記憶しておくことが難しい場合は、品物に思いを宿らせて、
しかも、身の回りの目に着く所にずらりと置いておかねばならないのではないか。

たといそれで品物が増えすぎて、
足の踏み場に苦労することになったとしても。
食事や寝る所すら苦労することになっても。
衛生状態が悪くなったとしても。

物品の姿形が
直視できるなら、その物品にまつわる思いを巡らしやすく、
記憶という曖昧なイメージのみで、
姿形が具体的に見えないことには、考えが及びづらいのかもしれません。

見えるから、思い出せる。
見えないから、しまいこんでいた物は無い物になってしまう。
捨てられなくて溜め込んでしまっている人の部屋から、
干からびた食品が、数十年行方不明だった入り用なものが、山となった品物の奥から発見されることはありがちです。

目に映ると記憶が呼び起こされる。
そんなことも珍しくないでしょう。
そうそう、あの時、これ買って、ここに置いたんだった。
あぁ、ここにあったんだ。

視覚の刺激が記憶を呼び起こす。
視覚の刺激が無いと記憶が呼び起こされない。

なんべんいっても分からない人、どうにもだらしないと思われている人の中には、
視覚にうったえてないからそうなってしまっているのかもしれません。

そんなことを思ったのでした。


  


自分自身を見つめることが苦手なことについての話

2020年06月12日

人のことについては、
あの人はああだこうだといちいち批評したり、
もちっとこうしたらいいと改善点を指摘したり、
ほんとに大丈夫? と心配したり、優しいまなざしでかかわったりするのに、

自分のことについては、まったくよく分からない。

そんな風な人をときどき見かけます。

人の欠点をあげつらったり、侮辱するのじゃなくて、
もっとこうしたらよくなるのに的に改善点を指摘する感じのこの人たちは、

人のケアにばかり心を注いでいるからかもしれません。
そのために、
人の健康や安全ににばかり気を配る習性になったのかも。

または、
見えるものに限り心を配れるからかもしれません。

具体的に目に見えるのならば、
簡単に、すぐに、分析したり、考えたり、提案したり、共感したり、優しい言葉をかけたりできるのに、

そうじゃないと、

ピタッと止まってしまう。
頭まっ白に。

あなたはどうなの?
どんな状態?
どんな風にしてるの?
などの、
「あなたは?」
と自分のことを問われるのががても苦手。

なぜなら、
自分の姿や自分がどう振る舞っているかは直視できないから。

自分を見つめる。
自分を振り返る。
心に手を当てる。
※究極、相手の立場に立って自分を見てみる。

なんてのは、すべて想像上の作業。
抽象的行為で、具体的行為ではありません。

さて、こんな感じで
「直視できることなら対処できる人」は、
「自分のことを棚に上げて、人のことばかりとやかく言う人」
なんて評価を周囲の人から受けているかもしれません。

でも本当は、
少し時間をかけて、自分を振り返る作業をすれば、しっかり自分のことが分かる人がほとんどです。
見えないものに心を配ることが苦手なので、それをやるには相応の頑張りと時間がかかるのでしょう。

とはいえ、
周囲の人の合理的な配慮。
があれば、周囲の人とのいらぬ摩擦は減るようです。