差別は愛から始まっているかもしれないと考えた話

2020年10月28日

先日、NHKのニュースおはよう日本のコーナー(2020/9/22)で、
アフリカにルーツを持つ人に対する差別は日本のそこかしこにあるということを改めて知りました。
いわゆる黒人差別です。

※当日放送分の記録が見つからないので参考に、その前に放送された内容のNHKサイトのURLを提示します。
https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2020/07/0702.html

肌の色が黒いと言うことから黒人と言われている人たちのルーツはアフリカばかりではないので、アフリカ系とかアフリカにルーツを持つと最近では言われるようになってきたようです。

あからさまな侮蔑的差別もありますが、
外国人に見えるから遠い異国の地で苦労しているから配慮せねばと言う理由からの特別扱いが差別とは言えないけれども同じ日本に暮らす同胞であるという意識を傷つけるむしろ心の負担になっていることもたくさんあるようでした。
マイクロアグレッションと呼ぶそうです。

例えば、
お国はどちらですか?
英語の説明書もありますが?

見た目日本人に見える人には,
そこら中の人たちと何にも変わらない人に対しては、
まず言わないし、言われもしない言葉です。

それが、
肌の色が黒いからと言うだけで。
当たり前のように言う。言わねばならない。
だから、
当たり前に言われる。うんざりしてるのにやっぱり言われる。
むしろ気遣いの言葉だからむげにしてはならない。
でも嫌なものは嫌。

実はこれ、
見た目問題なんです。

見た目で誤解される。
見た目で、音楽やスポーツが得意だ、日本語に困っている、知能や技能が低い、乱暴だ、選挙権がないなどなど、

アフリカにルーツを持つ人たちがいわゆる当事者として何人も実状を伝えたのですが、

この状況というか困り感というか、困難のポイントが、

障害者差別や障害者の困難と共通していると思えました。

そう、
見た目問題は大きいのです。
そして、
不適切な配慮も。

車椅子に乗っていれば、社会参加するのに障害があるのだと一目で分かります。
でも、精神疾患であることは、一目では分かりません。
ひょっとしたら、よだれを垂らして奇声を上げていないからかもしれません。
とはいえ、もし精神疾患だと分かればどうなるか?
いい結果に結びつくとは限らない世の中です。

障害者は、判断力が劣っている。
と言う偏見もあるかもしれません。
だから、
代わりに健常者である私たちがいい判断をしてやらねばならない。

障害者の人が困っているのだから健常者は助けてあげねばならない。
障害者の人を困らせてはならない。
そんな思いもあるかもしれません。

本当は、障害者だって困っていいんです。悩んだっていいんです。
困る権利があると主張されることもあります。

人生、生きるのに困りごとはつきものです。
自分らしく生きるには? 悩めばいいんです。
その機会を誰も奪ってはなりません。

誤った優しさから奪ってしまっていることは少なくありません。

車椅子の人には、困ってないかを優しく尋ねるのが世の礼儀とされているかもしれません。
でも、
車椅子に乗っているからといって今困っているとは限りません。
ルンルンで移動しているかもしれません。
そんな人に、あなたは困っているでしょう、私が手助けしてやりましょうと優しく尋ねるのは筋違いですね。

見た目、
肌の色が黒いとアフリカの人だと思う。
裸で裸足で槍持って手づかみでご飯を食べてたり、内戦や飢饉、疫病などで難民だったり、先祖が奴隷だったりのイメージがあったり。

白くて金髪なら欧米人と思う。
頭がよくてかっこよくて礼儀正しくて、先進国で豊かでやっぱりかっこよくてというイメージもあって。
実際は、欧米でも貧困で人身売買があったり、犯罪、薬物問題、人種差別など社会問題はたくさんあるらしいです。

自分たちと同じ黄色くて、それでいて外国なまりだと馬鹿にしながら警戒する。
もう少し黒みがあって彫りが深いと、馬鹿にしていいと思う。途上国からの貧しい出稼ぎの人だから。
みたく。
※ちなみに私聞風坊は、外国人技能実習生のニュースにふれるたびに奴隷制という言葉が頭に浮かびます。

上記のような人に対する見た目イメージは、フツーにあるんじゃないでしょうか。
偏見、思い込みですね。
既存のイメージに当てはまらない可能性はたくさんあるのに、自分のイメージが正しいと決めつけている。
自分の思いに絶対の自信がある!

なぜなら、あの人たちは、私たちと間違いなく違うからだ!
肌の色が、言葉が、国が、違うでしょ!
同じ人間だとはしてもね。
そんな思いかもしれません。

これは同胞意識の裏返し。
自分たちは、肌の色が同じで言葉も同じ、同じ国にずっと暮らしている同朋だ。
けど、あの人たちは違う。
違う。自分たちとは。自分とは。
だから・・・。

人間は、
同朋への愛情は持つようになっているのですが、裏を返すとそれは同朋以外には心を寄せないということです。
自分たちと違う存在には心を寄せない。
愛を向けない。

自分たちと違うと思っている存在には愛を向けづらい。
そういう性質のようです。
だから、差別は簡単にはなくならない。
人の根っこにつながることだから。
愛と同様に。

このように、
差別的行動や不適切な配慮は、社会のつまり当事者以外の人たちの偏見、偏愛から生まれてくることが多いのですが、

実は、
当事者が持つ社会に対する偏見も困難や差別の維持に一役買っているのです。

どうせ変わらない。世の中そんなもんだ。我慢してればいい。だって我慢できるのだから。
これらの思いは、
社会への偏見、自分たちへの偏愛から来ているようにも思えます。
当事者活動を長年やっている私聞風坊はそう思います。

社会というか当事者ではない人たちと当事者が、お互いに差別を認証している。
だから差別が存在する。不適切な配慮が横行する。

これを変えるには?
相互無理解を進めることが効果的とされています。

お互いに知り合う機会があれば、リアルな理解が進み勝手な思い込み・イメージがだいぶ減る。

とはいえそれは、
お互いがお互いを知り合っていないという冷徹な現実を引き受けることから始まるのでしょう。

分かりあえていない。
同じ人間同士なのに。

だって、
そう思ってないんだもん私たちは、お互いに。
同じとは思っていない。お互いに。

人間は同朋にしか愛を向けられない。
ならば、同朋になればよいのではないか。
それには、知り合うこと、理解し合うことが最も重要。

相手に愛を求めるならば、まず相手を理解することに努めること。
なぜなら、差別は愛から始まっているのだから。

そんなことを思ったのでした。




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