誰もボクを見ていない 1
2021年03月03日
ノンフィクション書籍
『誰もボクを見ていない なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(山寺香著 ポプラ社刊 2017)
の感想です。
以下、引用部分(灰色枠内)は17歳少年の思いです。
自分が収監され報道されたことでたくさんの支援者が関わってくることについて、
とあります。少年は、
人が人に優しくするのは、損得を勘定した取引との思いのようです。
私聞風坊ももともとはこういう考えなんです。
人間関係は取引なんです。
心と心のつながりじゃなくて。
親が自分を養うのは自分が跡取りで将来的に親の面倒をみるからなんです。
子どもの頃、親から何度もはっきり言われました。
この条件の下に私は親の養育を受けました。
これは、
親は、私に養育を提供する。その代わりに跡取りがいることでの平安を得る。
子である自分は、跡取りとして親の世話を提供する。その代わりに養育を受ける。
という取引です。
これでwin-win
※ちなみにこの感覚は、周りの大人に対しても同様でした。跡取りだから優しく付き合ってくれる。かわいがってくれる大人たちって感じ。
とはいえ、
取引なので緊張感のある親子関係でした。
条件を満たさねば契約解除。
養育がなくなるのですから。
そのため私は、この契約の中で生きてきました。
そして、
したたかに交渉するすべを学びました。
進路について、最終的に親の望んだ進路に行くのだから、道のりは自分の好みに寄ってもらってと、親に交渉して高校進学先を決めたこともあります。
この頃から、私は人と交渉することが習い性になっています。
大人になった今改めて考えると、
どうも、
暗黙の気配りに基づく日本風の人間関係作りではなく、欧米風の契約に基づく関係作りが身についているようです。
自己責任や役目感についてのくだりがありました。
私も、自分が生け贄になれば事態が収まるのならばそれもよし。
という感覚も持っています。
言われたから仕方がない。
という感覚も。
やむを得ないから自分がやる。
そんなもんだと割り切った人生。
嫌な役回りでもやる。
それが自分の仕事だから。タスクだから。取引条件だから。
誰も望まぬことをする兵士みたいなものだから。
line of duty.
今風にいうならば、寄り添うしかないんです。親に。
なぜなら、
親は寄り添ってくれないから。
きっと、
その力がないのでしょう。
親に任せていると事態が悪くなるばかりだから。
事態を収拾する人。
火消し役がいるんです。
スケープゴート。学習性無力感。諦め。奴隷。人生を身体を差し出す。生け贄。親に捧げる。親の分身。親の願いを叶える。親の道具。
自分の有り様を表現する言葉たちです。
少年は、収監後、支援を申し出てきた多くの人たちと交流しはじめたようですが、善意から自分に寄り添ってくれる人が現れると戸惑うみたいです。
私も、
こもっていて外に出だした頃、この経験を何度もしたことがあります。この人何者だっけ? とふと分からなくなるんです。
よく会っていつも笑顔で会話しているいる人なのに。
裏のない人たちだったからかもしれませんね。
少年も私も、
魂胆は言葉にしないで、巧妙に言葉を操って脅しをかけて自分の願いを叶える親とばかり関わっていた影響から、
人の言葉の裏にある魂胆、
人の笑顔の奥にある怖い企み、
に意識を向けるようになったのでしょう。
だから、
悪意が見つけられないときは、戸惑うのでしょう。
子育て関連の常套句に、
生きていてくれてありがとう。
生まれてくれてありがとう。
があります。
ふと思います。
そう言われてきた被虐待児童は少なくないのかもしれないと。
だって、
親が助かるんだもの。
子どもを利用できるから。
自分が楽できるから。
被虐待児童は、
ありがとう。
の裏に潜む魂胆を。
「次も頑張ってね親の私のために」
を感じ取っています。
そうしながらも、生きるために親と関わる。
だって、
誰も助けてくれないから。
この親以外、自分を気にかけてくれないから。
それが現実だから。
少年は、支援を申し出てきた人たちに対してすら生じる自分のそんな状態をどう克服していったかというと、
とのことです。
私もとにかく不信感や恐怖感は拭い去れないけど、人と関わり続ける努力を続けました。
とりわけこもってから後、外に出だした頃はそうです。
そうして、
たくさんの善意や行為やいたわりを浴び続けました。裏切られることはありませんでした。
どちらかというと不義理をしたのは私の方でそんな私を皆さん優しく甘えさせれくれました。
そんな少年は、
人から傷付けられることを恐れる一方で、また自分が人を傷付けてしまうことに怯えているようです。
人と関わる際は、
傷つき傷つけられるリスクが現実的にあります。
でもそれって、ひどい傷を負うレベルを意味しているのではありません。
ショックを受けたという程度です。これが暗黙の了解。
だって、
基本的にお互い様で配慮し合って社会は成り立っていますもの。
それぐらいなら、耐えられる。
だから人と関われる。
これが一般常識。フツー。コモンセンス。
でも、
この共通理解の枠の外で生きている人たちがいます。
きっと一般とは基準が違うのでしょう。
むしろ一人の方がいいと思って、ひきこもっている人たちなどは、
刃傷ほどの心の傷が基準になっているのかもしれません。
それほどひどい目に遭ってきたのですね。
この項続く。
『誰もボクを見ていない なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(山寺香著 ポプラ社刊 2017)
の感想です。
以下、引用部分(灰色枠内)は17歳少年の思いです。
自分が収監され報道されたことでたくさんの支援者が関わってくることについて、
大人に対しては、疑う心しかありません。自分(優希)に対して得なことを差し出してくる時はその後相手にはもっと大きな得があり、そのための小さな損をしているとしか考えられない。p175
とあります。少年は、
人が人に優しくするのは、損得を勘定した取引との思いのようです。
私聞風坊ももともとはこういう考えなんです。
人間関係は取引なんです。
心と心のつながりじゃなくて。
親が自分を養うのは自分が跡取りで将来的に親の面倒をみるからなんです。
子どもの頃、親から何度もはっきり言われました。
この条件の下に私は親の養育を受けました。
これは、
親は、私に養育を提供する。その代わりに跡取りがいることでの平安を得る。
子である自分は、跡取りとして親の世話を提供する。その代わりに養育を受ける。
という取引です。
これでwin-win
※ちなみにこの感覚は、周りの大人に対しても同様でした。跡取りだから優しく付き合ってくれる。かわいがってくれる大人たちって感じ。
とはいえ、
取引なので緊張感のある親子関係でした。
条件を満たさねば契約解除。
養育がなくなるのですから。
そのため私は、この契約の中で生きてきました。
そして、
したたかに交渉するすべを学びました。
進路について、最終的に親の望んだ進路に行くのだから、道のりは自分の好みに寄ってもらってと、親に交渉して高校進学先を決めたこともあります。
この頃から、私は人と交渉することが習い性になっています。
大人になった今改めて考えると、
どうも、
暗黙の気配りに基づく日本風の人間関係作りではなく、欧米風の契約に基づく関係作りが身についているようです。
自己責任や役目感についてのくだりがありました。
やったことは自分の責任と今でも思う。でもやっぱり心のどこかで正当化しようとしている。母親が言ったからあのときは仕方なかったと。申し訳ないとは、当然思います。p176
自分は何でもかんでも自分の責任なんだという癖があるみたいで、(中略)他の人に責任を押しつけるのが嫌だから自分自身でそれを背負って、その人たちのスケープゴートになろうとしているp176
私も、自分が生け贄になれば事態が収まるのならばそれもよし。
という感覚も持っています。
言われたから仕方がない。
という感覚も。
やむを得ないから自分がやる。
そんなもんだと割り切った人生。
嫌な役回りでもやる。
それが自分の仕事だから。タスクだから。取引条件だから。
誰も望まぬことをする兵士みたいなものだから。
line of duty.
今風にいうならば、寄り添うしかないんです。親に。
なぜなら、
親は寄り添ってくれないから。
きっと、
その力がないのでしょう。
親に任せていると事態が悪くなるばかりだから。
事態を収拾する人。
火消し役がいるんです。
スケープゴート。学習性無力感。諦め。奴隷。人生を身体を差し出す。生け贄。親に捧げる。親の分身。親の願いを叶える。親の道具。
自分の有り様を表現する言葉たちです。
少年は、収監後、支援を申し出てきた多くの人たちと交流しはじめたようですが、善意から自分に寄り添ってくれる人が現れると戸惑うみたいです。
人の裏には何があるか分からない、そんな考えで、人と話していても目の前に居る人のことを「この人は誰なのか」と分からなくなる時もあります。p185
私も、
こもっていて外に出だした頃、この経験を何度もしたことがあります。この人何者だっけ? とふと分からなくなるんです。
よく会っていつも笑顔で会話しているいる人なのに。
裏のない人たちだったからかもしれませんね。
少年も私も、
魂胆は言葉にしないで、巧妙に言葉を操って脅しをかけて自分の願いを叶える親とばかり関わっていた影響から、
人の言葉の裏にある魂胆、
人の笑顔の奥にある怖い企み、
に意識を向けるようになったのでしょう。
だから、
悪意が見つけられないときは、戸惑うのでしょう。
子育て関連の常套句に、
生きていてくれてありがとう。
生まれてくれてありがとう。
があります。
ふと思います。
そう言われてきた被虐待児童は少なくないのかもしれないと。
だって、
親が助かるんだもの。
子どもを利用できるから。
自分が楽できるから。
被虐待児童は、
ありがとう。
の裏に潜む魂胆を。
「次も頑張ってね親の私のために」
を感じ取っています。
そうしながらも、生きるために親と関わる。
だって、
誰も助けてくれないから。
この親以外、自分を気にかけてくれないから。
それが現実だから。
少年は、支援を申し出てきた人たちに対してすら生じる自分のそんな状態をどう克服していったかというと、
今現在繋がりのある方を多少なりとも信用してみたりしなくてはいけません。裏切られ傷付く覚悟をしてです。p185
とのことです。
私もとにかく不信感や恐怖感は拭い去れないけど、人と関わり続ける努力を続けました。
とりわけこもってから後、外に出だした頃はそうです。
そうして、
たくさんの善意や行為やいたわりを浴び続けました。裏切られることはありませんでした。
どちらかというと不義理をしたのは私の方でそんな私を皆さん優しく甘えさせれくれました。
そんな少年は、
人から傷付けられることを恐れる一方で、また自分が人を傷付けてしまうことに怯えているようです。
誰かに傷付けられることを。誰かを傷付けることを。一人ならそんなこと悩まずに済んだのに、と思いますp187
人と関わる際は、
傷つき傷つけられるリスクが現実的にあります。
でもそれって、ひどい傷を負うレベルを意味しているのではありません。
ショックを受けたという程度です。これが暗黙の了解。
だって、
基本的にお互い様で配慮し合って社会は成り立っていますもの。
それぐらいなら、耐えられる。
だから人と関われる。
これが一般常識。フツー。コモンセンス。
でも、
この共通理解の枠の外で生きている人たちがいます。
きっと一般とは基準が違うのでしょう。
むしろ一人の方がいいと思って、ひきこもっている人たちなどは、
刃傷ほどの心の傷が基準になっているのかもしれません。
それほどひどい目に遭ってきたのですね。
この項続く。
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