ひきこもりは社会問題としてより個人間の問題じゃないかと思った話

2019年03月05日

 ひきこもり問題の解決法について考えていて、ふと思いついたことです。

ひきこもりは社会問題ではない!

 ってこと。

 なぜこもったのか? なぜこもり続けるのか?

 関わりの深い特定の人、特定の人たちとの関係がどうにもうまくいかなくなったから、

 関係を絶つ、

 その人たちを始めその他の人たちとのあらゆる関わりから撤退する決断をしたからではないか。

ならば、
 こもる人が今思いつく特定の人との関わりが、もしもあのとき少し違っていれば。

または、
 こもる前のどこかの段階で、うまくできていれば。

あるいは、
 こもり始めてからのどこかの段階で、うまくできていれば、

または、
 今改めて思い返してみて、
 あぁしとけばよかった、本当はこうしたかったという思いを、あの時に少しでもできていれば、やっていれば、

今とは少し違ったように暮らしていたかもしれない。

こもり方も変わっていたかもしれない。

ひょっとしたらこもっていなかったかもしれない。

 たとい思いやりのない社会の中で生活していたととしても。

もし今、
 自分がこもることをなんとなく決断した際に、大きな影響(多くの原因)を与えたあの人、あの出来事。

 との関係を新しくできたとすれば、

 なんかもうこもらなくてもいいかな、なんかもう十分だと思えるようになるのではないか。

そんな、
 さしあたり自分に悪影響を与えた数名の人とのパーソナルな関係(認識)を変えればいいのではないか。

 社会を変えようとするんじゃなくて。

 そんな小さな身近な問題が核心なのではないか。

なのに、
 社会問題として扱うから手に負えなくなっちまうんじゃないか。
 何十年も同じ要望を社会に訴え続けることになるんじゃないか。
 そしてその要望は不十分にしかかなえられない。

もちろん、
 そんなパーソナルな問題だからとはいえ、
長期間苦痛を抱えて社会からこもっている人が100万人いるとすれば、
 それは社会的に大きな問題であるし、

 不良関係の一方の当事者である社会や他者には責任がないとか変わらなくていいとかの理由はないのだし、
 むしろ変わらねばならない責任があると思うのだけど。

 それを強く求めたとして、相手は変わるのか?
 私たちのことを思いやって。

 もし(運良く)社会が望ましく変わったとして、
 それでこもっている人が他者と関わり社会に参画するようになるのだろうか?
 
 電池の向きを逆にはめ直したから、今度こそは動き出すとでもいうように。
 
こう考えてくると、
 問題解決の核心・ツボは
 パブリックでなくパーソナルな関係の中にあるのではないか。

 復讐よろしく自己の被害を喧伝し、社会批判し、社会を変えることに躍起になるあまり、

 受けた傷を自らほじくり返し、または新しく傷つき、落胆し、社会からの疎外感を強めてしまい、

 結果として価値観の違う人たち(社会)とよろしくやっていくことができづらくなるのであれば、

 価値観の合う人とだけなら仲良くやっていける状態に仕上がっていくのであれば、

 それは望ましいことだろうか?

 こもる人の利益に叶うのだろうか?

 こもる人が今より自由に暮らしていけるようになることに貢献しているのだろうか?

 ひきこもり社会問題運動の功罪のうちの罪の部分ではないか?

 なんてことを思ったのでした。



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Posted by 聞風坊 at 06:00│Comments(0)ひきこもる
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