今の私は生まれつきか適応か? 2 続き記事

2015年07月04日

 前記事の続きです。

 ピンカー氏の本を読むと、
 人は生まれつきとその後の学習によって今の自分が成り立っている。
 という当たり前といえば当たり前の結論に達するのでした。

 さて、今日記すことは、ブランク・スレート説の、
 人は学習次第で何者にも成れる。
 という考えについての私聞風坊による批判です。

 人には生まれつきの性質なんてない。
 人は、生まれてからの学習によって、何者にもなる。
 というブランク・スレート説の考え方は、ある意味、人間の可能性に大きな希望をもたらします。

 犯罪を行った人は、生まれつきではなく、犯罪行為を環境から学んだだけだ。
 だから、社会的に受け容れられる行動を学び直せばいい。
 世の中に、生まれついての犯罪者なんかいない。

 善行を為す人は、善行を為すように学習したのだ。
 だから、あの人を見習って、我々も善行者となろう。
 世の中に、生まれながらの善人はいないのだから。
   とりあえずゴミ拾っておくか。ニコニコ

 恋人や家族に暴力する人は、人間関係の結び方を暴力を通して学んだんだ。
 だから、暴力しない関係作りを学び直せばいい。
 世の中に生まれついての暴力的な人間はいないのだから。

 しかし、これらは、生まれつきの性質を無視する発想です。
科学的に、人には生まれつきの性質があることが証明されているとのこと。
男性には男性的な傾向があり、女性には女性的な傾向がある。

 男性は、性の特性から問題解決に積極的で、そのためにはときに闘争的で、いざとなったら攻撃すらいとわない傾向があるそうです。
 女性は、性の特性から問題解決は調和を優先させる方法を好み、争わないことを重視する傾向があるそうです。

 これらの特性は生まれ持ったその人らしさです。
 ですから、
 これら特性を無視して、教育をほどこし、学習を促進するということは、どんな意味を持つでしょう?

 その人らしさに価値を置いていない。
 その人らしさを無視している。
 その人を大切にしない。

ということになります。

 人は生まれてから、自己成長する存在だと私聞風坊は思っています。
そして人の成長に協力する存在であり、互いの成長を喜び合う存在。

 でも、だからといって、生まれつきの性質、特性にまったく配慮しないというのは、やはりおかしい。
 学習を促進するにあたっては、その人らしさを十分に価値置いた思いやりが必要だ。
 そう思うのでした。



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