2015年12月20日

当事者は誤解されている 3

 前記事の続きです。

 当事者の語りは、聞き手が聞きたいことを中心に語るので、
 聞き手が聞いたことをもとに、その当事者のイメージが固定されるのでした。

 例えば、
 好き嫌いばっかりの子

 非行少年

 社会の被害者
   または極悪な加害者

 当事者のイメージは、聞き手の関心に沿って形作られます。
そして、
 当事者は、聞き手が形作ったそのイメージにもとづいて、関わりを持たれます。

都合、困難を抱える当事者は、
 学力に困難があるというイメージを持たれたら、学力しか手当てされない。

 就労に困難があるというイメージを持たれたら、就労のことしか手当てされない。

 精神的・心理的に困難があるというイメージを持たれたら、心理のことしか手当てされない。

 社会的な問題から困難が生じているというイメージを持たれたら、社会的な手当てしか関心を持たれない。

 こんな状況になりがち。

 当事者という一個人、
一人の人間は多面的です。

 それは、
多面的な問題、課題を持っているということ。

 そして、
それらは絡み合っています。

 語っていることは聞かれていることなのです。

 聞かれないことは語れません。

 私たちは、その人の語りをもとにその人のイメージを形作り、関わり方を決めます。

 その語りは、私たちが聞く耳を持っていることについてに限定される。

 つまり、
聞き手によって語りは変わる。
 都合、当事者イメージも変わる。

 そのことを忘れてはならないと思っています。

この項終わり。

参考書籍
『関わることを考えよう ボクたちはこうしてほしいんだ。』(拙著)


大阪近隣の方は、NPO法人わかもの国際支援協会さんが拙著3冊とも取り扱って下さっています。ご希望の方は、どうぞご連絡あれ。
http://wakamono-isa.com/

  


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2015年12月18日

当事者は誤解されている 2

 前記事の続きです。

 当事者の語りは、聞き手が聞きたいことを中心に語るので、
 聞き手が作り上げた当事者像、つまり虚像が市民権を得るのでした。

 もし、

 親のように、聞き手が飲食の問題に関心がある場合、
 どんなものを飲んだか、ちゃんと食事をとっているかについて語ることになります。
 そうすると、当事者についてのイメージは、飲食の問題を中心に形作られます。

 「あん子は、ピーマンを食べん子じゃ。さっき聞いたらまた今日も残したって言いよったわ」
 「好き嫌いはいかんねぇ。だ、オレが好き嫌いせんごつ言っちょくわ」

 非行指導者のように、聞き手が暴力に関心がある場合、
 どんな時にキレるか、そして社会的に許されない行為を中心とした話をするでしょう。
  当事者のイメージは、非行不良行為をする人として形作られます。

 「また、やったげな。ま、アイツならやりかねん」
 「じゃわ、そういやこん前もやりよったわ。まこち、あんガンタレが!
 
 ジャーナリストのように、聞き手が社会問題に関心がある場合、
 どんな風に社会から害を被ったのか、または社会に害を加えたのかを語るでしょう。
 当事者のイメージは、被害者か加害者かのどちらかに単純に割り振られ形作られるかもしれません。

 「なんの罪もないのにこんなにひどい目に遭ったかわいそうな人」
 「社会が悪いからこんな目に遭った被害者」
 「この人があんなことをしたのは社会の不寛容のせいだ。加害者と言うより被害者だ」

もし聞き手が、
 教師のように学力に関心がある場合、

 就労支援者のように就労に関心がある場合

 カウンセラーのように心理に関心がある場合、
 
でも同様でしょう。

この記事続く。

 参考書籍
『関わることを考えよう ボクたちはこうしてほしいんだ。』(拙著)

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと本の紹介

2015年12月16日

当事者は誤解されている

 困難を抱えている人という意味で当事者という言葉を使うとして、

 当事者は誤解されている。

と思うことがしばしばあります。

 それは、どうも当事者が自分を語る場面で本音を語ることができていないからのようです。
 本音が語られていないから、本音とは違う当事者の語りをもとにした当事者イメージが誤ってしまう。

そんな気がしています。

 なぜ、
当事者は本音を語れない。
 と思うのでしょう?

 その理由の一つは、聞き手(含む主催者)にあると見ています。

 聞き手は、自分が聞きたいことを当事者から聞きたいからです。
 それ以外のことはあまり熱心に聞かない。

 都合、当事者は聞き手が聞きたいことを中心に語ることになります。

 その結果、当事者はその語ったことをもとに理解され、人々に周知されます。

 それは、その当事者の語りたいことの一部でしかないのに、しかもそれはその人の人生の一部分を語っただけなのに、
 その語りで、当事者の全体が表現されているかのように。

 あぁ、あの人は、そんな人なんだ。
  語りを聞いた人は、こう思います。

 その人らしさは、周囲の聞き手によって形作られるのです。
本当の当事者の代わりに、聞き手が作り上げた虚像が市民権を得るのです。

 そうしていつの間にか、
 あの人は、この語りしかしない人なんだ。
   これを語りたい人なんだ。

 そんな聞き手の思い込みが生じ、それが聞き手の世界に常識として広まります。

この項続く。

参考書籍
『関わることを考えよう ボクたちはこうしてほしいんだ。』(拙著)

  


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2015年09月28日

湯浅誠さんの「溜め」について 2

 前記事の続きです。

 先日、湯浅誠さんの『貧困襲来』(山吹書店 2007)を始めて読んだのでした。

 この中で、「溜め」の概念が提示されています。
 氏は、人が生きていくには、お金や人間関係や自信などのいろいろな「溜め」が必要だと言います。

 「溜め」は自分を包み、
 外界からの衝撃を和らげ、困った時に手助けしてくれる、
 衝撃緩和材であり、力の源となる。
ということです。

 これ、私が以前から指摘しているPAC三重円モデルと意味するところは一緒なんです。


 ざっくり言うと、
「親・P」が「溜め」として機能していると、人はわりかしスムースに生きていける。
 のです。

 だから、自分の中の「親」を育てるのですね。

 まったく異なる分野からの意見の一致を見て、
ご機嫌な聞風坊でした。ニコニコ

この項終わり。

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)交流分析本の紹介

2015年09月26日

湯浅誠さんの「溜め」について

 だいたいにおいて、ブームが沈静化してから、それにアクセスするという

典型的な日向時間を採用している聞風坊です。

 先日、湯浅誠さんの本を始めて読みました。
『貧困襲来』(山吹書店 2007)です。
 10年近く前の本ですね。

 実は2、3年ほど前に氏の講演を聞いたことがあります。
そこでは、
 戦うのは効果的ではない。
 との趣旨の発言がありました。

 それを聞いて、当時は、
 なるほどそりゃそうだ。
 っていうか、なぜそんな当たり前のことをしみじみ言うのかしら?
 と思ったのですが、
 この本を読んで意味がよく分かりました。

 氏は、戦ってますグー

 国や福祉行政に対して怒っています。
 攻めよう! とまで言っています。

 そうして社会を変えようとしてきたのですね。

 その方針を大きく変更したのですから、
マイノリティーの権利擁護運動の難しさを確認した思いです。

この項続く。
  


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2015年07月28日

ヤンキーについての本を読んだのでした。2

 『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』
     (斎藤 環 角川書店 2012)を読んだ感想の続きです。

 さて、私聞風坊がこの本で特に興味を持ったのが、
ヤンキーは女性型の関係を築いている。という主張です。

 人間関係の築き方には、
男性と女性で傾向が科学的に指摘されているそうです。

 男性は、一定の思想があり、ルールがあって、それに基づいて関係を築く。
 女性は、関係性を重視した関係の築き方をする。

 男性は、モノや思想などを共有できる人と仲良くなりたがり、だから共有できない人とは関わらないし、共有できなくなったら関係を断ちやすい。

 女性は、とにかく関係を存続すること(そのために嫌われないこと・寄り添うこと)を重視するので、関係を断つという選択を好まない。

 そう考えると、ヤンキーは人間関係をものすごく大事にするので、女性型の関係性でコミュニティを作っているとなります。

 確かに、人間関係に熱い人たちが多いようです。経験的に知ってます。

 ひきこもる人に目を向けると、関係を断つことが習い性となっています。
これは男性的。
 実際こもる人は男性が多いという傾向があります。

 となると、こもる人の志向は、ヤンキー的な生き方とはなじまないのかな。
と思ったのでした。
  


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2015年07月26日

ヤンキーについての本を読んだのでした。

 『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』
     (斎藤 環 角川書店 2012)を読みました。

日本人は、なぜかヤンキー的なものに惹かれる。
その理由を、いろいろな方面から分析した本です。

 確かに、私の青年期もヤンキーは多かった。
私自身、
 好きなマンガはヤンキー烈風隊でしたし、
 格闘技やってたんで、行動重視な意識を持ってましたし、今でもやはりそうです。

一言でいうと、気合いで物事をなんでも片付けるのですね。

 そんなだから、日本人がヤンキーに惹かれる感覚もなんとなく分かります。

著者の主張の一つは、

 ヤンキー的な生き方に惹かれる。

とのこと。

 何をしたか、何をなしたかという結果ではなく、どんな風に取り組んだかという、心の姿勢に惹かれるというのです。


 社会常識・ルールに囚われない、自分の好きなことをする。
それでいて、理想と現実的打算との折り合いを上手につけて生きていく。

 そこら辺が魅力なのかもしれません。

 ひきこもる人たちはじめ生きづらさを持つ人たちは、この折り合いの付け方に苦労しています。

 この記事続く  


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2015年07月04日

今の私は生まれつきか適応か? 2 続き記事

 前記事の続きです。

 ピンカー氏の本を読むと、
 人は生まれつきとその後の学習によって今の自分が成り立っている。
 という当たり前といえば当たり前の結論に達するのでした。

 さて、今日記すことは、ブランク・スレート説の、
 人は学習次第で何者にも成れる。
 という考えについての私聞風坊による批判です。

 人には生まれつきの性質なんてない。
 人は、生まれてからの学習によって、何者にもなる。
 というブランク・スレート説の考え方は、ある意味、人間の可能性に大きな希望をもたらします。

 犯罪を行った人は、生まれつきではなく、犯罪行為を環境から学んだだけだ。
 だから、社会的に受け容れられる行動を学び直せばいい。
 世の中に、生まれついての犯罪者なんかいない。

 善行を為す人は、善行を為すように学習したのだ。
 だから、あの人を見習って、我々も善行者となろう。
 世の中に、生まれながらの善人はいないのだから。
   とりあえずゴミ拾っておくか。ニコニコ

 恋人や家族に暴力する人は、人間関係の結び方を暴力を通して学んだんだ。
 だから、暴力しない関係作りを学び直せばいい。
 世の中に生まれついての暴力的な人間はいないのだから。

 しかし、これらは、生まれつきの性質を無視する発想です。
科学的に、人には生まれつきの性質があることが証明されているとのこと。
男性には男性的な傾向があり、女性には女性的な傾向がある。

 男性は、性の特性から問題解決に積極的で、そのためにはときに闘争的で、いざとなったら攻撃すらいとわない傾向があるそうです。
 女性は、性の特性から問題解決は調和を優先させる方法を好み、争わないことを重視する傾向があるそうです。

 これらの特性は生まれ持ったその人らしさです。
 ですから、
 これら特性を無視して、教育をほどこし、学習を促進するということは、どんな意味を持つでしょう?

 その人らしさに価値を置いていない。
 その人らしさを無視している。
 その人を大切にしない。

ということになります。

 人は生まれてから、自己成長する存在だと私聞風坊は思っています。
そして人の成長に協力する存在であり、互いの成長を喜び合う存在。

 でも、だからといって、生まれつきの性質、特性にまったく配慮しないというのは、やはりおかしい。
 学習を促進するにあたっては、その人らしさを十分に価値置いた思いやりが必要だ。
 そう思うのでした。
  


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2015年07月02日

今の私は生まれつきか適応か? 続き記事

 『人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か』 (2004 NHK出版 スティーブン・ピンカー著  山下 篤子訳 上中下)

について考えてみたことの補遺です。

 ブランク・スレート(空白の石版)論争の要諦を一言でいえば、

 人は、生まれつきの性質があるのか、ないのか?
ということのようです。

 これは、今現在の「私」「あなた」「あの人」「アイツ」「あの子」
の行動は、

 生まれつきの性質にもとづいているのか?
それとも
 親や教師や友人や、あるいは地域の習慣や国の文化などの環境に適応するために身につけたものか?

ということでしょう。

 例えば、何事か嫌なことが起きたとして、
それに対して、
 積極的に解決に取り組んだり、その状態から距離を置いて見守ったり、
 一人で問題に取り組んだり、誰かに相談したり、
するのは、
 生まれつきの性質のなせる業か、それともそういう環境で学んだせいか?

ということです。

 買い物をしておつりが違ってた叫び
ときに、
 その場で、指摘するか?
 言わずに、我慢するか?

 これは、
生まれつきの性質か、学んだせいか?
 著者は、学習の影響も大きいが、生まれつきの性質の影響も多分にあるだろう。と指摘しています。

一読者としての感想としては、
 そりゃそうだわね。キョロキョロ
 ある意味、当たり前と言えば当たり前の感覚。

 生まれつきの性質と、環境から学んだことの両方をよろしく調和させて今の私がいる。
今の私の行動はその両方の影響がある。

この記事続く。
  


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2015年06月30日

人生は生まれてからの学習のみで今がある? 2 続き記事

 前記事の続きです。

 今現在のその人の能力は、その人の学習による。
 とすると、誰でもオリンピック選手になれるし、誰でもノーベル賞並の頭脳明晰になれる。
 ということになります。

 でも、それは現実的にはムリ。
ゴールにたどり着くまでに、どれだけの学習、血のにじむような努力をせねばならないか?
 と考えると、この結論に達します。

 もしここで、
 人には持って生まれた性分、本性、向き不向きがある。
初期設定がしてある。


 そう考えるとどうでしょうか。
 初期設定にもとづいた、努力、達成目標、リスク管理ができるのではないでしょうか。

 例えば、花の美しさよりも、ミニカーの質感が好きという初期設定だとしたら、
将来いらぬ苦労せずに喜び大きく仕事できる職種が想像できるのではないでしょうか。

 ストレスに敏感だという初期設定だとしたら、うまくストレスに対処する方法を人生の早い時期に身につけるというリスク管理ができます。

 病気になりやすいという初期設定だとしたら、生活管理をしっかりやるようにして、健康に留意すれば、そうじゃない人よりむしろ健康に暮らせるかも。

 運動能力はそこそこあるけど、オリンピックは相当頑張らないと難しい。という初期設定だとしたら。
 歯を食いしばって、青春を棒に振ってオリンピックメダルを目指さず、日常的にスポーツに関わることでスポーツを楽しむ生活を送れるかもしれません。

 なにも初期設定ばかりに囚われて生きろと言っているのではありません。
人は変われます。

 それはそれとして、
 生まれてから努力相応に自分の能力は開発できるけど、本性に則った開発をしないと苦痛ばかりで、十分な成果が得られないことは、現実的に誰もが経験していること。

 無茶な努力、やみくもに頑張り続けることが、人生を台無しにすることがあります。
我が子の、
教え子の、
そして自分の人生を。
  


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