支援者は手が出せないのだから自分でやる

2021年01月08日

(基本的)人権。
というのがあります。
私たち全員が無条件に有するところの、誰も侵害できないものとされています。

自分の意志に従って、
やったりやらなかったり、求めたりすることができる資格と言えるでしょうか。
自由意思はその象徴のように思えます。

対人支援においては、人権意識はとても大事にされています。
この縛りが大きい! と言ってもいいぐらい。

それは、
人権を無視した、支援というか措置がまかり通っていた反省にもとづいています。

以前は、
障害がある・病気であると言うだけで施設に入所させられる。入所せねばならない社会。
支援という建前があれば、何でもやってよかった時代だったのです。
※実は今でもかしら。

時代が変わり、
人権を一番に考えるようになった。
人権侵害は絶対にやってはならない!

だから、
支援者は、今とってもセンシティブ。
人権を侵さないことにとても神経質です。

都合、
腰が引ける。
手を引っ込める。

都合、
たらい回し。
様子見。
なにもしない。

ひきこもりや不登校支援にあって、
支援者は、支援対象者の気持ちを尊重するために、
腰が引けていることは少なくありません。

それが、
ひきこもり状態が長期化して、8050問題が起きている一因だとしても、
人権を侵すよりはマシという感覚でしょう。

総じて、
当事者が自らの意思にもとづいて動くことに限り支援をします。

主体的行動を支援するんですね。
寄り添いと言われます。

ところが、
こもる人の多くは自ら動かない。
だいたいそれができればこもり続けていないからです。

自らできることと言えば、じっとしているぐらい。
それで身を守っているのだから。

自分の尊厳を守るために
自分の意思を尊重するために。
じっと動かない。

支援者は、
当事者のこの自由意思を尊重せねばならない!
でなければ人権問題だ。

ということで、
支援者は、もうなにもできない。
と判断しがち。
そのため、
なにかあったらいつでも相談に来てね。
で終わりがち。

でも、当事者である自分の人生はその後も続きます。

支援者は、支援できないと判断すればそれでお役御免。

でも、自分はどうだろうか?
自分の役目は続きます。
人権を守り、人権を尊重した暮らしを実現する。
という自分に対する役目が。

だから、考えます。
ある意味、考えねばなりません。
だって、役目だもの。
自分にしかできない仕事だもの。

このままの状態は、はたして自分の尊厳は保持されているのだろうか?

なにもしないという権利、自由意思は尊重していて、他者から尊重もされているが、
なにかをする権利は、幸福を追求する権利、健康で文化的な生活を送る権利は相当侵害毀損されているのではないか?

なんて考えると、今の状態に疑問が湧いてきます。

このままの状態でいいのか?
自分の役に立つことはできないのか?
自分のために自分で変えられることはないのか?
自分の考え方を変えるか?
人との関わり方を変えるか?
いろんなことを学び直すか?
いろんなことを試してみるか?

自分にできることをやる。
自分にできないことは他人の協力をあおぐ。
その練習が自助グループ。

支援者はなにもできないのだから、自分の役に立つことをする

そうやって今に到ったんだと自分の20年を振り返った正月なのでした。


タグ :自主人権

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Posted by 聞風坊 at 06:00│Comments(0)不登校ひきこもる
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