寄りそっちゃダメな話

2019年03月15日

 一般的に、
 誰かを支援する際には、相手に寄りそうことが大事とされています。

 だから、
 支援職は、まず寄りそいます。

 そして、寄りそいます。

 なにがあっても、寄りそいます。

 やっぱり、寄りそいます。

 いつでも、寄りそいます。

 どうしても、寄りそいます。

 それしかやっちゃいけないかのように、

 寄りそいます。

 寄りそわねばならない!

 という呪いをかけられているように。

 否定もせず、肯定して、受容して、傷つけないように、厳しいこと言わないように、

 ほんとは病気なんだけど、その事を言わないように。
 
 ほんとは学力が足りないのだけど、それを言わないように。

 ほんとはそっちの方向だとうまくいかないんだけど、それは言わないように。

 相手の気持ちに寄りそいます。

 そして、状況に変化が起きない。ずっと、今のまま。何年も一緒。

 なんてことは割とありがち。

 こんな風になること、
 特に、ひきこもりや不登校系の支援場面では多い感じがしています。

 それゆえ、
 今ここで、相手の気持ちや行動に共感し、支持し、応援することが、

 人から助力が受けられる可能性を閉ざすことに、
 協力することにならないか?

 結果的に、
 支援者である自分の寄りそいが、
 心や身体の健康を害することに協力することにならないか?

 と、
 寄りそい・共感を批判的に考え直してみることは重要に思えます。

 例えば、
 ひきこもることで、安全を確保し、自分の心や身体を守っている場合、
 数十年これをやっているとデメリットの方が上回るようになります。

 動かないと身体は働きが悪くなります。
 また、
 社会と関わらなないと孤立により他者からの手助けも得られなくなるからです。
 ※自分がここにいる事を知っている人がとても少なくなる。

 それは、心と身体の健康を害することにつながります。

 だから、
 こんな状態になっている時、そうなりそうな予測ができるとき、
 ありきたりに共感、受容しちゃダメなんです。

 もし、ありきたりに共感受容すると、
 相手は、今のままでイイんだ、今のやり方しかないんだと思っちゃうことになりがちだからです。

 だから、
 支援する人の責任として、

 今後のリスクなり、予想されるデメリットなり、

 今のやり方以外の方法なり、

 を伝える必要はあると思っています。
 ※説明責任なんていわれてます。

 それは、
 相手が自分を否定されたと思うリスクをはらんでいます。

 それでも、伝えねばならないと思っています。

 それが、責務だからです。 
 ※支援職としておまんまくってる人は特にそうですね。

 傷つけないように、傷つかないように、当たらず障らずで、

 相手の自己回復をひたすら待つ。

 という関わり方は、この責務を果たしてないかもしれません。

 回復する力が弱っている相手には、
 こちら(支援する人)の助力が強く要されるというのは事の道理。

 だからとりわけ、
 支援職は、腰の抜けた寄りそいじゃなくて、

 腰のすわった、リスクを引き受けた寄りそい方が求められているように思えます。

 相手の困難の度合いが強ければ強いほど。

 支援する人には、心の強さ・タフネスが必要なようです。