2017年03月20日

原因という名の犯人捜し 不登校・ひきこもり・社会問題など3

 不登校やひきこもりなどの原因を探っても、対処法が見つからないのは、前提が問題だからじゃないの? の続きです。

 問題解決のための原因探し、犯人捜し作業は、

 原因が私か相手かのどちらかにある。
 私か相手かのどちらかが犯人だ。

 という前提にもとづいていますが、この前提を変えてみたら新しい発見があるかもしれません。

 ここで例として、コミュニケーションについて考えてみます。

 話すのが苦手な人がいて、一方で聞くのが上手な人がいて、その2人が会話するとなると?

 話したがらない人と、相手の話を聞こうと待っている人なので、会話は難しいでしょう。

 もし、
 話すのが苦手な人の相手が、質問が得意な人ならばどうでしょう?

 うまくいくと、質問に答える形で会話が進んでいくでしょう。調子をつかめば、お互いに質問しあって話がはずむかもしれません。

 またもし、
 聞くのが上手な人の相手が、話すのが大好きな人だったらどうでしょう?

 お互いのニーズにマッチしたコミュニケーションができて、楽しい時間を過ごせそうです。※延々と話が終わらないかもしれないけど。

 コミュニケーションが困難な場合、

 その人が、話すのが苦手ということが原因でしょうか?

 あの人が、聞くのだけが上手だということが原因でしょうか?

 アイツが、質問ばかりすることが犯人でしょうか?

 ソイツが、自分の話ばかりすることが悪いのでしょうか?

 一概には言えません。

 どうやら要点は、お互いが相手と調和できるかどうかのようです。

 私と相手の間で、調和が生じるか否か?

 それが問題(原因・犯人)のようです。

 不調和だから望まない結果になる。
 調和すれば望ましい結果を得る。

 このように考えると、どうすればいいかが自然と分かってくるように思えます。

 私はどうすれば相手と調和できるか?

 これに焦点を当てて対処法を考えればいいはずです。

 高度経済成長期の問題に焦点を当てるでもなく、

 学校教育制度の批判を繰り返すのでもなく、

 世界経済情勢を分析するのでもなく、

 今、関わりのある人とどう調和するか?

 どうやって調和するか?

 自分の行動に焦点を当てれば、取り組みやすくなります。

 だって、
 自分の行動は、自分で決められますもの。

この項終わり。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のことニート

2017年03月18日

原因という名の犯人捜し 不登校・ひきこもり・社会問題など2

 不登校やひきこもりなどの原因を探っても、対処法が見つからなかったら意味ないよね。の続きです。

 私たちは、
 原因という名の犯人を、相手に向ける場面によく出会います。

 うちの子は悪くない。悪いのは学校だ。

 いや、
 学校が問題というより家庭教育の問題だ。
 ※悪いのは家庭だ。=親だ。

 というより、
 弱者を受け入れる寛容さがないのが問題だ。
 ※悪いのは社会だ。

 悪いのは相手だから、相手が変わって当然だ。

 という論理です。

 そしてこれは、問題解決のカギを、相手に渡してしまっていることになります。
 問題解決するかどうかは相手が変わるかどうかにかかっている。
 つまり相手次第。

 究極、私の幸不幸は相手次第となってしまいます。

 私たちは、
 知らずこのような状況に自らはまり込んでいることに気づくことは重要です。

 では、どうすれば状況を打開できるでしょう?

 ここで視点を変えてみます。

 前提です。

 実は原因探しの論理の大前提は、
 原因が私か相手かのどちらかにある。
 私か相手かのどちらかが犯人だ。
なのです。

 この前提に問題があるように思えます。

この項まだ続く。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のことニート

2017年03月16日

原因という名の犯人捜し 不登校・ひきこもり・社会問題など

 不登校やひきこもりの話題だと必ず、

 親の問題、学校の問題、父親不在の問題、本人の特性の問題、などなど、

 不登校やひきこもりの原因を探る行為が行われます。

 そして、その原因らしきものを話題に議論して、
 たいがいが、
 やはり社会が悪い、制度が悪い、などという結論に落ち着きます。

 そうして、問題はそのまま保存されます。
 あきらめの気持ちとともに。

 これが、ニートの話題だと、より経済情勢、世界情勢の影響が色濃いので、
 その分、国政や世界政治がより悪者にされやすくなります。
 
 そして結局同様に、問題は解決されず、経済好転の時機を待つことになります。
 無力感、あきらめの気持ちとともに。
 
 だって、取り扱わないとならない問題が、つかみようのない大きさ、わけのわからなさだからです。
 
 例えば、下記のような原因が挙げられます。

 不登校の原因は、高度経済成長期の遺産であるガンバリズムだ。
 ※結果を出すことを強く求め、やみくもに頑張ることを奨励する。

 家父長性を踏襲した硬直した学校教育制度だ。
 ※高圧的な指導により児童生徒の個性を押し殺し、型にはめる教育。型にはまらない者は排除する。

 ひきこもりの原因は、価値観の多様性によって逆にアイデンティティの確立が困難になったからだ。
 ※モデルがたくさん存在することによって、自分の進みたい方向性が混乱する。

 男性性の強調が、息苦しさをうんで、社会不適応を起こさせる。
 ※強く、くじけず、エネルギッシュな生き方がよいとされる社会で、もうついて行けませんと音を上げる。

 なんとな~く、原因っぽい感じがします。
 でも、
 だからどうするの?
 という問いには応えていません。

 原因の分析だけ。
 対処法は提示されていない。

 だって、
 戦後何十年も培われた様式が相手だもの。
 無意識の価値観の影響だもの。
 手のつけようがありません。

 原因を探るという犯人捜しの不毛がここにあります。

 そもそも、原因を探す目的は、問題に対処するためでしょう。

 にも関わらず、対処法が示されない。

 ということから考えると、
 対処法のない原因探しは意味がないのです。

この項続く。
   


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のことニート

2017年01月04日

働く指標が時間であること

 ひきこもり・ニートとして、ひきこもりとニートが一緒くたにされていた時代から、就労についていろいろ考えています。

 最近気づいたことがあります。

 就労支援の現場では、就労したい人に対して、

 どれくらい働きますか?

 という問いが必ずあるのです。

 週に何日何時間働きたいですか?

 という意味合いです。

 この答えが、
 フルタイムで働きたいです。
 となると、
 1日8時間週5日働く。
 という意味になります。

 パートで。
 となると、
 1日4時間週3日ぐらい。
 という感じかもしれません。

 これ、働く意欲や体力を測る指標になります。

 フルタイムで。
という答えだと、やる気満々!

 パートで。
だと、そうやる気はない。
または健康状態がよくない。

 なんて判断されることは少なくないでしょう。

 8H(ハチエイチ)働ける体力をつけよう!
みたいな支援の姿勢もあります。

 8H働けるのが、労働者の基準になっている感じ。

 それができないのは、基準を満たしていない労働者。
そんな無意識の社会常識があるのかもしれませんね。

 何をするか?
 そのために何時間、時間と労力を投下するか?

 なんて風に、自分がやる仕事を基準にした発想ではないのが興味を引きます。

 長くNPO関係にいる私聞風坊としては、ミッション第1なので、
 ミッションよりも労働時間を基準にしている就労支援の仕方を面白く感じています。

 短期間でミッションが達成できれば、それだけ早く社会がよくなる。
 1つ達成したら次のミッションに取りかかる。
 そうしてひとつひとつ社会をよくしていく。

 そういうNPO的な考えとはだいぶ違うなと思います。

 まず一定時間働くこと、それをクリアしてはじめて金銭収入を得る。
 そんな感じ。

 労働するという考えの根本に、
 一定時間働いたからこそ対価が払われる。
 という考えがあるからでしょうか?

 働いた時間が収入に直結するならば、
 収入を増やすには労働時間を増やす。

 こういう感覚が自然と育っていくように思えて少し気がかりです。

 日本の労働環境が長時間労働を望ましいこととしている風潮の源泉がここらあたりにあるように思えています。
                  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(2)社会のことニート

2016年10月02日

消費される当事者 2

 少し前、子どもの貧困を取り上げたニュース番組に登場した当事者について、
実は貧困ではないのではないか? という議論があったことを受けての記事の続きです。

 人の存在を否定する言説。
 が横行している社会。

 こんな現状を再確認し、
 ふと思いついたのが

 消費される当事者

 という言葉でした。

 まるで、当事者というネタを多種多様な人たち=社会が、自分たちの好きなように利用し、気がすむまで使い倒す。

 気がすんだらゴミ箱に投げ捨てるように、日常の雑談の話題よろしく自分たちの暮らす社会の問題への関心すら一緒に捨ててしまう。

 社会が自分たちの話のネタが欲しいという気持ちを満たすための道具として扱われる当事者。

 そんな感覚を持ったからです。

 消費とは、自分の欲を満たすためにナニカを使って無くすことと言われています。

 人が、自分の欲を満たすために当事者という人の存在を使い果たす。

 当事者を材料(ネタ)にして、自分たちの言いたいことを言い放つ。

 言論は自由ですが、人を自分たちの消費財として扱わないよう、言論の仕方には思いやりが必要だと思うのでした。

この項終わり。
   


2016年09月30日

消費される当事者

 少し前、子どもの貧困を取り上げたニュース番組に登場した当事者について、
実は貧困ではないのではないか? という議論があったようです。

 「実は違うのではないか? だから当事者の意見ではないのではないか」
 という議論はひきこもり界でもよくありました。

 体験発表やメディアなどで発言するひきこもりは、こもっていないのだから、もはやひきこもりではない。
だからひきこもりの意見ではない。
 こういう論調です。

 さて、当事者が社会に対して声を挙げるのは、
 自分たちの存在を知らせ、困難を示し、そうして社会に議論を呼び起こすという意味合いがあります。

 そこに身を呈すほどの価値を見い出すから、当事者は社会に訴えるのですが、

 当事者の声なりありようを受けた社会の側の多種多様な意見には、
 好意的なものもあるし、否定的なものもあるし、個人攻撃も少なくありません。

 都合、当事者は、とにかく多種多様な方向から、分析され意見され、評価され、いじられるのです。
 卑近な言葉だと「さらされる」と言われます。

 そうして当事者は、大きなストレスにさらされます。
 これで心身を壊すことも珍しくありません。
 ※だから私聞風坊は体験発表に批判的なのです。

 特に冒頭の話にあるように、

 あの人は当事者かどうか? というその人のありようそのもの(属性)に対して批判が相次ぐことが多くなっています。

 曰く、あの人は貧困者じゃない。アイツはひきこもりじゃない。あの子は不登校じゃない。あの人は障害者じゃない。・・・。

 ありよう・属性の否定は存在自体を否定すること。

 人の存在を否定する言説。
 
 ところが、それらの意見を言った人たちは自分の行為の責任は誰もとりません。
 
 そうなることを予想して当事者は自己を公開したのだから、自分たちに責任はない。
 当事者の自己責任だ。と言わんばかりです。

この項続く。
  


2016年07月20日

うちじゃない。と言えないのが家族です。

 仕事は、何事も職分というか領域があります。

 ここまではしっかりやるという、いわゆる守備範囲ですね。

 逆に言うと、それ以外の範囲はやらなくていいってことになってます。

 そこまではムリ!

 ってことからです。

 病院や、相談・支援機関も、この領分が決まっています。

 だから、ここまでは専門的な能力を発揮してしっかりやります。

 という境界があります。

 その境界を越すことについては、

 うちではない。

 となります。

 他をあたってくれ。
 よそに行ってくれ。

 って意味です。

 またなにかあったらいつでも来てください。

 も、同様な意味ですね。

 これ、ホントに「いつでも」じゃないんです。
 たいがい開業日中で予約した日時にって意味ですね。

 さて、視点を変えて、家族はどうでしょう?

 うちじゃない。
 って言えるでしょうか?

 また来週会いましょう。
 なにかあったらまたおいでください。

 なんて言えません。

 いつでもどこでもアテになる関係であると同時に

 どうしても関わらないといけない宿命である。

 家族にはそんな面もあります。

 支援の立場にある者は、

 この替えの利かない、
 ある意味受け入れる以外にどうしようもない
 家族の立場に思いを寄せる必要があるでしょう。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)発達障害ニート

2016年06月07日

伴奏するような支援がいいな

 不登校・ひきこもり・ニート・生活困窮など、いわゆる困難を抱える人の支援の仕方の話です。

 ざっくり言うと2種類あります。

 一つは指導型。

 一つは寄り添い型。

 正しいことをゆるぎなく指導するのが指導型。
ゆえに、上から目線、高圧的、威圧的、暴力的になりがち。
 
 一方で、相手の気持ちややりたいことにそって支援していくのが寄り添い型。
ゆえに、横から目線(時に下から)、あれしろコレしろと押しつけないので優しい感じ。

 さて、この寄り添い型、ときどき伴走型と言われたりします。

 実は、私聞風坊は、この伴走型の言い方が少し嫌なんです。

 だって、基本、走ってるでしょダッシュ

だから、なんだか息苦しい。大泣き

 そこで、これに代わる言葉をあれこれ考えてみたのです。

 で、思いついたのが伴奏型

 歌を唄う相手に併せて音楽やコーラスを奏でるのが伴奏。

 昔、ギターやピアノの生演奏で歌った経験がありますが、私のふらつく調子に寄り添って演奏してもらいました。
 や~助かった。そして楽しかった。

 節回しが変わったら、節を合わせ、

 リズムが変わったら、それに応じ、

 歌詞を忘れたら、一節前のタイミングで歌詞を教えてくれて、

 相手の息に合わせ、ときにリードして、相手が何かすることをサポートする。

 そんな伴奏型の支援がいいなと思っています。


   


2016年04月15日

ステップアップって、失礼だよ!

 支援職としてそこそこの年数を過ごしている私聞風坊ですが、

 どうしても、気になるフレーズが、いくつかあります。

 その一つがステップアップ。

 支援機関では、フツーに使われる言葉。
 国や自治体の政策でもフツーに使われる言葉。
 だから、支援される方もフツーの感覚で受け止める言葉。

 ステップアップ。
 この言葉の前提として、
 支援される方、つまり当事者本人は、明らかに、
 下のステップにいます。

 誰より?

 国や自治体が想定するあるべき状態より、
 支援者より。

 それはつまり、
 フツーの人より下と言ってるも同じ。

 見下しと侮蔑の構図。
 それは、ステップアップを目指す支援現場の構図。

 支援と言いながら、あり得ないほど相手に失礼なことをしてるってことに気づくことは大事だと思っています。
   


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のことニート

2016年03月08日

ニートの就活セミナーのこと

 以前、ニート当事者の立場から、働くことについてのセミナーが開催され、

そこに、こそ~っと行ってきたことがありました。

 就職セミナー、
 ニート向けセミナー、
は、いずれも就労支援者側が開催するもの。

 だから、目線は社会の側から。
ということで、社会参画してない人に対しては、どうしても上から目線になりますね。

 それは、ニート当事者の心となんかズレてるということで、ニート当事者の人たちが主催するに到ったのでした。

 1つのイベントを成し遂げるというのは、並々ならぬ努力がいります。
就労系のイベントはこれまた労力をたっぷり使います。
 私も長らく関わっていたのでよく知ってます。

 そんなこんなで、宮崎の若者の力強さを感じたのでした。
※もう、この感覚がオジサンですわガーン

 そしてやはり、ひきこもり系との違いを感じます。

 何かが違う。

 そう思ったのでした。

 何が違うか?

 ・・・キョロキョロ

 その答えは、

 問題意識が自己完結していない。
誰かと関わることをはらんでいる。

 自分の行為の先に、関わる人を布置している。


そんなメモを手帳に書いていました。

 ひきこもり系は、文字通り自分の個の世界にこもります。
だから、
 誰かと関わることを自分の意識から除外していることが多いのです。

 ために、
 自分なりの考えや解決手段にこだわりが強く、誰かと一緒に調整しながらやるという感覚はあまりない。

 ゆえに、
 自分の問題解決策や行為の他者への影響をあまり考えていないことが多い。

 自分の行為が、一体どういう影響を現実的に周囲に与えるだろうか?

 現実検討することはまれです。

 社会から遠ざかっているために、社会と現実的に折り合いをつける感覚が発達していないのかもしれません。

 一方で、

 あぁ、この人たちは誰かと関わることを前提にしているんだ。

 壇上のニートの人たちの話を聞きながら見ながらそう思いました。

 それでいて、やはり苦悩の中にいる。
世界に居場所を求めている。

 若者の苦悩の形は様々なんだと再確認したのでした。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のことニート


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