ひきこもりの始まりは「失敗」だった話。

2020年04月09日

私はおよそ20年前にひきこもったのですが、
それ以来、
後悔やら、落ち込みやら、自信のなさやら、やらかした思いが強烈な自分を責めるフラッシュバックやら、自分に罰を与えたくなるやら、罪の意識やら、いろいろなマイナス感情を感じながら生きてきました。

将来にも悲嘆し、ただひたすら日々を生きる暮らし。

心理状態から言うと、うつに当たると思われます。

こんな状態でセルフセラピーやらなにやらかにやら工夫と努力を重ね、だいぶ楽に暮らせるようになってきたのでした。
そして、去年の終わり頃にふと気づいたんです。

あぁ、自分失敗したんだと。

そうなんです。

家族とうまくやっていけると自信をもって実家に帰ったら、自分の力ではどうにもできないことばかりに遭遇して、
にっちもさっちもいかなくなって、
ほんとにもうどうもしようもなくなって、
そう、人生に行き詰まってしまったのです。

一言でいうと、
失敗したんです。

ミスったんです。

失敗すれば落ち込みます。
人生の失敗であればことさらひどく落ち込みます。

ミスは、悪いことになります。
だから、
悪いことをした自分を責めます。
人生のミスなので、バカな自分を責めまくります。

懲罰の感覚も持ちます。

ゴメンナサイの謝罪の気持ちも強くなります。
自分は罪人だという感覚も持ちます。

自分の読みの甘さ、現実検討力のなさ、愚かさ、未熟さ、
やらかしてしまった自分に恥じ入ります。

どうやっていけばいいのか分からないのだから、将来への希望も持てません。
自分への自信も持てません。

やらかしはしないかと、不安でいっぱいで、
間違いがないか、自分がしたことにミスがないか、確認しまくってやっと少しばかり行動できます。

振り返ると、そんな日々でした。

人生を失敗した。
やらかした自分。

そんな気持ちでいたようです。
この20年。

自責、自罰、罪悪感、謝罪感、無価値感、
うつの感情の理由が少し分かった気がしています。

少しばかり謎が解けた感じで。

そして、
それについて失敗しただけで、人生全体について失敗したわけではない。
あの失敗は教訓にできる。
という思いも少し芽生えてきて。

  


トラウマのフラッシュバックの仕組みの話

2020年04月05日

TA・交流分析では、自我状態図を使っていろいろ考えるのですが、

トラウマのフラッシュバックについて、この図を使って考えてみます。


私聞風坊のフラッシュバックの様相は、

自分が過去にやらかしたことが急に頭のスクリーンにわき起こり、

全身が緊張に包まれ、

いたたまれなくなってしまうものです。

罪悪感とか、罪責感とかがとても強く、
自分を罰する気持でいっぱいになります。

幼い頃の至らなさからだった。
そのときは、ストレス抱えていてしょうがなかった。
もう繰り返してないんだから、自分をゆるそう。

と対処してきましたが、今ひとつ効果がないんです。

どうしたものかと思案の日々でしたが、

最近、ふと思いつきました。

あぁ、自分にはやらかす性質があるんだ。
加害性があるんだと。

聖人君子クラスの穏やかな清い人間ではなく、どちらかというとヤンチャ系。チョイ悪。

それが自分なんだとミョーにふに落ちました。

すると、なにかしらつっかえが取れた感じ。

だからこそ、今とこれからをまっとうに生きよう。
そう思うことで、楽になりました。

とはいえ、やはりフラッシュは続きます。

そのため、またしばらく思案の日々だったのですが、
あるときふとひらめきました。

人権無視、暴力、暴言、心ない仕打ちは自分がさんざんやられたことです。

それを反面教師として、自分はそんなことをしない人間になろうと決めたのでした。
遠い昔に。

そんな私にとって、悪いことはゼッタイに許されないこと。
もし許してしまったら、自分を傷つけたあの人たちと同類になるからです。

だから、ゼッタイに許せない。
やってしまったことはものすごい懲罰で償い続ける。

何度も何度も思い出し思い出し、自責自罰続ける。

そうして、自分を律するのです。

お前やったよね! 許されないことやったよね!
もう二度としないように、懲らしめないとね!
それ、分かってるよね!

TA・交流分析では、
こんな風に、
幼い子が怖い魔法使いから脅されて言うことを聞くような感じで、
自分を脅して社会に適応するように仕向けるのは、

魔法の親(P1)の仕事と言われています。

魔法の親は、
やるな! の
禁止令を発して、ついやらかしてしまった私(C1)を怯えさせていたのでした。

この状態が、
今ここの意識(A2)に侵入してきて、フラッシュバックを起こしていたようなんです。

さて、
このフラッシュバックのメカニズムが分かった途端、
ふっと解放された感じがしました。
過去の自責体験として、あるべき場所(C2)に収まった感じ。
だから、今ここの生活(A2)に侵入しなくなった。

これからは、
フラッシュバックも、きっとそんなに強烈な自責の念は感じないようになるでしょう。

強烈な体験型の記憶ではなくて、
昔の、やらかした記憶として穏やかな謝罪の気持ちをともないながら思い出すようになるのかもしれません。

とはいえ、別のメカニズムでの自責の念は起きるかもしれません。そのときはまた新しいワークを考えましょう。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)交流分析トラウマ

その人は、その人たちの典型例ではないかもしれないこと

2020年04月01日

ある人が、自分のことについて世間に知らせる。

それにより、私たちは、そのある人について知るとともに、

そのある人の属性についても知ったような気になります。

例えば、不登校の人が自分のことについていろいろ話をしたとき、

私たちは、その人を通して不登校を理解した気になります。
不登校って、こんななんだぁ。ってな感じで。

それは、ある人が、
ゲイだとしても、ひきこもりだとしても、身体障害者だとしても、統合失調症だとしても、
サラリーマンだったとしても、厚生労働省の官僚だったとしても、ハリウッド映画に出てる俳優さんだったとしても。
同様です。

でも忘れてはなりません。
その人は、その人と同じカテゴリーに割り振られた他の人たちとは違うことを。
決して、そのカテゴリーの代表ではないことを。

共通する点、典型的な点はあるのでしょう。
でも、そのある人を典型例とするのは過ぎるかもしれません。

私たちは、
その意見が、ある当事者(たち)の意見を取り入れているからといって、
当事者全員がそう思っているわけではない可能性を心に留めておく必要があります。

情報をどのように受け止めるか?
情報リテラシーの話でした。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと