いつわりの幸せを生きてきたかも

2014年04月30日

 ひきつづき幸福について考えています。

私は幸福を口にすることにとても抵抗を覚えます。

 そもそも、
 嫌だ、好きだ、嬉しい、楽しい、悲しいなど、感情が苦手だったという理由から、
 幸福という感情や感覚を体感するのが嫌なのかもしれません。幸福を知っているのに関わらず。

 または、
 幸福にまつわる記憶があまりいいものではないからかもしれません。だから軽々しく口にしたくないのかも。
 世の中には、晩酌のビールで「幸せ~!」と満面の笑みで口にする人がいますが、私はそれはできません。

 それは、なぜなんでしょう?
寝冷えから風邪を引き込んだ病明けの頭でじっくり考えました。

 今回は、このことについて記します。

 幸福を感じる、感じないと考える時に、必ず思い浮かべるのが、
ロゴセラピーの創始者であるヴィクトール・フランクルのエピソードです。

 私の記憶が正しければ、
強制労働から宿舎への帰り道、夕陽の美しさに感動し、幸福を味わったとのことです。
 そこから、人はどんな絶望的な状況にあっても人生への関わりかた次第で幸福でいられるという確証を得たとか。

 無名のアルコール依存症家族会でも、同じような経験が語り伝えられています。
あの絶望ばかりの家庭の中でも、私たちは心の平安は得られ幸福さえ感じられると。

 事実、私も15年ほど前にこもるまでは、幸せであることに意識を向けて生きて来ました。

親がいること。三食食べられること。住処があること。服があること。
学校に行けること。戦争がないこと。友人がいること。眠れること。健康を保持できること。
多少なりとも自己実現できていること。などなどなど。
 だから、自分は幸福だと。言い聞かせてきました。

 それらはまったくの事実です。
だから幸せな人生だったと決定することは正しいことだと思っています。

 そして、その一方で、心のどこかで、この幸せはなんか変だぞ。
と思っていた、感じていた、知っていたことも事実なのです。

 そこで、
 こもって以降、私はそれまでないがしろにしていた自分の小さな直感を大事にしているのですね。
たとい、それが社会や周囲の人からは望まれないことだとしてもです。

 確かに人は、家族を殴り、罵り、いがみ合い、嘘つき合いながらも、
一緒に食事して、生育して、学校に行き、職場に行き、家事をこなし、近所づきあいして、納税し、選挙し、
冠婚葬祭し、病院で治療し、友人と笑い、時に家族同士仲良く過ごします。

 そんな日常に、幸せを感じることはできます。
フランクル氏が指摘しているように、どんな状況でも幸せを作り出せる。
 そういう能力は人間にはあるのですね。

 ですが、
人種が異なるという理由で強制収容されたフランクル氏を、
暴力の応酬が果てもなく続くアルコール依存症の家族を、

 あの人たちは幸せだよ。と言うことに抵抗を感じないでしょうか?

 私たちは、その人たちが幸せを感じているからといって、
明日処刑されるかもしれない無実の人々を、または泣き叫ぶ家族をして

 あの人たちは幸福だ。と言い切っていいものでしょうか?

 そんないきさつから、私は今、軽々しく幸福だと口にすることに抵抗があるのです。
そういう仮説にたどり着きました。



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