ひきこもりと承諾 3
2013年06月03日
前記事は、承諾の内容にもいろいろあるから、細かく確認することが重要ということでした。
今回は、なぜ承諾について丁寧に考える必要があるのかです。
役目と関連して考えてみます。
ひきこもり、不登校など生きづらさを抱えながら生きる人たちの話は、
それまでの自分の人生を、程度の違いこそあれおおよそ否定している感じです。
また、
自分が生まれてくることを望んでいなかったような印象を持つこともしばしばです。
これ、
自分の人生を、
この世に生まれてくることを、
承諾していないと言い換えることもできます。
今まで生きてきた様子を振り返ると、
承諾していない役目を負って生きていることに心底うんざりしているのかもしれません。
あの両親のもとに生まれてきたことから、
両親が決めた子どもとしての役目に就かなければならなかった。との思いもあるのでしょう。
大人の都合で、児童・生徒として特定の学校に所属することに含まれる
理想的な児童生徒という役目を果たさねばならない重圧もあったでしょう。
経済的理由、学歴、景気動向、社会情勢などから、
社会人、職業人としての役目を担うのに、艱難辛苦を覚えることもあったのでしょう。
それでいて、
認められることも少なく、ねぎらうよりも要求することの方が圧倒的に多い状況のもと、
必死に一所懸命に役目を果たしてきて、
とうとう限界が来て世間から遠のいた生活を送る。
ひきこもり、不登校と呼称される人たちの多くは、こんな思いなのだろうと思っています。
こういう思い、体験を持つ人たちと関わる人たちは、すべからく承諾についてセンシティブでなければならない。
と、私・聞風坊は、だから思うのです。
あの子は、ひきこもりだから、
この利用者は、若者だから、
ひきこもり仲間でつるませれば自動的に友達ができる。
若者らしい遊びを体験させて楽しませる。
などというのも、ひきこもりという役目、若者は元気で遊ぶものという役割を担わせようとしているように思えます。
だって、友達になるかどうかを選ぶのは、当の本人たちですし、
遊びにしたって、各人それぞれに好みがあるし、だいたい遊びたくない気分の時もあるんですもん。
それなのに、友だち作りましょう! 遊びましょう! って場面構成したら、
不承不承、友達っぽい関係を作ったり、遊んで楽しがったりしますよね。
自らの、友達ほしい! 楽しみたい! という自然な気持よりも、場面を構成した誰かの思いに従う形で。
そうそう、この友達がいた方がいいと思う理由は、ひょっとしたら、
友達ほしくない?
まぁ…ねぇ。
という承諾の会話にもとづいているかもしれませんね。
さて、そんなこんなで、相手に寄り添うスタイルをとって、相手に承諾を求めるときに、重要なことはなにかというと、
承諾を拒否する権利を保障することが一つあると思います。
具体的には、
こちらの提案に対する相手の応答が、イエス・承諾以外の選択肢を提示することです。
つまり、ノーと言ってもいいと保障すること。
ノーと言っても安全であることを確約すること。
です。
あなたには、私からの提案に全面的または部分的に承諾してもいいし、全面的または部分的に否定してもいい。
いずれにしても、私はあなたの意思を尊重する。
なぜなら私は、あなたを肯定することを承諾しているからだ。
その時は、きっとこんな思いで、相手と向きあっているのでしょう。
そして、
ノーと言ってもいいにもかかわらず、イエスと言う。
この承諾は、重く、主体性は強い。
そう思います。
この項終わり。
今回は、なぜ承諾について丁寧に考える必要があるのかです。
役目と関連して考えてみます。
ひきこもり、不登校など生きづらさを抱えながら生きる人たちの話は、
それまでの自分の人生を、程度の違いこそあれおおよそ否定している感じです。
また、
自分が生まれてくることを望んでいなかったような印象を持つこともしばしばです。
これ、
自分の人生を、
この世に生まれてくることを、
承諾していないと言い換えることもできます。
今まで生きてきた様子を振り返ると、
承諾していない役目を負って生きていることに心底うんざりしているのかもしれません。
あの両親のもとに生まれてきたことから、
両親が決めた子どもとしての役目に就かなければならなかった。との思いもあるのでしょう。
大人の都合で、児童・生徒として特定の学校に所属することに含まれる
理想的な児童生徒という役目を果たさねばならない重圧もあったでしょう。
経済的理由、学歴、景気動向、社会情勢などから、
社会人、職業人としての役目を担うのに、艱難辛苦を覚えることもあったのでしょう。
それでいて、
認められることも少なく、ねぎらうよりも要求することの方が圧倒的に多い状況のもと、
必死に一所懸命に役目を果たしてきて、
とうとう限界が来て世間から遠のいた生活を送る。
ひきこもり、不登校と呼称される人たちの多くは、こんな思いなのだろうと思っています。
こういう思い、体験を持つ人たちと関わる人たちは、すべからく承諾についてセンシティブでなければならない。
と、私・聞風坊は、だから思うのです。
あの子は、ひきこもりだから、
この利用者は、若者だから、
ひきこもり仲間でつるませれば自動的に友達ができる。
若者らしい遊びを体験させて楽しませる。
などというのも、ひきこもりという役目、若者は元気で遊ぶものという役割を担わせようとしているように思えます。
だって、友達になるかどうかを選ぶのは、当の本人たちですし、
遊びにしたって、各人それぞれに好みがあるし、だいたい遊びたくない気分の時もあるんですもん。
それなのに、友だち作りましょう! 遊びましょう! って場面構成したら、
不承不承、友達っぽい関係を作ったり、遊んで楽しがったりしますよね。
自らの、友達ほしい! 楽しみたい! という自然な気持よりも、場面を構成した誰かの思いに従う形で。
そうそう、この友達がいた方がいいと思う理由は、ひょっとしたら、
友達ほしくない?
まぁ…ねぇ。
という承諾の会話にもとづいているかもしれませんね。
さて、そんなこんなで、相手に寄り添うスタイルをとって、相手に承諾を求めるときに、重要なことはなにかというと、
承諾を拒否する権利を保障することが一つあると思います。
具体的には、
こちらの提案に対する相手の応答が、イエス・承諾以外の選択肢を提示することです。
つまり、ノーと言ってもいいと保障すること。
ノーと言っても安全であることを確約すること。
です。
あなたには、私からの提案に全面的または部分的に承諾してもいいし、全面的または部分的に否定してもいい。
いずれにしても、私はあなたの意思を尊重する。
なぜなら私は、あなたを肯定することを承諾しているからだ。
その時は、きっとこんな思いで、相手と向きあっているのでしょう。
そして、
ノーと言ってもいいにもかかわらず、イエスと言う。
この承諾は、重く、主体性は強い。
そう思います。
この項終わり。
Posted by 聞風坊 at 00:00│Comments(0)
│ひきこもる
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これまでの発表や記事原稿を、「聞風坊の図書館」で適宜公開しています。
別サイトになります。こちらもご覧下さいませ。
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