フツーが苦痛なのです

2013年11月08日

 こもる人のうち、少なくない人が「フツー」に悩んでいるかもしれません。

自分が、フツーとは違う感じを持っているからでしょう。

だから、フツーの社会では、生きづらさを感じるのでしょう。

フツーがわからない。
   フツーを知らない。
  そして、フツーの社会では苦痛を感じるのがフツーな私。

この「フツー」にまつわるいろいろなこと、これは、
価値観がたくさんあることがフツーになってきたことが一因のように思えます。
 ※↑価値観の多様化と言われるところですね。

 例えば、目玉焼きには、しょうゆをかけてもいい、ソースでもいい、ケチャップでもいい、塩こしょうでもいい、そのまま何もかけないでもいい。
 など、個人個人がそれぞれ価値を置く調味の仕方が、原則他者から邪魔されず認められています。
個人個人の味覚に対する価値観の多様性が受容・承認されているのですね。

個々が疎外されず認められているというのは、私たち一人一人が
 自分らしくあって、
    自分らしい考えで、
      自分らしい行動をとることが認められているということ。

 もちろん、それにともなう責任は自分で負わねばなりませんが、
基本的に自分らしく生きていいということですので、社会の方向性としては、個人が生きやすくなる方に向かっています。

 ですが、ここで問題が起きるのです。
何かって?

 個を重視するために、個別(Individual)化が進み、
私にとってのフツーが、あなたにとってのフツーとは違ってくるからです。

 もし、目玉焼きには、しょうゆをかけるのが世界の常識だったとしたら、こんなことは起きません。
その場合、世界中誰もが目玉焼きにはしょうゆをかけて食べています。

 今、伝統文化が違う外国の人と初めて会って、お互いの違いが目立ち関わりづらさを感じていたとしても、
目玉焼きの調味だけは共通しているから、そこから親近感が持てるはず。

 私のフツーが、あなたのフツーと一致していると、親しみを覚えるもの。
でもそれが、価値観が多様であるために、今は、一致しづらくなっている面があります。

 私がこれを特に感じるのが、
子どものように無邪気で
 子どもの頃に戻ってのびのびと
と、気兼ねない状態の喩えとして子どもの頃の状態をフツーに持ち出される時です。
 この喩えをした人に親しみを持てません。

 喩えた人の子どもの頃のフツーは、気兼ねがなかったのでしょう。
でも、私の子どもの頃のフツーはそうではありません。逆です。
大人になって、トレーニングし、力を手にしたからこそ、気兼ねなくすごせるようになったのです。

 子どもの頃は、気兼ねしないもの。ということがフツーの社会で生活するのは、
それがフツーでなかった人にとっては難儀・苦痛です。


フツーが苦痛。

そう感じている人がいるということを知っていることは、きっと何かの役に立つと思います。



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