不登校とひきこもりの違いの話 その3
2020年02月22日
不登校とひきこもりは根本的に違うような気がしてきたので、
その理由を考え続けるシリーズのその3です。
人には、発達課題というのがあるそうです。
幼体が成体となるまでに、必要な経験とか発達しておくべき能力とか。
赤ちゃんの時は、
自ら世界にタッチする。
そして、世界から応えてもらう。
これが課題らしいです。
泣くー誰かが応える。
笑うー誰かが応える。
タッチする-反応が返ってくる。
この課題を達成することで、人としてやっていける基盤ができるみたいです。
これが達成できないまま成長すると、
自分には、この世界に居場所がないって思うかもしれません。
やがて、この応じてくれる人間関係を基盤として、
人は自力で世界を探索始めるのだそうです。
自分の好奇心のままに。
そして、怖さを感じたときに、すぐに基盤の関係に立ち返る。
そこで、安心を感じて、再び探索に出る。
安全基地として人間関係がある。
このことが、人が生きていく基盤となるのだそうです。
もう少し成長すると、他人の中でやっていくことが多くなります。
基盤となる人間関係を元にして、他人ばかりの中で、ちょうどいい人間関係を築いていくことになります。
生きていくためには、他人の期待に応えることも重要になってきます。
これが、学齢期になった人の課題だそうです。
不登校は、この課題に取り組む機会が危うくなります。
だからまずは、この課題が達成できるような支援が必要なんです。
存外学力よりも大事な生きる力かもしれません。
勉強はしなくてもいいから、学校に行く。
学校的な人の場に行く。
その機会を確保することは、社会・大人の義務でしょう。
(児童)少年期ひきこもりの場合は、
人と関わることがつらいために人間関係を忌避しているので、
無理して人と関わると深く傷つくことが予想されます。
会っても大丈夫な人から始めて、少しずつ関わる人を増やす長い時間をかけた配慮が必要です。
課題に取り組むのは、二の次三の次になります。
成人・高齢ひきこもりの場合は、
少年期からずっとこもり続けている人たちと、
いろいろな困難、未達成な課題を抱えながらも、なんとか社会の中でやってこれた人たちと、
それぞれが半数ほどずついることを忘れてはなりません。
前者は、発達課題が未達でしょうね。
後者は、そこそこ達成できているでしょう。困難はあっても社会生活を送れていたのですから。
さて、少年期ひきこもりと成人・高齢ひきこもりの一番の違いは年齢でしょう。
前者(少年期ひきこもり)は、若いからこそ時間的な余裕が大きく、いろいろチャレンジして能力を開花すればいいのですが、
後者(成人・高齢ひきこもり)はそうでもありません。
後者(のうち特に少年期からこもっている場合の人)が、他人の中でやっていくという社会生活を送ろうとした際、
今から若い人に交じって学校に行くというのもなかなかすぐには難しいでしょう。
障害者支援が利用できるならば選択肢は多くなりますが、
そうでないとなると、就労での社会生活を探る必要が出てきます。
ところが、就労にあたっては年齢の問題がハードルとなります。
さらには、
健康的にも肉体的老化の問題があります。
一言で言うと、若くないんです。
そんなこんなで、
社会参加が制限されるんです。若さに任せていろいろできていた頃より選択肢が少なくなってしまう。
この場合は、
個人の力量を上げるよりも、そのままで(発達課題が未達のままであっても)やっていける場の提供が重要になってくると思われます。
個人が社会に合わせるよりも、
社会が個人に合わせると言うことです。
こんな風に、発達課題を軸に考えてくると、
不登校は、個人の成長に力を入れる。
成人・高齢ひきこもりは、マッチング先を探すことに力を入れる。
こんな違いがあるように思えています。
※少年期ひきこもりと高齢ひきこもりのくだりを論旨が通るように修正しました。2/22・21時
その理由を考え続けるシリーズのその3です。
人には、発達課題というのがあるそうです。
幼体が成体となるまでに、必要な経験とか発達しておくべき能力とか。
赤ちゃんの時は、
自ら世界にタッチする。
そして、世界から応えてもらう。
これが課題らしいです。
泣くー誰かが応える。
笑うー誰かが応える。
タッチする-反応が返ってくる。
この課題を達成することで、人としてやっていける基盤ができるみたいです。
これが達成できないまま成長すると、
自分には、この世界に居場所がないって思うかもしれません。
やがて、この応じてくれる人間関係を基盤として、
人は自力で世界を探索始めるのだそうです。
自分の好奇心のままに。
そして、怖さを感じたときに、すぐに基盤の関係に立ち返る。
そこで、安心を感じて、再び探索に出る。
安全基地として人間関係がある。
このことが、人が生きていく基盤となるのだそうです。
もう少し成長すると、他人の中でやっていくことが多くなります。
基盤となる人間関係を元にして、他人ばかりの中で、ちょうどいい人間関係を築いていくことになります。
生きていくためには、他人の期待に応えることも重要になってきます。
これが、学齢期になった人の課題だそうです。
不登校は、この課題に取り組む機会が危うくなります。
だからまずは、この課題が達成できるような支援が必要なんです。
存外学力よりも大事な生きる力かもしれません。
勉強はしなくてもいいから、学校に行く。
学校的な人の場に行く。
その機会を確保することは、社会・大人の義務でしょう。
(児童)少年期ひきこもりの場合は、
人と関わることがつらいために人間関係を忌避しているので、
無理して人と関わると深く傷つくことが予想されます。
会っても大丈夫な人から始めて、少しずつ関わる人を増やす長い時間をかけた配慮が必要です。
課題に取り組むのは、二の次三の次になります。
成人・高齢ひきこもりの場合は、
少年期からずっとこもり続けている人たちと、
いろいろな困難、未達成な課題を抱えながらも、なんとか社会の中でやってこれた人たちと、
それぞれが半数ほどずついることを忘れてはなりません。
前者は、発達課題が未達でしょうね。
後者は、そこそこ達成できているでしょう。困難はあっても社会生活を送れていたのですから。
さて、少年期ひきこもりと成人・高齢ひきこもりの一番の違いは年齢でしょう。
前者(少年期ひきこもり)は、若いからこそ時間的な余裕が大きく、いろいろチャレンジして能力を開花すればいいのですが、
後者(成人・高齢ひきこもり)はそうでもありません。
後者(のうち特に少年期からこもっている場合の人)が、他人の中でやっていくという社会生活を送ろうとした際、
今から若い人に交じって学校に行くというのもなかなかすぐには難しいでしょう。
障害者支援が利用できるならば選択肢は多くなりますが、
そうでないとなると、就労での社会生活を探る必要が出てきます。
ところが、就労にあたっては年齢の問題がハードルとなります。
さらには、
健康的にも肉体的老化の問題があります。
一言で言うと、若くないんです。
そんなこんなで、
社会参加が制限されるんです。若さに任せていろいろできていた頃より選択肢が少なくなってしまう。
この場合は、
個人の力量を上げるよりも、そのままで(発達課題が未達のままであっても)やっていける場の提供が重要になってくると思われます。
個人が社会に合わせるよりも、
社会が個人に合わせると言うことです。
こんな風に、発達課題を軸に考えてくると、
不登校は、個人の成長に力を入れる。
成人・高齢ひきこもりは、マッチング先を探すことに力を入れる。
こんな違いがあるように思えています。
※少年期ひきこもりと高齢ひきこもりのくだりを論旨が通るように修正しました。2/22・21時
【お知らせ】
これまでの発表や記事原稿を、「聞風坊の図書館」で適宜公開しています。
別サイトになります。こちらもご覧下さいませ。
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当方からのお返事が送信できないことが時々あるのです。
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