お金を稼ぐことに嫌らしい感覚を持つことについて考えてみた話

2018年09月30日

 実は、ひきこもり支援は就労支援が目立っているのです。

 国の方針も、就労を目指した支援が基本です。

 自分で働いて金銭収入を得て自活していく。

 この状態を目指しているからですね。

 日本人の基本生活姿勢だからなのでしょう。

 ところが、こもる人は働くことについてとても否定的な感覚を持っています。

 自分が働けるのか?

 働けるほどの能力があるのか?

 収入が得られるほど働けるのか?

 心や体を壊すほど頑張らねばならないのではないか?

 そんな自信はない。

 というかそんな社会ではやっていけない。

 なんでそこまでして働かないとならないの?!

 いろいろな否定的な考えが次から次に襲来します。

 そして、やる気をなくして落ち込みます。

 特に、 お金を稼ぐことに気乗りがしない人は多いみたい。
 私聞風坊もその一人。

 そんなにしてまでお金を稼がないとならないのか?!

 なんて考えてしまう。

 別にお金を稼がなくても、少ない金額でなんとか暮らしていけるし。

 今より暮らしの質を落としてもいいし。

 なんて風にも。

 お金を稼ぐ意欲が低いみたい。
 気力がわかないというか。
 動機づけが弱いというか。

 一方で、お金をたくさん稼ぐ人たちもたくさんいます。
 特に昨今はやりのIT社長さん、起業家の皆さんたちとか。

 お金をたくさん稼いでたくさん使って楽しんで、社会貢献もやって。
 みたいな人たちは少なくありません。

 エネルギッシュ!

 何が違うんだろう?
 考えました。

 そしてある日ふと思いつきました。

 お金をたくさん稼ごうとする人たちは、
 お金を使うことをまず考える人たちなんじゃないかと。

 どんな風にお金を使いたいか?
 お金の使い途をまず考えついて、

 そのために、仕事してお金を稼ぐ。

 こんな順序でお金を稼ぐことを考えるのではないかと思ったのです。

 お金を稼ぐ目的がしっかりしている。
 それは自分の欲を満たすためであったり暮らしをよくするためであったり、家族のそれであったり、または社会のためであったりする。

 いいことをするためにお金を稼ぐ。

 お金の使い途が決まっている。

 一方で、私たちはそれが決まってない。

 お金を稼いでも、どう使っていいか分からない。

 これといって思いつかない。

 にもかかわらず、稼がねばならない。

 ジレンマ。

 お金って、流通することで価値が生まれるんだそうです。

 人から人に渡ってめぐっていくことがお金の役目。
 そうやって社会を活性化する。

 こう考えると、私たちの考えの中では、お金の流通が止まっているよう。

 使い途がないのに、お金を稼がなければならない。

 出口がイメージできないのに、収入を得なければならない。

 こう考えると、

 出ていく先がイメージできれば、稼ぐ気持ちがわいてくるかもしれません。

 さ~てと、
 お金を何に使おうか?
 
 自分のために、家族のために、好きな人のために、未来のために・・・。

 そのために、お金を稼ごうか。

 稼いだ一部は社会のために納めようか。

 そんな気持ちに。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のことニート

助けを借りる力がいる話

2018年09月20日

 災害被災の場面では、受援力。

 心理系では、
 援助要請行動などの分野で研究されている

 誰かの助けを借りてやっていく力

 についての記事です。

 困難を抱える人のうち、

 長いこと困難が解消しない場合や、

 幼い頃から誰かの助けが十分に得られなかった場合など、

 誰かの助けを借りて、自分の困難を解消できた経験が乏しいと、

 誰かの助けを借りるという発想がなくなり、

 誰かの助けを借りるといいことがあるという希望もなくなり、

 自分の力頼みでやっていくしかない。

 誰もアテにならない。

 誰も信頼できない。

 自分の望みは自分で叶えるしかない。

 できることは限られているから小さな少しだけの望みを叶えよう。

 として、

 小さく小さく暮らしを縮めた生き方を選ぶ場合があります。

 長年こもっている場合。

 社会でどうにも上手くやっていけないと思った場合。

 そもそも誰かが自分のために役立つことをしてくれたことがこれといってなくて、

 どちらかというと自分ただれかのために役立つことばかりで、

 結局のところ、いつも自力でやっていくしかなくて、

 それを誰もが期待している場合。

 などです。

 この場合、
 他者への
 不信感
 不信頼感
 不審感
 がとても強く、

 これまでの人生で自分の能力の限界を痛切に感じることが多いために、
 自分への
 不信感・不信頼感
 もまた同様に強いことが多いようです。

 それは、
 自分の人生への
 不信感・不信頼感であり、

 自分の人生を
 肯定しない
 ことにもつながり、

 自分の未来に
 希望を持てない
 ことにもなります。

 だから、
 誰かの助けを借りる気も起きない。
 それで、問題は解消せず

 暮らしていく不満は募るばかり。
 という悪循環。

 自助グループで学んだことの一つに
 手放すというのがあります。

 都合これは、
 誰か、なにかに委ねる。
 ということを意味しています。

 何を?

 自分の手に負えない問題をです。
 
 そしてこれには、
 自分の処理能力以上の問題。
 と、
 自分の問題じゃなくて誰かの問題だから。

 の2種類があるようです。

 医師や福祉職、相談職などの専門職を頼り、
 自分の手に負えない部分を委ねる。

 少しでも問題解決に役立ちそうな誰かからの提案を
 試しにやってみる。
 少しだけ提案に委ねてみる。

 自分のこだわり、
 怯え、
 恐怖、
 意地、
 を手放し、

 暮らしが楽になりそうな手立てに委ねてみる。

 自助グループでのたとえ話では、

 箱の中のキャンディーつかみ取りの時、
 手一杯に物をつかんでいると箱の出口にひっかかって何も手にできないけど、
 少し手放すと、なかなかの数が手に入る。

 と学びました。

 不信というこだわりを手放すことで、
 楽が手に入ることはあります。

 助けを借りる力を手にする話でした。

  


支援者に必要なのは想像力だと思うのです。

2018年07月20日

 人を支え、手助けする人。

 それを支援者と呼ぶならば、

 支援者に必須の要件は、

 想像力だと思います。

 相手の立場、

 状況、

 可能性、

 苦痛、

 考え方、

 傷み、

 気持ち、

 責務、

 権利、

 等々への。

 さて、
 支援者は、以下のような対応をよくやります。

 若いのだから未来は明るいよと励ます。

 40代でも仕事はありますよと希望を持たせる。

 学校は楽しいよと登校を誘う。

 ひきこもりはPCが得意だから、PCを基軸とした就労支援をする。

 不登校は学校が嫌いだから学校に行かないですむ社会にする。

 ニートは自己肯定感が低いからとにかくほめる。

 野良犬に噛まれたようなものだと思って過去を忘れて生きるように支援する。

 自分を大切にしていないからと、命の大切さを説く。

 支援者は、
 自分たちのこれまでの人生をもとにして、自分たちのが苦労や頑張りが報われたからといって、

 その人がその職に就けるかどうかが分からないのに、

 自分たちが、学校では嫌なことやつらいこともあったけど全体的に楽しかったから、
 
 自分がPCが役立つと思っているから、
 PC得意じゃない、否、持ったこともないこもる人は多いだろうに、

 自分が学校嫌いだからといって、
 相手は学校嫌いじゃないかもしれないのに、
 むしろ行きたいのかもしれないのに、
 そして、
 学校に行かないですむ社会はいつ実現するかも分からないのに、

 対人支援のブームが自己肯定感を高めるためにほめることだからといって、
 ほめられるとむなしくなることも多いのに、
 上手に折り紙ができたところで仕事につながらないのに、

 相手の様子が痛々しいからといって、
 簡単に忘れられたら20年前から楽に暮らせてるのに、

 自分の命をぞんざいに扱われているのに、

 ありきたりな関わり方をさも当然に、
 自分たちがゆるぎなく正しいとして、

 自分たちの貧しい想像力をもとに、
 支援を組み立てるのはナンセンスです。

 想像しましょう。

 そうしてその人に会った支援の仕方を創造しましょう。
  


親からの自立は身を切る覚悟がいるかもしれない話

2018年07月05日

 親からの自立。

 という考え方があります。

 それまで親の保護のもとに生活していたけど、

 これからは自分で自分を保護しながら生きていく。

 ときに親を頼り、甘え、

 ときに親を保護しながら。

 自立のイメージって、こんな感じでしょうか。

 具体的には、

 経済的自立と心理的自立

 なんて言われること。

 自分で働いて収入を得て、日々の暮らしをまかなっていく。

 これが経済的自立。

 こもる人やニートの親の人がよく口にする自立はこれですね。
 とにかく働いてほしい。切なる願い。

 一方の心理的自立は、

 気持ちの上で親を頼らなくなること。
 代わりに自分を頼みに生きていくこと。

 とでもなるでしょうか。

 それまで親の考えに従い、
 親の許可を得、
 何かにつけ親に相談していたものを、
 
 自分で考え判断し、行動する。

 そういう風になることですね。

 一言でいうと、
 (自分のことに関して親が担っていた責任を)
 自分で担うようになる。

 こうなると、
 親を自分の管理監督者みたいに上位に置くのではなく、
 対等なオトナとして付き合っていくようになります。

 互いに尊重しあって。
 互いの考えや意見か気持ちや立場を思いやって。

 オトナ同士。

 日本のルールでは、オトナになるのは20歳です。
 一人前の社会人として認められ、だから自分の行動について法的にも責任を持たねばならなくなる年齢です。
 この時から、オトナとしての権利と義務が生じるのですね。

 さてこの自立、人によって差があります。
 その人がどれくらい自立しているかの指標を自立度なんて言いますが、

 人によっては、20歳過ぎても自立度が低い人がいます。
 人によっては、10代のころにオトナレベルの自立度の人もいます。
 ときに一ケタの年齢の頃からオトナとして暮らしている人もいるでしょう。

 親をアテにしなくなる。
 親から自立する。
 親と境界を引く。
 親をクビにする。
 親を切り捨てる。

 子どもが、自分を頼みに生きていく際に、
 そのやり方には穏当なものから過激な力強いものまでいろいろな表現があります。
 
 それまでの親子関係によって表現は違うでしょう。

 穏当で、良好で、成長を促し見守る親との関係だったなら、穏当な表現になるでしょう。

 過激で、一方的で、略奪・侵襲的で、成長の邪魔をし、
 むしろ自分が保護してもらうことを期待しているような親との関係だったなら、

 表現は激烈になるでしょう。

 それは、子ども自身を傷つけることにもなります。

 自分が自立して社会の中で生きていくために、
 親子関係を引き裂くことをせねばならないのですから。

 親は期待するほど自立を手助けしてくれないのだから。
  
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欲にまみれた支援をしてはなりませんの話

2018年02月10日

 カウンセラー

 相談員

 教師

 医師

 看護師

 セラピスト

 コンサルタント

 弁護士

 柔道整復師

 鍼灸師

 心理士

 サポーター

 支援員

 などなど、

 誰かの手助けをする人たちがいます。

 生業にしていたり、金銭的に無償であったりして。

 その時に肝に銘じていなければならないことがあると思っています。

 それは、自分の欲をよくわきまえていること。

 人助けをしたい。

 この子の笑顔が見たい。

 この子にもっと喜んでもらいたい。
 
 病に打ち勝ってもらいたい。

 権利を大事にしてもらいたい。

 もっと儲けてもらいたい。

 感情を介抱してもらいたい。

 認知のゆがみを直してもらいたい。

 などなどの思いは、すべて、

 支援者側の欲です。

 相手の思いからまったく独立した支援者の勝手な願いです。

 支援の動機がその人にこうあってほしいという願いであったとしても、

 それを相手に押しつけることをしてはなりません。

 相手を自分の欲を叶える道具にすることになるからです。

 この思いはときに、

 私が誰かにご飯を食べさせたいから、ご飯を食べていない子どもを探す。

 そんなことにもなりがち。

 支援者は自分の欲にまみれた支援をしてはなりません。

 自分の欲とよく折り合いをつけて、相手と向きあう必要があるでしょう。

 
  
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