引きこもり・困窮者きっと不登校そして発達障害支援の図解2つについて
2021年03月20日
支援と言えば、
段階を追って、伴走しながら徐々によくなっていき、望ましい姿になることをめざすステップアップ型が思い起こされるでしょう。
引きこもり支援でも、困窮者支援でも、不登校支援でも、発達障害児者支援でも。
これは、できない人をできる人に仕上げる発想です。
ベルトコンベアのように、段階ごとに支援者や支援機関が関わって、切れ目のない支援をしていく中で、できない人ができる人、いっちょ前の人、フツーの人になっていくのですね。
そうして最終的に社会参加=就労する。
社会参加のライセンスを手にするやり方です。
逆に言うと、それまでは、社会参加資格が認められてないってことですね。
半人前だからでしょうね。
そんなイメージ図を描いてみました。
ベルトコンベア型の支援図です。
上記は、支援される人が変化する支援法でした。
一方で、支援する側が変化する支援法もあると思います。
支援される人の状況、状態に応じて、必要な支援が、適切な支援者が、関わって、状況や状態が徐々によくなっていく。
最初の段階から、社会に参加している。社会に受け入れられている。社会の一員である。
社会参加しながら、社会から手助けしてもらいながら、自分も社会に貢献しながら、よくなっていく。
そんなイメージ図を描いてみました。
包摂型の支援図です。
私は後者を選びます。
※今回、あえて図解は省いてみました。
段階を追って、伴走しながら徐々によくなっていき、望ましい姿になることをめざすステップアップ型が思い起こされるでしょう。
引きこもり支援でも、困窮者支援でも、不登校支援でも、発達障害児者支援でも。
これは、できない人をできる人に仕上げる発想です。
ベルトコンベアのように、段階ごとに支援者や支援機関が関わって、切れ目のない支援をしていく中で、できない人ができる人、いっちょ前の人、フツーの人になっていくのですね。
そうして最終的に社会参加=就労する。
社会参加のライセンスを手にするやり方です。
逆に言うと、それまでは、社会参加資格が認められてないってことですね。
半人前だからでしょうね。
そんなイメージ図を描いてみました。
ベルトコンベア型の支援図です。
上記は、支援される人が変化する支援法でした。
一方で、支援する側が変化する支援法もあると思います。
支援される人の状況、状態に応じて、必要な支援が、適切な支援者が、関わって、状況や状態が徐々によくなっていく。
最初の段階から、社会に参加している。社会に受け入れられている。社会の一員である。
社会参加しながら、社会から手助けしてもらいながら、自分も社会に貢献しながら、よくなっていく。
そんなイメージ図を描いてみました。
包摂型の支援図です。
私は後者を選びます。
※今回、あえて図解は省いてみました。
誰から見つけられるかでその人の人生が決まる話 2
2021年02月27日
続きの記事です。
犯罪少年の苦悩苦境は、司法領域で発見され、対応がとられたのでした。
この経験から私たちは、
苦境にいる子どもを発見するだけじゃなく、その子を救い出す行動が必要であったのだと発見したのでした。
さて、
児童福祉に関する強い力を持っている児童相談所で発見されたら、児童養護施設で適切な養育を受ける場合があります。
児童福祉の専門家から発見され、
被虐待児として認められ虐待環境から救出され、親の代理として社会から養護を受けることになります。
社会には、児童を守り育む責任があるからですね。
その子の親・保護者に代わって適切な養育をしよう!
と、大人たちが行動します。
ゆえに、
社会の責任で、専門のスタッフが適切な養育を行います。
社会的養護と呼ばれています。
国が子どもの最善のために養護するのです。
だからこれで、
万事解決。万事順調。
となりそうですが、実際はそうはいかないようです。
児童養護施設で育った3人が、児童養護施設の実情を伝え、入所児童に対するメンタルケアが必須になるように運動が展開されています。
当該サイト
「THREE FLAGS 希望の狼煙」です。
URLは
https://three-flags-kibou-noroshi.jimdosite.com/
保護されて、適切な養育を受けたにも関わらず、精神的心理的傷は癒えておらず、
そのために社会でやっていくに際して、いろいろな苦労をしていることから、運動しているとのことです。
※施設入所した被虐待児が心理的ケアを受ける。こんな当たり前のことも実施されていないんですね日本では。
当該書の主人公とは違い、
命の危険があるとして、発見保護され、その後は比較的まともな養育を受けた人たちですら、心の傷については十分に発見されていないようです。
私個人の胸のうちを記せば、
一時期とはいえ、保護されて、比較的まともな大人たちから養育を受けて、やっていいこととか悪いこととか基本的人権とか、世の中の常識をある程度知る、経験ができると言う点から、保護された人たちのことを恵まれていていいなぁというのが正直なところです。
寄る辺がないということを知ってもらっている。
職務上とはいえ、保護の措置が終わればこの先苦労するだろうと思いをいたしてくれる人もいる。
発見してもらって、保護してもらって、養育してもらっているからです。
虐待後遺症が予見されるにもかかわらず、
そのケアが必須でないなど国の施策としては不十分であり、
18歳になると支援が終わり、
世間に独り放り出される状況になってしまうという不完全な制度であったとしても。
寄る辺ない状況に戻ってしまうとしても。
一時的とはいえ
救い出してもらったから。
まともな扱いをしてもらったから。
この、社会的養護を受けた子どもの数はどれくらいかというと、
4万5000人だそうです。※報告書作成時点で。
(令和2年10月 「社会的養育の推進に向けて」 厚労省HP掲載)
URLは、
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/syakaiteki_yougo/index.html
(「社会的養護とは」の項のPDF資料)
一方で、児童相談所での児童虐待相談対応件数は、
19万4000件だそうです。※令和元年中の速報値
(「令和元年度児童虐待相談対応件数(速報値)」 厚労省HP掲載)
URLは、
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/dv/index.html
(「児童虐待相談対応件数の動向」の項のPDF資料)
4万5000人は、報告書作成時点現在で養護している人数で、
※数年前に発見されて現在まで養護している人数も含む。
児童相談所の相談件数は1年間の件数なので、
お互いを比較して何分の一だとか何倍だとか言うことはきませんが、
苦境にいることが発見され公的支援機関に認知された子どものうちの、
だいぶ少人数が苦境から保護・養護されているみたいです。
※当該書主人公少年は、児童相談所が介入していました。
ということは、
実のところ、
当該書の主人公のように、
苦境にいることは発見はされ児童相談所にも認知されているけど、
苦境から脱するサポートが不十分で、
ゆえに、まともな養育を受けずに大人になったところの、
児童福祉の恩恵に十分に与っていない被虐待児童、逆境の中で成長して行っている子どもたちが、日本にはとても多くいるということです。
さらには、
人々から発見されていても、
児童相談所などの支援につながっていない子どもや、
発見すらされていない子どもも含めると、
日本では、
ものすごい数の子どもたちが苦境に中で暮らしていることが想像できます。
それは、
発見されていたとしても、十分なサポートが提供されなかった。
あるいは、
発見されなかった。
その状態で子ども時代を過ごし、
大人になった子どもたち、親になった子どもたちが多くいることを示唆しています。
そんな大人になった子どもたちが立ち上がった運動もあります。
大人の未来 ~虐待サバイバーが生きやすい社会へ~
当該サイトURL
https://otona-mirai-55.jimdosite.com/
とのことです。
私聞風坊は、こちらの属性なので、訴える内容がよくわかります。
ほんとに苦労してますもの。
治療者や理解者を探し出すのに一苦労ですし、それにはお金がかかるのだけどお金を稼ぐための就労で苦労するし、
そもそも、そこまでしてまで生きる意欲はないし、でも苦痛は24時間感じてるしで。
誰も救い出してくれない自分でやるしかない相変わらずの混沌の中で生きていますもの。
とはいえ、社会的に養護された人はこんな苦労をしないかというと、まったくそんなことはなくて、
この点、ほとんど同じ苦労をするみたいです。
寄る辺ないをキーワードにNHKが特集していますが、
両者同じく寄る辺がないんです。
社会でのやって生き方も教わってないんです。
だから、生きづらいんです。
虐待・逆境体験した子どもたち、大人になった子どもたちは一様に生きていくことに苦悩しています。
痛みを抱えています。
発見。
されるかされないかで大きな違いが生じる。
特に適切な力を持った人に発見されるかされないかで大きな違いが生まれる。
つらつらと記してきて、最後に一つ。
アリス・ミラーは、虐待は魂の殺人の旨指摘しています。
『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(アリス・ミラー著 山下公子訳 新曜社刊)
出版元サイト
https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455681.html
生命の危険に注目している支援者・支援機関から発見されると、比較的すぐ保護されるような気もします。
魂の危険に注目している支援者・支援機関がいてくれたらいいのに。
そう思うのでした。
この項終わり。
犯罪少年の苦悩苦境は、司法領域で発見され、対応がとられたのでした。
この経験から私たちは、
苦境にいる子どもを発見するだけじゃなく、その子を救い出す行動が必要であったのだと発見したのでした。
さて、
児童福祉に関する強い力を持っている児童相談所で発見されたら、児童養護施設で適切な養育を受ける場合があります。
児童福祉の専門家から発見され、
被虐待児として認められ虐待環境から救出され、親の代理として社会から養護を受けることになります。
社会には、児童を守り育む責任があるからですね。
その子の親・保護者に代わって適切な養育をしよう!
と、大人たちが行動します。
ゆえに、
社会の責任で、専門のスタッフが適切な養育を行います。
社会的養護と呼ばれています。
国が子どもの最善のために養護するのです。
だからこれで、
万事解決。万事順調。
となりそうですが、実際はそうはいかないようです。
児童養護施設で育った3人が、児童養護施設の実情を伝え、入所児童に対するメンタルケアが必須になるように運動が展開されています。
当該サイト
「THREE FLAGS 希望の狼煙」です。
URLは
https://three-flags-kibou-noroshi.jimdosite.com/
保護されて、適切な養育を受けたにも関わらず、精神的心理的傷は癒えておらず、
そのために社会でやっていくに際して、いろいろな苦労をしていることから、運動しているとのことです。
※施設入所した被虐待児が心理的ケアを受ける。こんな当たり前のことも実施されていないんですね日本では。
当該書の主人公とは違い、
命の危険があるとして、発見保護され、その後は比較的まともな養育を受けた人たちですら、心の傷については十分に発見されていないようです。
私個人の胸のうちを記せば、
一時期とはいえ、保護されて、比較的まともな大人たちから養育を受けて、やっていいこととか悪いこととか基本的人権とか、世の中の常識をある程度知る、経験ができると言う点から、保護された人たちのことを恵まれていていいなぁというのが正直なところです。
寄る辺がないということを知ってもらっている。
職務上とはいえ、保護の措置が終わればこの先苦労するだろうと思いをいたしてくれる人もいる。
発見してもらって、保護してもらって、養育してもらっているからです。
虐待後遺症が予見されるにもかかわらず、
そのケアが必須でないなど国の施策としては不十分であり、
18歳になると支援が終わり、
世間に独り放り出される状況になってしまうという不完全な制度であったとしても。
寄る辺ない状況に戻ってしまうとしても。
一時的とはいえ
救い出してもらったから。
まともな扱いをしてもらったから。
この、社会的養護を受けた子どもの数はどれくらいかというと、
4万5000人だそうです。※報告書作成時点で。
(令和2年10月 「社会的養育の推進に向けて」 厚労省HP掲載)
URLは、
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/syakaiteki_yougo/index.html
(「社会的養護とは」の項のPDF資料)
一方で、児童相談所での児童虐待相談対応件数は、
19万4000件だそうです。※令和元年中の速報値
(「令和元年度児童虐待相談対応件数(速報値)」 厚労省HP掲載)
URLは、
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/dv/index.html
(「児童虐待相談対応件数の動向」の項のPDF資料)
4万5000人は、報告書作成時点現在で養護している人数で、
※数年前に発見されて現在まで養護している人数も含む。
児童相談所の相談件数は1年間の件数なので、
お互いを比較して何分の一だとか何倍だとか言うことはきませんが、
苦境にいることが発見され公的支援機関に認知された子どものうちの、
だいぶ少人数が苦境から保護・養護されているみたいです。
※当該書主人公少年は、児童相談所が介入していました。
ということは、
実のところ、
当該書の主人公のように、
苦境にいることは発見はされ児童相談所にも認知されているけど、
苦境から脱するサポートが不十分で、
ゆえに、まともな養育を受けずに大人になったところの、
児童福祉の恩恵に十分に与っていない被虐待児童、逆境の中で成長して行っている子どもたちが、日本にはとても多くいるということです。
さらには、
人々から発見されていても、
児童相談所などの支援につながっていない子どもや、
発見すらされていない子どもも含めると、
日本では、
ものすごい数の子どもたちが苦境に中で暮らしていることが想像できます。
それは、
発見されていたとしても、十分なサポートが提供されなかった。
あるいは、
発見されなかった。
その状態で子ども時代を過ごし、
大人になった子どもたち、親になった子どもたちが多くいることを示唆しています。
そんな大人になった子どもたちが立ち上がった運動もあります。
大人の未来 ~虐待サバイバーが生きやすい社会へ~
当該サイトURL
https://otona-mirai-55.jimdosite.com/
「(仮)児童虐待被害者支援法」の制定を目指しています
~支援法に盛り込みたい支援~
①虐待の後遺症(複雑性PTSD等)のトラウマ治療の無償化もしく は保険対象化
②トラウマ治療ができる専門的治療者の育成
③経済的支援(就労支援や障害年金など)
とのことです。
私聞風坊は、こちらの属性なので、訴える内容がよくわかります。
ほんとに苦労してますもの。
治療者や理解者を探し出すのに一苦労ですし、それにはお金がかかるのだけどお金を稼ぐための就労で苦労するし、
そもそも、そこまでしてまで生きる意欲はないし、でも苦痛は24時間感じてるしで。
誰も救い出してくれない自分でやるしかない相変わらずの混沌の中で生きていますもの。
とはいえ、社会的に養護された人はこんな苦労をしないかというと、まったくそんなことはなくて、
この点、ほとんど同じ苦労をするみたいです。
寄る辺ないをキーワードにNHKが特集していますが、
両者同じく寄る辺がないんです。
社会でのやって生き方も教わってないんです。
だから、生きづらいんです。
虐待・逆境体験した子どもたち、大人になった子どもたちは一様に生きていくことに苦悩しています。
痛みを抱えています。
発見。
されるかされないかで大きな違いが生じる。
特に適切な力を持った人に発見されるかされないかで大きな違いが生まれる。
つらつらと記してきて、最後に一つ。
アリス・ミラーは、虐待は魂の殺人の旨指摘しています。
『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(アリス・ミラー著 山下公子訳 新曜社刊)
出版元サイト
https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455681.html
生命の危険に注目している支援者・支援機関から発見されると、比較的すぐ保護されるような気もします。
魂の危険に注目している支援者・支援機関がいてくれたらいいのに。
そう思うのでした。
この項終わり。
誰から見つけられるかでその人の人生が決まる話 1
2021年02月26日
なにかしらで困っているとき
や、
誰かの手助けがいるとき
に、
自ら誰かに助力を求めたり、
または、
誰かから助力の申し出があったりして、
困難が解消されることは一般的です。
ところがこの際、
(あなたが)助力を求めた相手、
または(あなたの力になろう)と助力の申し出をしてきた相手
の立場によって、
困難が解消されるかどうかが決まることは少なくありません。
解消するかどうか、
相手次第の面があると言うことです。
どういうことでしょう?
”誰に”発見されるかで結果が違ってくるように思えるからです。
例えば、
スポーツの才能、勉学の才能、アートの才能、職業上の才能・・・などなど。
発見されたからこそ、その才能が開花し、人生の往く道が決まることが多くあります。
才能を見出し、才能を開花させ、伸ばし、そして次のステップへつなげられる人に発見されれば、存分に自分の才能を発揮できる人生を送れるでしょう。
また例えば、
虐待や逆境体験から逃亡した未成年が、夜露をしのごうと他人の住居に侵入して警察に捕まると、
非行少年として発見されたことになるでしょう。
悪いことをした人として公認されその認識にもとづいて対応されるでしょう。
つまり、
虐待などの心の傷みのケアは後回しにされ、懲罰指導・再犯防止に重点を置かれると言うことです。
この未成年者がもし、
学校に通ってないときに、先生から発見されたとしたら、不登校児童生徒になるでしょうか。
そうなったら、
不登校児童生徒として公認され対応されるでしょう。
もし、
眠れてないようだし食欲もないようだし、全体的に具合が悪いようだから、なんかの病気かもしれないからと保護者が心配して、
精神科を受診したとしたら、精神疾患の患者として発見されることになるでしょう。
精神的な不調の未成年者とし認識され治療されるでしょう。
もし、
ひきこもりの支援機関だったらひきこもりとして。
またもし、
ワンストップ相談窓口に行って、就労支援が希望だとなったら、ニートとして発見されたことになるでしょうか。
そしてもし、
親が学校の先生だったり、弁護士だったり、宗教家だったり、医者だったり、里親だったりしたら・・・。
先生の子ども、弁護士の子ども、宗教家の子ども、医者の子ども、里親の子どもとして発見され、認知されるでしょう。
そして、
理想的な環境で養育されてる!
虐待があるなんてあり得ない!
と決めてかかられることが多いでしょう。
その環境でひどい目に遭っているなんてまさか!?
って感じで。
そのためもし、
不適切な養育を受けていたり虐待があったりしたとしても、
発見は相当遅れるかもしくは発見されないでしょう。
『誰もボクを見ていない なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(山寺香著 ポプラ社刊 2017)
という本があります。
祖父母を殺めた被虐待児童のドキュメンタリーです。
この未成年者は、犯罪者として強く発見されます。
でも実は犯罪者として発見されるまでに、いろんな大人たちに発見されていました。
実父とも交流はあったし、親戚もいたし、数年間とはいえ学校にも通っていたし、生活保護も受けていたし、児童相談所も関わっていたし、仕事もしていたし・・・。
インフォーマル、フォーマル両方の大人たち、特に虐待に意識の高い教育や福祉の専門家すら関わっていたんです。
それは、
犯罪者として発見される前にいろいろ場面でたくさん発見されていたことを意味しています。
でも、これといって手助けしてもらえなかった。
虐待環境から救出してもらえなかった。
罪を犯して、やっとしっかり発見された。
そうしてやっと裁判を通して逆境体験に目が向けられた。
やっと一番の核心を発見してもらえたのでした。
それは、(社会が・大人たちが)何をすればいいいいのか? の発見でもあったようです。
社会や大人たちは、少年が罪を犯すことで犯罪少年を発見しました。
そして、法に従い犯罪者として収監しました。
収監したことが虐待環境から救い出すことになったことを発見しました。
裁判によって、少年の境遇がつぶさに明らかになってきました。
報道によって、社会の多くの人が少年を発見しました。
犯罪少年が虐待を受けた児童であったことを認識しました。
ジャンルでいうと、司法の力が発揮されたとなります。
司法の力で裁かれ、刑を受け、そして救われるきっかけが生まれた。
でもそれでは遅いので、
そうじゃない方法で、救い出す方法が必要なんだということを発見(気づき)しました。
いえ、思い知らされました。
発見だけじゃなく、救い出す行動が必要であったのだと発見しました。
この項続く
や、
誰かの手助けがいるとき
に、
自ら誰かに助力を求めたり、
または、
誰かから助力の申し出があったりして、
困難が解消されることは一般的です。
ところがこの際、
(あなたが)助力を求めた相手、
または(あなたの力になろう)と助力の申し出をしてきた相手
の立場によって、
困難が解消されるかどうかが決まることは少なくありません。
解消するかどうか、
相手次第の面があると言うことです。
どういうことでしょう?
”誰に”発見されるかで結果が違ってくるように思えるからです。
例えば、
スポーツの才能、勉学の才能、アートの才能、職業上の才能・・・などなど。
発見されたからこそ、その才能が開花し、人生の往く道が決まることが多くあります。
才能を見出し、才能を開花させ、伸ばし、そして次のステップへつなげられる人に発見されれば、存分に自分の才能を発揮できる人生を送れるでしょう。
また例えば、
虐待や逆境体験から逃亡した未成年が、夜露をしのごうと他人の住居に侵入して警察に捕まると、
非行少年として発見されたことになるでしょう。
悪いことをした人として公認されその認識にもとづいて対応されるでしょう。
つまり、
虐待などの心の傷みのケアは後回しにされ、懲罰指導・再犯防止に重点を置かれると言うことです。
この未成年者がもし、
学校に通ってないときに、先生から発見されたとしたら、不登校児童生徒になるでしょうか。
そうなったら、
不登校児童生徒として公認され対応されるでしょう。
もし、
眠れてないようだし食欲もないようだし、全体的に具合が悪いようだから、なんかの病気かもしれないからと保護者が心配して、
精神科を受診したとしたら、精神疾患の患者として発見されることになるでしょう。
精神的な不調の未成年者とし認識され治療されるでしょう。
もし、
ひきこもりの支援機関だったらひきこもりとして。
またもし、
ワンストップ相談窓口に行って、就労支援が希望だとなったら、ニートとして発見されたことになるでしょうか。
そしてもし、
親が学校の先生だったり、弁護士だったり、宗教家だったり、医者だったり、里親だったりしたら・・・。
先生の子ども、弁護士の子ども、宗教家の子ども、医者の子ども、里親の子どもとして発見され、認知されるでしょう。
そして、
理想的な環境で養育されてる!
虐待があるなんてあり得ない!
と決めてかかられることが多いでしょう。
その環境でひどい目に遭っているなんてまさか!?
って感じで。
そのためもし、
不適切な養育を受けていたり虐待があったりしたとしても、
発見は相当遅れるかもしくは発見されないでしょう。
『誰もボクを見ていない なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(山寺香著 ポプラ社刊 2017)
という本があります。
祖父母を殺めた被虐待児童のドキュメンタリーです。
この未成年者は、犯罪者として強く発見されます。
でも実は犯罪者として発見されるまでに、いろんな大人たちに発見されていました。
実父とも交流はあったし、親戚もいたし、数年間とはいえ学校にも通っていたし、生活保護も受けていたし、児童相談所も関わっていたし、仕事もしていたし・・・。
インフォーマル、フォーマル両方の大人たち、特に虐待に意識の高い教育や福祉の専門家すら関わっていたんです。
それは、
犯罪者として発見される前にいろいろ場面でたくさん発見されていたことを意味しています。
でも、これといって手助けしてもらえなかった。
虐待環境から救出してもらえなかった。
罪を犯して、やっとしっかり発見された。
そうしてやっと裁判を通して逆境体験に目が向けられた。
やっと一番の核心を発見してもらえたのでした。
それは、(社会が・大人たちが)何をすればいいいいのか? の発見でもあったようです。
社会や大人たちは、少年が罪を犯すことで犯罪少年を発見しました。
そして、法に従い犯罪者として収監しました。
収監したことが虐待環境から救い出すことになったことを発見しました。
裁判によって、少年の境遇がつぶさに明らかになってきました。
報道によって、社会の多くの人が少年を発見しました。
犯罪少年が虐待を受けた児童であったことを認識しました。
ジャンルでいうと、司法の力が発揮されたとなります。
司法の力で裁かれ、刑を受け、そして救われるきっかけが生まれた。
でもそれでは遅いので、
そうじゃない方法で、救い出す方法が必要なんだということを発見(気づき)しました。
いえ、思い知らされました。
発見だけじゃなく、救い出す行動が必要であったのだと発見しました。
この項続く
自己肯定感を上げるのと学校に行かせる発想は根が一緒だと思った話
2021年02月22日
自己肯定感を上げる。
ことを目標に据える支援はそこかしこで見聞きします。
なにかにつけ、上げる、つけさせると言う表現で支援方針が語られます。
かくも当然に。
それが間違いなく正しい立派な支援だという風で。
でも、これ問題あるんです。
理由は、
望ましい状態じゃない者を望ましい状態にするって発想に基づいているからです。
自己肯定感が低い状態。
は、望ましくない。
だから、
自己肯定感が高い状態に持って行くように支援する。
って発想です。
学校に行ってない状態。
を
学校に行っている状態にする。
その状態に直す、治す、戻す、の発想と同根と言っても過言ではないでしょう。
こう考えると、
自己肯定感を上げるための伴走型の支援は日本国中で定評があるのですが、
実際は、
特定の目標に向かって走らせる支援であることに変わりはないとなります。
伴走する方角が支援開始前から支援者によってすでにもう決められているからです。
その目標に向かって走らせる。
それに伴走する。
そういう仕掛けです。
○○じゃないから、
(伴走して寄り添いながら巧く)矯正するんですね。
そういう支援なんです。
つまり支援者は、
有り体に言えば、
自己肯定感が低いことは肯定していなし、する気もないんです。
都合、
自己肯定感が低い人を認めていないし、認める気もないんです。
学校に行かない子どもを、
学校に来ない子どもを
認めない。
肯定しない。
これと一緒。
学校に行かせる支援。
自己肯定感を上げる支援。
根っこは一緒だったんだ。
長年の自己肯定感向上運動への引っかかりがとれて、腑に落ちる結論が出たのでした。
ちなみに、
誰かが本気で寄り添えば、勝手に自己肯定感は上がると思っています。
ことを目標に据える支援はそこかしこで見聞きします。
なにかにつけ、上げる、つけさせると言う表現で支援方針が語られます。
かくも当然に。
それが間違いなく正しい立派な支援だという風で。
でも、これ問題あるんです。
理由は、
望ましい状態じゃない者を望ましい状態にするって発想に基づいているからです。
自己肯定感が低い状態。
は、望ましくない。
だから、
自己肯定感が高い状態に持って行くように支援する。
って発想です。
学校に行ってない状態。
を
学校に行っている状態にする。
その状態に直す、治す、戻す、の発想と同根と言っても過言ではないでしょう。
こう考えると、
自己肯定感を上げるための伴走型の支援は日本国中で定評があるのですが、
実際は、
特定の目標に向かって走らせる支援であることに変わりはないとなります。
伴走する方角が支援開始前から支援者によってすでにもう決められているからです。
その目標に向かって走らせる。
それに伴走する。
そういう仕掛けです。
○○じゃないから、
(伴走して寄り添いながら巧く)矯正するんですね。
そういう支援なんです。
つまり支援者は、
有り体に言えば、
自己肯定感が低いことは肯定していなし、する気もないんです。
都合、
自己肯定感が低い人を認めていないし、認める気もないんです。
学校に行かない子どもを、
学校に来ない子どもを
認めない。
肯定しない。
これと一緒。
学校に行かせる支援。
自己肯定感を上げる支援。
根っこは一緒だったんだ。
長年の自己肯定感向上運動への引っかかりがとれて、腑に落ちる結論が出たのでした。
ちなみに、
誰かが本気で寄り添えば、勝手に自己肯定感は上がると思っています。
CRAFTやABAは使いこなせているのか?
2021年02月06日
ひきこもりや不登校や発達特性を持つ人の、
行動の理解のためや、
他者とよろしくやっていくための望ましい行動を促すために、
CRAFT(Community Reinforcement and Family Training)
や
ABA(Applied Behavior Analysis)・応用行動分析は支援者によく利用されています。
※ペアレントトレーニングのほうが有名かしら。
支援効果が高いツールとされています。
でも!
それは使いこなせる人に限りなんです。
これらの有効なツールは、
そこそこの熟達がいるので、簡単に誰でも使いこなせるものではありません。
研修いっぺん受けただけではまず無理。
早くても数年かかるんじゃないかしら。
とはいえどちらも、
家族が家族を支援するためのツールとしても使われています。
実際的には、親が子に対して使うことが想定されています。
親が使いこなせるようになれば、我が子への理解が進み、家族関係はとてもよくなるのですが、
専門職がなかなか使いこなせないものを、ストレスフルな状態にある素人の親が使いこなすせるようになることは現実的に期待できません。
専門技術の習得にはとても労力が必要だからです。
具体的には、
どちらも行動理論にもとづいているので、
行動観察が最重要ポイントなのですが、これが一番難しいんです。
子どもの行動を観察するとして、普段どんな風かと問うと、
うちん子は、なに言ってン言うこと一つもきかん!
との答えがあったとします。
ところがこれは、
行動観察ではなく、親の子どもに対する印象の表現です。
あえて言うなら愚痴でしょうか。
そもそもこの言い方には感情がこもってます。
観察に感情は入れてはいけないんです。
うちの子は、学校に行けと言うと、顔をそむける。
が行動観察。
どんな刺激を受けて、どんな反応=行動をしたかという、刺激と反応の因果関係を観察するのです。
アイス食べる? と言うと、ちらっと目を合わせる。
もそう。
もし、
牛丼食べる? と言うと、スマホを見たまま。
だと、
アイスは子どもの心を動かすと予測されます。
この際、
スンゴクとか、いっつもとか、怪しい表情とか、フツーにやるようにとかの修飾的で抽象的な表現を極力省いた最小単位の単純な行動を言葉にします。
しかも肯定的な表現をしないとなりません。
じゃないと行動を促したり止めたりする働きかけのツールとして使えないからです。
例えば、
牛丼食べる? と言うと、こっちを見ない。
じゃなくて、どこを見ているか、なにをし続けているか? に注目します。
この場合は、
スマホを見続けたまま。
です。
※もしこのとき、少し眉を動かしたのなら牛丼に少し興味があったかもしれません。または、その話しかけ方なら少し心が動いたのかもしれません。
さらには、
観察できない心の内の理由や気持ちを除いた表現が望ましいようです。
うちの父さんがおらんだら、うちんこが暴れて、もう大変でした!
だと、切迫感は伝わってくるのですが、対処策を考えることができません。
どんな風におらんだのか? どんな風に暴れたのか? の両方が詳しく分からないと、どうすればいいのかが導けないんです。
この際、
特にどうしたからどうした的な原因と結果の関連付けを表す「ので」系で言葉をつなぐことはやめた方がいいようです。
うちのお父さんがおらんだので。
かどうかは、この段階で決めつけるのは早計です。
お父さんがおらばんでも、お父さんの足音を聞いただけで暴れる準備に入っているかもしれないからです。
だとするならば、「おらんだ」のは暴力の原因というより「きっかけ」になるかと思われます。
「原因」なのか「きっかけ」なのか? 違いは大きいいんです。
だから、
もう少し、行動観察を続けてから原因と結果を判断する方がイイでしょう。
試みに、
ものすごく細かくこの例を記述してみます。
息子が好物のカレーを笑顔で食べているときに、うちの父さんが、息子の姿を見るやいなや、いいかげん働かンか! これ以上ただメシは食わせんゾ! と大声で言った。
そして、
数秒したら、息子の表情が険しくなり、手が震えて、器を握りしめ、なにかつぶやいた後で、壁に向かって、カレーを投げつけた。
そのカレーの飛沫が、お父さんの顔についた。お父さんは顔を拭ってそれを手に取って見た、お父さんはより血相を変えて息子に近づいた。
息子は、後ずさりながら立ち上がり、お父さんの胸を両手で押した。
お父さんはバランスを崩し倒れた。
息子は、しばらくお父さんを見下ろしていたが、口を固く閉ざしたまま自室に戻った。部屋に入るとき、大声を上げてドアを激しく閉めた。
と、するならば、
どんなときに怒鳴るのか?
暴力するのか?
の条件が特定できたり、
そもそも息子の行動は暴れるという表現で妥当なのか?
と脅威評価ができたり、
どんな風にして、暴れるに到ったのか?
というか、本当に暴れたのか?
そもそも暴力的で粗暴な息子なのか?
というか、
きっかけはそもそもなんだったのか?
と、緊張が極まった場面への筋道が推測したりができます。
この作業は次への予測となり、
それは望ましくない行動生起、状況発生の予防にもつながります。
例えば、
家族の対応≒行動としては、カレーでご機嫌なときは、あえて厳しいことを言わず、家族でなごむ。
とか。
子どもの心情の理解としては、子どもは対人暴力を望んでいないとか。
自制したり、壁に投げたり、その場から自ら立ち去ったりしているからですね。
都合、
暴力は自分でまったく制御できない状態ではないと判断されるかと思います。
それは、精神科や警察の力を仰ぐのは少し待つということを示唆します。
この段階で、
子どもを「粗暴な人」としてカテゴライズして強権力を行使するは逆効果かもしれません。
以上例示の考察でした。
さて、
こんな風にやっていくのですが、
これだけの知的作業を、
暴力場面に遭遇してパニック状態の人つまり親・家族にやれというのは現実的ではありません。
被害者という自己認知なので、相手の行動分析よりもむしろ自身の心のケアが最優先です。
有り体に言えば、
気持ちを落ち着かせるのですね。
ツールを使うのは、危機が去って安全が安定してから。
このように、
CRAFTやABAなどは非常に有効なツールなんですが、精神的に安定していて知的作業が十分にできないと使いこなせるものじゃないんです。
他に、
このツールが使いこなせない原因の1つが、
子どもが自室に閉じこもっていることがあります。
観察が肝心要なのにその観察ができないことから、ツールが力を発揮できないんです。
そもそも、行動理論に基づいていて、望ましくない行動をする人に望ましい行動を促すツールであり、
※アルコール依存症者を治療につなげるなど。
それはつまり、
常日頃の行動を変える行動変容のためのツールなので、
活動的じゃない人・行動しない人、じっとしている人向けには作られていないんです。
※と私聞風坊は実感しています。
じっとしている。
行動する場面に遭遇しづらい。
都合、観察ができない。
音や気配だけでは感じることができないこともないけど。
なんて状態だと、そもそもこのツールが使えないんです。
だから、
必死に子どもを見かけた場面を探すのですが、観察してデータを集めるほどの接触は期待できません。
このようなことから、
ひきこもっている人とその家族にこのツールを応用する際は、大変な困難をともないます。
だから、
ひきこもっている人とその家族の支援者がこのツールを使う際には、、支援者の力量が問われます。
支援者は、
CRAFTやABAの本質を熟知し、技術に熟達する必要があるんです。
有用なツールを使いこなすために。
ガンバレ支援者!
行動の理解のためや、
他者とよろしくやっていくための望ましい行動を促すために、
CRAFT(Community Reinforcement and Family Training)
や
ABA(Applied Behavior Analysis)・応用行動分析は支援者によく利用されています。
※ペアレントトレーニングのほうが有名かしら。
支援効果が高いツールとされています。
でも!
それは使いこなせる人に限りなんです。
これらの有効なツールは、
そこそこの熟達がいるので、簡単に誰でも使いこなせるものではありません。
研修いっぺん受けただけではまず無理。
早くても数年かかるんじゃないかしら。
とはいえどちらも、
家族が家族を支援するためのツールとしても使われています。
実際的には、親が子に対して使うことが想定されています。
親が使いこなせるようになれば、我が子への理解が進み、家族関係はとてもよくなるのですが、
専門職がなかなか使いこなせないものを、ストレスフルな状態にある素人の親が使いこなすせるようになることは現実的に期待できません。
専門技術の習得にはとても労力が必要だからです。
具体的には、
どちらも行動理論にもとづいているので、
行動観察が最重要ポイントなのですが、これが一番難しいんです。
子どもの行動を観察するとして、普段どんな風かと問うと、
うちん子は、なに言ってン言うこと一つもきかん!
との答えがあったとします。
ところがこれは、
行動観察ではなく、親の子どもに対する印象の表現です。
あえて言うなら愚痴でしょうか。
そもそもこの言い方には感情がこもってます。
観察に感情は入れてはいけないんです。
うちの子は、学校に行けと言うと、顔をそむける。
が行動観察。
どんな刺激を受けて、どんな反応=行動をしたかという、刺激と反応の因果関係を観察するのです。
アイス食べる? と言うと、ちらっと目を合わせる。
もそう。
もし、
牛丼食べる? と言うと、スマホを見たまま。
だと、
アイスは子どもの心を動かすと予測されます。
この際、
スンゴクとか、いっつもとか、怪しい表情とか、フツーにやるようにとかの修飾的で抽象的な表現を極力省いた最小単位の単純な行動を言葉にします。
しかも肯定的な表現をしないとなりません。
じゃないと行動を促したり止めたりする働きかけのツールとして使えないからです。
例えば、
牛丼食べる? と言うと、こっちを見ない。
じゃなくて、どこを見ているか、なにをし続けているか? に注目します。
この場合は、
スマホを見続けたまま。
です。
※もしこのとき、少し眉を動かしたのなら牛丼に少し興味があったかもしれません。または、その話しかけ方なら少し心が動いたのかもしれません。
さらには、
観察できない心の内の理由や気持ちを除いた表現が望ましいようです。
うちの父さんがおらんだら、うちんこが暴れて、もう大変でした!
だと、切迫感は伝わってくるのですが、対処策を考えることができません。
どんな風におらんだのか? どんな風に暴れたのか? の両方が詳しく分からないと、どうすればいいのかが導けないんです。
この際、
特にどうしたからどうした的な原因と結果の関連付けを表す「ので」系で言葉をつなぐことはやめた方がいいようです。
うちのお父さんがおらんだので。
かどうかは、この段階で決めつけるのは早計です。
お父さんがおらばんでも、お父さんの足音を聞いただけで暴れる準備に入っているかもしれないからです。
だとするならば、「おらんだ」のは暴力の原因というより「きっかけ」になるかと思われます。
「原因」なのか「きっかけ」なのか? 違いは大きいいんです。
だから、
もう少し、行動観察を続けてから原因と結果を判断する方がイイでしょう。
試みに、
ものすごく細かくこの例を記述してみます。
息子が好物のカレーを笑顔で食べているときに、うちの父さんが、息子の姿を見るやいなや、いいかげん働かンか! これ以上ただメシは食わせんゾ! と大声で言った。
そして、
数秒したら、息子の表情が険しくなり、手が震えて、器を握りしめ、なにかつぶやいた後で、壁に向かって、カレーを投げつけた。
そのカレーの飛沫が、お父さんの顔についた。お父さんは顔を拭ってそれを手に取って見た、お父さんはより血相を変えて息子に近づいた。
息子は、後ずさりながら立ち上がり、お父さんの胸を両手で押した。
お父さんはバランスを崩し倒れた。
息子は、しばらくお父さんを見下ろしていたが、口を固く閉ざしたまま自室に戻った。部屋に入るとき、大声を上げてドアを激しく閉めた。
と、するならば、
どんなときに怒鳴るのか?
暴力するのか?
の条件が特定できたり、
そもそも息子の行動は暴れるという表現で妥当なのか?
と脅威評価ができたり、
どんな風にして、暴れるに到ったのか?
というか、本当に暴れたのか?
そもそも暴力的で粗暴な息子なのか?
というか、
きっかけはそもそもなんだったのか?
と、緊張が極まった場面への筋道が推測したりができます。
この作業は次への予測となり、
それは望ましくない行動生起、状況発生の予防にもつながります。
例えば、
家族の対応≒行動としては、カレーでご機嫌なときは、あえて厳しいことを言わず、家族でなごむ。
とか。
子どもの心情の理解としては、子どもは対人暴力を望んでいないとか。
自制したり、壁に投げたり、その場から自ら立ち去ったりしているからですね。
都合、
暴力は自分でまったく制御できない状態ではないと判断されるかと思います。
それは、精神科や警察の力を仰ぐのは少し待つということを示唆します。
この段階で、
子どもを「粗暴な人」としてカテゴライズして強権力を行使するは逆効果かもしれません。
以上例示の考察でした。
さて、
こんな風にやっていくのですが、
これだけの知的作業を、
暴力場面に遭遇してパニック状態の人つまり親・家族にやれというのは現実的ではありません。
被害者という自己認知なので、相手の行動分析よりもむしろ自身の心のケアが最優先です。
有り体に言えば、
気持ちを落ち着かせるのですね。
ツールを使うのは、危機が去って安全が安定してから。
このように、
CRAFTやABAなどは非常に有効なツールなんですが、精神的に安定していて知的作業が十分にできないと使いこなせるものじゃないんです。
他に、
このツールが使いこなせない原因の1つが、
子どもが自室に閉じこもっていることがあります。
観察が肝心要なのにその観察ができないことから、ツールが力を発揮できないんです。
そもそも、行動理論に基づいていて、望ましくない行動をする人に望ましい行動を促すツールであり、
※アルコール依存症者を治療につなげるなど。
それはつまり、
常日頃の行動を変える行動変容のためのツールなので、
活動的じゃない人・行動しない人、じっとしている人向けには作られていないんです。
※と私聞風坊は実感しています。
じっとしている。
行動する場面に遭遇しづらい。
都合、観察ができない。
音や気配だけでは感じることができないこともないけど。
なんて状態だと、そもそもこのツールが使えないんです。
だから、
必死に子どもを見かけた場面を探すのですが、観察してデータを集めるほどの接触は期待できません。
このようなことから、
ひきこもっている人とその家族にこのツールを応用する際は、大変な困難をともないます。
だから、
ひきこもっている人とその家族の支援者がこのツールを使う際には、、支援者の力量が問われます。
支援者は、
CRAFTやABAの本質を熟知し、技術に熟達する必要があるんです。
有用なツールを使いこなすために。
ガンバレ支援者!
【お知らせ】
これまでの発表や記事原稿を、「聞風坊の図書館」で適宜公開しています。
別サイトになります。こちらもご覧下さいませ。
これまでの発表や記事原稿を、「聞風坊の図書館」で適宜公開しています。
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