一般社会のフィールドになじまないことを痛感したのでした

2021年08月09日

ここしばらくフィールドの違いを痛感するのでした。

思い返せば、アダルトチルドレンやらメンタル不全やらひきこもりやら不登校やら障害者福祉やら生活困窮者やら、社会参加に困難を抱える人たちの側にずっといる私。

当事者でありつつ支援者であり続ける私。
自分にとって当事者と支援者の領域は地続きです。

当事者体験こそ支援の役に立つと思ってるし、
人を支援するという発想は自分自身を支援するという意味合いで当事者の生きる役に立つと思ってるからです。

ゆえに、
私の感覚、ものの見方、価値観などなどは、
すべて社会参加困難側の立場から形作られています。

そんな私が最近、社会参加できてる人たちとその人たちを支援する人たちと関わるようになって、痛烈な感覚を伴ってやってきたフレーズが
「フィールドが違う!」でした。

社会のルールや常識がフツーに守れる。
朝起きて学校や仕事に行って夕方帰宅して、食事して風呂入って寝る、必要な連絡は適宜取れてなどがフツーにできて、

心揺さぶられることは色々あるけど大きく崩れることもなく基本精神的に安定してて、

今日と同じような感じで明日が来ると疑っていない暮らしぶり。

数ヶ月後も今の状態とさほど変わらず安定し、

数年後の明るい未来(子どもの健全な成長だったり、家族みんながいい状態のままのよりよい便利な暮らしになってるだったり、笑顔があったり、孤立せず仲間で集まったり)を描ける人たちと、

そんな普通人の平凡な日常がこの先の人生でも送れるようにサポートする支援。
ってのがあるんだなと衝撃を受けたのであります。

だって、自分の関わる人たちは、明日のことが明るく考えられない人たちなんだもの。

これから何が起きるか戦々恐々としていたり、どうせまた同じ痛い目に遭うさと確信めいたものを持っている人たちだったり。

そのときに体調が良ければね。と予定を立てるにしても人生に強く制約がかかっている人たちなんだもの。
自分も含めてね。

一応存在は知ってはおりました。でも別世界のことだと思っておりました。だから、ノーチェックでした。

元気で明るく、走り回っている子どもが、成長に合わせてより社会適応できるように、大人になって社会で能力を発揮出来るようにと心を込めてのサポートする人たち。

夢を叶えるために、勉強したり練習したりする子を熱心にサポートする人たち。※オリンピアンとそれを支える人たちのように。

自分に合った職を見つけるために、相談し、訓練し、求人先を探す人たちを対人支援の腕によりをかけて熱意を持ってサポートする人たち。

自分とは違う感覚、ものの見方、価値観で生きている人たち。
その人たち同士のサポート。その人たちの中での支援される人と支援する人。

私とはフィールドが違う。

そしてきっと、その人たちも
私のフィールドに身を置けば同じ感覚を味わうと思う。

子どもは元気に走り回るもの。だから、どうケガなく元気に走り回らせるか? をわくわく考える支援者は、一言も発せずうつむいたまま固まった子どもに大きく戸惑うのだろう。

就労困難な人でも受け入れてくれる企業を熱心に開拓し、そこで働けるように面接練習やらちょっとした作業の練習のプランを立てる熱意ある支援者は、

連絡も無く予約をすっぽかす相手に怒りやら落胆やら複雑な気持ちを抱くんだろう。

それが、メンタル不全による過緊張(ほぼパニック発作)のせいだと気づくことは期待できないかな。

固まったままでいい、その状態でなにかできることを探してなにかをして成果を喜ぶ。
そういう小さな変化にやりがいを感じる支援者は、そんな繊細な配慮がいらない現場にとても戸惑うと思う。

私に何をしろというの?
この子、この人たちに何が必要だというの?
もう十分すぎるほど社会(他人の中で)でやれてるじゃん!

って。

自分のフィールドを確認しておくことは、
そして相手のフィールドを理解しておくことは、
大事だなと思うオリンピック閉会翌日なのでした。

※ここ数ヶ月作文する元気がなくて久しぶりのアウトプットは、ちょうどブログ開設11年目の8月でした。
  


家が安全基地でないのなら

2021年05月15日

理想的な家というか、家族関係・親子関係について、

親・保護者が子の
安全基地となっている。

という喩えは有名です。

基地というのは、そこが基盤になって、外に出て行く場所。

そのために、
食事、睡眠、怪我や病気の療養、娯楽など休息をとり、傷を癒やし、心を身体を養う場所。

外で消費したエネルギー充填の場。
消耗損傷回復の場。

基地が安全で、健康的で、安心できるから、
そこを足場にして、踏み台にして、外に出るのです。

もしそこが、安全でもなく、健康的でもなく、安心でもない場所だとしたら、
外に出るエネルギーは蓄えられません。

消耗や損傷が回復されないので、また再び外で活動する状態になりません。
都合、外出しづらくなります。

それだけでなく、
自助努力によって獲得したところの家での少しばかりの休息、癒やしの機会によって、
多少なりとも共有されるエネルギーや心身の回復、

あるいは、
外で他者や自然環境との関わりで、
少しばかり蓄えられたエネルギーや心身の健康すら、
親・保護者との関わりで消失してしまうこともあります。

虐待環境、マルトリートメント環境、逆境環境、
家族がアルコールなどの依存症者などである場合、
ヤングケアラーである場合、
などは、
家庭・家族・親・保護者が

安全基地でなくなります。

では何なのか?
考えてみました。
言葉が色々思い浮かびました。

拘束地帯

危険地帯

牢獄

煉獄

獄舎

収監施設

監獄

総じて、
人が、その人の人生が
囚われる場所。

という感じがしています。


どうぞ家が、
安全な基地でありますように。
  


働くことに消極的な理由

2021年05月03日

親の働く姿を観て、

親の休日の姿を観て、

親が働き終わって家で過ごす姿を観て、

親が働きに出る姿を観て、

親が働くことや社会に対する考えを日頃の会話から察して、

親の働き方がどんな悪い影響を与えているかをつぶさに体験することになって、

働くことにネガティブな印象を持ったとしたら。

働くってことは、
不幸を生み出す行為だから。
人子ども・家族を壊す行為だから。
って無意識に思うようになって。

自分が働くことについてもどうにもネガティブになってしまって、
積極的に働かない道を選ぶ。

そしてそれは、実は親の無意識の願いだったりもして。

働きたくないよぉ。

親からのそんなメッセージを受けて、そのメッセージに従う道を選んで、

そんな人生を生きる。

ことになっているのかもしれない。

なんて、
働くことに困難を覚える人たちの気持ちについて、
考えてみたのでした。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)不登校

居場所って未来もいていいって思えるかが大事だと思う話

2021年04月30日

不登校・ひきこもり支援の重要なツールである居場所について、

ふと思いついたことを記します。

今ここにいてもいい。
と居場所に来た人が思えることはとっても大事なことでしょう。
だって、今までそんなことを思える場ってなかったんだもの。
家にも居場所がない感じだし。

だから、あぁ、ここにいていいんだ自分。
って思える場はとても大切。

そしてそれに加えて、

未来もいていいんだって思えるか?

が、とても大事なんじゃないかと思ったのでした。

いつまでも居続けちゃダメだ。

卒業しなくちゃダメだ。

そろそろ次のステージに行かないと。

そう遠くない未来に、

そんなことを考えないといけなくなるような場では、

直接に、あるいはほのめかされる形で、それを伝えられるような場では、

今ここで、
ホントに安らげないんじゃないかなと。

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)不登校

社会に適応できるかどうかは運次第かもしれない

2021年04月02日

チャールズ・ダーウィンが淘汰を説いたのはだいぶ昔の話ですが、
今でもこれは通用するようです。

参照:NHKテレビ「100分 de 名著」”種の起源”のページ
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/46_kigen/index.html

これによると、
進化とか淘汰とかって言うのは、

キリンの首が長いのは、高い木の上の葉っぱを食べられるように、長い期間をかけて、何世代にもわたって、首を伸ばし続ける努力をした成果だ。

じゃなくて、

たまたま、首がちょびっと長いキリンたちが生まれて、そのキリンの方が比較的たくさん生き延びて、
そしてその中からたまたまもちっと首の長いキリンが生まれて、そのキリンの方がまた比較的たくさん生き延びて、

と言うことを
世代で繰り返して、

今の首の長さを持つキリンたちが生き残った。たまたま。
それ以外のキリンは淘汰された。

ってことらしいです。
※ウィルスの変異も、これと同様みたい。

つまり、社会に適応できるかどうかは、
そのキリン(たち)の努力の成果ではなく、

たまたま、
適応しやすい諸元・スペックで生まれてきたかどうかに左右されているってこと。

頑張りや努力も大事だけど、頑張ってもどうしようもない諸元上の限界はあるってこと。

これを知って、妙に肩の力が抜けたのを覚えています。
なんかほっとする感じ。
あぁ、なるほどそうだったんだと腑に落ちる感じ。

さて、
少し前まで、不登校の子どもたちが登校できるなるための教室名は、適応指導教室と言われていました。
フツーの学校生活、フツーの教室に適応できるように指導する教室って意味だったのでしょうね。

でもこれ、なかなか難しかったみたい。
適応できるかどうかは頑張り以外の要素があるからでしょう。

そもそも合わない。
そもそも合う。

どうしようもない諸元上の事実が。

後天的な問題で、社会でのやっていき方を学んでないために適応できない場合は、
やっていき方を新たに学べばいいのですが、
それができればよし。
できないのならば、社会がその子、その人に適応するようにする必要が出てくるでしょう。

合理的な配慮と呼ばれていますね。

社会に適応できるかどうかは、努力だけじゃなくて、生物学上の諸元の要素も大きいってて話でした。


※適応指導教室は、今は学習支援教室となったみたいです。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)不登校