当事者活動人・聞風坊のブログ
http://monpubowblog.miyachan.cc
宮崎の当事者活動人の聞風坊(もんぷうぼう)が、暮らしの中で聞いた風の声をしれ~っと記すブログ。であります。
引きこもり、不登校、ニート、困窮、アダルトチルドレン、トラウマ、TA・交流分析、男女共同参画、ジェンダー、カウンセリング、心理セラピー、自助グループなどなど関心事いっぱいの聞風坊が思いの丈を記しています。
皆さまどうぞご高覧あれ。
ja
聞風坊
2021-06-28T06:00:00+09:00
-
見えるところに居るな!
http://monpubowblog.miyachan.cc/e573957.html
TA・交流分析理論の禁止令のうち、
居るな!
についての記事です。
私は、
見えるとヤバい!
という思いはいつもあります。
目立つとヤバい!
見つかるとヤバい!
という意味です。
だから、
隠れてやれ!
見つからないようにやれ!
見つかるる前にやめろ!
目立つことをするな!
目立たないようにやれ!
目立ちそうになったらやめろ!
を心がけて生きてます。
親の目に触れるとロクなことがなかったからです。
※ほめられない・承認されないって形の消極的な嫌なことじゃなくて。
必ず悪いことが起きる!
それまでは上手にやれ!
見つからないように!
痕跡も残すな!
たどってくるぞ!
そんな思いです。
さて、
アルコール依存症などの環境で育った子どもがとる家族内の役柄に、
lost child・消えた子というのがあります。
ダメな家族の中の唯一の希望の星の子でもなく、
非行や不良する子でもなく、
ひょうきん者でもなく、
ケアする役の子でもなく、
依存症という役を担う者でもなく、
目立たないようにそこに居る子
邪魔にならない子
要望もないし、面倒も起こさないので
世話のかからない子
として。
家族に負担をかけないように、
なりを潜めて。
一人で生きている。
なぜなら、
その子が、自分に言い聞かせているからです。
気配を消せ!
消してそこに居ろ!
忍者やスパイのように溶け込め。
これは、
存在を消せ!
Don't exist!
Don't be!
(そこに)居るな!
という禁止令と同じ働きでしょう。
この子がいるから○○デキない!
※離婚とか旅行とかゆっくりすることとか
とさんざん目の前で言われた子どもも、この言い聞かせを採用するかも知れません。
自分がいなければよかったのに。
居ると邪魔なんだ。迷惑なんだ。
じゃせめて、居ないようにしよう。
それなら生きててイイだろう。
許してもらえるだろう。
と。
ストロークはいらないし、
承認されなくてもイイから。
別にかまってもらわなくてイイから。
って。
と言うことから、
別にかまってくれなくてイイから、
なにして欲しい、かにして欲しいとか求めないから。
自分も邪魔しないから、あんたも邪魔しないでよ!
という対人基本姿勢ができてくるように思えるのでした。
世の中に期待しないのだから、世間も自分に期待しないで。
邪魔にならないように、ひっそり生きていくから。
放っといて。
たったそれだけの願いを胸に社会の片隅に小さくひきこもって暮らしている人は、
多いんだろうなと思います。
その人たちの役に立つようにとの思いで、記事を書き続けてきました。
穏やかな暮らしが手に入りますように。
願っています。
居るな!
についての記事です。
私は、
見えるとヤバい!
という思いはいつもあります。
目立つとヤバい!
見つかるとヤバい!
という意味です。
だから、
隠れてやれ!
見つからないようにやれ!
見つかるる前にやめろ!
目立つことをするな!
目立たないようにやれ!
目立ちそうになったらやめろ!
を心がけて生きてます。
親の目に触れるとロクなことがなかったからです。
※ほめられない・承認されないって形の消極的な嫌なことじゃなくて。
必ず悪いことが起きる!
それまでは上手にやれ!
見つからないように!
痕跡も残すな!
たどってくるぞ!
そんな思いです。
さて、
アルコール依存症などの環境で育った子どもがとる家族内の役柄に、
lost child・消えた子というのがあります。
ダメな家族の中の唯一の希望の星の子でもなく、
非行や不良する子でもなく、
ひょうきん者でもなく、
ケアする役の子でもなく、
依存症という役を担う者でもなく、
目立たないようにそこに居る子
邪魔にならない子
要望もないし、面倒も起こさないので
世話のかからない子
として。
家族に負担をかけないように、
なりを潜めて。
一人で生きている。
なぜなら、
その子が、自分に言い聞かせているからです。
気配を消せ!
消してそこに居ろ!
忍者やスパイのように溶け込め。
これは、
存在を消せ!
Don't exist!
Don't be!
(そこに)居るな!
という禁止令と同じ働きでしょう。
この子がいるから○○デキない!
※離婚とか旅行とかゆっくりすることとか
とさんざん目の前で言われた子どもも、この言い聞かせを採用するかも知れません。
自分がいなければよかったのに。
居ると邪魔なんだ。迷惑なんだ。
じゃせめて、居ないようにしよう。
それなら生きててイイだろう。
許してもらえるだろう。
と。
ストロークはいらないし、
承認されなくてもイイから。
別にかまってもらわなくてイイから。
って。
と言うことから、
別にかまってくれなくてイイから、
なにして欲しい、かにして欲しいとか求めないから。
自分も邪魔しないから、あんたも邪魔しないでよ!
という対人基本姿勢ができてくるように思えるのでした。
世の中に期待しないのだから、世間も自分に期待しないで。
邪魔にならないように、ひっそり生きていくから。
放っといて。
たったそれだけの願いを胸に社会の片隅に小さくひきこもって暮らしている人は、
多いんだろうなと思います。
その人たちの役に立つようにとの思いで、記事を書き続けてきました。
穏やかな暮らしが手に入りますように。
願っています。
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心理・カウンセリング
過去の出来事
トラウマ
聞風坊
2021-06-28T06:00:00+09:00
-
トラウマを負うと注意の問題や落ち着きのなさが起きるのはなにかと恐ろしいからかもしれない
http://monpubowblog.miyachan.cc/e573629.html
心的トラウマを負った子どもは、
ADHDと誤診される。
というのは、トラウマ支援界隈で割と聞く話です。
誤診というか、ADHDの条件に当てはまるのでしょうね。
注意散漫だったり、注意し続けるのが難しかったり、逆に集中しすぎたり、
じっとしていられなかったり、とても活動的だったり、衝動的だったりで。
これについてふと思いつきました。
トラウマを負うと、恐怖をよく感じます。
なにかにつけ、とにかくオソロシイ。
身も心もぞわぞわする。
どこにオソロシイ何かが潜んでいるか分からないもの。
あそこかもしれない、こっちかもしれない。
あの物音はその兆しかもしれない。
迫ってきてるかもしれない。
じっとこらえるのは難儀。
こらえきれない。
いてもたってもいられない。
じっとしてられない。
たまらない。
とにかく動く、
ナニカする。
すると、少しオソロシサが紛れる。
おそろしいから動く。
始終動く。
ハイパーにアクティブ。
トラウマ領域の言葉では過覚醒。
発達障害領域ではADHD。
こんな感じなのかなと思ったのでした。
ADHDと誤診される。
というのは、トラウマ支援界隈で割と聞く話です。
誤診というか、ADHDの条件に当てはまるのでしょうね。
注意散漫だったり、注意し続けるのが難しかったり、逆に集中しすぎたり、
じっとしていられなかったり、とても活動的だったり、衝動的だったりで。
これについてふと思いつきました。
トラウマを負うと、恐怖をよく感じます。
なにかにつけ、とにかくオソロシイ。
身も心もぞわぞわする。
どこにオソロシイ何かが潜んでいるか分からないもの。
あそこかもしれない、こっちかもしれない。
あの物音はその兆しかもしれない。
迫ってきてるかもしれない。
じっとこらえるのは難儀。
こらえきれない。
いてもたってもいられない。
じっとしてられない。
たまらない。
とにかく動く、
ナニカする。
すると、少しオソロシサが紛れる。
おそろしいから動く。
始終動く。
ハイパーにアクティブ。
トラウマ領域の言葉では過覚醒。
発達障害領域ではADHD。
こんな感じなのかなと思ったのでした。
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心理・カウンセリング
トラウマ
聞風坊
2021-06-24T06:00:00+09:00
-
精神疾患を抱える親の子なんだと腑に落ちた話
http://monpubowblog.miyachan.cc/e573278.html
自分が精神疾患を抱える親の子だと気づいたのは、わりかし最近です。
子の名前を気に入らない。ってことを子に言う。
ひどいことばかり言う。
なにごとも必ずけなす。
子の立場を思いやらない。
いつも一方的。
子に共感しない。
子と関わることをめんどくさそうにしてる。
食事作りや洗濯や弁当作りや風呂の準備やなにやかにや、
子に関する世話が自分を困らせていることを子にはっきり伝える。
子がどれほど親に迷惑をかけたか、
子がどれほど親に配慮していないかを繰り返し責め立てる、
これやられると、子どもはとても混乱します。
世話してくれて有り難いうれしい気持ちを持ちそうなのに、
気がつくと責められてごめんなさいな気持ちも生じる。
これ、メンタル的にとてもマズいんです。
いわゆる、頭が変になる感覚を持ちます。
そういえば私は、
混乱の中に生きてきた感じがします。
頭が混乱してる。あれやこれや思考がまとまらない。行動が落ち着かない。混乱してる。
気持ちも整理できない。混乱してる。
いつもあたふた。
だから、いつもその場しのぎ。目先のことだけ片付ける。それなら混乱しててもできる。
親は、
私が子どもだからと言うだけで、まったく我が家で起きていることを説明しませんでした。
同様に私の気持ちや考えを聞かない。※私からの説明を聞く気がない。
親は指図し、子はそれに従う。
そういうシンプルな構図で親子関係を認識していたようです。
だから、
私が自我を持って、No! と言い出したとき、親はとても困っていました。
同時に怒っていました。
(あいつのように)言うこと聞かない甘やかされたわがままおぼっちゃま息子だと。
つまり、
説明もなし、相談もなし、意見を聞くこともなし。
だからといって、高圧的に命令するでもなし。
指示だけ出す。
そこに意図のやりとり、感情の受け渡し、心の交流はなし。
説明しない、意見を聞かない、相談しない、
それは、
相手に価値を置いていないから。
馬鹿にしている、軽んじているから。
それは、私を家族の一員として扱わないってこと。
いつも部外者にしていたってこと。
蚊帳の外。
それでいて、
都合のいいようには利用する。
例)家族だから助けてくれ。子どもだから言うこと聞きなさい。
(親に)都合の良い子。
道具として扱う。
必要なときだけ利用する。
人として扱わない。モノ扱い。
メシを食わしてやってるのだから言うこと聞くのが当然という感じ。
今風に言えば、奴隷とか、よくて住み込みの従業員って感じでしょうか。
つまりは、
丁稚奉公の子の扱い。
または、
ケア提供者 care-giver
こんな風なので、
私の親はいわゆる毒親に当てはまるんですが、
それらは、
親の性格の問題とか、子育て方針の問題とか、しつけとかの問題とか、愛情のあるなしの問題とかではなくて。
精神疾患や精神機能障害とか精神科領域で診断がつくような状態から来るものだと、専門職となった今では分かります。
思いを言葉にすることがとても苦手だったり、自分の感情の起伏に振り回されたり。
特に、
ストレス脆弱性と呼ばれていますが、
ストレスの対処が不得手だと、状況の変化にひどく動揺するために、
自分の気持ちのやり場に困って、他者や自分を傷つける言動をすることがあるのですが、
親は、
それを小さな子どもの私に対して遠慮もなく繰り返しやってたのです。
ストレスでいっぱいいっぱいになっているので、
子がどう感じるか、どう思うか、
子にどんな影響があるかなんて気にしません。
子への配慮なんてありません。
親の心に子を思う余裕がないからです。
配慮がないと言えば、
私からしてほしくない言動をやめてほしいと頼んだ際に、
親は、
ただ、自分がそうしたかったからやった(言った)だけ。
と、悪ぶれる様子もなく笑顔でよく言ってました。
あきれる一言です。
これはストレスと言うより衝動性の問題でしょうね。
きっと自力で止められないんです。
さらに配慮がないと言えば、
我が家には、
私の他に、預かっていた子どもがいて、そっちの方が大事だとそのこと私の目の前ではっきり言っていました。わりかし何度も。
確かに、
預かっていた子は、自分の進路は親と相談しながら決めていたようです。
私は相談できませんでした。
※兄弟差別と言います。
預かっている子だから、よそ様の子だから大事にすることについて、
なぜか納得した私は、実の親にわがままを言わないようになりました。
親は預かっていた子の世話を優先する。
実子の自分は我慢する。
※とはいえ、こんな親なので、預かっていた子どもも相当苦労してました。
自分は親を頼らずに。
やりたいことは自分でかなえる。できないことは端からあきらめる。
どうせ大事にはされないのだもの。それならそれでいい。私は私。そんな気持ちでした。
親がかける愛情は、その子への方が強かったかもしれません。
激しい親子げんかしてました。エスカレートして親の折檻となりました。
※面前DV。
ちなみに、
私は激しい親子げんかはしたことありません。私が心を開いてなかったのでしょう。
早い段階で親に期待しなくなっていたのでしょう。
他者をけなすことは両親そろって盛んにやっていました。
そしてそれは、
誰とも関わらないことを推奨しているということ。
そんな両親は、
自分たちだけが正しいと思っていたようでした。
私の親は、自ら孤立を選んだ人たちでした。
親同士のけんかは毎日数時間続くことがざらでした。
目の前で罵り合うことも、遠くでケンカしていて、こちらに移動してまたケンカして、また別の所に行ってケンカしてと。
※これも面前DV。
その中で、私はテレビを観、ご飯を食べ、眠っていました。宿題もやってたかしら。
何が起こるか分からない、どんな悪いことになってもおかしくない。
だから、
早く、速く、早く、自分のやるべきことをやって、いつも何があってもいいように待機していました。
早く大人になって。力をつけて。強くなって。焦りにも似た願いを胸に。
子にまったく配慮しない、配慮ができない親の都合に合わせるために、
辛抱強く待機しておくのです。
夫婦ゲンカの動静に、聞き耳を立てながら。
おかげで変に聴力と思考力が発達したようでした。
そして、
断片的な情報から状況を把握するために、空想力、妄想力も。
親の私への関わり方は、
虐待分類で言うと、心理的虐待に当たるでしょう。
※ちなみに身体的虐待の折檻は時代背景的に普通にありましたヨ。
虐待は許されないことですが、
それは、相手(子)の立場に立てないことから来るようです。今なら分かります。
親は私に対する愛情がないわけではない。気遣いもしてくれてる。
でも、子が愛情を必要としている大事なときには・・・。
親の心に余裕のないときには・・・。
※日常ほとんどですが
きっと、
今、子のために自分が何をすればいいかが分からないのでしょう。
片親は実家から捨てられて厳格で冷酷な他人の中で大人になったようでした。
人権という言葉を心底毛嫌いしていたのですが、自分が人権を踏みにじられてきた思いが強かったからでしょう。
片親は、いわゆる合理的な配慮を受けていない。
両親とも配慮ある扱いを受けて育たなかった。
だから、自分の子への配慮が分からない。
当然です。
このことは、私は、
虐待の連鎖の中にいたということを示します。
間違いないようです。
そして・・・、
言葉は救いにもなるし呪いにもなります。
虐待の連鎖。
私がこの言葉に怯えて人生を送るようになるのは程なくでした。
子の名前を気に入らない。ってことを子に言う。
ひどいことばかり言う。
なにごとも必ずけなす。
子の立場を思いやらない。
いつも一方的。
子に共感しない。
子と関わることをめんどくさそうにしてる。
食事作りや洗濯や弁当作りや風呂の準備やなにやかにや、
子に関する世話が自分を困らせていることを子にはっきり伝える。
子がどれほど親に迷惑をかけたか、
子がどれほど親に配慮していないかを繰り返し責め立てる、
これやられると、子どもはとても混乱します。
世話してくれて有り難いうれしい気持ちを持ちそうなのに、
気がつくと責められてごめんなさいな気持ちも生じる。
これ、メンタル的にとてもマズいんです。
いわゆる、頭が変になる感覚を持ちます。
そういえば私は、
混乱の中に生きてきた感じがします。
頭が混乱してる。あれやこれや思考がまとまらない。行動が落ち着かない。混乱してる。
気持ちも整理できない。混乱してる。
いつもあたふた。
だから、いつもその場しのぎ。目先のことだけ片付ける。それなら混乱しててもできる。
親は、
私が子どもだからと言うだけで、まったく我が家で起きていることを説明しませんでした。
同様に私の気持ちや考えを聞かない。※私からの説明を聞く気がない。
親は指図し、子はそれに従う。
そういうシンプルな構図で親子関係を認識していたようです。
だから、
私が自我を持って、No! と言い出したとき、親はとても困っていました。
同時に怒っていました。
(あいつのように)言うこと聞かない甘やかされたわがままおぼっちゃま息子だと。
つまり、
説明もなし、相談もなし、意見を聞くこともなし。
だからといって、高圧的に命令するでもなし。
指示だけ出す。
そこに意図のやりとり、感情の受け渡し、心の交流はなし。
説明しない、意見を聞かない、相談しない、
それは、
相手に価値を置いていないから。
馬鹿にしている、軽んじているから。
それは、私を家族の一員として扱わないってこと。
いつも部外者にしていたってこと。
蚊帳の外。
それでいて、
都合のいいようには利用する。
例)家族だから助けてくれ。子どもだから言うこと聞きなさい。
(親に)都合の良い子。
道具として扱う。
必要なときだけ利用する。
人として扱わない。モノ扱い。
メシを食わしてやってるのだから言うこと聞くのが当然という感じ。
今風に言えば、奴隷とか、よくて住み込みの従業員って感じでしょうか。
つまりは、
丁稚奉公の子の扱い。
または、
ケア提供者 care-giver
こんな風なので、
私の親はいわゆる毒親に当てはまるんですが、
それらは、
親の性格の問題とか、子育て方針の問題とか、しつけとかの問題とか、愛情のあるなしの問題とかではなくて。
精神疾患や精神機能障害とか精神科領域で診断がつくような状態から来るものだと、専門職となった今では分かります。
思いを言葉にすることがとても苦手だったり、自分の感情の起伏に振り回されたり。
特に、
ストレス脆弱性と呼ばれていますが、
ストレスの対処が不得手だと、状況の変化にひどく動揺するために、
自分の気持ちのやり場に困って、他者や自分を傷つける言動をすることがあるのですが、
親は、
それを小さな子どもの私に対して遠慮もなく繰り返しやってたのです。
ストレスでいっぱいいっぱいになっているので、
子がどう感じるか、どう思うか、
子にどんな影響があるかなんて気にしません。
子への配慮なんてありません。
親の心に子を思う余裕がないからです。
配慮がないと言えば、
私からしてほしくない言動をやめてほしいと頼んだ際に、
親は、
ただ、自分がそうしたかったからやった(言った)だけ。
と、悪ぶれる様子もなく笑顔でよく言ってました。
あきれる一言です。
これはストレスと言うより衝動性の問題でしょうね。
きっと自力で止められないんです。
さらに配慮がないと言えば、
我が家には、
私の他に、預かっていた子どもがいて、そっちの方が大事だとそのこと私の目の前ではっきり言っていました。わりかし何度も。
確かに、
預かっていた子は、自分の進路は親と相談しながら決めていたようです。
私は相談できませんでした。
※兄弟差別と言います。
預かっている子だから、よそ様の子だから大事にすることについて、
なぜか納得した私は、実の親にわがままを言わないようになりました。
親は預かっていた子の世話を優先する。
実子の自分は我慢する。
※とはいえ、こんな親なので、預かっていた子どもも相当苦労してました。
自分は親を頼らずに。
やりたいことは自分でかなえる。できないことは端からあきらめる。
どうせ大事にはされないのだもの。それならそれでいい。私は私。そんな気持ちでした。
親がかける愛情は、その子への方が強かったかもしれません。
激しい親子げんかしてました。エスカレートして親の折檻となりました。
※面前DV。
ちなみに、
私は激しい親子げんかはしたことありません。私が心を開いてなかったのでしょう。
早い段階で親に期待しなくなっていたのでしょう。
他者をけなすことは両親そろって盛んにやっていました。
そしてそれは、
誰とも関わらないことを推奨しているということ。
そんな両親は、
自分たちだけが正しいと思っていたようでした。
私の親は、自ら孤立を選んだ人たちでした。
親同士のけんかは毎日数時間続くことがざらでした。
目の前で罵り合うことも、遠くでケンカしていて、こちらに移動してまたケンカして、また別の所に行ってケンカしてと。
※これも面前DV。
その中で、私はテレビを観、ご飯を食べ、眠っていました。宿題もやってたかしら。
何が起こるか分からない、どんな悪いことになってもおかしくない。
だから、
早く、速く、早く、自分のやるべきことをやって、いつも何があってもいいように待機していました。
早く大人になって。力をつけて。強くなって。焦りにも似た願いを胸に。
子にまったく配慮しない、配慮ができない親の都合に合わせるために、
辛抱強く待機しておくのです。
夫婦ゲンカの動静に、聞き耳を立てながら。
おかげで変に聴力と思考力が発達したようでした。
そして、
断片的な情報から状況を把握するために、空想力、妄想力も。
親の私への関わり方は、
虐待分類で言うと、心理的虐待に当たるでしょう。
※ちなみに身体的虐待の折檻は時代背景的に普通にありましたヨ。
虐待は許されないことですが、
それは、相手(子)の立場に立てないことから来るようです。今なら分かります。
親は私に対する愛情がないわけではない。気遣いもしてくれてる。
でも、子が愛情を必要としている大事なときには・・・。
親の心に余裕のないときには・・・。
※日常ほとんどですが
きっと、
今、子のために自分が何をすればいいかが分からないのでしょう。
片親は実家から捨てられて厳格で冷酷な他人の中で大人になったようでした。
人権という言葉を心底毛嫌いしていたのですが、自分が人権を踏みにじられてきた思いが強かったからでしょう。
片親は、いわゆる合理的な配慮を受けていない。
両親とも配慮ある扱いを受けて育たなかった。
だから、自分の子への配慮が分からない。
当然です。
このことは、私は、
虐待の連鎖の中にいたということを示します。
間違いないようです。
そして・・・、
言葉は救いにもなるし呪いにもなります。
虐待の連鎖。
私がこの言葉に怯えて人生を送るようになるのは程なくでした。
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ひきこもる
アダルトチルドレン
心理・カウンセリング
過去の出来事
トラウマ
聞風坊
2021-06-16T06:00:00+09:00
-
我が家を施設のようだと思った話
http://monpubowblog.miyachan.cc/e573277.html
自分の家は、施設のようだとの感覚を持ったのは、ごく最近です。
You Tubeなどで施設で育った人たちの体験談を見聞きするようになって、近しい感じがいっぱいあったからです。
一般家庭とは違う暮らしの独特のルールがあって、なによりもそれが優先される。
だから、
基本我慢している。
一定の緊張感が持続している。
自分を養育する大人は、
親じゃない。
世話をよくしてくれる人。
だから、敬語を使う。
許可を取らねばならない人。
食事の世話や病院に連れて行ったりの世話をしてくれる人。
よくしてくれる人。
一定の範囲で甘えられる。条件付きで欲求をかなえてくれる。
自分が子どものうちの今、
育ててくれてる人。
そういう意味で感謝してるし、心も寄せている。
そんな感じ。
さて、我が家は、
親たちの気まぐれでどうとでもなるルールに支配された緊張感のある場でした。
だから、気まぐれにいつ自分が捨てられるか分からない。
このことはきっと、
親が同じような境遇で育ったことの影響は大きいでしょう。
私と同じような緊張感を持っていたかもしれません。
片親は他人の中で育ち、力による支配を学んだようです。
家族でない他人が支配する環境です。
※丁稚奉公のイメージが近いでしょうか。
片親は折檻する実親を恐れています。
こちらも親の機嫌に振り回されるところの、力による支配の養育体験です。
※虐待の英語表記は、ub-useです。きっと親の力の不適切な利用って意味でしょう。親の権限の悪用です。
力・権限を濫用しての養育は虐待になるということですね。
言葉を手にすることは救いになります。
施設のようだった。
との言葉は、私の苦悩を言い表すのに適切です。
最近、宗教2世という言葉を知りました。
親の宗教が自分の人生を縛っている子って感じです。
私これそうなんです。
クリスマスは経験したことありませんし、そもそも話題にも上りませんでした。
地区の子どもみこしを担ぐの担がないので親は役員さんと一悶着ありました。
宗教行事の日には、学校を休むのが本来だが、うちは学校に行かせてやっているとして、親は自分の寛容さを何度も主張していました。
世の中のルール・常識より宗教が優先されていました。
もちろん子どもの気持ちよりも。
ひょっとしたら、親の気持ちよりも。
当時の私は、
死んだ人だけ大事にする家だと評していました。
今改めて考えると、
実は親も宗教に縛られていたように思えます。
信仰の喜びが両親から感ぜられなかったからです。
死んだ人を大事にするために、やらねばならないことばかりの、義務感ばかりが際立っていました。
言葉は、気づきを促します。
救いにつながります。
最近の救いにつながる言葉は、他に、
ヤングケアラーがあります。
幼い頃から、親の世話をすることが役目となって、自分の人生に大きな制限がかかっている人って感じです。
これも私です。
精神疾患や障害のためや、宗教のことで手一杯で、
いろいろなことがおろそかになる両親に配慮するのが子である私の役目でした。
そうじゃないと、家が持たないのです。
暮らしがやっていけないのです。
これまた最近、
親を捨ててもいいですか? という刺激的なNHKの番組がありました。
NHKのクローズアップ現代+です。
URLは、
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4541/index.html
どんな親でも捨ててはならないという世間の常識に呪われている大人になった被虐待児。
って印象を持ちました。
嫌なら会わなければいいじゃない。
縁を切ればいいじゃない。
という、これまた世間の常識にもとづく通説が役立たないことが明らかにされます。
家族は家族の世話を、親の世話を焼くもんだという社会の常識があるために、
たといしばらく会わなくても、縁を切ったとしても、
親が死んだとき、病院に入院したとき、などひどい状態で、
連絡を受けた方としては逃げられない状態で、
自分の元に親とのつながりが無理矢理やってくる予想ができるから、
親を捨てられない。
なんだか、
結局つけが回ってくる感じ。
だから、そういう夢は捨てて親と関わり続ける。
親の世話を焼く。
番組に出た当事者の人は、そんな感じなんだろうなと思えました。
私も同様です。
結局、社会は家族とつなげて来る。
それが社会常識的に正しいことだから。
戸籍でつながっているから。
そんな予想がつくから、親と縁が切れた人生を捨てている。
親がつきまとわない人生を捨てている。
そんな人たちに、
親を捨てる。
という言葉は、救いになるかもしれません。
実のところ、そういう心持ちになると、
親との新しい関わり方ができるようになるようです。
親の世話を専門業者に頼むとか、割り切って世話を焼き、新しい関係を築くとか。
いろいろ。
You Tubeなどで施設で育った人たちの体験談を見聞きするようになって、近しい感じがいっぱいあったからです。
一般家庭とは違う暮らしの独特のルールがあって、なによりもそれが優先される。
だから、
基本我慢している。
一定の緊張感が持続している。
自分を養育する大人は、
親じゃない。
世話をよくしてくれる人。
だから、敬語を使う。
許可を取らねばならない人。
食事の世話や病院に連れて行ったりの世話をしてくれる人。
よくしてくれる人。
一定の範囲で甘えられる。条件付きで欲求をかなえてくれる。
自分が子どものうちの今、
育ててくれてる人。
そういう意味で感謝してるし、心も寄せている。
そんな感じ。
さて、我が家は、
親たちの気まぐれでどうとでもなるルールに支配された緊張感のある場でした。
だから、気まぐれにいつ自分が捨てられるか分からない。
このことはきっと、
親が同じような境遇で育ったことの影響は大きいでしょう。
私と同じような緊張感を持っていたかもしれません。
片親は他人の中で育ち、力による支配を学んだようです。
家族でない他人が支配する環境です。
※丁稚奉公のイメージが近いでしょうか。
片親は折檻する実親を恐れています。
こちらも親の機嫌に振り回されるところの、力による支配の養育体験です。
※虐待の英語表記は、ub-useです。きっと親の力の不適切な利用って意味でしょう。親の権限の悪用です。
力・権限を濫用しての養育は虐待になるということですね。
言葉を手にすることは救いになります。
施設のようだった。
との言葉は、私の苦悩を言い表すのに適切です。
最近、宗教2世という言葉を知りました。
親の宗教が自分の人生を縛っている子って感じです。
私これそうなんです。
クリスマスは経験したことありませんし、そもそも話題にも上りませんでした。
地区の子どもみこしを担ぐの担がないので親は役員さんと一悶着ありました。
宗教行事の日には、学校を休むのが本来だが、うちは学校に行かせてやっているとして、親は自分の寛容さを何度も主張していました。
世の中のルール・常識より宗教が優先されていました。
もちろん子どもの気持ちよりも。
ひょっとしたら、親の気持ちよりも。
当時の私は、
死んだ人だけ大事にする家だと評していました。
今改めて考えると、
実は親も宗教に縛られていたように思えます。
信仰の喜びが両親から感ぜられなかったからです。
死んだ人を大事にするために、やらねばならないことばかりの、義務感ばかりが際立っていました。
言葉は、気づきを促します。
救いにつながります。
最近の救いにつながる言葉は、他に、
ヤングケアラーがあります。
幼い頃から、親の世話をすることが役目となって、自分の人生に大きな制限がかかっている人って感じです。
これも私です。
精神疾患や障害のためや、宗教のことで手一杯で、
いろいろなことがおろそかになる両親に配慮するのが子である私の役目でした。
そうじゃないと、家が持たないのです。
暮らしがやっていけないのです。
これまた最近、
親を捨ててもいいですか? という刺激的なNHKの番組がありました。
NHKのクローズアップ現代+です。
URLは、
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4541/index.html
どんな親でも捨ててはならないという世間の常識に呪われている大人になった被虐待児。
って印象を持ちました。
嫌なら会わなければいいじゃない。
縁を切ればいいじゃない。
という、これまた世間の常識にもとづく通説が役立たないことが明らかにされます。
家族は家族の世話を、親の世話を焼くもんだという社会の常識があるために、
たといしばらく会わなくても、縁を切ったとしても、
親が死んだとき、病院に入院したとき、などひどい状態で、
連絡を受けた方としては逃げられない状態で、
自分の元に親とのつながりが無理矢理やってくる予想ができるから、
親を捨てられない。
なんだか、
結局つけが回ってくる感じ。
だから、そういう夢は捨てて親と関わり続ける。
親の世話を焼く。
番組に出た当事者の人は、そんな感じなんだろうなと思えました。
私も同様です。
結局、社会は家族とつなげて来る。
それが社会常識的に正しいことだから。
戸籍でつながっているから。
そんな予想がつくから、親と縁が切れた人生を捨てている。
親がつきまとわない人生を捨てている。
そんな人たちに、
親を捨てる。
という言葉は、救いになるかもしれません。
実のところ、そういう心持ちになると、
親との新しい関わり方ができるようになるようです。
親の世話を専門業者に頼むとか、割り切って世話を焼き、新しい関係を築くとか。
いろいろ。
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アダルトチルドレン
心理・カウンセリング
社会のこと
過去の出来事
トラウマ
聞風坊
2021-06-12T06:00:00+09:00
-
子どもの頃、聞こえがおかしかったのでした。
http://monpubowblog.miyachan.cc/e573238.html
子どもの頃、
ふいに、
相手との距離が遠のき、
相手の話し声や周囲の音がピッチを上げて聞こえてくることがよくありました。
古い言い方だとテープの早回しのように、
今風に言うと動画2倍速再生的に、
相手が早口になり、周囲の音、世界の音が高音になって聞こえてくる感じ。
あるいは、
相手との間に透明なゼリーの壁ができたように、
または、
水の中から、水上の音を聞いているような感じ。
声や音が遠く、そしてぼやっとしてて、響くんです。
子どもの頃、しょっちゅうありました。
その頃は、
いつも耳鳴りしてましたので(実は今でも)、ストレス性の難聴だったかもしれませんね。
※急性低音障害型感音難聴
他には、
離人症・離人感にも当てはまりそう。
世界から遠ざかる感じ。
世界がなんとなくくすんで見えたり、時間の感覚が早くなったり遅くなったり。
逆境のように強いストレスがかかると、感覚(知覚)が変わるんだそうです。
そういえば、今ここで起きていることを以前に一度経験した感じ=デジャビュ・既視感もしょっちゅう感じてました。
現実感がしばしば失われていたんでしょうね。
離人とは少し違うようですが、
子どもの頃、
ぼーっとすることがよくありました。
意識が飛んでいたのでしょう。
あるいは、
空想していたのかも。
他人からは判別しづらいでしょう
だって、本人ですら、
空想していたのか意識をなくしていたのかの境界は曖昧ですもの。
自覚していたこととしては、
空想しているときだけが唯一の楽しい時間だったこと。
道具も準備もいらない。
いつでもどこでも空想ならできる。
邪魔されない唯一の楽しみ。
きっと、
空想の世界に浸ることで、心の安定を保っていたのでしょう。
逆境のストレスに耐えようとしていたのでしょう。
そうやってしのいだんです。
生き延びたんです。
ある意味、別世界に生きることで。
でも、
子どもの最善を考えるところの支援者にかかっては、これはただの問題行動になっちゃうかしら。
くわばらくわばら。
とはいえ、問題も起きます。
なにごとも度が過ぎると、暮らしに悪い影響が出てきます。
よい空想だとしても、現実離れしていると、周囲と調和できない。話がかみ合わない。
いわゆる浮いてしまう。
バカと思われてしまう。
荒唐無稽な現実離れしたバカなことばかり考えてて、それが現実的に正しいことと思ってるから。
きっといずれ超能力が開花してとか、魔力を手に入れてとか・・・。
逆に悪い空想が過ぎて、悪いことが絶対起きそうな気持ちにもなってくることもあります。
必ず悪いことが起きる、絶対最悪の事態が起きる、どんどん悪くなっていく、
こんな感じ。
実はそうとは限らないのに。そんな気が強くしてくる。そんな世界にはまっていく感覚。
被害妄想です。
だまされる、つきまとわれる、病気になる、大けがする、大事故を起こす・・・。
こうなると、暮らしづらくなってしまいます。
空想の程度の調整が必要になってくるでしょう。
気持ちが穏やかでないときに空想・妄想することが多いので、
呼吸を整えて、心をリズムを整えて。
ふいに、
相手との距離が遠のき、
相手の話し声や周囲の音がピッチを上げて聞こえてくることがよくありました。
古い言い方だとテープの早回しのように、
今風に言うと動画2倍速再生的に、
相手が早口になり、周囲の音、世界の音が高音になって聞こえてくる感じ。
あるいは、
相手との間に透明なゼリーの壁ができたように、
または、
水の中から、水上の音を聞いているような感じ。
声や音が遠く、そしてぼやっとしてて、響くんです。
子どもの頃、しょっちゅうありました。
その頃は、
いつも耳鳴りしてましたので(実は今でも)、ストレス性の難聴だったかもしれませんね。
※急性低音障害型感音難聴
他には、
離人症・離人感にも当てはまりそう。
世界から遠ざかる感じ。
世界がなんとなくくすんで見えたり、時間の感覚が早くなったり遅くなったり。
逆境のように強いストレスがかかると、感覚(知覚)が変わるんだそうです。
そういえば、今ここで起きていることを以前に一度経験した感じ=デジャビュ・既視感もしょっちゅう感じてました。
現実感がしばしば失われていたんでしょうね。
離人とは少し違うようですが、
子どもの頃、
ぼーっとすることがよくありました。
意識が飛んでいたのでしょう。
あるいは、
空想していたのかも。
他人からは判別しづらいでしょう
だって、本人ですら、
空想していたのか意識をなくしていたのかの境界は曖昧ですもの。
自覚していたこととしては、
空想しているときだけが唯一の楽しい時間だったこと。
道具も準備もいらない。
いつでもどこでも空想ならできる。
邪魔されない唯一の楽しみ。
きっと、
空想の世界に浸ることで、心の安定を保っていたのでしょう。
逆境のストレスに耐えようとしていたのでしょう。
そうやってしのいだんです。
生き延びたんです。
ある意味、別世界に生きることで。
でも、
子どもの最善を考えるところの支援者にかかっては、これはただの問題行動になっちゃうかしら。
くわばらくわばら。
とはいえ、問題も起きます。
なにごとも度が過ぎると、暮らしに悪い影響が出てきます。
よい空想だとしても、現実離れしていると、周囲と調和できない。話がかみ合わない。
いわゆる浮いてしまう。
バカと思われてしまう。
荒唐無稽な現実離れしたバカなことばかり考えてて、それが現実的に正しいことと思ってるから。
きっといずれ超能力が開花してとか、魔力を手に入れてとか・・・。
逆に悪い空想が過ぎて、悪いことが絶対起きそうな気持ちにもなってくることもあります。
必ず悪いことが起きる、絶対最悪の事態が起きる、どんどん悪くなっていく、
こんな感じ。
実はそうとは限らないのに。そんな気が強くしてくる。そんな世界にはまっていく感覚。
被害妄想です。
だまされる、つきまとわれる、病気になる、大けがする、大事故を起こす・・・。
こうなると、暮らしづらくなってしまいます。
空想の程度の調整が必要になってくるでしょう。
気持ちが穏やかでないときに空想・妄想することが多いので、
呼吸を整えて、心をリズムを整えて。
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心理・カウンセリング
過去の出来事
トラウマ
聞風坊
2021-06-08T06:00:00+09:00
-
虐待・逆境体験が聞く力に悪い影響を与えていること
http://monpubowblog.miyachan.cc/e573206.html
虐待などの逆境体験があると、脳の一部が小さくなったり大きくなったりするそうです。
記憶を司る部分や、
見ることを司る部分は小さくなり、
聞くことを司る部分は大きくなる(またはそのままの大きさでいる)。
いつもの通り経験に照らして、このこと、特に聞くことを司る部分について考えたことを記したいと思います。
目や耳などの感覚器官は、
危険を察知するセンサーとしても優秀です。
目は、危険なものをいち早く見つけ、
耳は、危険な音を聞き分け、
鼻や舌は、危険な匂いや味に敏感です。
目や耳や鼻は、危険なナニカを察知します。
ナニカの影だったり様子だったり、
ナニカの音だったり、匂いだったり。
このうち、
目は、暗闇では察知できません。遮蔽物があっても同様。
鼻は、暗闇でも遮蔽物があっても大丈夫ですが、ある程度近くないと、または自分が風下でないと察知できません。
耳は、暗闇でも、ある程度の遮蔽物があっても、風下でも、大丈夫。
危険な音は、
人の声、人がたてる音、機械や道具などの物(環境)ががたてる音、動物がたてる音と色々あります。
いわゆる不快な音です。
不快な音であってもさしあたり危険ではない音もあります。
逆に、通常の音の中に、危険が潜んでいることもあります。
どれが危険でどれが危険でないかの判別はとても難しい。
境界はあやふやです。
大爆笑と悲鳴の差は聞き分けづらい。
一般的には、聞くための神経系は、人の声をよく聞き取るように発達するのだそうです。
都合、
それ以外の音を聞き取る神経は発達しない(=刈り込まれる)ので、結果的に脳の容積は適度に減るのだそうです。
余分な物をそぎ落として動きがよくなる感じでしょうか。
虐待・逆境にある人は、
この刈り込みが少ないみたいです。
そのため、結果的に容積が減らない、肥大してる感じになるとか。
親など自分を養ってくれる人の声に敏感に反応することは生きる上で大事です。
同様に、危険な音について敏感に反応することも大事です。
虐待・逆境状態では、
相反する意味合いを持つ二つの音が混在しています。
だから、
良いこと(自分のためになる良い音)と悪いこと(自分に害のある悪い音)が分別しづらい。
そのため、
どの音をよく聞き取れるようにした方がいいのか判断しづらくなり、
どの神経回路を残して、どれを捨てればいいかが選択できなくなってしまいます。
この結果、神経回路の刈り込みが進まない。
わさ~っと雑木林のような神経網のままで成長する。
※みかけ肥大してる
って仕組みらしいです。
この仕組み、言葉の理解ができる年頃であれば、
暴言を聞こえづらくする効果があるかもしれませんね。
暴言の信号が脳に届きづらくなるのだもの。
※自己防衛。
でも、この都合から、
聞こえの問題というか困難が生じているかもしれません。
人の言うことがよく聞き取れないとか、よく理解できないとか、雑音が邪魔して気が散るとか、落ち着かないとか、緊張し続けるとか。
特に、
暴言、辱め、侮辱、屈辱の言葉を浴びたのならば、
それらの侮辱・攻撃・破壊を意味する言葉を聞き取らないように脳が変化するかもしれません。
ひょっとすると、
いっそのこと人が発する言葉または音声全般を敏感に聞き取らないようにしてしまうかも。
視覚野が縮小することで暴力を見ないように、
海馬が縮小し恐怖や嫌悪を記憶しないように、
前頭野の働きを制限して体罰暴力にとっさに反応(攻撃・逃避)できるように、
脳が変化するのと同様に。
さて、
言葉を使って、知識は伝わってきます。
言葉を聞かないようにしているために、
知識が伝わりづらくなって、しかも記憶の機能も落ちているとなれば、学力が高まりづらくなるでしょう。
都合、
勉強に苦労することになりがち。
人の話を聞かない、理解に手間取る、勉強ができない、集中力がない、落ち着かない、
などの問題行動と呼ばれる行動をよくやる人(子どもや大人になった子ども)は、このような問題を抱えているかもしれません。
私が子どもの頃そうであったように。・・・今でもね。
記憶を司る部分や、
見ることを司る部分は小さくなり、
聞くことを司る部分は大きくなる(またはそのままの大きさでいる)。
いつもの通り経験に照らして、このこと、特に聞くことを司る部分について考えたことを記したいと思います。
目や耳などの感覚器官は、
危険を察知するセンサーとしても優秀です。
目は、危険なものをいち早く見つけ、
耳は、危険な音を聞き分け、
鼻や舌は、危険な匂いや味に敏感です。
目や耳や鼻は、危険なナニカを察知します。
ナニカの影だったり様子だったり、
ナニカの音だったり、匂いだったり。
このうち、
目は、暗闇では察知できません。遮蔽物があっても同様。
鼻は、暗闇でも遮蔽物があっても大丈夫ですが、ある程度近くないと、または自分が風下でないと察知できません。
耳は、暗闇でも、ある程度の遮蔽物があっても、風下でも、大丈夫。
危険な音は、
人の声、人がたてる音、機械や道具などの物(環境)ががたてる音、動物がたてる音と色々あります。
いわゆる不快な音です。
不快な音であってもさしあたり危険ではない音もあります。
逆に、通常の音の中に、危険が潜んでいることもあります。
どれが危険でどれが危険でないかの判別はとても難しい。
境界はあやふやです。
大爆笑と悲鳴の差は聞き分けづらい。
一般的には、聞くための神経系は、人の声をよく聞き取るように発達するのだそうです。
都合、
それ以外の音を聞き取る神経は発達しない(=刈り込まれる)ので、結果的に脳の容積は適度に減るのだそうです。
余分な物をそぎ落として動きがよくなる感じでしょうか。
虐待・逆境にある人は、
この刈り込みが少ないみたいです。
そのため、結果的に容積が減らない、肥大してる感じになるとか。
親など自分を養ってくれる人の声に敏感に反応することは生きる上で大事です。
同様に、危険な音について敏感に反応することも大事です。
虐待・逆境状態では、
相反する意味合いを持つ二つの音が混在しています。
だから、
良いこと(自分のためになる良い音)と悪いこと(自分に害のある悪い音)が分別しづらい。
そのため、
どの音をよく聞き取れるようにした方がいいのか判断しづらくなり、
どの神経回路を残して、どれを捨てればいいかが選択できなくなってしまいます。
この結果、神経回路の刈り込みが進まない。
わさ~っと雑木林のような神経網のままで成長する。
※みかけ肥大してる
って仕組みらしいです。
この仕組み、言葉の理解ができる年頃であれば、
暴言を聞こえづらくする効果があるかもしれませんね。
暴言の信号が脳に届きづらくなるのだもの。
※自己防衛。
でも、この都合から、
聞こえの問題というか困難が生じているかもしれません。
人の言うことがよく聞き取れないとか、よく理解できないとか、雑音が邪魔して気が散るとか、落ち着かないとか、緊張し続けるとか。
特に、
暴言、辱め、侮辱、屈辱の言葉を浴びたのならば、
それらの侮辱・攻撃・破壊を意味する言葉を聞き取らないように脳が変化するかもしれません。
ひょっとすると、
いっそのこと人が発する言葉または音声全般を敏感に聞き取らないようにしてしまうかも。
視覚野が縮小することで暴力を見ないように、
海馬が縮小し恐怖や嫌悪を記憶しないように、
前頭野の働きを制限して体罰暴力にとっさに反応(攻撃・逃避)できるように、
脳が変化するのと同様に。
さて、
言葉を使って、知識は伝わってきます。
言葉を聞かないようにしているために、
知識が伝わりづらくなって、しかも記憶の機能も落ちているとなれば、学力が高まりづらくなるでしょう。
都合、
勉強に苦労することになりがち。
人の話を聞かない、理解に手間取る、勉強ができない、集中力がない、落ち着かない、
などの問題行動と呼ばれる行動をよくやる人(子どもや大人になった子ども)は、このような問題を抱えているかもしれません。
私が子どもの頃そうであったように。・・・今でもね。
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心理・カウンセリング
トラウマ
聞風坊
2021-05-27T06:00:00+09:00
-
虐待の連鎖という言葉は配慮がないと思う。
http://monpubowblog.miyachan.cc/e573118.html
支援者や専門家がまことしやかに胸を張ってさも正しいことのように口にするワードのうち、
どうにも受け入れられないものがいくつかありますので、列記することにしました。
お役に立てれば幸いです。
1、虐待の連鎖
虐待予防の場面で必ずと言っていいほど出てくる言葉です。
虐待した親が、子どもだった頃に虐待を受けていたというエビデンスに基づいて、こう言っているのだろうけど、
かつて虐待を受けていたところの、今では親になった子どものほとんど全員が虐待しているというエビデンスはありません。
それは、
虐待を受けた人は将来虐待をする!
とは言い切れないということ。
※虐待した人のほとんどが過去に虐待を受けていたと言うことはしっかり言えるだろうけど。
でも、
虐待の連鎖という言葉・ワードが一人歩きしているせいで、自分は虐待をするんだという呪いをかけられている被虐待児や大人になった被虐待児はたくさんいる感じ。
ややもすると、
自分は犯罪者予備軍だという感覚で怯えて生きている人たち。
こういうのをスティグマと言います。
心に刻まれた烙印ですね。
実のところ、
虐待していない被虐待児や大人になった被虐待児は多いと言う知見も見聞きします。
※被虐待経験者の多くは虐待しないって知見です。
自分の経験を自己の反面教師にしているからと思います。
虐待しないように日頃から意識している。
自分が受けた仕打ちを誰かにしないように誓っている。
こういうことから、
被虐待児・者への支援をする者が、この言葉・ワードを使うときは、とても慎重にならないといけないと思うのです。
加害し、その自分の行為に打ちひしがれている人に対して、あなたの人間性の問題じゃない、虐待を受けたことが原因なんだ。
という意味で使うのは理解できます。
その人の心のケアを意図した利用の仕方ですね。
一方で、
多数の人向けに、予防の意味で使う際は、多数の中に混じっているかつて虐待を受けた人たちが支援者が発するその言葉をどう受け止めるかについて、
くれぐれも思いやらねばならないと思うのです。
虐待についてなにかを伝えるときに、やみくもに判で押したように、軽々しく口にしてはならない! って。
支援者は、
自分たちが、支援対象者にスティグマを押し、そしておとしめて苦しめていることに鈍感であってはなりません。
2、問題行動
問題のある行動という意味ですね。
だから、
大人や支援者が矯正してもいい行動だ。
という意味合いで使われている感じです。
それは、
大人や支援者は、自分たちはまったくいつも正しい人だ!
だって、
自分たちはそんな存在だからだ!
という認識に基づいてる感じの言葉・ワードです。
問題行動。
ただ、パニクってるからやってるんだとか、
そういう社会適応の仕方(行動パターン)しか知らないとか、
それが実は、その子にとってその人にとっての唯一やりなれた問題解決行動だとかって見方・評価はありません。
問題行動。このワードは、
逆境体験の中で生き抜いてきた、
そうしないと生き残ることができなかった、
そのやり方で生き延びてきたところの支援対象者(子どもたちや大人になった子どもたち)の
心理への配慮が不足する一言ですね。
これについても、
支援者のこの姿勢によって、
逆境を体験した子どもや大人になった子どもたちは、
自分はこれからも問題行動を起こす人間だ。
これまでも問題行動ばかりしていたダメな人間だった。
という認識を持つかもしれません。
スティグマです。
支援者は、
支援をしている人と支援はしてないけど支援対象に当てはまる人たちに、
自分たちがスティグマを押し、その人たちをおとしめ苦しめていることに鈍感であってはなりません。
3、試し行動
(子育て系)業界では、養育者がどれくらい自分に配慮してくれるかを試すことを目的に、子どもがいろいろわがままをすることをこう呼ぶならわしのようです。
ニュアンス的には問題行動の範疇です。
被虐待児童は、まずやるんだそうです。
養育者が、自分が試されているような気になるからこう呼ぶようになったのでしょうね。
子どもが自分に嫌がらせや意地悪して私を困らせるって感じ。
自分の養育能力が試されてる、愛情がテストされてる、自分の包容力の限界をテストされてるって重圧感を持つのかしら。
英語訳はtesting of limitsらしいです。
※私未だに最初に言い出した人は誰か見つけきれません。原著・出典にたどり着けていません。
工業系の言葉に、
限界評価試験っていうのがありますが、これに近いかしら。
さて、この限界を見定める行為。
私は、
親の限界を見定める意地悪な行為と言うよりも、むしろ、
新しい世界(人間関係・ルール・安全な環境)で自分がどれくらいやっていいのか試してる(テストしてる)感じじゃないかと思っています。
※経験的に。
自分の振るまいがどこまでなら問題が起きないか?
どういうのが正しくて、どういうのから良くないことになるのか?
どんなことまで自分は安全でいられるか?
その限界を見極めようとしている感じ。
これまで生きてきた世界では、
それ以上はダメよって限界・境界までの距離がとても短かったり、
日によって、(養育者の気分次第で)あやふやだったりしたけど、
どうもここでは、
これまでのやり方とは全然違うやり方でやっていかないとならないようだし。
そしてなんかそれ良さそうだし。
どれをやっていいのか?
どこまでやっていいのか? この世界は?
どれくらい安定しているのか? ここは?
どんな反応があるのか? 今度の人たちは?
を評価試験しているんじゃないかしら。
悪意とか、意地悪とかって気持ちからじゃなく、
純粋にクールに自分の置かれた環境を評価する意図で。
あるいは、
お互いに、いい関係でいられるように。
その行為は、
新しい社会のルールを体験によって学ぼうとしているようにも思えます。
ある意味、探索行動。
養育者に挑むって言うより。
世界を再探索している感じ。
最近、
横断歩道の前で歩行者が横断待ちしていたら、車は停止する。
ってルールが強調されていますが、
これぐらいで止まればいいんだなとか、こんな風に注意して走行しとけばいいんだなとか、
走行中のルールを再点検したドライバーは多いんじゃないかしら。
きっとこの感覚に近いと思う。
で、今のでよかった?
って同乗者に尋ねたりして。
砕けた言い方をすれば、
さぐりさぐりやってる。
そうして手応えを得ようとしている。
だって、見知らぬ世界だもの。
そういう意味合いもあるだろうに、
※他には、純粋にトラウマ反応でなじみのあるそのやり方をやっているだけって場合もあるでしょう。
あるいは、
Tryingと言う意味での試すの要素もあるように思えます。
試みてみる。試しにやってみるって意味。
これだと、主体的に取り組んでる感じ。問題行動じゃない。
だって、
試行錯誤はとても大事な学びの形態だもの。
だのに、
支援者や養育者は、一律自分が試されている、挑まれてる、テストされてると定義するのです。
訳知り困り顔で支援対象の子どもや大人になった子どもたちをまなざして。
これこそ、問題行動のような気がします。
※でも、これは誰も矯正しません。矯正されるのはいつも弱者の子ども・当事者ばかり。
だって、支援者・養育者はいつも正しいのだもの。
一方で、
試し行動というワードを知ったところの、
虐待・逆境を体験した子どもや大人になった子どもたちは、
自分は、親密な大人に対して、優しくしてくれる大人に対して、
あるいは(性的にも)親密な関係になった人たちに対して、
その人たちを
試す行為をする人だ。
という認識を持っているかもしれません。
人を試す行為は、世界的に歓迎されません。
歓迎されないことをする自分は、よくありません。ダメです。
つまり、
自分は悪い子、悪い人。ダメな子。ダメ人間。という認識を持っているかもしれません。
スティグマです。
支援者は、
支援をしている人と支援はしてないけど支援対象に当てはまる人たちに、
自分たちがスティグマを押し、その人たちをおとしめ苦しめていることに鈍感であってはなりません。
さてこれらのスティグマ。
あまり意識されていません。
虐待・逆境体験者自身が、自分がスティグマを負っていることや、
支援者たちが、誰かにスティグマを捺していることを気づきづらいのは、
私たちがフツーに、
そういう傷を負うことを、
誰かから誤解され、誰かを誤解することを仕方のないことだと織り込んで日常を生きている、
日々を営んでいるからでしょう。
でも実際は、思った以上に傷んでるんです。
スティグマを捺された人たちは。
はやりの歌のフレーズを援用するならば、
あなたが思うより不健康です!
ってな感じなんです。
支援者は、このことに思いを致さねばなりません。
だって、
あえて捺さなくていいんだもの。
どうにも受け入れられないものがいくつかありますので、列記することにしました。
お役に立てれば幸いです。
1、虐待の連鎖
虐待予防の場面で必ずと言っていいほど出てくる言葉です。
虐待した親が、子どもだった頃に虐待を受けていたというエビデンスに基づいて、こう言っているのだろうけど、
かつて虐待を受けていたところの、今では親になった子どものほとんど全員が虐待しているというエビデンスはありません。
それは、
虐待を受けた人は将来虐待をする!
とは言い切れないということ。
※虐待した人のほとんどが過去に虐待を受けていたと言うことはしっかり言えるだろうけど。
でも、
虐待の連鎖という言葉・ワードが一人歩きしているせいで、自分は虐待をするんだという呪いをかけられている被虐待児や大人になった被虐待児はたくさんいる感じ。
ややもすると、
自分は犯罪者予備軍だという感覚で怯えて生きている人たち。
こういうのをスティグマと言います。
心に刻まれた烙印ですね。
実のところ、
虐待していない被虐待児や大人になった被虐待児は多いと言う知見も見聞きします。
※被虐待経験者の多くは虐待しないって知見です。
自分の経験を自己の反面教師にしているからと思います。
虐待しないように日頃から意識している。
自分が受けた仕打ちを誰かにしないように誓っている。
こういうことから、
被虐待児・者への支援をする者が、この言葉・ワードを使うときは、とても慎重にならないといけないと思うのです。
加害し、その自分の行為に打ちひしがれている人に対して、あなたの人間性の問題じゃない、虐待を受けたことが原因なんだ。
という意味で使うのは理解できます。
その人の心のケアを意図した利用の仕方ですね。
一方で、
多数の人向けに、予防の意味で使う際は、多数の中に混じっているかつて虐待を受けた人たちが支援者が発するその言葉をどう受け止めるかについて、
くれぐれも思いやらねばならないと思うのです。
虐待についてなにかを伝えるときに、やみくもに判で押したように、軽々しく口にしてはならない! って。
支援者は、
自分たちが、支援対象者にスティグマを押し、そしておとしめて苦しめていることに鈍感であってはなりません。
2、問題行動
問題のある行動という意味ですね。
だから、
大人や支援者が矯正してもいい行動だ。
という意味合いで使われている感じです。
それは、
大人や支援者は、自分たちはまったくいつも正しい人だ!
だって、
自分たちはそんな存在だからだ!
という認識に基づいてる感じの言葉・ワードです。
問題行動。
ただ、パニクってるからやってるんだとか、
そういう社会適応の仕方(行動パターン)しか知らないとか、
それが実は、その子にとってその人にとっての唯一やりなれた問題解決行動だとかって見方・評価はありません。
問題行動。このワードは、
逆境体験の中で生き抜いてきた、
そうしないと生き残ることができなかった、
そのやり方で生き延びてきたところの支援対象者(子どもたちや大人になった子どもたち)の
心理への配慮が不足する一言ですね。
これについても、
支援者のこの姿勢によって、
逆境を体験した子どもや大人になった子どもたちは、
自分はこれからも問題行動を起こす人間だ。
これまでも問題行動ばかりしていたダメな人間だった。
という認識を持つかもしれません。
スティグマです。
支援者は、
支援をしている人と支援はしてないけど支援対象に当てはまる人たちに、
自分たちがスティグマを押し、その人たちをおとしめ苦しめていることに鈍感であってはなりません。
3、試し行動
(子育て系)業界では、養育者がどれくらい自分に配慮してくれるかを試すことを目的に、子どもがいろいろわがままをすることをこう呼ぶならわしのようです。
ニュアンス的には問題行動の範疇です。
被虐待児童は、まずやるんだそうです。
養育者が、自分が試されているような気になるからこう呼ぶようになったのでしょうね。
子どもが自分に嫌がらせや意地悪して私を困らせるって感じ。
自分の養育能力が試されてる、愛情がテストされてる、自分の包容力の限界をテストされてるって重圧感を持つのかしら。
英語訳はtesting of limitsらしいです。
※私未だに最初に言い出した人は誰か見つけきれません。原著・出典にたどり着けていません。
工業系の言葉に、
限界評価試験っていうのがありますが、これに近いかしら。
さて、この限界を見定める行為。
私は、
親の限界を見定める意地悪な行為と言うよりも、むしろ、
新しい世界(人間関係・ルール・安全な環境)で自分がどれくらいやっていいのか試してる(テストしてる)感じじゃないかと思っています。
※経験的に。
自分の振るまいがどこまでなら問題が起きないか?
どういうのが正しくて、どういうのから良くないことになるのか?
どんなことまで自分は安全でいられるか?
その限界を見極めようとしている感じ。
これまで生きてきた世界では、
それ以上はダメよって限界・境界までの距離がとても短かったり、
日によって、(養育者の気分次第で)あやふやだったりしたけど、
どうもここでは、
これまでのやり方とは全然違うやり方でやっていかないとならないようだし。
そしてなんかそれ良さそうだし。
どれをやっていいのか?
どこまでやっていいのか? この世界は?
どれくらい安定しているのか? ここは?
どんな反応があるのか? 今度の人たちは?
を評価試験しているんじゃないかしら。
悪意とか、意地悪とかって気持ちからじゃなく、
純粋にクールに自分の置かれた環境を評価する意図で。
あるいは、
お互いに、いい関係でいられるように。
その行為は、
新しい社会のルールを体験によって学ぼうとしているようにも思えます。
ある意味、探索行動。
養育者に挑むって言うより。
世界を再探索している感じ。
最近、
横断歩道の前で歩行者が横断待ちしていたら、車は停止する。
ってルールが強調されていますが、
これぐらいで止まればいいんだなとか、こんな風に注意して走行しとけばいいんだなとか、
走行中のルールを再点検したドライバーは多いんじゃないかしら。
きっとこの感覚に近いと思う。
で、今のでよかった?
って同乗者に尋ねたりして。
砕けた言い方をすれば、
さぐりさぐりやってる。
そうして手応えを得ようとしている。
だって、見知らぬ世界だもの。
そういう意味合いもあるだろうに、
※他には、純粋にトラウマ反応でなじみのあるそのやり方をやっているだけって場合もあるでしょう。
あるいは、
Tryingと言う意味での試すの要素もあるように思えます。
試みてみる。試しにやってみるって意味。
これだと、主体的に取り組んでる感じ。問題行動じゃない。
だって、
試行錯誤はとても大事な学びの形態だもの。
だのに、
支援者や養育者は、一律自分が試されている、挑まれてる、テストされてると定義するのです。
訳知り困り顔で支援対象の子どもや大人になった子どもたちをまなざして。
これこそ、問題行動のような気がします。
※でも、これは誰も矯正しません。矯正されるのはいつも弱者の子ども・当事者ばかり。
だって、支援者・養育者はいつも正しいのだもの。
一方で、
試し行動というワードを知ったところの、
虐待・逆境を体験した子どもや大人になった子どもたちは、
自分は、親密な大人に対して、優しくしてくれる大人に対して、
あるいは(性的にも)親密な関係になった人たちに対して、
その人たちを
試す行為をする人だ。
という認識を持っているかもしれません。
人を試す行為は、世界的に歓迎されません。
歓迎されないことをする自分は、よくありません。ダメです。
つまり、
自分は悪い子、悪い人。ダメな子。ダメ人間。という認識を持っているかもしれません。
スティグマです。
支援者は、
支援をしている人と支援はしてないけど支援対象に当てはまる人たちに、
自分たちがスティグマを押し、その人たちをおとしめ苦しめていることに鈍感であってはなりません。
さてこれらのスティグマ。
あまり意識されていません。
虐待・逆境体験者自身が、自分がスティグマを負っていることや、
支援者たちが、誰かにスティグマを捺していることを気づきづらいのは、
私たちがフツーに、
そういう傷を負うことを、
誰かから誤解され、誰かを誤解することを仕方のないことだと織り込んで日常を生きている、
日々を営んでいるからでしょう。
でも実際は、思った以上に傷んでるんです。
スティグマを捺された人たちは。
はやりの歌のフレーズを援用するならば、
あなたが思うより不健康です!
ってな感じなんです。
支援者は、このことに思いを致さねばなりません。
だって、
あえて捺さなくていいんだもの。
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アダルトチルドレン
トラウマ
聞風坊
2021-05-19T06:00:00+09:00
-
家が安全基地でないのなら
http://monpubowblog.miyachan.cc/e572945.html
理想的な家というか、家族関係・親子関係について、
親・保護者が子の
安全基地となっている。
という喩えは有名です。
基地というのは、そこが基盤になって、外に出て行く場所。
そのために、
食事、睡眠、怪我や病気の療養、娯楽など休息をとり、傷を癒やし、心を身体を養う場所。
外で消費したエネルギー充填の場。
消耗損傷回復の場。
基地が安全で、健康的で、安心できるから、
そこを足場にして、踏み台にして、外に出るのです。
もしそこが、安全でもなく、健康的でもなく、安心でもない場所だとしたら、
外に出るエネルギーは蓄えられません。
消耗や損傷が回復されないので、また再び外で活動する状態になりません。
都合、外出しづらくなります。
それだけでなく、
自助努力によって獲得したところの家での少しばかりの休息、癒やしの機会によって、
多少なりとも共有されるエネルギーや心身の回復、
あるいは、
外で他者や自然環境との関わりで、
少しばかり蓄えられたエネルギーや心身の健康すら、
親・保護者との関わりで消失してしまうこともあります。
虐待環境、マルトリートメント環境、逆境環境、
家族がアルコールなどの依存症者などである場合、
ヤングケアラーである場合、
などは、
家庭・家族・親・保護者が
安全基地でなくなります。
では何なのか?
考えてみました。
言葉が色々思い浮かびました。
拘束地帯
危険地帯
牢獄
煉獄
獄舎
収監施設
監獄
総じて、
人が、その人の人生が
囚われる場所。
という感じがしています。
どうぞ家が、
安全な基地でありますように。
親・保護者が子の
安全基地となっている。
という喩えは有名です。
基地というのは、そこが基盤になって、外に出て行く場所。
そのために、
食事、睡眠、怪我や病気の療養、娯楽など休息をとり、傷を癒やし、心を身体を養う場所。
外で消費したエネルギー充填の場。
消耗損傷回復の場。
基地が安全で、健康的で、安心できるから、
そこを足場にして、踏み台にして、外に出るのです。
もしそこが、安全でもなく、健康的でもなく、安心でもない場所だとしたら、
外に出るエネルギーは蓄えられません。
消耗や損傷が回復されないので、また再び外で活動する状態になりません。
都合、外出しづらくなります。
それだけでなく、
自助努力によって獲得したところの家での少しばかりの休息、癒やしの機会によって、
多少なりとも共有されるエネルギーや心身の回復、
あるいは、
外で他者や自然環境との関わりで、
少しばかり蓄えられたエネルギーや心身の健康すら、
親・保護者との関わりで消失してしまうこともあります。
虐待環境、マルトリートメント環境、逆境環境、
家族がアルコールなどの依存症者などである場合、
ヤングケアラーである場合、
などは、
家庭・家族・親・保護者が
安全基地でなくなります。
では何なのか?
考えてみました。
言葉が色々思い浮かびました。
拘束地帯
危険地帯
牢獄
煉獄
獄舎
収監施設
監獄
総じて、
人が、その人の人生が
囚われる場所。
という感じがしています。
どうぞ家が、
安全な基地でありますように。
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ひきこもる
アダルトチルドレン
トラウマ
不登校
聞風坊
2021-05-15T06:00:00+09:00
-
自分の扱いに長けると言うこと
http://monpubowblog.miyachan.cc/e572095.html
東京大学の研究で、
トラウマ記憶を思い出すとよみがえる恐怖を消し去る分子スイッチが発見されたとの記事を読んで考えたことです。
当該サイトURLは、
https://www.a.u-tokyo.ac.jp/topics/topics_20210224-1.html
脳科学に関する極めて専門性の高い論文のようなので、
いつもの通り、私の能力をフル稼働させて解釈した結論を記すと、
恐怖記憶は、恐怖を感じる場に1分以上いると、消え出す。
10分いれば、記憶で恐怖を感じなくなる。
ということらしいです。
恐怖場面に、1分以上居続けることで消去スイッチが入るとか。
このことを、現実的に考えてみました。
いわゆる「馴れ」
なんだろうなと思います。
怖い怖いと怯えて、恐怖を感じる場に行ってみたら、存外問題なかった。
という経験は多くの人が持っているでしょう。
きっとこれです。
その場に身を置いた瞬間は、MAXの恐怖感、恐慌感かもしれません。
でも、しばらくいると、次第に落ち着いてくる。
そして次からは、恐怖感はそう問題でなくなる。
心理療法では、暴露と言って、あえて恐怖を感じる場面を体験する(暴露)することが恐怖の軽減に効果的と言われています。
今回の研究で、そのメカニズムが解明されたことになるのでしょう。
トラウマ当事者目線で考えてみると、これはとても有り難い結果です。
だって、一番困るのは、恐怖に怯えて生活の範囲が狭まることだもの。
そのために、やりたいことがやれないことだもの。
まだ起きてないことであり100%起きるとは言い切れないことだけど、
それが、起きたときはマジでとてもヤバいので、
それが起きそうな兆しを察知しするために、
気を緩めずに周囲を常に警戒しておかねばならないからですね。
おちおち暮らしておれない。
平和に暮らしている場合ではない。
そんな心持ち。
実際は、怖いことが起きる機会はとても少ないのに。
ほとんどが安全な暮らしなのに。
頭では分かっているのに。
身体が怖がってしまう。
だから、
少しでも恐怖が減るやり方を身につければ、
つまり、
恐怖を感じた際の対処法、
恐怖を感じた自分の扱いさえ熟達していれば、
生活していけるもの。
やっていけるもの。
今回、1分後には楽になり始める。
10分しのげば、だいぶいい。
ということが示唆されました。
今後、怖さを感じたは、
とりあえず1分過ぎれば大丈夫。
10分後には落ち着くのだもの。
のワードは安心材料となりそうです。
トラウマ記憶を思い出すとよみがえる恐怖を消し去る分子スイッチが発見されたとの記事を読んで考えたことです。
当該サイトURLは、
https://www.a.u-tokyo.ac.jp/topics/topics_20210224-1.html
脳科学に関する極めて専門性の高い論文のようなので、
いつもの通り、私の能力をフル稼働させて解釈した結論を記すと、
恐怖記憶は、恐怖を感じる場に1分以上いると、消え出す。
10分いれば、記憶で恐怖を感じなくなる。
ということらしいです。
恐怖場面に、1分以上居続けることで消去スイッチが入るとか。
このことを、現実的に考えてみました。
いわゆる「馴れ」
なんだろうなと思います。
怖い怖いと怯えて、恐怖を感じる場に行ってみたら、存外問題なかった。
という経験は多くの人が持っているでしょう。
きっとこれです。
その場に身を置いた瞬間は、MAXの恐怖感、恐慌感かもしれません。
でも、しばらくいると、次第に落ち着いてくる。
そして次からは、恐怖感はそう問題でなくなる。
心理療法では、暴露と言って、あえて恐怖を感じる場面を体験する(暴露)することが恐怖の軽減に効果的と言われています。
今回の研究で、そのメカニズムが解明されたことになるのでしょう。
トラウマ当事者目線で考えてみると、これはとても有り難い結果です。
だって、一番困るのは、恐怖に怯えて生活の範囲が狭まることだもの。
そのために、やりたいことがやれないことだもの。
まだ起きてないことであり100%起きるとは言い切れないことだけど、
それが、起きたときはマジでとてもヤバいので、
それが起きそうな兆しを察知しするために、
気を緩めずに周囲を常に警戒しておかねばならないからですね。
おちおち暮らしておれない。
平和に暮らしている場合ではない。
そんな心持ち。
実際は、怖いことが起きる機会はとても少ないのに。
ほとんどが安全な暮らしなのに。
頭では分かっているのに。
身体が怖がってしまう。
だから、
少しでも恐怖が減るやり方を身につければ、
つまり、
恐怖を感じた際の対処法、
恐怖を感じた自分の扱いさえ熟達していれば、
生活していけるもの。
やっていけるもの。
今回、1分後には楽になり始める。
10分しのげば、だいぶいい。
ということが示唆されました。
今後、怖さを感じたは、
とりあえず1分過ぎれば大丈夫。
10分後には落ち着くのだもの。
のワードは安心材料となりそうです。
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心理・カウンセリング
トラウマ
聞風坊
2021-04-22T06:00:00+09:00
-
お小遣いもらってもうれしくないこと
http://monpubowblog.miyachan.cc/e572045.html
マルトリートメントや虐待などは、子どもの脳のいろいろな部分に影響があるそうです。
参考サイト
防ごう! まるとり マルトリートメント
URLは、
https://marutori.jp/?fbclid=IwAR1ewmrh0OP5CdIZVMT7E30UcVMI_aLRF3KDxyO-MwmoUqYfjwCP8bx72TY
このうち、報酬系と呼ばれる部分にも大きな影響があるのだそうです。
人や動物は、
自分の行動の結果から、何かご褒美をもらうと、それがうれしかったので、また同じ行動をしよう。
と元気に行動的になっていきます。
この行動とご褒美(報酬)の関係に影響する、脳の線条体という部分に影響が出て、
報酬をもらっても、つまり褒められても、お小遣いをもらっても、いい成績を取っても、友達から優しくされても、
そんなに心が動かなくなるみたいなんです。
※都合、行動が活発にならない。
報酬があってもうれしくない。
なんとなく分かります。
お小遣いをもらっても、そんなにうれしくない。
成績がよくても、褒められても、友達と仲良く楽しくやってても・・・。
だって・・・。
どうせ・・・。
という感覚。
経験的に知っています。
さて、
最新の経済系の理論にプロスペクト理論というのがあるそうです。
これによると、今よりとてもよい状態になることが予測できると、人の心は動いてその状態に向かってアクションを起こしやすいのだそうです。
※恋人ができたら人生がバラ色になる! と予測したら、積極的になるんじゃないかしら。
一方で、今よりそんなによい状態にはなれないなと予測する場合は、むしろ何か変化を起こすことで今より悪くなることが気がかりで、よりよくなるためのアクションは起こしにくいのだとか。
※恋人ができたところで・・・。
そういえば、
持病のある人はコロナワクチン接種の不安が大きい。と言う調査結果が出たというニュースもありました。
NHKWEBサイト
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210322/k10012928011000.html
今、ワクチンを打てば元気はつらつな生活が送れる!
となると、ワクチン接種のアクションを起こしやすいけど、
今、やめたところで持病は治んないし、むしろ副反応の方が心配だわ。
となると、アクションを起こす気になりません。
きっとこういうことなのでしょう。
多少褒められたり、少しばかりいいことがあって、喜びや自信が増したとしても、
基本的に不幸な状態が大きく変わるとは思えない。
そんな状況の人の脳の報酬系が発達しないことは、
プロスペクト理論的にも、理解できそうに思えたのでした。
こんなことから、
自己肯定感を上げたり、望ましい行動を増やすために、
褒めること(報酬)が通用しない人。
っているように思えます。
褒めりゃいいってもんじゃない。
逆にしらける。
それを褒められたところで人生が好転する気がしないもの。
ちっとそっといいことがあったぐらいで人生がよくなるとも思えないもの。
そんな思いで暮らしている人は。
ちなみに、
プロスペクト理論では、
現状がとてもよくないと思っているときは、リスクをとって現状打破にチャレンジするとか。
飲酒で人生が心底どうにもならなくなったら、人生の唯一のよりどころである酒を手放し、酒のない生活という人生最大のリスクをとるようになるのかもしれませんね。
底付きと呼ばれています。
どんないいことがあるか?
という期待が、人の判断に大きく影響を与えるという話でした。
参考サイト
防ごう! まるとり マルトリートメント
URLは、
https://marutori.jp/?fbclid=IwAR1ewmrh0OP5CdIZVMT7E30UcVMI_aLRF3KDxyO-MwmoUqYfjwCP8bx72TY
このうち、報酬系と呼ばれる部分にも大きな影響があるのだそうです。
人や動物は、
自分の行動の結果から、何かご褒美をもらうと、それがうれしかったので、また同じ行動をしよう。
と元気に行動的になっていきます。
この行動とご褒美(報酬)の関係に影響する、脳の線条体という部分に影響が出て、
報酬をもらっても、つまり褒められても、お小遣いをもらっても、いい成績を取っても、友達から優しくされても、
そんなに心が動かなくなるみたいなんです。
※都合、行動が活発にならない。
報酬があってもうれしくない。
なんとなく分かります。
お小遣いをもらっても、そんなにうれしくない。
成績がよくても、褒められても、友達と仲良く楽しくやってても・・・。
だって・・・。
どうせ・・・。
という感覚。
経験的に知っています。
さて、
最新の経済系の理論にプロスペクト理論というのがあるそうです。
これによると、今よりとてもよい状態になることが予測できると、人の心は動いてその状態に向かってアクションを起こしやすいのだそうです。
※恋人ができたら人生がバラ色になる! と予測したら、積極的になるんじゃないかしら。
一方で、今よりそんなによい状態にはなれないなと予測する場合は、むしろ何か変化を起こすことで今より悪くなることが気がかりで、よりよくなるためのアクションは起こしにくいのだとか。
※恋人ができたところで・・・。
そういえば、
持病のある人はコロナワクチン接種の不安が大きい。と言う調査結果が出たというニュースもありました。
NHKWEBサイト
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210322/k10012928011000.html
今、ワクチンを打てば元気はつらつな生活が送れる!
となると、ワクチン接種のアクションを起こしやすいけど、
今、やめたところで持病は治んないし、むしろ副反応の方が心配だわ。
となると、アクションを起こす気になりません。
きっとこういうことなのでしょう。
多少褒められたり、少しばかりいいことがあって、喜びや自信が増したとしても、
基本的に不幸な状態が大きく変わるとは思えない。
そんな状況の人の脳の報酬系が発達しないことは、
プロスペクト理論的にも、理解できそうに思えたのでした。
こんなことから、
自己肯定感を上げたり、望ましい行動を増やすために、
褒めること(報酬)が通用しない人。
っているように思えます。
褒めりゃいいってもんじゃない。
逆にしらける。
それを褒められたところで人生が好転する気がしないもの。
ちっとそっといいことがあったぐらいで人生がよくなるとも思えないもの。
そんな思いで暮らしている人は。
ちなみに、
プロスペクト理論では、
現状がとてもよくないと思っているときは、リスクをとって現状打破にチャレンジするとか。
飲酒で人生が心底どうにもならなくなったら、人生の唯一のよりどころである酒を手放し、酒のない生活という人生最大のリスクをとるようになるのかもしれませんね。
底付きと呼ばれています。
どんないいことがあるか?
という期待が、人の判断に大きく影響を与えるという話でした。
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心理・カウンセリング
トラウマ
聞風坊
2021-04-18T06:00:00+09:00
-
自責のフラッシュバックの仮説
http://monpubowblog.miyachan.cc/e571716.html
自分を責める。
罪を強く感じる。
恥じ入る。
動画を見たり、ニュースに触れたり、話を聞いたり、無関係のことを思索中だったりしたときに、
何かの刺激で、
瞬間的に、
そんな感覚を持つことがあります。
自責のフラッシュバックと勝手に呼んでます。
このメカニズムについて考えてみました。
体の感覚は、
一瞬、戦慄が走ります。
緊張して、肩が上がったり息が詰まったり。
交感神経が有意な状態。
これ、
臨戦態勢。
脅威が迫ってくる感覚。
それは、
誰かから
怒られる感覚。
叱責される感覚。
落胆される感覚。
恥と思われる感覚。
どうやら、
この体感覚を瞬時に感じるようです。
もし、自責のフラッシュバックが、
責められる恐怖反応。
だとするならば、
このトラウマ反応じゃないかと思うのです。
叱責場面に瞬時に移動して再体験している。
となると、
おぉ、怖かったねぇ。
もう大丈夫だよ。
怒られないから。
自分をねぎらうことで対処すればフラッシュが軽減するのではないかと予想します。
しばらく実践してみます。
罪を強く感じる。
恥じ入る。
動画を見たり、ニュースに触れたり、話を聞いたり、無関係のことを思索中だったりしたときに、
何かの刺激で、
瞬間的に、
そんな感覚を持つことがあります。
自責のフラッシュバックと勝手に呼んでます。
このメカニズムについて考えてみました。
体の感覚は、
一瞬、戦慄が走ります。
緊張して、肩が上がったり息が詰まったり。
交感神経が有意な状態。
これ、
臨戦態勢。
脅威が迫ってくる感覚。
それは、
誰かから
怒られる感覚。
叱責される感覚。
落胆される感覚。
恥と思われる感覚。
どうやら、
この体感覚を瞬時に感じるようです。
もし、自責のフラッシュバックが、
責められる恐怖反応。
だとするならば、
このトラウマ反応じゃないかと思うのです。
叱責場面に瞬時に移動して再体験している。
となると、
おぉ、怖かったねぇ。
もう大丈夫だよ。
怒られないから。
自分をねぎらうことで対処すればフラッシュが軽減するのではないかと予想します。
しばらく実践してみます。
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心理・カウンセリング
トラウマ
聞風坊
2021-04-14T06:00:00+09:00
-
「失敗してもいいから」「失敗を恐れずに!」を軽々しく使わない方がいい話
http://monpubowblog.miyachan.cc/e571847.html
支援業界特に、教育系ではよく見聞きする定型句の一つに、
「失敗してもいいから!」
(安心して伸び伸びとやればいいんだよ)
「失敗を恐れずに!」
(やってみればいいんだ。失敗したとしてもそこから何かを学べばそれは失敗じゃなくなるんだから)
があります。
これ、使い方を間違えないようにしなければならないと思うのです。
失敗を恐れる人は、
失敗することを恐れてるんじゃなくて、
失敗した後のことに怯えてるんです。※ほぼ。
きっと、
失敗した後にどうカバーすればいいのか?
つまり、
どう対処すればいいのか?
それから、
失敗した後に、
自分がどんな風になって、
どんな風な助けがあれば挽回できるのか?
そんなことが分からずに、
あるいは、
そんなことを知らずにいるのでしょう。
教えてもらっていないからかもしれません。
失敗した後に誰も助けてくれなかったからかもしれません。
失敗をひとりで抱え込んできたからかもしれません。
独両の肩に担えないほどの全責任を負っていたから。
担わされているから。
担わないとならない状況だから。
誰も担ってくれないから。
誰も分担してくれないから。
アテになる人がいないから。
だから、失敗した後を極端に怯える。
失敗した後の、
あの孤立感、無力感、やるせなさ、痛み、悔しさ、慚愧の念、などの身もだえるする感覚に耐えられないから。
かもしれません。
そんな人に、
「失敗してもいいから」
「失敗を恐れずに」
なんて軽々しく言うものじゃないと思うのです。
相手は、
失敗したら自分の存在が危うくなるほどの恐怖を感じている人だもの。
だからまずは、
失敗した後、どういうフォローがあるのか?
どういう慰めがあるのか?
独りにしない、見捨てないということを伝えること。
独りにならない、見捨てられないという実感を持つこと。
が何より大事。
エイヤって飛び込めるのは、
危険に飛び込んだ後もちゃんと見守ってくれている人がいることが分かっているから。
そういう経験をたくさんしてきて、自分の中にしっかりとアテになる慰めの場所があるときだけ。
まずは、
自分が相手にとってのそういう人になってから、
「失敗してもいいから」
「失敗を恐れずに」
って言うようにした方がいいと思うのでした。
「失敗してもいいから!」
(安心して伸び伸びとやればいいんだよ)
「失敗を恐れずに!」
(やってみればいいんだ。失敗したとしてもそこから何かを学べばそれは失敗じゃなくなるんだから)
があります。
これ、使い方を間違えないようにしなければならないと思うのです。
失敗を恐れる人は、
失敗することを恐れてるんじゃなくて、
失敗した後のことに怯えてるんです。※ほぼ。
きっと、
失敗した後にどうカバーすればいいのか?
つまり、
どう対処すればいいのか?
それから、
失敗した後に、
自分がどんな風になって、
どんな風な助けがあれば挽回できるのか?
そんなことが分からずに、
あるいは、
そんなことを知らずにいるのでしょう。
教えてもらっていないからかもしれません。
失敗した後に誰も助けてくれなかったからかもしれません。
失敗をひとりで抱え込んできたからかもしれません。
独両の肩に担えないほどの全責任を負っていたから。
担わされているから。
担わないとならない状況だから。
誰も担ってくれないから。
誰も分担してくれないから。
アテになる人がいないから。
だから、失敗した後を極端に怯える。
失敗した後の、
あの孤立感、無力感、やるせなさ、痛み、悔しさ、慚愧の念、などの身もだえるする感覚に耐えられないから。
かもしれません。
そんな人に、
「失敗してもいいから」
「失敗を恐れずに」
なんて軽々しく言うものじゃないと思うのです。
相手は、
失敗したら自分の存在が危うくなるほどの恐怖を感じている人だもの。
だからまずは、
失敗した後、どういうフォローがあるのか?
どういう慰めがあるのか?
独りにしない、見捨てないということを伝えること。
独りにならない、見捨てられないという実感を持つこと。
が何より大事。
エイヤって飛び込めるのは、
危険に飛び込んだ後もちゃんと見守ってくれている人がいることが分かっているから。
そういう経験をたくさんしてきて、自分の中にしっかりとアテになる慰めの場所があるときだけ。
まずは、
自分が相手にとってのそういう人になってから、
「失敗してもいいから」
「失敗を恐れずに」
って言うようにした方がいいと思うのでした。
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ひきこもる
社会のこと
トラウマ
聞風坊
2021-04-10T06:00:00+09:00
-
PTSD評価にある未来が短縮した感覚の話
http://monpubowblog.miyachan.cc/e571023.html
sense of foreshortened future
未来が短縮した感覚
と訳されています。
PTSDであるかどうかのチェック項目の一つです。
経験的によく分かります。
未来が短縮しているので、
逆に、近い未来のことなら想像できます。
ショートタームな予定は立てられます。
遠い未来、1年先、半年先になると、途端に不安になるかも。
明日あさってぐらいの予定なら問題なし。
来週の予定となると少し緊張して自信がないかも。
だって、何が起きるかわかんないし。
生きているかはっきり約束できないし。
トラウマの問題といえば、派手なフラッシュバックや発作が取り沙汰されがちですが、
地味なこんな問題もなかなかどうしてトラウマ後の人生を左右しています。
だって、
だから治療とかに積極的になれないのだもの。
治療が成功するまで生きているかどうか分からないから。
確実なのは、今このとき。
は、まだ生きてる。
そして、きっと今日1日、
なら、なんとか生きていられる。と思う。
実のところ、
そんな気持ちで数十年生きてきている。
今を安全に、安心して暮らせる体験をたっぷり、存分にしていけば、
少しずつ、先のこともイメージできるようになるようです。
安全な今とつながっている同じように安全な未来にも目を向けて暮らす今、
その今の調子で生きているんだろうって、
思えるようになるからじゃないかしら。
と思うのでした。
未来が短縮した感覚
と訳されています。
PTSDであるかどうかのチェック項目の一つです。
経験的によく分かります。
未来が短縮しているので、
逆に、近い未来のことなら想像できます。
ショートタームな予定は立てられます。
遠い未来、1年先、半年先になると、途端に不安になるかも。
明日あさってぐらいの予定なら問題なし。
来週の予定となると少し緊張して自信がないかも。
だって、何が起きるかわかんないし。
生きているかはっきり約束できないし。
トラウマの問題といえば、派手なフラッシュバックや発作が取り沙汰されがちですが、
地味なこんな問題もなかなかどうしてトラウマ後の人生を左右しています。
だって、
だから治療とかに積極的になれないのだもの。
治療が成功するまで生きているかどうか分からないから。
確実なのは、今このとき。
は、まだ生きてる。
そして、きっと今日1日、
なら、なんとか生きていられる。と思う。
実のところ、
そんな気持ちで数十年生きてきている。
今を安全に、安心して暮らせる体験をたっぷり、存分にしていけば、
少しずつ、先のこともイメージできるようになるようです。
安全な今とつながっている同じように安全な未来にも目を向けて暮らす今、
その今の調子で生きているんだろうって、
思えるようになるからじゃないかしら。
と思うのでした。
]]>
アダルトチルドレン
心理・カウンセリング
トラウマ
聞風坊
2021-03-26T06:00:00+09:00
-
虐待は他者と比べることが第一歩
http://monpubowblog.miyachan.cc/e570965.html
自分が虐待を受けているかどうかと言うことは、
フツーと比べることで気づきます。
だから、
フツーの人と比べることは大事なんです。
それが自分の心と身体の安全確保につながるからです。
このようなことから、
支援者は、フツー(の状態)を教える必要があります。
もちろん適切に。
その子が、恥の感覚を持ったり、自分にスティグマを持ったり、責任を背負い込まないように慎重に慎重に配慮して。
と思っています。
フツーと比べることで気づきます。
だから、
フツーの人と比べることは大事なんです。
それが自分の心と身体の安全確保につながるからです。
このようなことから、
支援者は、フツー(の状態)を教える必要があります。
もちろん適切に。
その子が、恥の感覚を持ったり、自分にスティグマを持ったり、責任を背負い込まないように慎重に慎重に配慮して。
と思っています。
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社会のこと
トラウマ
聞風坊
2021-03-17T06:00:00+09:00
-
虐待の連鎖についての心理的解釈
http://monpubowblog.miyachan.cc/e570966.html
専門的な記事です。
虐待の連鎖と言われることがあります。
虐待した親が子どものころに親から虐待を受けていた。
ときです。
『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(アリス・ミラー著 山下公子訳 新曜社刊 1983)
という本に詳しくあります。
教育・しつけという名の下に行われた数々の加害行為の数々。
子どもは、その環境の中で生き延びていくために、そのルールに自分を従わせねばなりません。
そのためには、ルールを自分の中に取り込まねばなりません。
一例を挙げれば、
大人から教育を受けて知るところとなった赤信号では止まる。
と言うルールを自分の中に取り込んでいるから、赤信号に出会えば誰の指図も受けずに自主的に止まるのです。
同様に、
よくないことをしたら打たれる。罰を受ける。と言うルールで教育を受けたら、育てられたら。
自分を律するために、このルールを取り入れます。
よくないことをしら打たれて当然。
悪いことをしたら(親の代わりに自分で)自分を打つ。
よくないことばかりするのだから、悪い子だから、打たれて当然。
こうして自分を律して生きていきます。
親の悪意、いじめ行為、加害、暴力性も含めて。
取り込んで。
TA・交流分析では、P1に取り込んだと言われます。
さて、
この取り込んだルール、社会規範は、
自分だけでなく、
他者にも向けられます。
他者が許せないときは、たいがいこれです。
他者への自己投影なんて言われています。
他者の中に、よくない自分を見て取っているのですね。
職場などで生理的に気に入らない人がいるときはこの心理が働いているのかもしれません。
親子でも当てはまります。
親は、自分の子どもに、かつての自分を見ているのでしょう。
そしたらどうするか?
反射的に、衝動的に、そうするものだから、加害します。
自分がされたように。
子どもらしさを力づくで破壊し、親に従うように仕立て上げられたように。
親の中の加害性は、その親から受け渡されたものだったのです。
私の中の加害性は、私の親から受け渡されたものだったのです。
私の親もそうであるように。
虐待の連鎖と言われることがあります。
虐待した親が子どものころに親から虐待を受けていた。
ときです。
『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(アリス・ミラー著 山下公子訳 新曜社刊 1983)
という本に詳しくあります。
教育・しつけという名の下に行われた数々の加害行為の数々。
子どもは、その環境の中で生き延びていくために、そのルールに自分を従わせねばなりません。
そのためには、ルールを自分の中に取り込まねばなりません。
一例を挙げれば、
大人から教育を受けて知るところとなった赤信号では止まる。
と言うルールを自分の中に取り込んでいるから、赤信号に出会えば誰の指図も受けずに自主的に止まるのです。
同様に、
よくないことをしたら打たれる。罰を受ける。と言うルールで教育を受けたら、育てられたら。
自分を律するために、このルールを取り入れます。
よくないことをしら打たれて当然。
悪いことをしたら(親の代わりに自分で)自分を打つ。
よくないことばかりするのだから、悪い子だから、打たれて当然。
こうして自分を律して生きていきます。
親の悪意、いじめ行為、加害、暴力性も含めて。
取り込んで。
TA・交流分析では、P1に取り込んだと言われます。
さて、
この取り込んだルール、社会規範は、
自分だけでなく、
他者にも向けられます。
他者が許せないときは、たいがいこれです。
他者への自己投影なんて言われています。
他者の中に、よくない自分を見て取っているのですね。
職場などで生理的に気に入らない人がいるときはこの心理が働いているのかもしれません。
親子でも当てはまります。
親は、自分の子どもに、かつての自分を見ているのでしょう。
そしたらどうするか?
反射的に、衝動的に、そうするものだから、加害します。
自分がされたように。
子どもらしさを力づくで破壊し、親に従うように仕立て上げられたように。
親の中の加害性は、その親から受け渡されたものだったのです。
私の中の加害性は、私の親から受け渡されたものだったのです。
私の親もそうであるように。
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交流分析
トラウマ
聞風坊
2021-03-13T06:00:45+09:00
-
『魂の殺人』を読んだのでした
http://monpubowblog.miyachan.cc/e571296.html
『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(A・ミラー著 山下公子訳 新曜社刊 1983)
を読んだのでした。
ずいぶんと前に書かれた本で、だいぶ前から気になってはいたのですが、なかなか読む機会がなく、最近になって初めて読みました。
その感想です。
とにかく、
ビックリです!
これでもかこれでもかと。
子どもをモノとして扱う教育の実態が記載されているんです!
そんな本だったのか~!
著者は、
そうして事実を積み重ねて、
親による子の支配、子の魂の殺人について語っていき、
そこからの解放のすべを説くのですね。
著者によると、
世界中の人の不幸は、親が子に行う「しつけ」という名の闇教育(家庭内教育)が根源みたいです。
そして、
それを基盤とした学校や社会での闇教育(社会での教育)が決定づける。
つまりは、世の不幸は、
子どもの尊厳・立場・痛みに価値を置かない教育の問題。
みたいです。
原題「Am Anfang war Erziehung」はドイツ語で「最初に教育があった」という意味とか。
なるほどです。
とにもかくにも、
家庭内の教育で人は残虐な行為を学ぶのだそうです。
そうして育った大人たちが作った社会だから、残虐行為がまかり通る。
その教育を受けて大人になった子どもたちが同じ教育を次世代に施す。
そういう闇教育の連鎖があるのだそうです。
だから、
その闇教育の呪いから解放されることで、その人らしい生き方ができるようになるのだそうです。
本書では、
極端な例で論証していますが、実のところ、あらゆる教育という思想、構造が、同様の危険性をはらんでいることも示唆しています。
学校教育、地域での教育、風潮による教育、新人研修教育、専門家養成時の教育・・・・。
教育現場が、
暴力、ハラスメントの温床になりかねないのです。
実際、暴力やハラスメントはとても多い。
さて、
闇教育の根幹思想は何かというと、
大人による子の支配みたいです。
子どもは親に絶対服従で、親は子どもの上に君臨し、自分の好きなように思うがままに子どもを利用する。
それが子どもにとっての正しい教育だ!
という思想。
※家庭外だと児童生徒は教師に絶対服従で・・・。社員は上司に絶対服従で・・・。となります。
親・大人による支配と子どもの矯正。
親・大人が設定するところの望ましい子どもに仕上げること。
それが正しいこと、当たり前のこと、子どもにとってよいこと、ふさわしいこととして、子どもを教育する。
そんな教育法です。
そういう教育を受けた子どもは、非難否定された自分を嫌い、そんな自分を感情とともに自分の奥底に押し込めますが、
押し込められ抑圧された自分やその際に抱いた感情はゆがんだ形で放出されるそうです。
残虐行為、犯罪として。
他人の中に、嫌悪する自分の姿(親・大人から望まれない自分)を見て、それ(親・大人から望まれない自分)を排除・抹消するために、
他人を加害する。
親から学んだ残虐なやり方にのっとって。
そしてその残虐性には、親への復讐の意味もあるようです。
親に対してはできなかった反撃・攻撃。
を力弱き他人になす。
暴力的に。怒りを放出させて。
なぜなら、
反撃されないから。
その後が怖くないから。
うっぷんが晴れて少しすっきり。
でも、根幹の痛みはいやされない。
だから、またやる。
繰り返し繰り返し。
出版されたのは40年ほど前なので、21世紀・令和の現在ではこれほど悪くはないでしょうが、まだ親が自分のいいように子どもを利用することが受け継がれているように思えます。
虐待件数の多さが物語っています。
虐待を英語ではabuseといい、これは、ab-useで不適切な利用という意味です。
不適切な扱いをされた子どもたちが大人になって作った社会が今の社会です。
とはいえ現在では、
闇教育の問題に気づき、あらゆる人を尊重するという価値観に目覚めた人たちが少しずつ増えてきたことから、
適切な扱いをされた子どもたちも大人になっていることでしょう。
※まだまだ少数派かしら。
そして、
その大人たちの中には、
不適切な扱いを受けて、闇教育を受けて、大人になってからそれに気づき、自分を適切に再教育した大人たちもいるでしょう。
人権を守る。尊重する。感情を大切にする。相手を思いやる。自分をいたわる。
それがフツーにできる人たちが増えていく。
それに併せて、社会は少しずつよくなっていくでしょう。
を読んだのでした。
ずいぶんと前に書かれた本で、だいぶ前から気になってはいたのですが、なかなか読む機会がなく、最近になって初めて読みました。
その感想です。
とにかく、
ビックリです!
これでもかこれでもかと。
子どもをモノとして扱う教育の実態が記載されているんです!
そんな本だったのか~!
著者は、
そうして事実を積み重ねて、
親による子の支配、子の魂の殺人について語っていき、
そこからの解放のすべを説くのですね。
著者によると、
世界中の人の不幸は、親が子に行う「しつけ」という名の闇教育(家庭内教育)が根源みたいです。
そして、
それを基盤とした学校や社会での闇教育(社会での教育)が決定づける。
つまりは、世の不幸は、
子どもの尊厳・立場・痛みに価値を置かない教育の問題。
みたいです。
原題「Am Anfang war Erziehung」はドイツ語で「最初に教育があった」という意味とか。
なるほどです。
とにもかくにも、
家庭内の教育で人は残虐な行為を学ぶのだそうです。
そうして育った大人たちが作った社会だから、残虐行為がまかり通る。
その教育を受けて大人になった子どもたちが同じ教育を次世代に施す。
そういう闇教育の連鎖があるのだそうです。
だから、
その闇教育の呪いから解放されることで、その人らしい生き方ができるようになるのだそうです。
本書では、
極端な例で論証していますが、実のところ、あらゆる教育という思想、構造が、同様の危険性をはらんでいることも示唆しています。
学校教育、地域での教育、風潮による教育、新人研修教育、専門家養成時の教育・・・・。
教育現場が、
暴力、ハラスメントの温床になりかねないのです。
実際、暴力やハラスメントはとても多い。
さて、
闇教育の根幹思想は何かというと、
大人による子の支配みたいです。
子どもは親に絶対服従で、親は子どもの上に君臨し、自分の好きなように思うがままに子どもを利用する。
それが子どもにとっての正しい教育だ!
という思想。
※家庭外だと児童生徒は教師に絶対服従で・・・。社員は上司に絶対服従で・・・。となります。
親・大人による支配と子どもの矯正。
親・大人が設定するところの望ましい子どもに仕上げること。
それが正しいこと、当たり前のこと、子どもにとってよいこと、ふさわしいこととして、子どもを教育する。
そんな教育法です。
そういう教育を受けた子どもは、非難否定された自分を嫌い、そんな自分を感情とともに自分の奥底に押し込めますが、
押し込められ抑圧された自分やその際に抱いた感情はゆがんだ形で放出されるそうです。
残虐行為、犯罪として。
他人の中に、嫌悪する自分の姿(親・大人から望まれない自分)を見て、それ(親・大人から望まれない自分)を排除・抹消するために、
他人を加害する。
親から学んだ残虐なやり方にのっとって。
そしてその残虐性には、親への復讐の意味もあるようです。
親に対してはできなかった反撃・攻撃。
を力弱き他人になす。
暴力的に。怒りを放出させて。
なぜなら、
反撃されないから。
その後が怖くないから。
うっぷんが晴れて少しすっきり。
でも、根幹の痛みはいやされない。
だから、またやる。
繰り返し繰り返し。
出版されたのは40年ほど前なので、21世紀・令和の現在ではこれほど悪くはないでしょうが、まだ親が自分のいいように子どもを利用することが受け継がれているように思えます。
虐待件数の多さが物語っています。
虐待を英語ではabuseといい、これは、ab-useで不適切な利用という意味です。
不適切な扱いをされた子どもたちが大人になって作った社会が今の社会です。
とはいえ現在では、
闇教育の問題に気づき、あらゆる人を尊重するという価値観に目覚めた人たちが少しずつ増えてきたことから、
適切な扱いをされた子どもたちも大人になっていることでしょう。
※まだまだ少数派かしら。
そして、
その大人たちの中には、
不適切な扱いを受けて、闇教育を受けて、大人になってからそれに気づき、自分を適切に再教育した大人たちもいるでしょう。
人権を守る。尊重する。感情を大切にする。相手を思いやる。自分をいたわる。
それがフツーにできる人たちが増えていく。
それに併せて、社会は少しずつよくなっていくでしょう。
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本の紹介
トラウマ
聞風坊
2021-03-09T06:00:00+09:00
-
誰から見つけられるかでその人の人生が決まる話 2
http://monpubowblog.miyachan.cc/e571280.html
続きの記事です。
犯罪少年の苦悩苦境は、司法領域で発見され、対応がとられたのでした。
この経験から私たちは、
苦境にいる子どもを発見するだけじゃなく、その子を救い出す行動が必要であったのだと発見したのでした。
さて、
児童福祉に関する強い力を持っている児童相談所で発見されたら、児童養護施設で適切な養育を受ける場合があります。
児童福祉の専門家から発見され、
被虐待児として認められ虐待環境から救出され、親の代理として社会から養護を受けることになります。
社会には、児童を守り育む責任があるからですね。
その子の親・保護者に代わって適切な養育をしよう!
と、大人たちが行動します。
ゆえに、
社会の責任で、専門のスタッフが適切な養育を行います。
社会的養護と呼ばれています。
国が子どもの最善のために養護するのです。
だからこれで、
万事解決。万事順調。
となりそうですが、実際はそうはいかないようです。
児童養護施設で育った3人が、児童養護施設の実情を伝え、入所児童に対するメンタルケアが必須になるように運動が展開されています。
当該サイト
「THREE FLAGS 希望の狼煙」です。
URLは
https://three-flags-kibou-noroshi.jimdosite.com/
保護されて、適切な養育を受けたにも関わらず、精神的心理的傷は癒えておらず、
そのために社会でやっていくに際して、いろいろな苦労をしていることから、運動しているとのことです。
※施設入所した被虐待児が心理的ケアを受ける。こんな当たり前のことも実施されていないんですね日本では。
当該書の主人公とは違い、
命の危険があるとして、発見保護され、その後は比較的まともな養育を受けた人たちですら、心の傷については十分に発見されていないようです。
私個人の胸のうちを記せば、
一時期とはいえ、保護されて、比較的まともな大人たちから養育を受けて、やっていいこととか悪いこととか基本的人権とか、世の中の常識をある程度知る、経験ができると言う点から、保護された人たちのことを恵まれていていいなぁというのが正直なところです。
寄る辺がないということを知ってもらっている。
職務上とはいえ、保護の措置が終わればこの先苦労するだろうと思いをいたしてくれる人もいる。
発見してもらって、保護してもらって、養育してもらっているからです。
虐待後遺症が予見されるにもかかわらず、
そのケアが必須でないなど国の施策としては不十分であり、
18歳になると支援が終わり、
世間に独り放り出される状況になってしまうという不完全な制度であったとしても。
寄る辺ない状況に戻ってしまうとしても。
一時的とはいえ
救い出してもらったから。
まともな扱いをしてもらったから。
この、社会的養護を受けた子どもの数はどれくらいかというと、
4万5000人だそうです。※報告書作成時点で。
(令和2年10月 「社会的養育の推進に向けて」 厚労省HP掲載)
URLは、
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/syakaiteki_yougo/index.html
(「社会的養護とは」の項のPDF資料)
一方で、児童相談所での児童虐待相談対応件数は、
19万4000件だそうです。※令和元年中の速報値
(「令和元年度児童虐待相談対応件数(速報値)」 厚労省HP掲載)
URLは、
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/dv/index.html
(「児童虐待相談対応件数の動向」の項のPDF資料)
4万5000人は、報告書作成時点現在で養護している人数で、
※数年前に発見されて現在まで養護している人数も含む。
児童相談所の相談件数は1年間の件数なので、
お互いを比較して何分の一だとか何倍だとか言うことはきませんが、
苦境にいることが発見され公的支援機関に認知された子どものうちの、
だいぶ少人数が苦境から保護・養護されているみたいです。
※当該書主人公少年は、児童相談所が介入していました。
ということは、
実のところ、
当該書の主人公のように、
苦境にいることは発見はされ児童相談所にも認知されているけど、
苦境から脱するサポートが不十分で、
ゆえに、まともな養育を受けずに大人になったところの、
児童福祉の恩恵に十分に与っていない被虐待児童、逆境の中で成長して行っている子どもたちが、日本にはとても多くいるということです。
さらには、
人々から発見されていても、
児童相談所などの支援につながっていない子どもや、
発見すらされていない子どもも含めると、
日本では、
ものすごい数の子どもたちが苦境に中で暮らしていることが想像できます。
それは、
発見されていたとしても、十分なサポートが提供されなかった。
あるいは、
発見されなかった。
その状態で子ども時代を過ごし、
大人になった子どもたち、親になった子どもたちが多くいることを示唆しています。
そんな大人になった子どもたちが立ち上がった運動もあります。
大人の未来 ~虐待サバイバーが生きやすい社会へ~
当該サイトURL
https://otona-mirai-55.jimdosite.com/
「(仮)児童虐待被害者支援法」の制定を目指しています
~支援法に盛り込みたい支援~
①虐待の後遺症(複雑性PTSD等)のトラウマ治療の無償化もしく は保険対象化
②トラウマ治療ができる専門的治療者の育成
③経済的支援(就労支援や障害年金など)
とのことです。
私聞風坊は、こちらの属性なので、訴える内容がよくわかります。
ほんとに苦労してますもの。
治療者や理解者を探し出すのに一苦労ですし、それにはお金がかかるのだけどお金を稼ぐための就労で苦労するし、
そもそも、そこまでしてまで生きる意欲はないし、でも苦痛は24時間感じてるしで。
誰も救い出してくれない自分でやるしかない相変わらずの混沌の中で生きていますもの。
とはいえ、社会的に養護された人はこんな苦労をしないかというと、まったくそんなことはなくて、
この点、ほとんど同じ苦労をするみたいです。
寄る辺ないをキーワードにNHKが特集していますが、
両者同じく寄る辺がないんです。
社会でのやって生き方も教わってないんです。
だから、生きづらいんです。
虐待・逆境体験した子どもたち、大人になった子どもたちは一様に生きていくことに苦悩しています。
痛みを抱えています。
発見。
されるかされないかで大きな違いが生じる。
特に適切な力を持った人に発見されるかされないかで大きな違いが生まれる。
つらつらと記してきて、最後に一つ。
アリス・ミラーは、虐待は魂の殺人の旨指摘しています。
『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(アリス・ミラー著 山下公子訳 新曜社刊)
出版元サイト
https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455681.html
生命の危険に注目している支援者・支援機関から発見されると、比較的すぐ保護されるような気もします。
魂の危険に注目している支援者・支援機関がいてくれたらいいのに。
そう思うのでした。
この項終わり。
犯罪少年の苦悩苦境は、司法領域で発見され、対応がとられたのでした。
この経験から私たちは、
苦境にいる子どもを発見するだけじゃなく、その子を救い出す行動が必要であったのだと発見したのでした。
さて、
児童福祉に関する強い力を持っている児童相談所で発見されたら、児童養護施設で適切な養育を受ける場合があります。
児童福祉の専門家から発見され、
被虐待児として認められ虐待環境から救出され、親の代理として社会から養護を受けることになります。
社会には、児童を守り育む責任があるからですね。
その子の親・保護者に代わって適切な養育をしよう!
と、大人たちが行動します。
ゆえに、
社会の責任で、専門のスタッフが適切な養育を行います。
社会的養護と呼ばれています。
国が子どもの最善のために養護するのです。
だからこれで、
万事解決。万事順調。
となりそうですが、実際はそうはいかないようです。
児童養護施設で育った3人が、児童養護施設の実情を伝え、入所児童に対するメンタルケアが必須になるように運動が展開されています。
当該サイト
「THREE FLAGS 希望の狼煙」です。
URLは
https://three-flags-kibou-noroshi.jimdosite.com/
保護されて、適切な養育を受けたにも関わらず、精神的心理的傷は癒えておらず、
そのために社会でやっていくに際して、いろいろな苦労をしていることから、運動しているとのことです。
※施設入所した被虐待児が心理的ケアを受ける。こんな当たり前のことも実施されていないんですね日本では。
当該書の主人公とは違い、
命の危険があるとして、発見保護され、その後は比較的まともな養育を受けた人たちですら、心の傷については十分に発見されていないようです。
私個人の胸のうちを記せば、
一時期とはいえ、保護されて、比較的まともな大人たちから養育を受けて、やっていいこととか悪いこととか基本的人権とか、世の中の常識をある程度知る、経験ができると言う点から、保護された人たちのことを恵まれていていいなぁというのが正直なところです。
寄る辺がないということを知ってもらっている。
職務上とはいえ、保護の措置が終わればこの先苦労するだろうと思いをいたしてくれる人もいる。
発見してもらって、保護してもらって、養育してもらっているからです。
虐待後遺症が予見されるにもかかわらず、
そのケアが必須でないなど国の施策としては不十分であり、
18歳になると支援が終わり、
世間に独り放り出される状況になってしまうという不完全な制度であったとしても。
寄る辺ない状況に戻ってしまうとしても。
一時的とはいえ
救い出してもらったから。
まともな扱いをしてもらったから。
この、社会的養護を受けた子どもの数はどれくらいかというと、
4万5000人だそうです。※報告書作成時点で。
(令和2年10月 「社会的養育の推進に向けて」 厚労省HP掲載)
URLは、
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/syakaiteki_yougo/index.html
(「社会的養護とは」の項のPDF資料)
一方で、児童相談所での児童虐待相談対応件数は、
19万4000件だそうです。※令和元年中の速報値
(「令和元年度児童虐待相談対応件数(速報値)」 厚労省HP掲載)
URLは、
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/dv/index.html
(「児童虐待相談対応件数の動向」の項のPDF資料)
4万5000人は、報告書作成時点現在で養護している人数で、
※数年前に発見されて現在まで養護している人数も含む。
児童相談所の相談件数は1年間の件数なので、
お互いを比較して何分の一だとか何倍だとか言うことはきませんが、
苦境にいることが発見され公的支援機関に認知された子どものうちの、
だいぶ少人数が苦境から保護・養護されているみたいです。
※当該書主人公少年は、児童相談所が介入していました。
ということは、
実のところ、
当該書の主人公のように、
苦境にいることは発見はされ児童相談所にも認知されているけど、
苦境から脱するサポートが不十分で、
ゆえに、まともな養育を受けずに大人になったところの、
児童福祉の恩恵に十分に与っていない被虐待児童、逆境の中で成長して行っている子どもたちが、日本にはとても多くいるということです。
さらには、
人々から発見されていても、
児童相談所などの支援につながっていない子どもや、
発見すらされていない子どもも含めると、
日本では、
ものすごい数の子どもたちが苦境に中で暮らしていることが想像できます。
それは、
発見されていたとしても、十分なサポートが提供されなかった。
あるいは、
発見されなかった。
その状態で子ども時代を過ごし、
大人になった子どもたち、親になった子どもたちが多くいることを示唆しています。
そんな大人になった子どもたちが立ち上がった運動もあります。
大人の未来 ~虐待サバイバーが生きやすい社会へ~
当該サイトURL
https://otona-mirai-55.jimdosite.com/
「(仮)児童虐待被害者支援法」の制定を目指しています
~支援法に盛り込みたい支援~
①虐待の後遺症(複雑性PTSD等)のトラウマ治療の無償化もしく は保険対象化
②トラウマ治療ができる専門的治療者の育成
③経済的支援(就労支援や障害年金など)
とのことです。
私聞風坊は、こちらの属性なので、訴える内容がよくわかります。
ほんとに苦労してますもの。
治療者や理解者を探し出すのに一苦労ですし、それにはお金がかかるのだけどお金を稼ぐための就労で苦労するし、
そもそも、そこまでしてまで生きる意欲はないし、でも苦痛は24時間感じてるしで。
誰も救い出してくれない自分でやるしかない相変わらずの混沌の中で生きていますもの。
とはいえ、社会的に養護された人はこんな苦労をしないかというと、まったくそんなことはなくて、
この点、ほとんど同じ苦労をするみたいです。
寄る辺ないをキーワードにNHKが特集していますが、
両者同じく寄る辺がないんです。
社会でのやって生き方も教わってないんです。
だから、生きづらいんです。
虐待・逆境体験した子どもたち、大人になった子どもたちは一様に生きていくことに苦悩しています。
痛みを抱えています。
発見。
されるかされないかで大きな違いが生じる。
特に適切な力を持った人に発見されるかされないかで大きな違いが生まれる。
つらつらと記してきて、最後に一つ。
アリス・ミラーは、虐待は魂の殺人の旨指摘しています。
『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(アリス・ミラー著 山下公子訳 新曜社刊)
出版元サイト
https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455681.html
生命の危険に注目している支援者・支援機関から発見されると、比較的すぐ保護されるような気もします。
魂の危険に注目している支援者・支援機関がいてくれたらいいのに。
そう思うのでした。
この項終わり。
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ひきこもる
アダルトチルドレン
心理・カウンセリング
社会のこと
本の紹介
アルコール依存症
発達障害
トラウマ
ニート
不登校
聞風坊
2021-02-27T06:00:00+09:00
-
誰から見つけられるかでその人の人生が決まる話 1
http://monpubowblog.miyachan.cc/e570329.html
なにかしらで困っているとき
や、
誰かの手助けがいるとき
に、
自ら誰かに助力を求めたり、
または、
誰かから助力の申し出があったりして、
困難が解消されることは一般的です。
ところがこの際、
(あなたが)助力を求めた相手、
または(あなたの力になろう)と助力の申し出をしてきた相手
の立場によって、
困難が解消されるかどうかが決まることは少なくありません。
解消するかどうか、
相手次第の面があると言うことです。
どういうことでしょう?
”誰に”発見されるかで結果が違ってくるように思えるからです。
例えば、
スポーツの才能、勉学の才能、アートの才能、職業上の才能・・・などなど。
発見されたからこそ、その才能が開花し、人生の往く道が決まることが多くあります。
才能を見出し、才能を開花させ、伸ばし、そして次のステップへつなげられる人に発見されれば、存分に自分の才能を発揮できる人生を送れるでしょう。
また例えば、
虐待や逆境体験から逃亡した未成年が、夜露をしのごうと他人の住居に侵入して警察に捕まると、
非行少年として発見されたことになるでしょう。
悪いことをした人として公認されその認識にもとづいて対応されるでしょう。
つまり、
虐待などの心の傷みのケアは後回しにされ、懲罰指導・再犯防止に重点を置かれると言うことです。
この未成年者がもし、
学校に通ってないときに、先生から発見されたとしたら、不登校児童生徒になるでしょうか。
そうなったら、
不登校児童生徒として公認され対応されるでしょう。
もし、
眠れてないようだし食欲もないようだし、全体的に具合が悪いようだから、なんかの病気かもしれないからと保護者が心配して、
精神科を受診したとしたら、精神疾患の患者として発見されることになるでしょう。
精神的な不調の未成年者とし認識され治療されるでしょう。
もし、
ひきこもりの支援機関だったらひきこもりとして。
またもし、
ワンストップ相談窓口に行って、就労支援が希望だとなったら、ニートとして発見されたことになるでしょうか。
そしてもし、
親が学校の先生だったり、弁護士だったり、宗教家だったり、医者だったり、里親だったりしたら・・・。
先生の子ども、弁護士の子ども、宗教家の子ども、医者の子ども、里親の子どもとして発見され、認知されるでしょう。
そして、
理想的な環境で養育されてる!
虐待があるなんてあり得ない!
と決めてかかられることが多いでしょう。
その環境でひどい目に遭っているなんてまさか!?
って感じで。
そのためもし、
不適切な養育を受けていたり虐待があったりしたとしても、
発見は相当遅れるかもしくは発見されないでしょう。
『誰もボクを見ていない なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(山寺香著 ポプラ社刊 2017)
という本があります。
祖父母を殺めた被虐待児童のドキュメンタリーです。
この未成年者は、犯罪者として強く発見されます。
でも実は犯罪者として発見されるまでに、いろんな大人たちに発見されていました。
実父とも交流はあったし、親戚もいたし、数年間とはいえ学校にも通っていたし、生活保護も受けていたし、児童相談所も関わっていたし、仕事もしていたし・・・。
インフォーマル、フォーマル両方の大人たち、特に虐待に意識の高い教育や福祉の専門家すら関わっていたんです。
それは、
犯罪者として発見される前にいろいろ場面でたくさん発見されていたことを意味しています。
でも、これといって手助けしてもらえなかった。
虐待環境から救出してもらえなかった。
罪を犯して、やっとしっかり発見された。
そうしてやっと裁判を通して逆境体験に目が向けられた。
やっと一番の核心を発見してもらえたのでした。
それは、(社会が・大人たちが)何をすればいいいいのか? の発見でもあったようです。
社会や大人たちは、少年が罪を犯すことで犯罪少年を発見しました。
そして、法に従い犯罪者として収監しました。
収監したことが虐待環境から救い出すことになったことを発見しました。
裁判によって、少年の境遇がつぶさに明らかになってきました。
報道によって、社会の多くの人が少年を発見しました。
犯罪少年が虐待を受けた児童であったことを認識しました。
ジャンルでいうと、司法の力が発揮されたとなります。
司法の力で裁かれ、刑を受け、そして救われるきっかけが生まれた。
でもそれでは遅いので、
そうじゃない方法で、救い出す方法が必要なんだということを発見(気づき)しました。
いえ、思い知らされました。
発見だけじゃなく、救い出す行動が必要であったのだと発見しました。
この項続く
や、
誰かの手助けがいるとき
に、
自ら誰かに助力を求めたり、
または、
誰かから助力の申し出があったりして、
困難が解消されることは一般的です。
ところがこの際、
(あなたが)助力を求めた相手、
または(あなたの力になろう)と助力の申し出をしてきた相手
の立場によって、
困難が解消されるかどうかが決まることは少なくありません。
解消するかどうか、
相手次第の面があると言うことです。
どういうことでしょう?
”誰に”発見されるかで結果が違ってくるように思えるからです。
例えば、
スポーツの才能、勉学の才能、アートの才能、職業上の才能・・・などなど。
発見されたからこそ、その才能が開花し、人生の往く道が決まることが多くあります。
才能を見出し、才能を開花させ、伸ばし、そして次のステップへつなげられる人に発見されれば、存分に自分の才能を発揮できる人生を送れるでしょう。
また例えば、
虐待や逆境体験から逃亡した未成年が、夜露をしのごうと他人の住居に侵入して警察に捕まると、
非行少年として発見されたことになるでしょう。
悪いことをした人として公認されその認識にもとづいて対応されるでしょう。
つまり、
虐待などの心の傷みのケアは後回しにされ、懲罰指導・再犯防止に重点を置かれると言うことです。
この未成年者がもし、
学校に通ってないときに、先生から発見されたとしたら、不登校児童生徒になるでしょうか。
そうなったら、
不登校児童生徒として公認され対応されるでしょう。
もし、
眠れてないようだし食欲もないようだし、全体的に具合が悪いようだから、なんかの病気かもしれないからと保護者が心配して、
精神科を受診したとしたら、精神疾患の患者として発見されることになるでしょう。
精神的な不調の未成年者とし認識され治療されるでしょう。
もし、
ひきこもりの支援機関だったらひきこもりとして。
またもし、
ワンストップ相談窓口に行って、就労支援が希望だとなったら、ニートとして発見されたことになるでしょうか。
そしてもし、
親が学校の先生だったり、弁護士だったり、宗教家だったり、医者だったり、里親だったりしたら・・・。
先生の子ども、弁護士の子ども、宗教家の子ども、医者の子ども、里親の子どもとして発見され、認知されるでしょう。
そして、
理想的な環境で養育されてる!
虐待があるなんてあり得ない!
と決めてかかられることが多いでしょう。
その環境でひどい目に遭っているなんてまさか!?
って感じで。
そのためもし、
不適切な養育を受けていたり虐待があったりしたとしても、
発見は相当遅れるかもしくは発見されないでしょう。
『誰もボクを見ていない なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(山寺香著 ポプラ社刊 2017)
という本があります。
祖父母を殺めた被虐待児童のドキュメンタリーです。
この未成年者は、犯罪者として強く発見されます。
でも実は犯罪者として発見されるまでに、いろんな大人たちに発見されていました。
実父とも交流はあったし、親戚もいたし、数年間とはいえ学校にも通っていたし、生活保護も受けていたし、児童相談所も関わっていたし、仕事もしていたし・・・。
インフォーマル、フォーマル両方の大人たち、特に虐待に意識の高い教育や福祉の専門家すら関わっていたんです。
それは、
犯罪者として発見される前にいろいろ場面でたくさん発見されていたことを意味しています。
でも、これといって手助けしてもらえなかった。
虐待環境から救出してもらえなかった。
罪を犯して、やっとしっかり発見された。
そうしてやっと裁判を通して逆境体験に目が向けられた。
やっと一番の核心を発見してもらえたのでした。
それは、(社会が・大人たちが)何をすればいいいいのか? の発見でもあったようです。
社会や大人たちは、少年が罪を犯すことで犯罪少年を発見しました。
そして、法に従い犯罪者として収監しました。
収監したことが虐待環境から救い出すことになったことを発見しました。
裁判によって、少年の境遇がつぶさに明らかになってきました。
報道によって、社会の多くの人が少年を発見しました。
犯罪少年が虐待を受けた児童であったことを認識しました。
ジャンルでいうと、司法の力が発揮されたとなります。
司法の力で裁かれ、刑を受け、そして救われるきっかけが生まれた。
でもそれでは遅いので、
そうじゃない方法で、救い出す方法が必要なんだということを発見(気づき)しました。
いえ、思い知らされました。
発見だけじゃなく、救い出す行動が必要であったのだと発見しました。
この項続く]]>
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発達障害
トラウマ
ニート
不登校
聞風坊
2021-02-26T06:00:00+09:00
-
虐待を受けて大人になった人のためのケアの本を読んだのでした
http://monpubowblog.miyachan.cc/e567510.html
『児童期虐待を生き延びた人々の治療 -中断された人生のための精神療法-』
(メリレーヌ・クロアトルら著 金吉晴監訳 星和書店2020)
http://www.seiwa-pb.co.jp/search/bo05/bn1001.html
を読んだのでした。
子どもの虐待については、やっと取り沙汰されるようになってきた昨今ですが、
子どもの頃に虐待を受けて今は大人になった人については、まだあまり取り沙汰されていません。
特に、その治療・ケアとなると、とても資源が限られます。
現在の子どものことについても十分じゃないのだから、大人になった人のケアについてはより不十分というのは仕方が無いのかも。
トラウマケアについても、
事故や災害などのケアは進んできているのですが、長い期間をかけて未治療のままの虐待・逆境体験のトラウマケアについてはまだまだなんです。
本書は、そんな大人のためのケアの貴重な一冊です。
大人になって苦労することに焦点を当てて、ケアプログラムが開発されたようです。
だからとても助かる。
大人になって苦労すること。
それは、
感情調節と誰かと何かをやっていくこと。
つまり、
自分の気持ちの扱いと、他者との関わり方、ちょうどいい振る舞い方。
が分からずに、または上手にできずに苦労するんです。
そうなんです。
私聞風坊も、結局のところこの2つにとっても苦労したんです。
今でも。
気持ちの調整がつかないということでどんな風に困るかというと、
身体が言うことを聞かなくなるんです。
うれしいことに出会ったとき、
嫌なことに出くわしたとき、
過去のことをふいに思い出したとき。
身体が動かなくなったり、
あたふたしたり、
動きすぎたり。
なんだかとてもおかしな状態。
いわゆるパニック状態になってしまうんです。
これが、
感情で身体がいっぱいいっぱいになって、感情に身体が振り回された状態であること。
だから、
今感じている感情を知り、身体を落ち着かせることが先決であること。
を知ったのは最近と言えば最近です。
心と身体の調和を保つためには、マインドフルネス瞑想が推奨されています。
今ここの自分の気持ち、身体の状態に思いをやり。ただ受け入れる。
身体が落ち着き、心が鎮まってきたら、どうすればイイかを落ち着いて検討して実行する。
穏やかに穏やかに。それで大丈夫だから。怖いことは起きないから。起きても対処できるから。
実行にあたっては、社会的スキルが必要です。
子どもの頃に虐待を受けて育った大人はもっぱら虐待する相手にのみ関わってきたから、そうじゃない相手に対しての関わり方が十分に身に付いていないんです。
心構えというか、気の持ちようというか。
どうすればいいのか戸惑ってしまう。
身体や心への暴力がともなわない人間関係での関わり方を知らないから。
つい攻撃的になったり、身構えたり、すぐキレて立ち去ったりする。
それしか知らないから。
つまり、
人との交流のパターンがとても少ないんです。
だから、このパターンを増やす練習が必要なんです。
『こもってよし!』や『親を育てるひきこもり』に記した記録は、まさにこの練習の軌跡です。
親以外のフツーの人々、虐待環境でないフツーの社会環境で生きていく術を大人になって身につけていく過程の記録です。
さて、社会参加、人との関わりのポイントは、”パワーバランス”と指摘されています。
相手のパワーと自分のパワーのバランスを考えて、振る舞い方を変える。替える。
それが社会でやっていくコツなんだ。
そんなことを伝えているようです。
これを知らないんです。
教えてくれる大人がいなかったから。
だから、
振る舞い方を間違えて痛い目に遭ったり、白い目で見られたり、空気を読めずに浮いてしまったりするんです。
今どんな風に振る舞うべきか?
職場の上司の意見には基本的に従う感じて。
異見を言うときは慎重に。
友人同士ならそんなに構えず。正直な気持ちを伝え合うように。
とはいえ、ネガティブなことは慎重に。
相手と自分、その場の雰囲気を感じ取って、適切に振る舞う。
時には沈黙。時には雄弁。時には親しく。時には他人行儀に。
時には気持ち重視。時には理論重視。
時には優しく。時には厳しく。
たくさんの振る舞い方、豊かな交流の仕方があります。
これらを身につける必要があります。
自由に、ストレス少なく暮らすために。
そのあと、
そのあとなんです。
トラウマと向きあう。
いわゆるトラウマ処理をするのは。
リソースなんて言いますが、今ここでそこそこ安全で安心で自信をもった暮らしができるようになってから、
過去の苦痛な体験について語るのですね。
ナラティブと言われています。
以上ざっとした説明ですが、
当事者の困難にとことん寄り添って作り上げられたプログラム、手順が丁寧に紹介された本でした。
よろしかったらお手元にどうぞ。
(メリレーヌ・クロアトルら著 金吉晴監訳 星和書店2020)
http://www.seiwa-pb.co.jp/search/bo05/bn1001.html
を読んだのでした。
子どもの虐待については、やっと取り沙汰されるようになってきた昨今ですが、
子どもの頃に虐待を受けて今は大人になった人については、まだあまり取り沙汰されていません。
特に、その治療・ケアとなると、とても資源が限られます。
現在の子どものことについても十分じゃないのだから、大人になった人のケアについてはより不十分というのは仕方が無いのかも。
トラウマケアについても、
事故や災害などのケアは進んできているのですが、長い期間をかけて未治療のままの虐待・逆境体験のトラウマケアについてはまだまだなんです。
本書は、そんな大人のためのケアの貴重な一冊です。
大人になって苦労することに焦点を当てて、ケアプログラムが開発されたようです。
だからとても助かる。
大人になって苦労すること。
それは、
感情調節と誰かと何かをやっていくこと。
つまり、
自分の気持ちの扱いと、他者との関わり方、ちょうどいい振る舞い方。
が分からずに、または上手にできずに苦労するんです。
そうなんです。
私聞風坊も、結局のところこの2つにとっても苦労したんです。
今でも。
気持ちの調整がつかないということでどんな風に困るかというと、
身体が言うことを聞かなくなるんです。
うれしいことに出会ったとき、
嫌なことに出くわしたとき、
過去のことをふいに思い出したとき。
身体が動かなくなったり、
あたふたしたり、
動きすぎたり。
なんだかとてもおかしな状態。
いわゆるパニック状態になってしまうんです。
これが、
感情で身体がいっぱいいっぱいになって、感情に身体が振り回された状態であること。
だから、
今感じている感情を知り、身体を落ち着かせることが先決であること。
を知ったのは最近と言えば最近です。
心と身体の調和を保つためには、マインドフルネス瞑想が推奨されています。
今ここの自分の気持ち、身体の状態に思いをやり。ただ受け入れる。
身体が落ち着き、心が鎮まってきたら、どうすればイイかを落ち着いて検討して実行する。
穏やかに穏やかに。それで大丈夫だから。怖いことは起きないから。起きても対処できるから。
実行にあたっては、社会的スキルが必要です。
子どもの頃に虐待を受けて育った大人はもっぱら虐待する相手にのみ関わってきたから、そうじゃない相手に対しての関わり方が十分に身に付いていないんです。
心構えというか、気の持ちようというか。
どうすればいいのか戸惑ってしまう。
身体や心への暴力がともなわない人間関係での関わり方を知らないから。
つい攻撃的になったり、身構えたり、すぐキレて立ち去ったりする。
それしか知らないから。
つまり、
人との交流のパターンがとても少ないんです。
だから、このパターンを増やす練習が必要なんです。
『こもってよし!』や『親を育てるひきこもり』に記した記録は、まさにこの練習の軌跡です。
親以外のフツーの人々、虐待環境でないフツーの社会環境で生きていく術を大人になって身につけていく過程の記録です。
さて、社会参加、人との関わりのポイントは、”パワーバランス”と指摘されています。
相手のパワーと自分のパワーのバランスを考えて、振る舞い方を変える。替える。
それが社会でやっていくコツなんだ。
そんなことを伝えているようです。
これを知らないんです。
教えてくれる大人がいなかったから。
だから、
振る舞い方を間違えて痛い目に遭ったり、白い目で見られたり、空気を読めずに浮いてしまったりするんです。
今どんな風に振る舞うべきか?
職場の上司の意見には基本的に従う感じて。
異見を言うときは慎重に。
友人同士ならそんなに構えず。正直な気持ちを伝え合うように。
とはいえ、ネガティブなことは慎重に。
相手と自分、その場の雰囲気を感じ取って、適切に振る舞う。
時には沈黙。時には雄弁。時には親しく。時には他人行儀に。
時には気持ち重視。時には理論重視。
時には優しく。時には厳しく。
たくさんの振る舞い方、豊かな交流の仕方があります。
これらを身につける必要があります。
自由に、ストレス少なく暮らすために。
そのあと、
そのあとなんです。
トラウマと向きあう。
いわゆるトラウマ処理をするのは。
リソースなんて言いますが、今ここでそこそこ安全で安心で自信をもった暮らしができるようになってから、
過去の苦痛な体験について語るのですね。
ナラティブと言われています。
以上ざっとした説明ですが、
当事者の困難にとことん寄り添って作り上げられたプログラム、手順が丁寧に紹介された本でした。
よろしかったらお手元にどうぞ。
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心理・カウンセリング
本の紹介
トラウマ
聞風坊
2020-10-12T06:00:00+09:00
-
逆境的小児期体験ACEについて知ったのでした 2
http://monpubowblog.miyachan.cc/e567580.html
『小児期トラウマと闘うツール――進化・浸透するACE対策』(ナディン・バーク・ハリス著 片桐恵理子訳 パンローリング社 2019)
https://www.panrolling.com/books/ph/ph95.html
を読んだのでした。
その感想の2です。
子どもの頃に暴力や虐待などの逆境体験をした場合、それが人体に悪影響を与えて、心と身体の病気を大人になっても引き起こす。
それは、人類共通の反応であり、人類のほとんどが逆境体験を経験している。
だから、早期発見し、影響を見極め、必要なケアを行う。
それが社会で標準化される。
これが、
逆境的小児期体験・ACE(Adverse Childhood Experiences)研究を中核にすえた医療実践している著者の願いでした。
血液検査でガンマGTPが高かった。標準体重をだいぶ超過し、血圧も高かった。
だからまずはお酒を控え、食生活指導を受け食事を改善し、運動のプログラムに参加する。
それで効果がないなら降圧剤の服用も考える。
加えてACEスコアが4点以上だったから、逆境的体験の回復プログラムも取り入れる。
そんな感じでかなとイメージしました。
さて、私が注目したのは、
逆境的体験の一言でした。
これまで、子どもに対する悪い影響として取り沙汰されている事柄は、
虐待、
望ましくない養育であるマルトリートメント、
体罰、
いじめ、
が多いのですが、
これらは、
ぜんぶ加害行為に焦点が当たっています。
害を受けた子どもの側よりも。
害を与える行為はダメです。
という視点です。
そう言えば、
有害図書もそうですね。
害のある図書。焦点は図書です。子どもではない。
一方で、
逆境的体験となると、
体験した側に着目しています。
その子が、逆境に遭遇した。
逆境を体験した。
逆境を体験したのはその子。
害を受けた、害を受けている人にまなざしを送っている。
害を加える行為や、害を与える人ではなく。
この視点が、新鮮でありとても強く心を動かしたのでした。
そして、
すでにもう研究がだいぶ進み、支援に取り組まれ、成果を上げていることも、大きな喜びでした。
とはいえ当地でもまだまだの様子。
子ども時分に手当てされる人は多くなく、
大人になって、いわゆる成人病や大きな病を得てから、初めて子どもの頃の逆境的体験を思いやられる人は少なくないようです。
ましてや日本では?
そんなことを思ったのでした。
https://www.panrolling.com/books/ph/ph95.html
を読んだのでした。
その感想の2です。
子どもの頃に暴力や虐待などの逆境体験をした場合、それが人体に悪影響を与えて、心と身体の病気を大人になっても引き起こす。
それは、人類共通の反応であり、人類のほとんどが逆境体験を経験している。
だから、早期発見し、影響を見極め、必要なケアを行う。
それが社会で標準化される。
これが、
逆境的小児期体験・ACE(Adverse Childhood Experiences)研究を中核にすえた医療実践している著者の願いでした。
血液検査でガンマGTPが高かった。標準体重をだいぶ超過し、血圧も高かった。
だからまずはお酒を控え、食生活指導を受け食事を改善し、運動のプログラムに参加する。
それで効果がないなら降圧剤の服用も考える。
加えてACEスコアが4点以上だったから、逆境的体験の回復プログラムも取り入れる。
そんな感じでかなとイメージしました。
さて、私が注目したのは、
逆境的体験の一言でした。
これまで、子どもに対する悪い影響として取り沙汰されている事柄は、
虐待、
望ましくない養育であるマルトリートメント、
体罰、
いじめ、
が多いのですが、
これらは、
ぜんぶ加害行為に焦点が当たっています。
害を受けた子どもの側よりも。
害を与える行為はダメです。
という視点です。
そう言えば、
有害図書もそうですね。
害のある図書。焦点は図書です。子どもではない。
一方で、
逆境的体験となると、
体験した側に着目しています。
その子が、逆境に遭遇した。
逆境を体験した。
逆境を体験したのはその子。
害を受けた、害を受けている人にまなざしを送っている。
害を加える行為や、害を与える人ではなく。
この視点が、新鮮でありとても強く心を動かしたのでした。
そして、
すでにもう研究がだいぶ進み、支援に取り組まれ、成果を上げていることも、大きな喜びでした。
とはいえ当地でもまだまだの様子。
子ども時分に手当てされる人は多くなく、
大人になって、いわゆる成人病や大きな病を得てから、初めて子どもの頃の逆境的体験を思いやられる人は少なくないようです。
ましてや日本では?
そんなことを思ったのでした。
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心理・カウンセリング
社会のこと
本の紹介
トラウマ
聞風坊
2020-10-08T06:00:00+09:00