土呂久公害の話

2016年07月14日

 土呂久公害。
 子どもの頃に見聞きしつつ、だからかよく知らないまま大人になった現在、

 改めて学ぶ機会があったので、参加してきました。
 宮崎のNGO・アジア砒素ネットワークさん主催の連続講座です。
http://www.asia-arsenic.jp/top/

 土呂久砒素のミュージアム
http://toroku-museum.com/
 によると、

 一説によると戦国時代に開発された鉱山だそうです。
 銀や錫、鉛などの産出で賑わったようですが、当初から環境被害があったようです。

 砒素毒による公害は、大正期からのようで、鉱山側と住民側が何度も協議して、共生できる道を探り続けたようでした。

 住民は、和合会という自治組織を構成していたので、そこが中心となって対策していました。

 その甲斐あって鉱山側も加害を認め、経済被害を金銭補償で対応していました。

 でも、問題の本質は健康被害だったのです。

 この健康被害の補償が認められるには、バブル期の1990年最高裁和解まで80年近くかかりました。

 土呂久公害は、困難の歴史以外何ものでもないのですが、
 大正、戦前の昭和期においては、
 住民の意見や利害を代表する和合会という組織があったからこそ、
 鉱山側や自治体に働きかけることができたように思えます。

 もし、和合会がなければ、住民は自分たちの利害によって二派に分かれ、村は分裂していたかもしれません。

 とはいえ、住民を自己管理していた面も強く、住民全員の幸福を実現できたわけではないようです。

 議論紛糾することも多々あったようで、これが和合会ではなく喧嘩会だと評価されるゆえんのようです。

 さて、
 会議やグループファシリテーションをテーマの一つにしている私聞風坊は、この点を深く考えます。

 ファシリテータは議論しやすい場を作るのが役目の一つですが、利害を異にする住民双方が一堂に会して喧嘩できる場があったという点に注目します。

 支配・隷属がありがちな時代にあって、
 和合というニュアンスとは違い仲良しクラブではなかったのでしょうが、不承不承ながらメンバーの妥結点を探る仕組みがあったことに感動を覚えます。
 
 議論できる場、自分の立場をしっかり表明できる場、その存在価値を再確認した思いです。



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