虐待・逆境体験が聞く力に悪い影響を与えていること

2021年05月27日

虐待などの逆境体験があると、脳の一部が小さくなったり大きくなったりするそうです。

記憶を司る部分や、
見ることを司る部分は小さくなり、
聞くことを司る部分は大きくなる(またはそのままの大きさでいる)。

いつもの通り経験に照らして、このこと、特に聞くことを司る部分について考えたことを記したいと思います。

目や耳などの感覚器官は、
危険を察知するセンサーとしても優秀です。

目は、危険なものをいち早く見つけ、
耳は、危険な音を聞き分け、
鼻や舌は、危険な匂いや味に敏感です。

目や耳や鼻は、危険なナニカを察知します。

ナニカの影だったり様子だったり、

ナニカの音だったり、匂いだったり。

このうち、
目は、暗闇では察知できません。遮蔽物があっても同様。

鼻は、暗闇でも遮蔽物があっても大丈夫ですが、ある程度近くないと、または自分が風下でないと察知できません。

耳は、暗闇でも、ある程度の遮蔽物があっても、風下でも、大丈夫。

危険な音は、
人の声、人がたてる音、機械や道具などの物(環境)ががたてる音、動物がたてる音と色々あります。
いわゆる不快な音です。

不快な音であってもさしあたり危険ではない音もあります。
逆に、通常の音の中に、危険が潜んでいることもあります。

どれが危険でどれが危険でないかの判別はとても難しい。
境界はあやふやです。

大爆笑と悲鳴の差は聞き分けづらい。

一般的には、聞くための神経系は、人の声をよく聞き取るように発達するのだそうです。
都合、
それ以外の音を聞き取る神経は発達しない(=刈り込まれる)ので、結果的に脳の容積は適度に減るのだそうです。
余分な物をそぎ落として動きがよくなる感じでしょうか。

虐待・逆境にある人は、
この刈り込みが少ないみたいです。
そのため、結果的に容積が減らない、肥大してる感じになるとか。

親など自分を養ってくれる人の声に敏感に反応することは生きる上で大事です。
同様に、危険な音について敏感に反応することも大事です。

虐待・逆境状態では、
相反する意味合いを持つ二つの音が混在しています。
だから、
良いこと(自分のためになる良い音)と悪いこと(自分に害のある悪い音)が分別しづらい。

そのため、
どの音をよく聞き取れるようにした方がいいのか判断しづらくなり、
どの神経回路を残して、どれを捨てればいいかが選択できなくなってしまいます。

この結果、神経回路の刈り込みが進まない。
わさ~っと雑木林のような神経網のままで成長する。
※みかけ肥大してる
って仕組みらしいです。

この仕組み、言葉の理解ができる年頃であれば、
暴言を聞こえづらくする効果があるかもしれませんね。
暴言の信号が脳に届きづらくなるのだもの。
※自己防衛。

でも、この都合から、
聞こえの問題というか困難が生じているかもしれません。

人の言うことがよく聞き取れないとか、よく理解できないとか、雑音が邪魔して気が散るとか、落ち着かないとか、緊張し続けるとか。

特に、
暴言、辱め、侮辱、屈辱の言葉を浴びたのならば、
それらの侮辱・攻撃・破壊を意味する言葉を聞き取らないように脳が変化するかもしれません。

ひょっとすると、
いっそのこと人が発する言葉または音声全般を敏感に聞き取らないようにしてしまうかも。

視覚野が縮小することで暴力を見ないように、

海馬が縮小し恐怖や嫌悪を記憶しないように、

前頭野の働きを制限して体罰暴力にとっさに反応(攻撃・逃避)できるように、

脳が変化するのと同様に。

さて、
言葉を使って、知識は伝わってきます。

言葉を聞かないようにしているために、
知識が伝わりづらくなって、しかも記憶の機能も落ちているとなれば、学力が高まりづらくなるでしょう。
都合、
勉強に苦労することになりがち。

人の話を聞かない、理解に手間取る、勉強ができない、集中力がない、落ち着かない、
などの問題行動と呼ばれる行動をよくやる人(子どもや大人になった子ども)は、このような問題を抱えているかもしれません。

私が子どもの頃そうであったように。・・・今でもね。
  
タグ :聴覚野肥大


生きづらさを抱える人のために

2021年05月23日

Nacoaという国際組織があるようです。

参照引用サイトNacoa(UK)
https://nacoa.org.uk/

"The National Association for Children of Alcoholics"
親のアルコール依存症などの犠牲になっている子どもたちが必要としている手助けを提供する組織だそうです。

提供される手助けは、アルコール依存症に限らず、安全に安心して育っていける環境で育っていない子どもや大人になった子どもたちにも共通して役立つと思えます。

私もサイトを読んでとても助かりました。
心に残った点をいくつか記します。

年齢ごとに分けられたページの、
ヘルプとアドバイス(Help&advice)の各ページです。

アルコール依存症などの問題の影響を受けた人々が共有する感覚が記されています。
ページURL
https://nacoa.org.uk/support-advice/

・他の人と違う感じ

・親密な関係を築き、維持することの難しさ

・忠誠に値しないときでさえ忠誠であること

・楽しむのが難しいと感じる

・容赦なく自分自身を判定(ジャッジ)する

・自分が制御できない変化に過剰反応する

・「通常」が何であるかを推測する

・誰もあなたに何が起こったのか本当に気にしないと感じますか?

・罪悪感を感じ、理由がわかりませんか?

・あなたの家族の問題について秘密を守りますか?

・誰もあなたの気持ちを理解できないと思いますか?

私もこれらの感覚は、常に強く経験しています。

行く先々、出会う人出会う人に対してなんか違う感じを持っていました。

親密になること、親密でいることにとても疲れます。距離感が難しい。

責任感が強いといつも通知票に書いてありました。
職責・忠誠心と言ってもイイでしょう。ムダに忠誠なんです。
献身と言い換えてもいいかもしれません。
自己犠牲をいとわないでもいい。

そのために時間を取って遊ぶ感覚や趣味を楽しむ感覚が分かりません。
どうしていいのか分からない感じ。
自由にしてていいよ。と言われた時の感覚と似てます。

自己批判はとても強いです。判定は自分に厳しく一方で人には寛容です。
他の人が今の自分と同じことしたらどうする? の判定はまったく異なります。

状況をしっかり把握し、コントロールしたい気持ちを強く持っています。
じゃないと、気が変になるぐらい怖くてしようがない。
必死に状況を把握しコントロールしようとします。

いつも「フツー」を気にします。フツーどうしますかね?
が口癖だったりして。
多くのことがフツーとは違う家庭で育ったからです。
でも、
学校や職場や地域など私が生きていく世界はフツーの世界だから、そのフツーを知らないことはとてもとても困ります。

自分は誰からも気にかけてもらえないと思っています。
※私が誰かを気にかける役であることも一因です。

罪悪感や罪責感や恥じ入る感や屈辱感や無力感はよく感じます。

自己紹介を含め家族のことなど自分の私生活に関することはあまり口にしません。
公開するにしても厳選されたことのみを口にします。
厳しい検閲をへて言葉が発出されます。

分かってもらえない感覚は強く持っています。
きっとそもそもの前提が共有されていないからでしょう。
私、フツーと違う世界で生きてきたんです。

唯一、
自助グループでは前提が共有されていたので、理解し合う感覚を味わいました。

独りじゃないって思えました。

もし、
あなたがこれらの感覚を共有できるなら、Nacoaなどのアダルトチルドレンの知見が役立つかもしれません。

さしあたり、下の6つのフレーズは心を軽くし、希望への指南となるでしょう。

私はそれを引き起こしませんでした。
    ※原因ではありませんでした。

私はそれを制御することができません。
    ※ちょうどいいくらいに管理したり監督したりできません。

私はそれを治すことができません。
    ※病気や親の問題や家族の問題は治せません。直せません。

私は自分自身の世話をすることができます。
    ※その代わり、自分の面倒を見ることはできます。

私は自分の気持ちを伝えることができます。
    ※自分の心のケアもできます。

私は健康的な選択をすることができます。
    ※自分の健康管理もできます。

なにより、あなたはひとりではありません。

I didn’t cause it
I can’t control it
I can’t cure it
I can take care of myself
I can communicate my feelings
I can make healthy choices

You are not alone.

  


虐待の連鎖という言葉は配慮がないと思う。

2021年05月19日

支援者や専門家がまことしやかに胸を張ってさも正しいことのように口にするワードのうち、

どうにも受け入れられないものがいくつかありますので、列記することにしました。
お役に立てれば幸いです。

1、虐待の連鎖
虐待予防の場面で必ずと言っていいほど出てくる言葉です。

虐待した親が、子どもだった頃に虐待を受けていたというエビデンスに基づいて、こう言っているのだろうけど、
かつて虐待を受けていたところの、今では親になった子どものほとんど全員が虐待しているというエビデンスはありません。

それは、
虐待を受けた人は将来虐待をする!
とは言い切れないということ。
※虐待した人のほとんどが過去に虐待を受けていたと言うことはしっかり言えるだろうけど。

でも、
虐待の連鎖という言葉・ワードが一人歩きしているせいで、自分は虐待をするんだという呪いをかけられている被虐待児や大人になった被虐待児はたくさんいる感じ。

ややもすると、
自分は犯罪者予備軍だという感覚で怯えて生きている人たち。
こういうのをスティグマと言います。
心に刻まれた烙印ですね。

実のところ、
虐待していない被虐待児や大人になった被虐待児は多いと言う知見も見聞きします。
※被虐待経験者の多くは虐待しないって知見です。

自分の経験を自己の反面教師にしているからと思います。
虐待しないように日頃から意識している。
自分が受けた仕打ちを誰かにしないように誓っている。

こういうことから、
被虐待児・者への支援をする者が、この言葉・ワードを使うときは、とても慎重にならないといけないと思うのです。

加害し、その自分の行為に打ちひしがれている人に対して、あなたの人間性の問題じゃない、虐待を受けたことが原因なんだ。
という意味で使うのは理解できます。
その人の心のケアを意図した利用の仕方ですね。

一方で、
多数の人向けに、予防の意味で使う際は、多数の中に混じっているかつて虐待を受けた人たちが支援者が発するその言葉をどう受け止めるかについて、
くれぐれも思いやらねばならないと思うのです。

虐待についてなにかを伝えるときに、やみくもに判で押したように、軽々しく口にしてはならない! って。

支援者は、
自分たちが、支援対象者にスティグマを押し、そしておとしめて苦しめていることに鈍感であってはなりません。

2、問題行動
問題のある行動という意味ですね。

だから、
大人や支援者が矯正してもいい行動だ。
という意味合いで使われている感じです。

それは、
大人や支援者は、自分たちはまったくいつも正しい人だ!
だって、
自分たちはそんな存在だからだ!
という認識に基づいてる感じの言葉・ワードです。

問題行動。
ただ、パニクってるからやってるんだとか、
そういう社会適応の仕方(行動パターン)しか知らないとか、
それが実は、その子にとってその人にとっての唯一やりなれた問題解決行動だとかって見方・評価はありません。

問題行動。このワードは、
逆境体験の中で生き抜いてきた、
そうしないと生き残ることができなかった、
そのやり方で生き延びてきたところの支援対象者(子どもたちや大人になった子どもたち)の
心理への配慮が不足する一言ですね。

これについても、
支援者のこの姿勢によって、
逆境を体験した子どもや大人になった子どもたちは、

自分はこれからも問題行動を起こす人間だ。
これまでも問題行動ばかりしていたダメな人間だった。
という認識を持つかもしれません。

スティグマです。

支援者は、
支援をしている人と支援はしてないけど支援対象に当てはまる人たちに、
自分たちがスティグマを押し、その人たちをおとしめ苦しめていることに鈍感であってはなりません。

3、試し行動
(子育て系)業界では、養育者がどれくらい自分に配慮してくれるかを試すことを目的に、子どもがいろいろわがままをすることをこう呼ぶならわしのようです。
ニュアンス的には問題行動の範疇です。
被虐待児童は、まずやるんだそうです。

養育者が、自分が試されているような気になるからこう呼ぶようになったのでしょうね。
子どもが自分に嫌がらせや意地悪して私を困らせるって感じ。

自分の養育能力が試されてる、愛情がテストされてる、自分の包容力の限界をテストされてるって重圧感を持つのかしら。

英語訳はtesting of limitsらしいです。
※私未だに最初に言い出した人は誰か見つけきれません。原著・出典にたどり着けていません。

工業系の言葉に、
限界評価試験っていうのがありますが、これに近いかしら。

さて、この限界を見定める行為。

私は、
親の限界を見定める意地悪な行為と言うよりも、むしろ、

新しい世界(人間関係・ルール・安全な環境)で自分がどれくらいやっていいのか試してる(テストしてる)感じじゃないかと思っています。
※経験的に。

自分の振るまいがどこまでなら問題が起きないか?

どういうのが正しくて、どういうのから良くないことになるのか?

どんなことまで自分は安全でいられるか?

その限界を見極めようとしている感じ。

これまで生きてきた世界では、
それ以上はダメよって限界・境界までの距離がとても短かったり、
日によって、(養育者の気分次第で)あやふやだったりしたけど、

どうもここでは、
これまでのやり方とは全然違うやり方でやっていかないとならないようだし。
そしてなんかそれ良さそうだし。

どれをやっていいのか?
どこまでやっていいのか? この世界は?

どれくらい安定しているのか? ここは?

どんな反応があるのか? 今度の人たちは?

を評価試験しているんじゃないかしら。

悪意とか、意地悪とかって気持ちからじゃなく、
純粋にクールに自分の置かれた環境を評価する意図で。
あるいは、
お互いに、いい関係でいられるように。

その行為は、
新しい社会のルールを体験によって学ぼうとしているようにも思えます。
ある意味、探索行動。

養育者に挑むって言うより。
世界を再探索している感じ。

最近、
横断歩道の前で歩行者が横断待ちしていたら、車は停止する。
ってルールが強調されていますが、

これぐらいで止まればいいんだなとか、こんな風に注意して走行しとけばいいんだなとか、
走行中のルールを再点検したドライバーは多いんじゃないかしら。

きっとこの感覚に近いと思う。

で、今のでよかった?
って同乗者に尋ねたりして。

砕けた言い方をすれば、
さぐりさぐりやってる。

そうして手応えを得ようとしている。
だって、見知らぬ世界だもの。

そういう意味合いもあるだろうに、
※他には、純粋にトラウマ反応でなじみのあるそのやり方をやっているだけって場合もあるでしょう。

あるいは、
Tryingと言う意味での試すの要素もあるように思えます。
試みてみる。試しにやってみるって意味。

これだと、主体的に取り組んでる感じ。問題行動じゃない。
だって、
試行錯誤はとても大事な学びの形態だもの。

だのに、
支援者や養育者は、一律自分が試されている、挑まれてる、テストされてると定義するのです。
訳知り困り顔で支援対象の子どもや大人になった子どもたちをまなざして。

これこそ、問題行動のような気がします。
※でも、これは誰も矯正しません。矯正されるのはいつも弱者の子ども・当事者ばかり。
だって、支援者・養育者はいつも正しいのだもの。

一方で、
試し行動というワードを知ったところの、
虐待・逆境を体験した子どもや大人になった子どもたちは、

自分は、親密な大人に対して、優しくしてくれる大人に対して、
あるいは(性的にも)親密な関係になった人たちに対して、
その人たちを

試す行為をする人だ。
という認識を持っているかもしれません。

人を試す行為は、世界的に歓迎されません。
歓迎されないことをする自分は、よくありません。ダメです。
つまり、
自分は悪い子、悪い人。ダメな子。ダメ人間。という認識を持っているかもしれません。

スティグマです。

支援者は、
支援をしている人と支援はしてないけど支援対象に当てはまる人たちに、
自分たちがスティグマを押し、その人たちをおとしめ苦しめていることに鈍感であってはなりません。

さてこれらのスティグマ。
あまり意識されていません。

虐待・逆境体験者自身が、自分がスティグマを負っていることや、
支援者たちが、誰かにスティグマを捺していることを気づきづらいのは、

私たちがフツーに、
そういう傷を負うことを、
誰かから誤解され、誰かを誤解することを仕方のないことだと織り込んで日常を生きている、

日々を営んでいるからでしょう。

でも実際は、思った以上に傷んでるんです。
スティグマを捺された人たちは。

はやりの歌のフレーズを援用するならば、

あなたが思うより不健康です!

ってな感じなんです。

支援者は、このことに思いを致さねばなりません。

だって、
あえて捺さなくていいんだもの。