今の状況は自分で決めたこと?
2014年06月10日
最近、自己決定について考えています。
自分の自由意志で何かを決めることですね。
これ、自動的に自己責任がついてきます。
だって、自分で決めたんだもの、自分でちゃんと責任とらなくちゃ。ってことです。
例えば、
食べ放題のお店で、お皿いっぱい盛った挙げ句、食べ残すことはマナー違反とされています。
どの料理をどの程度取るかの決定は自分でやったのだから、全部食べきらねばなりません。そうする責任があるのです。
というマナー意識(もったいない意識)にもとづいているのでしょう。
このように、
決定と責任は不二というのが常識的な考えです。
だから、不登校・引きこもりしている人に対して、
学校に行かない、社会から引きこもるという決定をしたのだから、
それによってどのようなことが起きても、それは自己責任だ。
自分で引き受けねばならない。社会は引き受けない。
という考えが生まれるようです。
さて、ここで大事なポイントは、
その決定の結果を本人が望んでいるかどうか? のようなのです。
学校に行かないという決定をした場合、
その決定として、友達と会えない、勉強ができない、運動会や給食や集団で何かをすることができない。
自分を教導してくれる大人と関われないなどなどの結果を望んでいるかということです。
たといそれによって、身の安全、不安や恐怖の軽減が達成できたとしたも。
さて、
いじめられて、不登校を決定した人は、不登校という状況に追いやられたとも言えます。
親の望む進路に行かねばならなかった人は、親の望む私の生き方という状況に追いやられたと言えます。
どうにも社会と折り合いのつけようがない、キツいばかりだとして、自室にいることを人生のほとんどにしている人は、
そういう状況に追い込まれたとも言えます。
もし、嫌だけど、それしか選択肢がないから仕方なく選んだ。
半ば強要されてそれを選ぶしかなかった。
そんな場合に、
その結果引き起こされたことに対して、どれほどの責任をとらねばならないのでしょう。
いえ、どれほど責任を負えるというのでしょう。
すでにもう自分の手に負えない状況なのに。
一方でまた、
追いやる状況を作った、そんな状況を放置していた周囲・社会に責任はないのでしょうか?
自分の利益に叶うからと、あらゆる可能性の選択肢の中から、自分の自由意志で決定したのならば、
その責任を自分で負うのに異論はないでしょう。
だって、自分が望んだ利益が自分で得られるのだもの。
仮に、思うような成果が得られなかったとしても、
そのプロセスにおいて、自分がやりたいことをやっているという利益は得ています。
つまり、
自分らしくやった。自分の思うようにやったという自由な感じ、自分の実行力を実感できているのです。
自分を生きている。
なんて言い方が当てはまるかもしれません。
自分の望む結果のために決定したことか?
それとも、
決して自分の望まない結果だけれども決定したことか?
この違いは大きいように思えます。
特に、決定の結果、負わねばならない責任の大きさに違いがあるように思えます。
窮余の末の決定は、酌量の余地が大きいと思います。
つまり、
自己責任を求めるより、酌量して社会の方が寄り添うということですね。
自己決定について、こんなことを考えました。
自分の自由意志で何かを決めることですね。
これ、自動的に自己責任がついてきます。
だって、自分で決めたんだもの、自分でちゃんと責任とらなくちゃ。ってことです。
例えば、
食べ放題のお店で、お皿いっぱい盛った挙げ句、食べ残すことはマナー違反とされています。
どの料理をどの程度取るかの決定は自分でやったのだから、全部食べきらねばなりません。そうする責任があるのです。
というマナー意識(もったいない意識)にもとづいているのでしょう。
このように、
決定と責任は不二というのが常識的な考えです。
だから、不登校・引きこもりしている人に対して、
学校に行かない、社会から引きこもるという決定をしたのだから、
それによってどのようなことが起きても、それは自己責任だ。
自分で引き受けねばならない。社会は引き受けない。
という考えが生まれるようです。
さて、ここで大事なポイントは、
その決定の結果を本人が望んでいるかどうか? のようなのです。
学校に行かないという決定をした場合、
その決定として、友達と会えない、勉強ができない、運動会や給食や集団で何かをすることができない。
自分を教導してくれる大人と関われないなどなどの結果を望んでいるかということです。
たといそれによって、身の安全、不安や恐怖の軽減が達成できたとしたも。
さて、
いじめられて、不登校を決定した人は、不登校という状況に追いやられたとも言えます。
親の望む進路に行かねばならなかった人は、親の望む私の生き方という状況に追いやられたと言えます。
どうにも社会と折り合いのつけようがない、キツいばかりだとして、自室にいることを人生のほとんどにしている人は、
そういう状況に追い込まれたとも言えます。
もし、嫌だけど、それしか選択肢がないから仕方なく選んだ。
半ば強要されてそれを選ぶしかなかった。
そんな場合に、
その結果引き起こされたことに対して、どれほどの責任をとらねばならないのでしょう。
いえ、どれほど責任を負えるというのでしょう。
すでにもう自分の手に負えない状況なのに。
一方でまた、
追いやる状況を作った、そんな状況を放置していた周囲・社会に責任はないのでしょうか?
自分の利益に叶うからと、あらゆる可能性の選択肢の中から、自分の自由意志で決定したのならば、
その責任を自分で負うのに異論はないでしょう。
だって、自分が望んだ利益が自分で得られるのだもの。
仮に、思うような成果が得られなかったとしても、
そのプロセスにおいて、自分がやりたいことをやっているという利益は得ています。
つまり、
自分らしくやった。自分の思うようにやったという自由な感じ、自分の実行力を実感できているのです。
自分を生きている。
なんて言い方が当てはまるかもしれません。
自分の望む結果のために決定したことか?
それとも、
決して自分の望まない結果だけれども決定したことか?
この違いは大きいように思えます。
特に、決定の結果、負わねばならない責任の大きさに違いがあるように思えます。
窮余の末の決定は、酌量の余地が大きいと思います。
つまり、
自己責任を求めるより、酌量して社会の方が寄り添うということですね。
自己決定について、こんなことを考えました。
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これまでの発表や記事原稿を、「聞風坊の図書館」で適宜公開しています。
別サイトになります。こちらもご覧下さいませ。
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