100%悪くない。というのは言い過ぎな感じがしてますが。

2017年04月07日

 暴力や、DVや、いじめや、その他一方的な圧力・加害は、

 絶対的にいけないことで、

 社会的に望ましくないことで、

 だから、悪いことで、

 責任は暴力や、DVや、いじめなどの一方的な圧力・加害をした人にあるという前提ですが、

 だからといって、そういう被害を受けた人は、100%悪くない。と言いきるのは、またはそういう運動を展開するのには、

 どうにも賛同できかねぬ私聞風坊です。

 暴力や、DV、いじめの現場で、育った当事者として、

 軽々しく、良い悪い、善い悪い、と言えないと思っているからです。

 今回の記事は、”被害者は100%悪くない”に批判的です。

 被害者として振り返ってみるならば、

 暴力受けてもしょうがない。

 家庭内で親が連れ合いに暴言暴力支配する・行動を逐一管理するDVは普通。

 人は自分をいじめるもの。

 という感覚を持って、暮らしています。

 だから、
 相手のそういう行動を容認している。

 または(危険だから)あえて抵抗しない。批判しない。

 承認する姿勢を持っています。

 ときに、無視されるぐらいなら、少々いじられる方がましだ。という思いから、
 多少のいじられることを望んでいることすらあります。

 これらは、自分が暴力を受け、DV当事者であり、いじめられることを容認していることにもなります。

 はたして、これは、望ましいことでしょうか?

 推奨できる姿勢でしょうか?

 賛同できる行動でしょうか?

 安全・安心を人類共通の価値観とすると、

 まったく反する思想、価値観、姿勢、行動ですね。

 つまり、悪いのです。

 自分の苦境を許す行為、思想、姿勢、行動は社会通念上、受け入れられません。
 望ましくない。
 そういう常識です。
 これで世界秩序は成り立っています。

 こう考えると、被害者にも、それなりに反省すべき点はあるように思えます。

 どれくらい?
 
 2%くらい?

 どんなことに対して?

 自分の身を危険な立場に起き続けることを容認していることに対して。
 ときに推奨していることについて。

 つまり、
 状況から脱しないことについて。

 ひょっとしたら、
 あきらめていることについて。

 
 残念ながら現実的に、逃げることすら叶わない状況はあります。

 でもそれは、逃げることをあきらめることとは違います。

 逃げる選択肢を放棄しない。

 しぶとくその思いを持ち続けることが重要なのです。

 自分に悪を為さない。

 その思いとともに。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)交流分析社会のこと