確認をせずにはいられない迫り来る気持ちは、昔安全が脅かされた経験から来るかもしれない話

2020年08月20日

ある思い(鍵を閉め忘れていないかきちんと閉めているか? 汚れているんじゃないか? など)が身の内に不意に生じ、

それに占領されて、不安でいっぱいになり、

(カギ締めチェックなど)ある行動を繰り返したり、(手洗いなど)長時間行なったりしてしまう状態になることがあります。

強迫神経症・強迫性障害と名づけられることもあります。

このうち、確認型とも呼ばれることがある

確認を何度もひっきりなしにやってしまう場合は、

心の根底に、

安全が確信できていない。

裏を返せば、

過去に、恐怖におびえる体験をした。

ことがあるのではないかと思いついたのでした。

今現在は、鍵が閉まっていなくても、なにか安全配慮の手落ちがあったとしても、
基本的に安全な状態なので、
恐ろしいことは起きないのですが、

起きるのではないか?!

という強い思いが身の内に不意にわき起こり、
それで、心も身体も占領される。
その思いにもとづいて(確認)行動してしまう。

その時、
心と身体の状態は、過去の危険な状況にいたときと一緒。
言うならば、トラウマのフラッシュバック体験。

このとき、
身の安全を確認すれば、少しは気持ちも和らぐような気がするので、

カギ締め、ガスの元栓閉め、または汚染の除去としての手洗いなどして、
危険対処、危険除去対策をして、
我が身の安全を確認するのかもしれません。

でも、何回やってもどうにも安全な気持にならない。
胃のあたりが重く、息もつまり気味で、鼓動は早く、落ち着かないという
心と身体が不穏な状態が続いている。

だから、同じ行動を繰り返す。

不穏な気持ちを解消するために、
鍵締め確認などの問題解決行動をとっても、不穏な気持ちは解消しない。
のならば、
その問題解決法は適切ではないのかもしれません。

ひょっとしたら、
意識を向けるポイントが「鍵」「身体の汚染」ではないのかもしれません。
本当は、怖いとか、あの時怖かったとかの「気持ち」なのかもしれません。

怖い気持ちを穏やかに見つめ、身の内に収めていると、
恐怖におののいた心と身体が次第と鎮まってくるものです。
呼吸に意識を向けるなどしつつ、感情の強さを調整する方法は有効です。

さてもう一点。
どんな時にこんな状態になるかというと、
なにかをし終えた後、
つまり、一段落した後、または思い出したときにこんな状態になりやすいようです。

それは、
なにかをした後、
何かに集中して一仕事終えた後、
とんでもないことが待ち受けていた経験から来るのかもしれません。

1日学校を終えて帰宅したら、両親が大げんかしていた、家の中がとても険しい雰囲気だった。
家で気を抜いていたら、突然なにか急を要するスゴいことを言ってくる。あんたが居ないときにこんなことがあったと伝えられる。

親の不始末の尻拭いを強要してくる。
迫り来る親。有無を言わせない気迫で。

など。

知らないところで、密かになにかが起きている。
そのしわよせは自分が引き受けねばならない。

気を抜いたとき、安全が脅かされた感覚に陥る。
気を抜くと、なにかが起きる。

だから、
あの時もっと配慮していれば、このヤバいことは防げたような気がしてくる。

どうにも自分がこの恐ろしい事態を引き起こしたような。
ミスをやらかしたような。

こんな自責と迫り来る恐怖感に取りつかれる。

これらのストレスから解放されるために、
食物をたくさん摂取したり、アルコール成分を摂取したり、薬物を摂取したりすることもあるでしょう。
でもそれらの方法だと耐性がついて効果が徐々に減ってきます。
摂取したときの喜びが減ってくる。
摂っても摂ってもストレスが解消されない。
代わりに身体を壊したり、社会生活を壊したりと害が増えてきます。

そのため、これら以外の、
安全でどこでもできて長い目で見て効果がある方法が推奨されています。

呼吸を整えて、呼吸を整えて、

思いが過ぎ去るのを

気持ちが静まるのを

見送る。

そうして、不安を抱えながらも冷静にやっていく。

昔のようなあんなに怖いことは今は起きないことを確認しながら。

何かが起きても、今なら自力で対処できるし、誰かに助けを求める力もあるし。
きっとやれるし。
と言い聞かせながら。
  


黙ってしまうのは心を閉ざすだけじゃなく頭を閉ざすからもあるような話

2020年08月08日

不意に黙り込む。

背中を向けて黙っている。

ふいっと立ち去る。

ということを相手がすると、

私たちは、

無視された、

馬鹿にされた、

嫌われた、

見捨てられた

と思うかもしれません。

言いたいことがあるなら言えよ!

何で黙り込むの!

無視しないで!

なめてんのか!

なんて大声出すかもしれません。

人がこんな行為をするとき、
言いたいことがあっても言わないのかもしれません。
心を閉ざして。

または、
言いたいことが思い浮かばないこともあるようです。
まるで、頭がシャットダウンした感じ。
頭を閉ざしてしまったよう。

人が不意に会話を止めるとき、
心を閉ざして交流を断つ場合と、
思考が停止して交流できなくなってしまった場合と、
の違いは簡単には判別できません。

さて、
トラウマを負った人は、身体が反応して、身動きがとれなくなることがあります。
そのときはもちろん、思考も止まります。

心を閉ざしているわけではないのに、
本当は声をかけたいのに、
優しく話しかけたいのに、
笑顔で会話したいのに。

言葉が出ない。
声が出ない。
黙ってしまう。
背中を向けてしまう。
立ち去ってしまう。

気持ちの底では、
関係をこれ以上悪化させないために、
相手をこれ以上嫌いにならないために、
好きでいるために!

黙っているのかもしれません。
背中を向けているのかもしれません。
立ち去ってしまうのかもしれません。

でも、そのことは思考が停止しているから本人にも分からない。
自分がなぜそうしているのかが分からない。
だから、
相手に理由を尋ねられても答えようがない。
いくら相手から優しく寄り添われても、同じ反応しかできない。

その結果、相手は誤解する。
自分のことを嫌いだと。
自分には心を開かないのだと。

一般的に、
心を開かない。
心を閉ざす。
そんなときは、
もうこの人になにを話しても意味がないと判断したから。
だから、もう心を閉ざしていまおうと意思が働いたから。

でも、
頭が閉ざされた場合はそうではありません。
何をしよう、こうしようなんて意思は働きません。
そんな余裕はありません。

考える間もなく、考えることもできずに身体がそう動いた。
言うなれば身体反射です。
自分の意思で自分の行動がコントロールできない状態。

心を閉ざしているという解釈は誤解かもしれません。
頭が閉じてしまったのかもしれません。

大脳辺縁系が優勢になって、大脳がうまく働かなくなった状態の解説でした。

  


トラウマを負うと恥を感じるとあるけれど

2020年07月30日

子どもの頃の虐待やトラウマのケアについて語られるとき、
よく取り沙汰されるのが「恥」の概念なんです。

虐待やトラウマを受けた子どもたちは、恥を感じているので、その点に特段の配慮が必要だよ。
という文脈です。

でも、虐待児童当事者を自認する私は、恥を感じていたかというとそうでもありません。
それで、長年、???な状態だったのです。

恥というのは、自分のことを恥ずかしい、情けない、世間に対して面目がない、なんて思う時の、あの身が縮む感覚、穴があったら入りたい感覚のことを言うのだと思っています。
時代劇などでお家の恥とか、カンフー映画で一門の恥なんてセリフがよく出てきますが、私にとって恥とは、名誉を傷つけた行為に対する感覚なんです。

もっと身近にすると、
道徳的にいかんでしょ! 的なことをやらかしたことを、
または、
大人気ないことをやらかしたことを
※怒りにまかせて子どもを怒鳴りつけて泣かせたとか。

あるいは
本来なら造作もなくやれることが気持ちがたるんでいたためにやれなかったことを、
※確認を怠ったばかりに洗濯機から水があふれ出してそこら中びしょびしょになったとか。

認識した際に感じる感覚でしょうか。

ところが、
ひどい目に遭っていた当時も、今になって思い返す際も、そんな感覚にはなりません。

どんな感覚かというと、
悔しい! 
これにつきます。

そしてなによりも、
自分が恥ずかしいという感覚はありません。
自分がなにか恥ずかしいことをやらかしたという感覚もありません。

なぜなら、
やらかしたのは親だからです。
恥ずべきことをしたのは親だからです。
そんな親の行動に怒りの感情はあります。
でも自分を恥とは思わないのです。

そんな親のことを愚かとは思いますが、恥とは思いません。
そう、私には恥の感覚がない。恥の感覚がない被虐待児だった。
どういうこっちゃ?
そんなこんなで、???だったのです。

そんなところに最近、
『児童期虐待を生き延びた人々の治療』という本に出会ったのでした。

これは、大人になった虐待児童のケアの本です。
大人の視点から説明があります。とても助かっています。
これまで子どもの視点の本は割とたくさんあったのですが、ケアを受けずに大人になった人向けの本はまずなかったからです。

一読して、
虐待やトラウマのケアでの「恥」のイメージが私のと少し違う感じを持ちました。
悔しいとか、情けないとか、自分の人生や過去の出来事に価値を置けない、未来を描けない感覚、
当時の無力感、自分のためになにもしなかったことなどを思い返す際の反省する感覚、
誇りに思えない過去、家族、自分、
など、だいたいのネガティブな自分にまつわる感覚を「恥」と捉えるようなんです。
ならば、よく分かります。
まったく腑に落ちます。

愚かな親を持った自分の人生を誇りに思えない≒恥じる。
そんな親に育てられた自分に不満がある≒恥じる。
誰かに自分の親を紹介するときに感じるあの不思議な感覚≒誇れない恥かしさ。
自分がこの人たちの子どもであると紹介するときの胸苦しさ≒自慢できない恥かしさ。
あの頃と同じようなことをしている自分を恥じる。
あの頃と変わらず親の顔色をうかがっている自分を恥じる。
いつまでも親に振り回される自分の人生を情けなく恥じる。
親に対して持っている怒りの感情をいつまでも抱いて暮らしている自分の生き方を評価できない。生き方を変えられない自分を恥じる。
標準的でない人生を送ってきた自分の一般社会での身の置き場に困る=恥じる。
なんて風に考えると、「恥」も納得がいくのです。

当時の感覚と言うより、
今現在、自分のことをどう認識しているかという意味で考えるようなんです。

究極、
自分は「恥」だ。
と思っているならば、これを虐待によってもたらされた負の影響として捉えるようなんです。

とはいえ、
ここまで理解がすすんでも、やっぱりどうにもしっくりこない感じが残ります。
それで考えたのです。
「恥」という漢字、または翻訳が合致しないんじゃないかと。

試行錯誤した結果、一つの結論に達しました。

「恥」というより

「辱」

の方がしっくりくる。自分的には。

屈辱

恥辱

侮辱

辱めを受けた歴史。
尊厳を奪われ、価値も置かれず、物扱いされた、
あの、無力ゆえにひたすら忍耐を貫いた頃を思い出したとき、

成長しては、
例えば、朝毎日幼稚園に行く。
またはランドセルを背負って小学校に行くなんて
世間の常識を教えてもらえなかったばかりに、
世間の常識を知らないばかりに、周囲から冷笑を浴びたとき、

思いやりを教えてもらえなかったばかりに、
友だちとの関わり方を知らないで、友だちを傷つけ友だちから傷つけられ、
周囲から嫌われたとき、
の感覚。

苦心惨憺屈辱を覚えながら社会常識を身につけ、いっちょまえの大人になった今、
ほめられないことをした自分、
到らない自分を思い返すとき、
の感覚。

それは、辱

侮辱、屈辱、陵辱、汚辱、忍辱、


栄辱とは、衣食足りて知ることらしいですが、
親からの屈辱的な関わりが少なくなってきて、
自力で衣食を充足できるようになった大人の現在、やっと栄誉と恥辱に思いをいたせるようになってきたのかもしれません。
今に到るまでに50年以上かかりました。

児童虐待は、これぐらい大きな影響を与えるのですね。


参考文献
『私は親のようにならない 改訂版 嗜癖問題とその子どもたちへの影響』
(クラウディア・ブラック著 斎藤学監訳 誠信書房 2004)

『児童期虐待を生き延びた人々の治療 中断された人生のための精神療法』
(メリレーヌ・クロアトル、リサ・R・コーエン、カレスタン・C・ケーネン著 金吉晴監訳 星和書店 2020)
http://www.seiwa-pb.co.jp/search/bo05/bn1001.html  


トラウマ反応で常に興奮してる話

2020年06月20日

トラウマ反応のうち、日常に影響を与える過覚醒についての体験に基づくざっとした私的解説です。
参考程度にどうぞ。

人は危機に接すると、
身体は危機モードに切り替わります。
身構え・闘争・逃走・フリーズなどのモードがあります。

特に、
ヤバイ!
そんな状況がしょっちゅうだった場合、
身体は、危機モードで暮らすことが通常になっているでしょう。
いつも危機モード。

危機モードは、
そこらじゅうに意識を向け、いち早く危険を察知する状態が基盤です。

見えるもの、聞こえるもの、臭うもの、味わうもの、皮膚で感じるもの、身体の内部で感じるものなどの中に危険の徴候を見つけようと必死な状態です。
この状態を過覚醒状態と呼びます。

だからか、
好みの映画やドラマは戦闘シーンや格闘シーンが多い物。
好きな本も結構強烈な内容。
甘ったるいきれいごとのドキュメンタリーよりも、救いようのない状況の実話を好む。
探していたのはコレだ! 求めていた刺激はコレだ! 的に。
危険いっぱい、アドレナリン出まくりで。

そのような状態なので、過去の記憶も、闘争や、攻撃や、被害などの、緊張場面を思い出しやすくなります。
それは、日常生活に不意に瞬間的に入ってくる形を取ります。
侵入症状またはフラッシュバックと呼ばれています。

また、人や社会や未来に対するイメージもその闘争的な緊張状態を反映したものになり、
攻撃や被害など争いのイメージを抱きやすくなります。

気がつくと、心臓がドキドキしたり、鼻息が荒くなったり、独り言でケンカしていたりしているかもしれません。
過覚醒によるイメージへの没入。
今ここの現実から離れた世界に意識があるので一種の解離状態といえるでしょう。

フリーズ状態の心拍が落ちて呼吸がゆっくりで意識がない解離状態とはちょっと違う解離状態です。

不快な状況をイメージしていて、闘争的なので、
無意識に、不意に、
自分の身体を叩くなどすることがあるかもしれません。
戦闘的な状態だからです。

そうしたら、少しスッキリする。
闘争モードが少しゆるむ。

ストレスなどで疲れがたまっていると危機モードに替わりやすいようです。
つらい現実から逃避する。
危険いっぱいの現実を回避する。
そんな意味合いがあるのかもしれません。

フラッシュバックが多くなったり、空想の世界に没入することが多くなったりしたら、
休息を取るようにすることが、いの一番の対策です。




  


心をゆるすと心もとなくなる話

2020年06月08日

心を開いて人と関わることに困難をおぼえる人は少なくありません。
私もその1人です。

心を開くと、そのときは楽しいのですが、
あとがいけません。

ものすごい恥の感覚や、
やらかした感覚や、
罪悪感というか、罪責感というか、
配慮のなさを悔やむ気持ちもあって、
もう、どうにもいたたまれなくなるのです。

心のちょうどいい開き加減が分からない感じです。

愛着障害として指摘されていることです。
人とくっつく際に、くっつき具合がよく分からない。

普段は回避・抑制して、
慎重に人と関わっているのに、

つい気がゆるんで、隙を見せて、うかつにも心を開いて、
密着してしまったばかりに、

後から、とんでもないことをしてしまったと心が戸惑い、
身体がそわそわしてしまう。

そんなん、どうってことないよ。
お互い様だよ。

そんな包摂・受容・優しい・養育的な関係により、
私のような困難を抱える人は、落ち着きを手にするようです。

  
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