病を治せる条件があるかも

2017年03月29日

 最近、医療関係者と関わりが深いのですが、

 その中でふと思いついたことがあります。

 医療って、患者の力に頼ってる。

 ってことです。


 治療の手順に負って説明しましょう。

 治療は、まず、どこか具合の悪い人が、病院に行くことから始まります。

 まずもって、自分の具合の悪さを感じ取る力が必要です。


 そして、

 病院に行く力。

 具合の悪さを説明する力。

 医師などの医療関係者の言うことを理解する力。

 治療方針を決断する力。

 指示通りに薬を飲んだり、在宅での手当てをしたりできる力。

 それにともない生活を改善できる力。

 効果が思わしくないときは、それを相談できる力。

 通院または入院できる力。

 指示通りに薬を飲まないと、薬の効果が薄かったり、症状が悪化したりします。

 多くは、食生活や衛生面で配慮が必要です。


 そんなこんな自己管理能力が必要なみたい。

 もし、その能力が不十分だと、治療効果は上がりません。

 もしその能力が不十分だと、時に医療関係者からは、治療意欲がないと認識される場合もあるでしょう。

 こんな風に考えると、

 治療、医療というのは、患者の力を前提になり立っているのだなと思うのでした。 

 患者に病を治せる力がある。
 これが病が治る条件かも。
  
タグ :患者力


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)心理・カウンセリング

ひきこもりフォーラム2017ありました

2017年03月26日

 去る3/20、ひきこもりフォーラム2017を開催しました。

 午前午後ともに、たくさんの意見が交わされました。

 皆様にお礼申し上げます。


 今回は、ひきこもりの生涯にわたるサポートを考える。

 が、テーマで、

 午前中は主に10代までのサポートでした。

 この時期は、学校との関わり抜きにはサポートが考えられません。

 教諭、スクールソーシャルワーカー、思春期医療、発達障害、LGBT、親子関係、

 が中心となって意見交換しました。
 
 午後は、20代以上のサポートについてなので、就労を抜きには考えられません。
 そして、高齢化についても。

 就労支援、障害者就労支援、働く人の支援、生活困窮・生活保護支援関係、医療関係も加わりました。

 もちろん、何人ものこもる人も率直な意見を交わしました。

 会場では、こもる人と支援者の区別はありません。

 みんな対等。

 それぞれ現場の立場から、いろいろなリアルな意見が出ました。


 そうして、
 いろいろな立場の人が、自分の立場以外の立場を知り、

 こもることについて、こもることにまつわる困難について、いろいろな面からいろいろ考えて、

 多面的に理解することができました。

 
 多面的な分、問題の複雑さを知ることとなり、宿題もいろいろ持ち帰ることとなりました。

 人材不足、連携不足をはじめ、まだまだ問題山積なんです。


 人は、年齢、性別に関わりなく、こもります。

 生涯の中で、こもったとき、こもりそうなとき、
 
 どこに相談すればいいか?

 誰が力になってくれそうか?

 こもっている人を手助けしているとき、
 誰に助力を仰げばいいか?

 1日を通してそのヒントを分かち合えたように思えます。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(2)ひきこもる

過去を裁いたらたまりません

2017年03月23日

 昨年末、NHKスペシャルドラマ「東京裁判」を観たのでした。
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20161213

 太平洋戦争に関する責任を問う裁判ですね。

 国の責任を個人に問う。
 戦勝国による敗戦への裁判。
 そもそも戦争行為を裁けるのか?

 など、いくつかのテーマがあるのですが、今回注目したのは「事後法の禁止」です。

 私の理解によると、

 事をなした当時なかった法律(つまり事後にできた法律)によって、当時の行為を裁くこと。

 つまり、

 当時は問題だとされていなかった(=適法)ことが、今は問題(=触法)とされているので、

 改めて、今のルール常識(=法律)にもとづいて、過去の行為を裁くこと。

 は禁止だということです。

 今は裁かれないけど、今後新しい法律ができると裁かれるかもしれないと予想することで、
 
 自由な行動に制限がかかることを防止するねらいがあるようです。

 さて、なんでこんなややこしいことに注目したかというと、

 不登校やひきこもりの親は、これに悩むからです。

 当時は、フツーにみんながやっていてとがめられなかったこと。

 にも関わらず、

 当時より人権意識の向上した今の常識に照らすと、とてもひどいことをなしたことになってしまうことがあります。

 体罰も昔は容認されていました。

 父親は家庭を顧みず一生懸命に仕事に打ち込むことがよいこととされていました。

 母親は我慢するものでした。
 
 子どもは親の言うことに従うことがよしとされていました。
 従わない子は悪い子、よそ様に顔向けのできない恥ずかしい子でした。

 全体基調として、
 自分を滅して社会に奉仕することがよいことでした。

 そんな常識が今は通用しません。

 悪ともなります。

 そのため、あの時の自分の行為を裁いて、責めて、子どもとの関係に苦悩している人は少なくありません。

 その反動で、自分の正統性を主張して、かたくなに自分の行動を変えない人もいるでしょう。

 事後法の禁止の原則に則ると、当時良しとされていた行為を、現在悪いとされているからと裁くことは禁止です。

 裁かなくてイイのです。

 そのかわり、これから、より相手の心に寄り添った行為をすればイイのです。

 現行法に従って。

 そんなことを思いました。
  
タグ :事後法裁く


原因という名の犯人捜し 不登校・ひきこもり・社会問題など3

2017年03月20日

 不登校やひきこもりなどの原因を探っても、対処法が見つからないのは、前提が問題だからじゃないの? の続きです。

 問題解決のための原因探し、犯人捜し作業は、

 原因が私か相手かのどちらかにある。
 私か相手かのどちらかが犯人だ。

 という前提にもとづいていますが、この前提を変えてみたら新しい発見があるかもしれません。

 ここで例として、コミュニケーションについて考えてみます。

 話すのが苦手な人がいて、一方で聞くのが上手な人がいて、その2人が会話するとなると?

 話したがらない人と、相手の話を聞こうと待っている人なので、会話は難しいでしょう。

 もし、
 話すのが苦手な人の相手が、質問が得意な人ならばどうでしょう?

 うまくいくと、質問に答える形で会話が進んでいくでしょう。調子をつかめば、お互いに質問しあって話がはずむかもしれません。

 またもし、
 聞くのが上手な人の相手が、話すのが大好きな人だったらどうでしょう?

 お互いのニーズにマッチしたコミュニケーションができて、楽しい時間を過ごせそうです。※延々と話が終わらないかもしれないけど。

 コミュニケーションが困難な場合、

 その人が、話すのが苦手ということが原因でしょうか?

 あの人が、聞くのだけが上手だということが原因でしょうか?

 アイツが、質問ばかりすることが犯人でしょうか?

 ソイツが、自分の話ばかりすることが悪いのでしょうか?

 一概には言えません。

 どうやら要点は、お互いが相手と調和できるかどうかのようです。

 私と相手の間で、調和が生じるか否か?

 それが問題(原因・犯人)のようです。

 不調和だから望まない結果になる。
 調和すれば望ましい結果を得る。

 このように考えると、どうすればいいかが自然と分かってくるように思えます。

 私はどうすれば相手と調和できるか?

 これに焦点を当てて対処法を考えればいいはずです。

 高度経済成長期の問題に焦点を当てるでもなく、

 学校教育制度の批判を繰り返すのでもなく、

 世界経済情勢を分析するのでもなく、

 今、関わりのある人とどう調和するか?

 どうやって調和するか?

 自分の行動に焦点を当てれば、取り組みやすくなります。

 だって、
 自分の行動は、自分で決められますもの。

この項終わり。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる社会のことニート

原因という名の犯人捜し 不登校・ひきこもり・社会問題など2

2017年03月18日

 不登校やひきこもりなどの原因を探っても、対処法が見つからなかったら意味ないよね。の続きです。

 私たちは、
 原因という名の犯人を、相手に向ける場面によく出会います。

 うちの子は悪くない。悪いのは学校だ。

 いや、
 学校が問題というより家庭教育の問題だ。
 ※悪いのは家庭だ。=親だ。

 というより、
 弱者を受け入れる寛容さがないのが問題だ。
 ※悪いのは社会だ。

 悪いのは相手だから、相手が変わって当然だ。

 という論理です。

 そしてこれは、問題解決のカギを、相手に渡してしまっていることになります。
 問題解決するかどうかは相手が変わるかどうかにかかっている。
 つまり相手次第。

 究極、私の幸不幸は相手次第となってしまいます。

 私たちは、
 知らずこのような状況に自らはまり込んでいることに気づくことは重要です。

 では、どうすれば状況を打開できるでしょう?

 ここで視点を変えてみます。

 前提です。

 実は原因探しの論理の大前提は、
 原因が私か相手かのどちらかにある。
 私か相手かのどちらかが犯人だ。
なのです。

 この前提に問題があるように思えます。

この項まだ続く。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)ひきこもる社会のことニート