トラウマを負うと恥を感じるとあるけれど

2020年07月30日

子どもの頃の虐待やトラウマのケアについて語られるとき、
よく取り沙汰されるのが「恥」の概念なんです。

虐待やトラウマを受けた子どもたちは、恥を感じているので、その点に特段の配慮が必要だよ。
という文脈です。

でも、虐待児童当事者を自認する私は、恥を感じていたかというとそうでもありません。
それで、長年、???な状態だったのです。

恥というのは、自分のことを恥ずかしい、情けない、世間に対して面目がない、なんて思う時の、あの身が縮む感覚、穴があったら入りたい感覚のことを言うのだと思っています。
時代劇などでお家の恥とか、カンフー映画で一門の恥なんてセリフがよく出てきますが、私にとって恥とは、名誉を傷つけた行為に対する感覚なんです。

もっと身近にすると、
道徳的にいかんでしょ! 的なことをやらかしたことを、
または、
大人気ないことをやらかしたことを
※怒りにまかせて子どもを怒鳴りつけて泣かせたとか。

あるいは
本来なら造作もなくやれることが気持ちがたるんでいたためにやれなかったことを、
※確認を怠ったばかりに洗濯機から水があふれ出してそこら中びしょびしょになったとか。

認識した際に感じる感覚でしょうか。

ところが、
ひどい目に遭っていた当時も、今になって思い返す際も、そんな感覚にはなりません。

どんな感覚かというと、
悔しい! 
これにつきます。

そしてなによりも、
自分が恥ずかしいという感覚はありません。
自分がなにか恥ずかしいことをやらかしたという感覚もありません。

なぜなら、
やらかしたのは親だからです。
恥ずべきことをしたのは親だからです。
そんな親の行動に怒りの感情はあります。
でも自分を恥とは思わないのです。

そんな親のことを愚かとは思いますが、恥とは思いません。
そう、私には恥の感覚がない。恥の感覚がない被虐待児だった。
どういうこっちゃ?
そんなこんなで、???だったのです。

そんなところに最近、
『児童期虐待を生き延びた人々の治療』という本に出会ったのでした。

これは、大人になった虐待児童のケアの本です。
大人の視点から説明があります。とても助かっています。
これまで子どもの視点の本は割とたくさんあったのですが、ケアを受けずに大人になった人向けの本はまずなかったからです。

一読して、
虐待やトラウマのケアでの「恥」のイメージが私のと少し違う感じを持ちました。
悔しいとか、情けないとか、自分の人生や過去の出来事に価値を置けない、未来を描けない感覚、
当時の無力感、自分のためになにもしなかったことなどを思い返す際の反省する感覚、
誇りに思えない過去、家族、自分、
など、だいたいのネガティブな自分にまつわる感覚を「恥」と捉えるようなんです。
ならば、よく分かります。
まったく腑に落ちます。

愚かな親を持った自分の人生を誇りに思えない≒恥じる。
そんな親に育てられた自分に不満がある≒恥じる。
誰かに自分の親を紹介するときに感じるあの不思議な感覚≒誇れない恥かしさ。
自分がこの人たちの子どもであると紹介するときの胸苦しさ≒自慢できない恥かしさ。
あの頃と同じようなことをしている自分を恥じる。
あの頃と変わらず親の顔色をうかがっている自分を恥じる。
いつまでも親に振り回される自分の人生を情けなく恥じる。
親に対して持っている怒りの感情をいつまでも抱いて暮らしている自分の生き方を評価できない。生き方を変えられない自分を恥じる。
標準的でない人生を送ってきた自分の一般社会での身の置き場に困る=恥じる。
なんて風に考えると、「恥」も納得がいくのです。

当時の感覚と言うより、
今現在、自分のことをどう認識しているかという意味で考えるようなんです。

究極、
自分は「恥」だ。
と思っているならば、これを虐待によってもたらされた負の影響として捉えるようなんです。

とはいえ、
ここまで理解がすすんでも、やっぱりどうにもしっくりこない感じが残ります。
それで考えたのです。
「恥」という漢字、または翻訳が合致しないんじゃないかと。

試行錯誤した結果、一つの結論に達しました。

「恥」というより

「辱」

の方がしっくりくる。自分的には。

屈辱

恥辱

侮辱

辱めを受けた歴史。
尊厳を奪われ、価値も置かれず、物扱いされた、
あの、無力ゆえにひたすら忍耐を貫いた頃を思い出したとき、

成長しては、
例えば、朝毎日幼稚園に行く。
またはランドセルを背負って小学校に行くなんて
世間の常識を教えてもらえなかったばかりに、
世間の常識を知らないばかりに、周囲から冷笑を浴びたとき、

思いやりを教えてもらえなかったばかりに、
友だちとの関わり方を知らないで、友だちを傷つけ友だちから傷つけられ、
周囲から嫌われたとき、
の感覚。

苦心惨憺屈辱を覚えながら社会常識を身につけ、いっちょまえの大人になった今、
ほめられないことをした自分、
到らない自分を思い返すとき、
の感覚。

それは、辱

侮辱、屈辱、陵辱、汚辱、忍辱、


栄辱とは、衣食足りて知ることらしいですが、
親からの屈辱的な関わりが少なくなってきて、
自力で衣食を充足できるようになった大人の現在、やっと栄誉と恥辱に思いをいたせるようになってきたのかもしれません。
今に到るまでに50年以上かかりました。

児童虐待は、これぐらい大きな影響を与えるのですね。


参考文献
『私は親のようにならない 改訂版 嗜癖問題とその子どもたちへの影響』
(クラウディア・ブラック著 斎藤学監訳 誠信書房 2004)

『児童期虐待を生き延びた人々の治療 中断された人生のための精神療法』
(メリレーヌ・クロアトル、リサ・R・コーエン、カレスタン・C・ケーネン著 金吉晴監訳 星和書店 2020)
http://www.seiwa-pb.co.jp/search/bo05/bn1001.html  


応援なしなので自分本位にやってきた話

2020年06月16日

基本的に親は自分のことを応援しないので、

自分がやりたいことは、自分の勝手にやってきていました。

自分本位で。

目的本位に。

応援があろうがなかろうが、自分が決めたやりたいことはやる。

経験的に、親が自分を応援しないことは明確で固く予測されるのので、
親から応援されるのを待っていたらなにもデキないまま一生を終えてしまうから。

応援はない代わりに邪魔は入ることはあるが、それは織り込み済みでやる。

応援がないから、全部一人でやるのだから、

やれることには限界があるけど、

常識外れなこともあるけど、

じっとしててもいいことはないから、

気合いを入れて見知らぬ世界に飛び込むけど。

やってみただけの価値はあるから。

得るものはあるから。

出会った人に感謝できるから。

やりたいことは一人でもやる。

一人でやる。

そんな思いでした。

だから、他者からの承認欲求はあんまりないんです。
誰からもほめられなくてもやるんです。
自分が決めたことは。

私の個人的な話でした。
  


卒業式や入学式への思い入れがない話

2020年06月04日

新型コロナウィルス感染拡大予防のために、
今年2020年の卒業式や、入学式が中止や、形を変えての実施など、さまざまな影響を受けました。
中止のニュースに心を痛めたり、一生の大切な思い出となるべきことを取りやめるなんて! と怒りすら表明する人たちもいました。

そんな世間を、私は少し心に距離を置いて見ていたのでした。

卒業式や入学式っていうと、

思い出のいっぱいつまった学校生活を終える卒業式。

これから始まる新しい学校生活の第一歩である入学式。
希望を胸に晴れの入学式。

みたいな感覚が社会一般の感覚みたいです。

でも、私は違います。

卒業式も入学式も学校生活で行われる普通の集会。
いわば朝礼のような感覚でした。

だって、
卒業したからといって、卒業式をしたからといって何が変わるというのだろう。
何も変わらないじゃないか。
そんな思いだったからのように思えます。

思い出がいっぱいつまった学校生活だったかどうかについては、
楽しいことや悲しいこと悔しいこと頭に来ること感謝していることはたくさんあります。

卒業というのは、それらができなくなることを意味しているのでしょう。
だから悲しい。涙するほどに。

でも私は、
卒業式があってもなくても、思い出・経験は経験だから。
恩師や友人に会いたかったら会えばいいし、会えないなら仕方がない。
会うほどのこともないなら会わなければいい。
そんな風に考えていたようです。
なんてクールなんでしょう。
これをリアリストというのでしょうか。

きっと、
いずれ別れる・離れることを大前提に学校生活を送っていたからでしょう。
いつかはみんなサヨナラする。
そんな感覚。

そもそも、卒業することがおめでたいとは言えないから。
おめでたいと言えるような暮らしはしていないから。
何かが終わって新しい何かが始まる。
そんなことはないと思っていたから。

今までもこれからもどうしようもなくずっと悪いまま。今がそうだから。
そんな感覚だったからのようです。

このことは、
入学式についても同様です。
式があったからなかったから何がどう変わるというのだ?
何も変わらない。

この先、
自分の希望が叶うとも限らない。
学校生活をいつまで続けられるかも分からない。

安穏とした夢や希望や予測を持っていない私は、入学式に何も意味を見出していませんでした。
むしろ、ちゃんと入学の手続きが済んでいるかの方が気になっていたのでした。
うっかりミスが多いんです。

そんなこんなで、
卒業式、入学式、終了式、修了式、始業式。
儀式が中止や変更を求められることがとても落胆や悲しみをともなう大きな話題になっている世間に対して、
とても冷ややかな思いなのでした。

そして、そんな人は私以外にもわりと多くいるんじゃないかなと密かに思っているのでした。

蛇足
ちなみに給食に対しても同じような感覚です。
おいしく食べたのですが、大人になって、懐かしい献立について話題にするほどの気持ちの盛り上がりはありませんの。
揚げパンはおいしかった。とクールに記憶を言葉にする感じでしょうか。

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと過去の出来事

自責の念が強い子どもだったような話

2020年05月31日

失敗のうち、
自分の気遣いが至らなかったこと。
自分の考えが及ばなかったこと。
振る舞いを知らないばかりに周りに迷惑をかけたこと。
注意を怠って優しさに欠けた言動をとったこと。

を繰り返し繰り返し反省し、自責の念に駆られ 恥じ入り、身もだえし、自己嫌悪に陥っていた経験がたくさんたくさんあります。
子どもの頃。

大人になった今でも。

反芻思考というのですが、まったく今後に活かせない反省っぷりなのです。
ただただ自分をいじめ、辱めるためだけの反省です。

だから、
まったく意味がない。
にも関わらず繰り返し繰り返しやっている。
やめようにもやめられない。

なぜなんだろう? どうしたらやめられるんだろうと長年悩んできました。

最近、ふと思い至りました。

責任のある立場にあるときに、こういう状態になりやすいと。
指導的な、範を垂れるべき、リーダーとして言動に配慮が求められる立場にあるときです。

子どもなのに、そんな立場にいました。
アダルトチルドレンの家族の責任を負う役やヤングケアラーと呼ばれる立場がそれに当たるかもしれません。
大人からの過度な要求に応えねばならない立場です。

責任のある言動をせねばならない大人になった今では、当たり前と言えば当たり前の立場ですが、
でも一般的な大人よりはちょっと責任を負い過ぎている感は否めません。

普段、自分に厳しい倫理的な要求を課しているので、
気を緩めた場合に、後からこっぴどく自責するのでしょう。
役目を放棄した! 
責任から逃れた!
みたいに。

普段、責任を負いすぎているかもしれない。
ということで、普段少し気を緩めてもいいかもしれないなと思ったのでした。

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子どもを利用する親とそんな親を利用する子どもの話

2019年12月25日

 親の子どもの利用法。

 跡取り。つまり自分たちの保全。

 自分たちの面倒をみる。

 手下。

 気持ちのはけ口。



 そのために子どもを作った。


 ならば、こちらも親を利用させてもらう。
 それでイーブン。

 子どもの親の利用法。
 唯一。

 自分を養う。
 ※生きさせる。


 そのための約束事。

 ヒドい仕打ちをしていい。


 この契約の終わり。

 どちらかが終わりを言い出したとき。


 愛情で結ばれていない親子。

 利害関係でのみの親子。

 利用価値があるならば親子。

 なくなったら契約解消。関係消滅。
 緊張感ある親子関係。
 安らぎのない親子関係。

 お互いに利用し合って数十年。

 子どもがこの契約の終わりを告げた。

 ひきこもることで。


 自分の原罪感の根源が親しい人を利用することだと知った。