不登校とひきこもりの違いについて考えるシリーズ4 最終回

2020年02月25日

「不登校」と「ひきこもり」の解釈を変えた方が、
特に2つの違いを浮き立たせた方が、
より気の利いた関わりができるんじゃないかと思索を繰り返しています。
そのシリーズ最終回。※ちなみに次のシリーズは未定。

不登校は、ソリが合わないから。
あの学校と。あの担任と。あの校則と。あの友人と。・・・。

だから、ソリの合う何か、誰かを見つければだいぶ楽に登校できるようになる。
と希望を持っている。

ならばと、
「あの」で特定される登校阻害要因がない環境を提供することで困難の軽減を図る。
※あの先生いないから、あの教科は休んでいいから、午後からでいいから、じゃ家で勉強するかね

一方、ひきこもりは、
自分にはソリが合うところがない。
と思っているから。

友人とも、居場所とも、家族とも、当事者同士とも、自分とも。
つまり社会・世界と。
それで身も心も傷む。疲弊する。

希望を持てない。
希望を持つこと自体を拒む。
期待外れで傷つくのはもうほんとにウンザリだから。

だから、
なかなか楽にならない。傷みが癒えず痛みは続く。
疲弊から回復しない。
そしてひきこもり続ける。
誰か・何かとの接触を控えれば、痛みを感じる機会が減るから。

このようなことから、
不登校は、ソリが合うところを探す。
さらには、
ソリの合わせ方を身につける。
※環境調整と自身の環境調整力の向上により自信がつく

そうして、困り感を減弱し、自分の希望に近づいていく。

それらをやれるエネルギーがあるから。
世の中には、自分とソリが合うところがあるという希望も持っているから。
※フリースクールに行けば、通信制高校にいけば、大学に行けばデキる。

一方、ひきこもりは、ソリが合わない傷み・痛みを癒やす。
世の中に、自分とソリが合う場、人間関係はないようだと思っているようだから。
実存が脅かされているのだから。

手当てされる。癒やされる。いたわられる。
そういう経験をたくさんする必要がある。

つまり、
こもる人が、他者とソリを合わせられるようになることを目がけて働きかけるのではなく。
※コミュ力向上とか、就労支援とか、通いやすそうな学校を探したり、友だち作りを頑張ったり、適職探しを頑張ったり、じゃなくて。

こもる人には、もはや自助努力をするエネルギーは枯渇しているかもしれないから。

こもる人はまず、この世にいることを認めてもらう必要があるから。
そして、
そのままで、世の中の役に立つということを確認する必要があるから。

不登校とされている人の中には、上記のように実存が脅かされている人=ひきこもりが少なくないかもしれません。
その人の困難の核心をしっかり見極めることは大切です。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる不登校

不登校とひきこもりの違いの話 その3

2020年02月22日

不登校とひきこもりは根本的に違うような気がしてきたので、
その理由を考え続けるシリーズのその3です。

人には、発達課題というのがあるそうです。
幼体が成体となるまでに、必要な経験とか発達しておくべき能力とか。

赤ちゃんの時は、
自ら世界にタッチする。
そして、世界から応えてもらう。
これが課題らしいです。

泣くー誰かが応える。
笑うー誰かが応える。
タッチする-反応が返ってくる。
この課題を達成することで、人としてやっていける基盤ができるみたいです。

これが達成できないまま成長すると、
自分には、この世界に居場所がないって思うかもしれません。

やがて、この応じてくれる人間関係を基盤として、
人は自力で世界を探索始めるのだそうです。
自分の好奇心のままに。

そして、怖さを感じたときに、すぐに基盤の関係に立ち返る。
そこで、安心を感じて、再び探索に出る。

安全基地として人間関係がある。
このことが、人が生きていく基盤となるのだそうです。

もう少し成長すると、他人の中でやっていくことが多くなります。
基盤となる人間関係を元にして、他人ばかりの中で、ちょうどいい人間関係を築いていくことになります。
生きていくためには、他人の期待に応えることも重要になってきます。
これが、学齢期になった人の課題だそうです。

不登校は、この課題に取り組む機会が危うくなります。
だからまずは、この課題が達成できるような支援が必要なんです。
存外学力よりも大事な生きる力かもしれません。

勉強はしなくてもいいから、学校に行く。
学校的な人の場に行く。
その機会を確保することは、社会・大人の義務でしょう。

(児童)少年期ひきこもりの場合は、
人と関わることがつらいために人間関係を忌避しているので、
無理して人と関わると深く傷つくことが予想されます。
会っても大丈夫な人から始めて、少しずつ関わる人を増やす長い時間をかけた配慮が必要です。
課題に取り組むのは、二の次三の次になります。

成人・高齢ひきこもりの場合は、
少年期からずっとこもり続けている人たちと、
いろいろな困難、未達成な課題を抱えながらも、なんとか社会の中でやってこれた人たちと、
それぞれが半数ほどずついることを忘れてはなりません。

前者は、発達課題が未達でしょうね。
後者は、そこそこ達成できているでしょう。困難はあっても社会生活を送れていたのですから。

さて、少年期ひきこもりと成人・高齢ひきこもりの一番の違いは年齢でしょう。
前者(少年期ひきこもり)は、若いからこそ時間的な余裕が大きく、いろいろチャレンジして能力を開花すればいいのですが、
後者(成人・高齢ひきこもり)はそうでもありません。

後者(のうち特に少年期からこもっている場合の人)が、他人の中でやっていくという社会生活を送ろうとした際、
今から若い人に交じって学校に行くというのもなかなかすぐには難しいでしょう。

障害者支援が利用できるならば選択肢は多くなりますが、
そうでないとなると、就労での社会生活を探る必要が出てきます。
ところが、就労にあたっては年齢の問題がハードルとなります。

さらには、
健康的にも肉体的老化の問題があります。
一言で言うと、若くないんです。

そんなこんなで、
社会参加が制限されるんです。若さに任せていろいろできていた頃より選択肢が少なくなってしまう。

この場合は、
個人の力量を上げるよりも、そのままで(発達課題が未達のままであっても)やっていける場の提供が重要になってくると思われます。
個人が社会に合わせるよりも、
社会が個人に合わせると言うことです。

こんな風に、発達課題を軸に考えてくると、
不登校は、個人の成長に力を入れる。
成人・高齢ひきこもりは、マッチング先を探すことに力を入れる。
こんな違いがあるように思えています。

※少年期ひきこもりと高齢ひきこもりのくだりを論旨が通るように修正しました。2/22・21時
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(2)ひきこもる不登校

ひきこもりと不登校の違いを考えてみた話 その2

2020年02月19日

仮説です。

不登校は、学校にうまくなじめない状態。

学校不適応なんて言ってもいいかもしれません。

あの学校には、
あの教室には、
あの授業には、
あの先生には、
あのやり方には、
あの騒々しさには、
などなどなど、
なじめない理由がわりとはっきりしている。
だから、
あの学校じゃない、
あの教室じゃない、
あの先生じゃない、
あのやり方じゃない、
つまり、
あの環境じゃない学びの場なら、
通える。
なじめる。

環境・学校側が寄りそうことで適応しやすくなる。
つまり、環境調整が解決の鍵。

これが不登校。
じゃないか?

一方で、ひきこもりは、
あの学校でもこの学校でも難しい。
あのやり方でも、この環境でも同じように難しい。

環境が寄りそえるとしても、寄りそったとしても、こもっている。
社会が変わってもこもる。
これがひきこもり。
じゃないか。

となると、ひきこもり支援は、
本人の心への働きかけ。
痛みの軽減。
が必要じゃないかと思います。
環境を変えることよりも。

環境調整なのか?
本人への働きかけなのか?

支援に当たっては、
この見極めがとても大事な感じがしています。


  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる不登校

ひきこもりと不登校の違いの話 その1

2020年02月16日

ここしばらく、

不登校とひきこもりは根本的に違う。

という思いを強くしています。

不登校は元気。
ひきこもりは元気じゃない。

そんな本能的感覚から生まれたものです。

不登校というのは、学校を30日以上欠席している状態です。

だから、どんな風に普段を暮らしているかは不登校状態と呼べるかどうかには関係ありません。

その人たちは、学校には行ってないけど、
 誰かと楽しくゲームしてたり、
 学校以外の学びの場に通っていたり、
 友人と外で遊びほうけていたり、
 布団の中にずっとくぐもっていたり、
して暮らしているかもしれません。

一方、
ひきこもりは半年以上、家族以外とかかわりを持たない状態です。

となると、
上記不登校状態の前3者は、ひきこもりには当てはまらないでしょう。
最後の状態だけがひきこもり状態かと思われます。

さて、
そもそも人は、人と関わる生物だそうです。
そうして、脅威に対処して生き抜いてきたからだそうです。

ところが、
ひきこもりの人(の多く)は、人と関わることを好みません。

またもう一つ、
人には誰かから承認されたい欲求があると言います。

でも、
結構な数のひきこもりが承認を求めていないように思えます。
そんなことよりほっといてほしい。

必要なときはこちらから必要な分だけ関わるから。
そのときだけ相手(承認)してね。
そんな思い。

私聞風坊も基本これです。

それから人は、基本的にやりたいこと、欲求があるらしいんです。
それが夢や希望となって、科学技術が発展し、世の中は便利になり、地球全土を踏破した人類は今や火星にまで進出しようとしています。

それほど強い欲求があるのですね。

でも、ひきこもりにはないかもしれません。
あるとすれば、
世の中の片隅で穏やかに静かに小さく生きたい。
それだけ。

だから、
うらやむ気持ちもあまりないかも知れません。

一般的には、
裕福な暮らしや、友達がたくさんいること・慕われること、笑顔あふれる楽しいことがたくさんある暮らし
は、憧れとなります。
これらを実現している人を見れば、うらやましいという思いもわくでしょう。

不登校の人は、いい学校に行けてる人、いい友達がたくさん人、夢を叶えている人、恋人がいる人、
などをうらやましく思う人が少なくありません。
これも、ひきこもりとちょっと違う点のように感じています。

また、不登校の人からは、
友達がほしいという声をよく聞きます。
そして、
ほめられると素直に喜びます。自信も付きます。
次への一歩のエネルギーになります。
※ひねてない感じ。

また、
この学校は違う!
あの先生じゃない!

もっと自分に合う学校があるはずだ!
もっといい先生から学びたい!
って欲求が、裏を返せば将来への希望がありそう。
それは、
将来の自分の活躍をぼんやりと意識してるってことかも。

これと違って、
こもっている人の多くは将来に期待してない感じがしています。
将来を悲観してる。
この点も、不登校とひきこもりの違いと感じてます。

とはいえ、
不登校している人の中に、こもっている人はいます。
人と関わることを諦め、将来に期待せず、ただじっと時が過ぎるがままに暮らしている。

こうなると、
不登校児童生徒と言うより、

ひきこもり状態の少年少女。
という感じ。

こんな風に次から次に疑問が湧いてきて、
ひきこもりと不登校の関係について、
はてさてどう思案したものか?
わりと長い間悩んでいたんです私。

そして、
ひょっとしたら、不登校からひきこもりにはならないのかも。
と思い至ったのです。

ひきこもりは、
学齢期では不登校と呼ばれていたところの、元々ひきこもり状態だった人が、
学校に通う年齢が過ぎて、呼び名としてひきこもりと呼ばれるようになった。

つまり、
幼い頃からもともとひきこもり状態だった。
言うならば、幼年・少年ひきこもりだった。
学校を30日欠席している不登校と言うより。
そんな仮説が湧いてきたのでうす。
※語弊を承知で言うなら、不登校という呼び名が誤解を生んだ。

似たような場合を考えてみましょう。

おおむね働いていない若者はニートと呼ばれます。
ハロワに通っていたり、サポステを利用していたりするそんなニート。
でもそれは、若年ひきこもりではないかもしれません。

親の介護のために離職して、介護職の人とよい関係を築いたり、
地域活動などしている人は、無職の中年であって、
8050で話題の、
中年ひきこもりではないのかもしれません。

こう考えると、
社会というか人との関わりからひきこもっている人。
少年少女であれ、若者であれ、中年、老年であれ。

社会と関わることを進んでは望まない人たち。

その人たちは皆ひきこもり。

社会でやっていく気がない。
自信がない。
期待していない。
人たち。

だから病院に行って病気やけがを治し健康になる努力をしない。
意味がないから。今のままでやっていけてるから。

人と関わることを求めない。※相手が来るなら最低限関わってもいいけど。

人と関わることを求めず、
欲は少なく、
人をうらやまず、
ひたすら一人小さく生きることを望む。

そんな人たちがひきこもり。

だから、ひきこもりは、
不登校とは基本的に違う。
そう思えてきたのでした。

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(2)ひきこもる不登校

不登校児童生徒は学校に行かなくてもよくなったらしい話

2020年02月13日

文部科学省が令和元(2019)年10月25日に出した不登校対応についての通知によると、

1 不登校児童生徒への支援に対する基本的な考え方
(1)支援の視点
不登校児童生徒への支援は,「学校に登校する」という結果のみを目標にするのではなく,児童生徒が自らの進路を主体的に捉えて,社会的に自立することを目指す必要があること。また,児童生徒によっては,不登校の時期が休養や自分を見つめ直す等の積極的な意味を持つことがある一方で,学業の遅れや進路選択上の不利益や社会的自立へのリスクが存在することに留意すること。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1422155.htm

として、登校第1からその子の自立第1へと基本方針に変更があったようです。

内容的には、当たり前といえば当たり前のことを、
いまさらながら通知している感じもしますが、

だからといって、

あぁ、文科省がやっと不登校児童生徒に理解を公式に示した!
寄りそってくれた!
これでもう、ムリして学校に行かなくてもよくなった! 

と諸手を挙げて喜ぶわけにはいきません。

一言で言うと、
世話焼く人がいなくなるリスクがとっても心配なんです。

だって、ムリして学校来なくてもいいんだもん。

不登校児童生徒をなんとか学校に来させようとすると、
先生たちは相当ムリします。
同時に、本人にはすんごくムリを求めることになります。
保護者・親にも当然無理強いすることになります。

それが、ムリに学校に来させなくてよくなったら、

・・・
そのままムリせずゆっくり過ごしてください。
・・・。

ってことで、最終的にそのままムリせず卒業してしまいそう。
小学校から中学校に進学し、
ときには、そのまま高校に進むこともあるでしょう。
不登校状態のまま。

だからなんです。

学校という社会では、勉学以外のこともたくさん体験します。
どちらかというとそっちの方が将来の役に立つような気すらしています。個人的には。

また、
勉学というのはある程度歳を重ねないと重要性を感じないもののようです。
※社会人ほど勉学(知識)の重要さを知っている人たちはいないでしょう。

大人社会では、勉学というかいろいろな知識はとっても必要です。
知らないことが仕事とか社会的信用を失うことにつながることは少なくありません。

そして、なにより学ぶ力が必要です。
仕事や大人のやり方を学ぶ力がないとやっていけません。
大人気ない言動ばかりしていると、社会人としての信頼は得られません。

それゆえ、上記通知文の最後の行

学業の遅れや進路選択上の不利益や社会的自立へのリスクが存在すること

が、とても気になるのです。

大人になって自力で他人の中でやっていくために、
勉強や友人関係や(納得いかない)社会のルールと折り合いつけるスキルなど、
子どもの頃に体験しておいた方がいいことを体験できないリスク。

または、
その子の抱える問題や、課題を周囲の大人が知り、適切な支援につながらなくなってしまうリスク。

このリスクへの対処、
つまり学校の代替機会が確保できていない状況で、学校が関わらなくなることになってしまうではないかと懸念を持つからです。
※教育機会確保法はできたばかりですが、実際に十分に確保されているかしら?

人が育つには、
その育ちを支える人たちの存在が欠かせません。

学校(とその関係先)には、(十分に役目を果たしているかどうかは別として)その役目を担う人たちがたくさんいます。
学校に来ない。
と、その人たちとの関わりがなくなります。

代わりに、その子の育ちを支えるのは誰でしょう?

発達特性や虐待や困窮などから、
特別な支援が必要な子の育ちを支えることについてはどうでしょう?

その子の育ちを気にかけてくれる人は充分に確保できるているでしょうか?

学校に行っているからこそ、少なくとも学校と関わっているからこそ、
その子に必要なサポートが分かる場合は少なくありません。

学校に行かなくてもいい。
学校に来なくてもいい。
ちゃんと関わる人は確保してあるから。

そんな風になりますように。





  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと不登校