ひきこもりと不登校の違いを考えてみた話 その2

2020年02月19日

仮説です。

不登校は、学校にうまくなじめない状態。

学校不適応なんて言ってもいいかもしれません。

あの学校には、
あの教室には、
あの授業には、
あの先生には、
あのやり方には、
あの騒々しさには、
などなどなど、
なじめない理由がわりとはっきりしている。
だから、
あの学校じゃない、
あの教室じゃない、
あの先生じゃない、
あのやり方じゃない、
つまり、
あの環境じゃない学びの場なら、
通える。
なじめる。

環境・学校側が寄りそうことで適応しやすくなる。
つまり、環境調整が解決の鍵。

これが不登校。
じゃないか?

一方で、ひきこもりは、
あの学校でもこの学校でも難しい。
あのやり方でも、この環境でも同じように難しい。

環境が寄りそえるとしても、寄りそったとしても、こもっている。
社会が変わってもこもる。
これがひきこもり。
じゃないか。

となると、ひきこもり支援は、
本人の心への働きかけ。
痛みの軽減。
が必要じゃないかと思います。
環境を変えることよりも。

環境調整なのか?
本人への働きかけなのか?

支援に当たっては、
この見極めがとても大事な感じがしています。


  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる不登校

ひきこもりと不登校の違いの話 その1

2020年02月16日

ここしばらく、

不登校とひきこもりは根本的に違う。

という思いを強くしています。

不登校は元気。
ひきこもりは元気じゃない。

そんな本能的感覚から生まれたものです。

不登校というのは、学校を30日以上欠席している状態です。

だから、どんな風に普段を暮らしているかは不登校状態と呼べるかどうかには関係ありません。

その人たちは、学校には行ってないけど、
 誰かと楽しくゲームしてたり、
 学校以外の学びの場に通っていたり、
 友人と外で遊びほうけていたり、
 布団の中にずっとくぐもっていたり、
して暮らしているかもしれません。

一方、
ひきこもりは半年以上、家族以外とかかわりを持たない状態です。

となると、
上記不登校状態の前3者は、ひきこもりには当てはまらないでしょう。
最後の状態だけがひきこもり状態かと思われます。

さて、
そもそも人は、人と関わる生物だそうです。
そうして、脅威に対処して生き抜いてきたからだそうです。

ところが、
ひきこもりの人(の多く)は、人と関わることを好みません。

またもう一つ、
人には誰かから承認されたい欲求があると言います。

でも、
結構な数のひきこもりが承認を求めていないように思えます。
そんなことよりほっといてほしい。

必要なときはこちらから必要な分だけ関わるから。
そのときだけ相手(承認)してね。
そんな思い。

私聞風坊も基本これです。

それから人は、基本的にやりたいこと、欲求があるらしいんです。
それが夢や希望となって、科学技術が発展し、世の中は便利になり、地球全土を踏破した人類は今や火星にまで進出しようとしています。

それほど強い欲求があるのですね。

でも、ひきこもりにはないかもしれません。
あるとすれば、
世の中の片隅で穏やかに静かに小さく生きたい。
それだけ。

だから、
うらやむ気持ちもあまりないかも知れません。

一般的には、
裕福な暮らしや、友達がたくさんいること・慕われること、笑顔あふれる楽しいことがたくさんある暮らし
は、憧れとなります。
これらを実現している人を見れば、うらやましいという思いもわくでしょう。

不登校の人は、いい学校に行けてる人、いい友達がたくさん人、夢を叶えている人、恋人がいる人、
などをうらやましく思う人が少なくありません。
これも、ひきこもりとちょっと違う点のように感じています。

また、不登校の人からは、
友達がほしいという声をよく聞きます。
そして、
ほめられると素直に喜びます。自信も付きます。
次への一歩のエネルギーになります。
※ひねてない感じ。

また、
この学校は違う!
あの先生じゃない!

もっと自分に合う学校があるはずだ!
もっといい先生から学びたい!
って欲求が、裏を返せば将来への希望がありそう。
それは、
将来の自分の活躍をぼんやりと意識してるってことかも。

これと違って、
こもっている人の多くは将来に期待してない感じがしています。
将来を悲観してる。
この点も、不登校とひきこもりの違いと感じてます。

とはいえ、
不登校している人の中に、こもっている人はいます。
人と関わることを諦め、将来に期待せず、ただじっと時が過ぎるがままに暮らしている。

こうなると、
不登校児童生徒と言うより、

ひきこもり状態の少年少女。
という感じ。

こんな風に次から次に疑問が湧いてきて、
ひきこもりと不登校の関係について、
はてさてどう思案したものか?
わりと長い間悩んでいたんです私。

そして、
ひょっとしたら、不登校からひきこもりにはならないのかも。
と思い至ったのです。

ひきこもりは、
学齢期では不登校と呼ばれていたところの、元々ひきこもり状態だった人が、
学校に通う年齢が過ぎて、呼び名としてひきこもりと呼ばれるようになった。

つまり、
幼い頃からもともとひきこもり状態だった。
言うならば、幼年・少年ひきこもりだった。
学校を30日欠席している不登校と言うより。
そんな仮説が湧いてきたのでうす。
※語弊を承知で言うなら、不登校という呼び名が誤解を生んだ。

似たような場合を考えてみましょう。

おおむね働いていない若者はニートと呼ばれます。
ハロワに通っていたり、サポステを利用していたりするそんなニート。
でもそれは、若年ひきこもりではないかもしれません。

親の介護のために離職して、介護職の人とよい関係を築いたり、
地域活動などしている人は、無職の中年であって、
8050で話題の、
中年ひきこもりではないのかもしれません。

こう考えると、
社会というか人との関わりからひきこもっている人。
少年少女であれ、若者であれ、中年、老年であれ。

社会と関わることを進んでは望まない人たち。

その人たちは皆ひきこもり。

社会でやっていく気がない。
自信がない。
期待していない。
人たち。

だから病院に行って病気やけがを治し健康になる努力をしない。
意味がないから。今のままでやっていけてるから。

人と関わることを求めない。※相手が来るなら最低限関わってもいいけど。

人と関わることを求めず、
欲は少なく、
人をうらやまず、
ひたすら一人小さく生きることを望む。

そんな人たちがひきこもり。

だから、ひきこもりは、
不登校とは基本的に違う。
そう思えてきたのでした。

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(2)ひきこもる不登校

不登校児童生徒は学校に行かなくてもよくなったらしい話

2020年02月13日

文部科学省が令和元(2019)年10月25日に出した不登校対応についての通知によると、

1 不登校児童生徒への支援に対する基本的な考え方
(1)支援の視点
不登校児童生徒への支援は,「学校に登校する」という結果のみを目標にするのではなく,児童生徒が自らの進路を主体的に捉えて,社会的に自立することを目指す必要があること。また,児童生徒によっては,不登校の時期が休養や自分を見つめ直す等の積極的な意味を持つことがある一方で,学業の遅れや進路選択上の不利益や社会的自立へのリスクが存在することに留意すること。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1422155.htm

として、登校第1からその子の自立第1へと基本方針に変更があったようです。

内容的には、当たり前といえば当たり前のことを、
いまさらながら通知している感じもしますが、

だからといって、

あぁ、文科省がやっと不登校児童生徒に理解を公式に示した!
寄りそってくれた!
これでもう、ムリして学校に行かなくてもよくなった! 

と諸手を挙げて喜ぶわけにはいきません。

一言で言うと、
世話焼く人がいなくなるリスクがとっても心配なんです。

だって、ムリして学校来なくてもいいんだもん。

不登校児童生徒をなんとか学校に来させようとすると、
先生たちは相当ムリします。
同時に、本人にはすんごくムリを求めることになります。
保護者・親にも当然無理強いすることになります。

それが、ムリに学校に来させなくてよくなったら、

・・・
そのままムリせずゆっくり過ごしてください。
・・・。

ってことで、最終的にそのままムリせず卒業してしまいそう。
小学校から中学校に進学し、
ときには、そのまま高校に進むこともあるでしょう。
不登校状態のまま。

だからなんです。

学校という社会では、勉学以外のこともたくさん体験します。
どちらかというとそっちの方が将来の役に立つような気すらしています。個人的には。

また、
勉学というのはある程度歳を重ねないと重要性を感じないもののようです。
※社会人ほど勉学(知識)の重要さを知っている人たちはいないでしょう。

大人社会では、勉学というかいろいろな知識はとっても必要です。
知らないことが仕事とか社会的信用を失うことにつながることは少なくありません。

そして、なにより学ぶ力が必要です。
仕事や大人のやり方を学ぶ力がないとやっていけません。
大人気ない言動ばかりしていると、社会人としての信頼は得られません。

それゆえ、上記通知文の最後の行

学業の遅れや進路選択上の不利益や社会的自立へのリスクが存在すること

が、とても気になるのです。

大人になって自力で他人の中でやっていくために、
勉強や友人関係や(納得いかない)社会のルールと折り合いつけるスキルなど、
子どもの頃に体験しておいた方がいいことを体験できないリスク。

または、
その子の抱える問題や、課題を周囲の大人が知り、適切な支援につながらなくなってしまうリスク。

このリスクへの対処、
つまり学校の代替機会が確保できていない状況で、学校が関わらなくなることになってしまうではないかと懸念を持つからです。
※教育機会確保法はできたばかりですが、実際に十分に確保されているかしら?

人が育つには、
その育ちを支える人たちの存在が欠かせません。

学校(とその関係先)には、(十分に役目を果たしているかどうかは別として)その役目を担う人たちがたくさんいます。
学校に来ない。
と、その人たちとの関わりがなくなります。

代わりに、その子の育ちを支えるのは誰でしょう?

発達特性や虐待や困窮などから、
特別な支援が必要な子の育ちを支えることについてはどうでしょう?

その子の育ちを気にかけてくれる人は充分に確保できるているでしょうか?

学校に行っているからこそ、少なくとも学校と関わっているからこそ、
その子に必要なサポートが分かる場合は少なくありません。

学校に行かなくてもいい。
学校に来なくてもいい。
ちゃんと関わる人は確保してあるから。

そんな風になりますように。





  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと不登校