誰もボクを見ていない 2

2021年03月04日

ノンフィクション書籍
『誰もボクを見ていない なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(山寺香著 ポプラ社刊 2017)
の感想続きです。

以下、引用部分は17歳少年の思いです。


虐待・逆境体験は、少年の死生観にも影響を与えているようです。

被害者、つまり祖父母については、2014年、2015年、2016年、2017年・・・と、生き続けたかったのだろうか、と思います。p187


事件前に少年は、職場の先輩に、何のために生きているのか? と問うたそうです。
希望のない人生で生きることに疑問を持ったのでしょう。

こう考えると、
祖父母は、生き続けたかったのだろうか?
の問いは、
自分は生き続けたいとは思わないのに。
という自己省察から発せられたように感じます。

私も、
生きたいのか?
と自問することがしばしばあります。
うまく答えられません。

というのも、
私は未来を描くのが苦手だからです。
それは、
今この瞬間しか生きてこなかったからです。
この瞬間しか確実じゃないからなのです。
次は何が起こるか分からない。

だから、上述のように、
自分の望みは急いで達成するのですね。

未来の描き方が分からない。
描く手順を知らない。
そんな感じでしょうか。

少年も似た感覚を持っているかもしれません。
多くの被虐待経験者が持っているように。

そんな少年が、これからについて答えます。
社会に望むこととして、

できる範囲で自身の理想の社会と似た行動をしていただければ、と思います。平等な社会を望むなら普段から平等に物事や人を扱ってください。(中略)
嘘が嫌いならまず自分が嘘を吐かないようにして生きればいいと思います。優しい人を望むなら自分が誰かに優しくしていけばいいと思います。p189


として、私たち一人一人が行動することを求めています。

実は、少年たちは気づかれていたんです。多くの人たちから。
でも、救い出してはもらえなかった。
だから、一歩踏み込んでほしいと訴えます。
具体的には、

自己申告した少年少女のことはある程度強制力を持って保護してほしいと思う。当然親を想って自ら手を上げない子も居ると思う。そういう子はやはり周りの人間が見つけるしかない。p192


と、社会の方からアクションを起こしてもらうことを期待しています。
せめて助けてと手を上げた人は助けてあげてよ。手を上げられない人もいるからそこは気をつけていてくれよ。
少年の切実な訴えと感じました。

これからの自分については、

前例を作って、後ろにいるかもしれない奴(同じような境遇で追い込まれる子どもたち)を少しでも生きやすくしたいんです。p180


子供達のことも考えていきます。何故なら「世の中捨てたもんじゃないな」と″子供達″に想わせたいからです。それに″自分自身″に対して、も。p190


と、後輩への思いやりを著しています。

自分と同じ境遇の人への思い。
同胞意識を強く感じます。
会ったこともないその人たちのために、社会に訴える、道を作る。それが、生きがいになる。

私の当事者活動もその思いからでした。
同胞、まだ見ぬ仲間、後から来る人・後輩のことを思うときの喜び。

少年は「世の中捨てたもんじゃないな」と″子供達″に想わせたいとのことです。
きっと、少年自身がそんな気持ちになってきたのでしょう。

私は、
世の中「まんざらでもない」と自助グループの仲間と出会えて感じたのでした。
理想にはほど遠いけど、捨てるほどではない、まんざらでもない。
逆境体験者は、世の中への希望は、これぐらいがちょうどいいのでしょう。

そうして上告したものの、棄却され15年の刑が確定した時の思いも記されています。
このくだりに、15年の刑を「全治15年のケガを負ったようなモノ」とした喩えがあります。

この道を歩きなさいと言われ、もっと早く歩きなさいと言われ、周りの景色も見ずに着いた場所が全治15年p192


です。
自分の心境をビルから飛び降りることに喩えたくだりですが、これを私なりに解釈すると、

親の言うがままに、2、3階の高さから飛び降りる時と同じような恐怖を感じるところの、
嘘をつき、だまし、盗むという罪を犯すという怖いことも、だんだん大丈夫だと思えるようになってきて、

気づけば失敗したら即死の階から飛び降りようとしている。そしてそれさえも「別に大丈夫だよ」と感じている。そんな錯覚。p191


のために、ついに最大の罪を犯した。
となります。

本当はとっても怖いことで、だからやってはならないことなのに実行してしまった。
家族のためだと自己正当化し、折れそうな心を奮い立たせて・・・。

その結果、少年には、
親からそそのかされ追い詰められたとはいえ、最終的に罪を犯すと決断したのは自分自身であるので、刑罰としては15年が課せられました。
少年は、その後も罪の重さを一生負っていく覚悟のようです。

さて、
全治15年のケガのくだりの少年の述懐について引っかかる点がいくつもあるので、心情を察してみたいと思います。

まずは、少年が自分の立場についてどう考えているか? です。

誰も助けてくれない状況で、仕方なく親のいう通りにしてきた結果、自分だけが大ケガを負ったと解釈できるので、
この時点では、被害者なのかもしれません。

上告理由の「前例を作って」は、やむなく罪を犯したとしても助けが得られるという前例のようにも受け取れます。
それは、「後ろにいるかもしれない奴」へのメッセージである

出来ることならわざと3、4階の場所からケガをしてほしい。p192


とつながってくるように思えます。
重犯罪を犯したことでやっと救い出された少年だからこそ言える逆境からの脱出法でしょう。

でもこのやり方は望ましくありません。
そのことは、少年も知っています。
だから、大人にメッセージを投げかけます。

助かる為とはいえケガをさせるのはどうなんだと思うならp192


として、
上述の、自己申告してきた子どもは強制的に保護し、そうできない子どもは見つけてくれ、につながります。

整理すると、
飛び降りることを犯罪の喩えとするなら、
自分を被害者と認識している少年の願いとしては、

3、4階の場所から飛び降りるくらいの恐怖を感じる軽犯罪をやってしまった時に、見つけて、保護して、もうやめなさいと説諭して、普通の生活の道に軌道修正してほしかった。

せめて、
死刑もありうる重大犯罪の危機の時に、喩えるならまさに失敗したら即死のような恐怖を感じる高さのビルから飛び降りようとしている時に、見ていてほしかった。そして、危ないから降りなさい、やめなさいと犯罪を止めてほしかった、救ってほしかった。

のではないかと思います。

同時に、それが現実的にはなかなか叶わないことも経験的に分かっているようです。

だからか、
最終的に、期待は被虐待者・逆境体験者つまり自分自身に向けられます。
自分がしっかりしていればという自己責任も含めて。

本当は罪なんて犯したくない。でも、もうこれしかなかったんだ。
どうか、本当の思いを大事にしてほしい。p193


それは虐待被害・逆境中にある後輩へのメッセージでもあるようです。
自分の本当の思いを大事にすれば。
打開の道が開ける。
そう言いたいのでしょう。

ご飯が食べたい、寝る場所が欲しい、学校に行きたい、そう思うなら流れに逆らわないと手遅れになりかねない。
(中略)
見つけてもらうのを待っていたらやはり手遅れになりかねない。どうか少年少女も、周りの人間も、自身が起こすべき行動について考えてほしいと思う。p192


本当の思い。
これは、嫌だ、好きだ、やりたい、やりたくない。
これぐらい原初的な感情のことのように思えます。

というのも、この本には、
少年が勉強を渇望していたことがしばしば記されているからです。
親が次の転居先に移動するまで、しばらく在籍していたフリースクールでは勉強を希求していたそうです。
収監中も辞書の差し入れに重宝したみたいです。

勉強したい! 学びが好きだ! 嘘はつきたくない! だますのは嫌だ! 犯罪も嫌だ! やりたくない!
という「本当の思い」があったのでしょう。

実は、
私も勉強欲が強いんです。
上述の、進学の話は、決まった将来までの間の勉学は自分の好きにやらせてくれとの心の底の思いからでした。
※勉学すら交渉で勝ち取らねばならない環境はだったのですね。

こもっていたとき、シナリオの通信講座を受講したのですが、どうやら作文の勉強が一番したかったみたい。

勉強がしたい。
知識を得たい。
学校は夢のよう。気兼ねなく勉強できる。
教えてくれる大人がいる。

時間が許す限り
限られた時間の中で。
寸暇を惜しんで自分の望みを叶える。

現実的に、
できることを、できるときに、できるだけ、やる。

夢を追う余裕はない。
すぐ叶うもののみを求める。

いつ邪魔が入るか分からないので、
楽しみは奪われるので、
急いで、急いで、急いで!

早く食べる。
速く楽しむ。
速く考える。
すぐ取りかかる。
速く、早く、ハヤく、素早く。
日々毎瞬緊張。

私には今でもあります。
これらのことのいくつかは少年にも共通しているかもしれません。

この項、最終回3に続く

  
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誰もボクを見ていない 1

2021年03月03日

ノンフィクション書籍
『誰もボクを見ていない なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(山寺香著 ポプラ社刊 2017)
の感想です。
以下、引用部分(灰色枠内)は17歳少年の思いです。

自分が収監され報道されたことでたくさんの支援者が関わってくることについて、

大人に対しては、疑う心しかありません。自分(優希)に対して得なことを差し出してくる時はその後相手にはもっと大きな得があり、そのための小さな損をしているとしか考えられない。p175


とあります。少年は、
人が人に優しくするのは、損得を勘定した取引との思いのようです。

私聞風坊ももともとはこういう考えなんです。
人間関係は取引なんです。
心と心のつながりじゃなくて。

親が自分を養うのは自分が跡取りで将来的に親の面倒をみるからなんです。
子どもの頃、親から何度もはっきり言われました。
この条件の下に私は親の養育を受けました。

これは、
親は、私に養育を提供する。その代わりに跡取りがいることでの平安を得る。

子である自分は、跡取りとして親の世話を提供する。その代わりに養育を受ける。

という取引です。

これでwin-win

※ちなみにこの感覚は、周りの大人に対しても同様でした。跡取りだから優しく付き合ってくれる。かわいがってくれる大人たちって感じ。

とはいえ、
取引なので緊張感のある親子関係でした。
条件を満たさねば契約解除。
養育がなくなるのですから。

そのため私は、この契約の中で生きてきました。
そして、
したたかに交渉するすべを学びました。

進路について、最終的に親の望んだ進路に行くのだから、道のりは自分の好みに寄ってもらってと、親に交渉して高校進学先を決めたこともあります。

この頃から、私は人と交渉することが習い性になっています。
大人になった今改めて考えると、
どうも、
暗黙の気配りに基づく日本風の人間関係作りではなく、欧米風の契約に基づく関係作りが身についているようです。

自己責任や役目感についてのくだりがありました。

やったことは自分の責任と今でも思う。でもやっぱり心のどこかで正当化しようとしている。母親が言ったからあのときは仕方なかったと。申し訳ないとは、当然思います。p176


自分は何でもかんでも自分の責任なんだという癖があるみたいで、(中略)他の人に責任を押しつけるのが嫌だから自分自身でそれを背負って、その人たちのスケープゴートになろうとしているp176


私も、自分が生け贄になれば事態が収まるのならばそれもよし。
という感覚も持っています。
言われたから仕方がない。
という感覚も。

やむを得ないから自分がやる。
そんなもんだと割り切った人生。
嫌な役回りでもやる。
それが自分の仕事だから。タスクだから。取引条件だから。

誰も望まぬことをする兵士みたいなものだから。
line of duty.

今風にいうならば、寄り添うしかないんです。親に。
なぜなら、
親は寄り添ってくれないから。
きっと、
その力がないのでしょう。

親に任せていると事態が悪くなるばかりだから。
事態を収拾する人。
火消し役がいるんです。

スケープゴート。学習性無力感。諦め。奴隷。人生を身体を差し出す。生け贄。親に捧げる。親の分身。親の願いを叶える。親の道具。
自分の有り様を表現する言葉たちです。

少年は、収監後、支援を申し出てきた多くの人たちと交流しはじめたようですが、善意から自分に寄り添ってくれる人が現れると戸惑うみたいです。

人の裏には何があるか分からない、そんな考えで、人と話していても目の前に居る人のことを「この人は誰なのか」と分からなくなる時もあります。p185


私も、
こもっていて外に出だした頃、この経験を何度もしたことがあります。この人何者だっけ? とふと分からなくなるんです。
よく会っていつも笑顔で会話しているいる人なのに。
裏のない人たちだったからかもしれませんね。

少年も私も、
魂胆は言葉にしないで、巧妙に言葉を操って脅しをかけて自分の願いを叶える親とばかり関わっていた影響から、
人の言葉の裏にある魂胆、
人の笑顔の奥にある怖い企み、
に意識を向けるようになったのでしょう。

だから、
悪意が見つけられないときは、戸惑うのでしょう。

子育て関連の常套句に、
生きていてくれてありがとう。
生まれてくれてありがとう。
があります。

ふと思います。
そう言われてきた被虐待児童は少なくないのかもしれないと。

だって、
親が助かるんだもの。
子どもを利用できるから。
自分が楽できるから。

被虐待児童は、
ありがとう。
の裏に潜む魂胆を。
「次も頑張ってね親の私のために」
を感じ取っています。

そうしながらも、生きるために親と関わる。
だって、
誰も助けてくれないから。
この親以外、自分を気にかけてくれないから。
それが現実だから。

少年は、支援を申し出てきた人たちに対してすら生じる自分のそんな状態をどう克服していったかというと、

今現在繋がりのある方を多少なりとも信用してみたりしなくてはいけません。裏切られ傷付く覚悟をしてです。p185

とのことです。

私もとにかく不信感や恐怖感は拭い去れないけど、人と関わり続ける努力を続けました。
とりわけこもってから後、外に出だした頃はそうです。

そうして、
たくさんの善意や行為やいたわりを浴び続けました。裏切られることはありませんでした。
どちらかというと不義理をしたのは私の方でそんな私を皆さん優しく甘えさせれくれました。

そんな少年は、
人から傷付けられることを恐れる一方で、また自分が人を傷付けてしまうことに怯えているようです。

誰かに傷付けられることを。誰かを傷付けることを。一人ならそんなこと悩まずに済んだのに、と思いますp187


人と関わる際は、
傷つき傷つけられるリスクが現実的にあります。
でもそれって、ひどい傷を負うレベルを意味しているのではありません。
ショックを受けたという程度です。これが暗黙の了解。
だって、
基本的にお互い様で配慮し合って社会は成り立っていますもの。

それぐらいなら、耐えられる。
だから人と関われる。
これが一般常識。フツー。コモンセンス。

でも、
この共通理解の枠の外で生きている人たちがいます。
きっと一般とは基準が違うのでしょう。

むしろ一人の方がいいと思って、ひきこもっている人たちなどは、
刃傷ほどの心の傷が基準になっているのかもしれません。
それほどひどい目に遭ってきたのですね。

この項続く。
  
タグ :犯罪虐待


誰から見つけられるかでその人の人生が決まる話 2

2021年02月27日

続きの記事です。

犯罪少年の苦悩苦境は、司法領域で発見され、対応がとられたのでした。

この経験から私たちは、
苦境にいる子どもを発見するだけじゃなく、その子を救い出す行動が必要であったのだと発見したのでした。

さて、
児童福祉に関する強い力を持っている児童相談所で発見されたら、児童養護施設で適切な養育を受ける場合があります。

児童福祉の専門家から発見され、

被虐待児として認められ虐待環境から救出され、親の代理として社会から養護を受けることになります。

社会には、児童を守り育む責任があるからですね。

その子の親・保護者に代わって適切な養育をしよう!

と、大人たちが行動します。

ゆえに、
社会の責任で、専門のスタッフが適切な養育を行います。
社会的養護と呼ばれています。

国が子どもの最善のために養護するのです。
だからこれで、
万事解決。万事順調。

となりそうですが、実際はそうはいかないようです。

児童養護施設で育った3人が、児童養護施設の実情を伝え、入所児童に対するメンタルケアが必須になるように運動が展開されています。
当該サイト
「THREE FLAGS 希望の狼煙」です。
URLは
https://three-flags-kibou-noroshi.jimdosite.com/

保護されて、適切な養育を受けたにも関わらず、精神的心理的傷は癒えておらず、

そのために社会でやっていくに際して、いろいろな苦労をしていることから、運動しているとのことです。
※施設入所した被虐待児が心理的ケアを受ける。こんな当たり前のことも実施されていないんですね日本では。

当該書の主人公とは違い、
命の危険があるとして、発見保護され、その後は比較的まともな養育を受けた人たちですら、心の傷については十分に発見されていないようです。

私個人の胸のうちを記せば、
一時期とはいえ、保護されて、比較的まともな大人たちから養育を受けて、やっていいこととか悪いこととか基本的人権とか、世の中の常識をある程度知る、経験ができると言う点から、保護された人たちのことを恵まれていていいなぁというのが正直なところです。

寄る辺がないということを知ってもらっている。
職務上とはいえ、保護の措置が終わればこの先苦労するだろうと思いをいたしてくれる人もいる。
発見してもらって、保護してもらって、養育してもらっているからです。

虐待後遺症が予見されるにもかかわらず、
そのケアが必須でないなど国の施策としては不十分であり、
18歳になると支援が終わり、
世間に独り放り出される状況になってしまうという不完全な制度であったとしても。
寄る辺ない状況に戻ってしまうとしても。

一時的とはいえ
救い出してもらったから。
まともな扱いをしてもらったから。

この、社会的養護を受けた子どもの数はどれくらいかというと、
4万5000人だそうです。※報告書作成時点で。
(令和2年10月 「社会的養育の推進に向けて」 厚労省HP掲載)
URLは、
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/syakaiteki_yougo/index.html
(「社会的養護とは」の項のPDF資料)

一方で、児童相談所での児童虐待相談対応件数は、
19万4000件だそうです。※令和元年中の速報値
(「令和元年度児童虐待相談対応件数(速報値)」 厚労省HP掲載)
URLは、
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/dv/index.html
(「児童虐待相談対応件数の動向」の項のPDF資料)

4万5000人は、報告書作成時点現在で養護している人数で、
※数年前に発見されて現在まで養護している人数も含む。

児童相談所の相談件数は1年間の件数なので、

お互いを比較して何分の一だとか何倍だとか言うことはきませんが、

苦境にいることが発見され公的支援機関に認知された子どものうちの、
だいぶ少人数が苦境から保護・養護されているみたいです。
※当該書主人公少年は、児童相談所が介入していました。

ということは、
実のところ、
当該書の主人公のように、
苦境にいることは発見はされ児童相談所にも認知されているけど、

苦境から脱するサポートが不十分で、
ゆえに、まともな養育を受けずに大人になったところの、

児童福祉の恩恵に十分に与っていない被虐待児童、逆境の中で成長して行っている子どもたちが、日本にはとても多くいるということです。

さらには、
人々から発見されていても、
児童相談所などの支援につながっていない子どもや、

発見すらされていない子どもも含めると、

日本では、
ものすごい数の子どもたちが苦境に中で暮らしていることが想像できます。


それは、
発見されていたとしても、十分なサポートが提供されなかった。
あるいは、
発見されなかった。

その状態で子ども時代を過ごし、
大人になった子どもたち、親になった子どもたちが多くいることを示唆しています。

そんな大人になった子どもたちが立ち上がった運動もあります。

大人の未来 ~虐待サバイバーが生きやすい社会へ~
当該サイトURL
https://otona-mirai-55.jimdosite.com/
「(仮)児童虐待被害者支援法」の制定を目指しています
~支援法に盛り込みたい支援~
①虐待の後遺症(複雑性PTSD等)のトラウマ治療の無償化もしく は保険対象化
②トラウマ治療ができる専門的治療者の育成
③経済的支援(就労支援や障害年金など)

とのことです。

私聞風坊は、こちらの属性なので、訴える内容がよくわかります。
ほんとに苦労してますもの。

治療者や理解者を探し出すのに一苦労ですし、それにはお金がかかるのだけどお金を稼ぐための就労で苦労するし、

そもそも、そこまでしてまで生きる意欲はないし、でも苦痛は24時間感じてるしで。

誰も救い出してくれない自分でやるしかない相変わらずの混沌の中で生きていますもの。

とはいえ、社会的に養護された人はこんな苦労をしないかというと、まったくそんなことはなくて、
この点、ほとんど同じ苦労をするみたいです。

寄る辺ないをキーワードにNHKが特集していますが、
両者同じく寄る辺がないんです。
社会でのやって生き方も教わってないんです。
だから、生きづらいんです。

虐待・逆境体験した子どもたち、大人になった子どもたちは一様に生きていくことに苦悩しています。
痛みを抱えています。

発見。

されるかされないかで大きな違いが生じる。
特に適切な力を持った人に発見されるかされないかで大きな違いが生まれる。

つらつらと記してきて、最後に一つ。

アリス・ミラーは、虐待は魂の殺人の旨指摘しています。
『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(アリス・ミラー著 山下公子訳 新曜社刊) 
出版元サイト
https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455681.html

生命の危険に注目している支援者・支援機関から発見されると、比較的すぐ保護されるような気もします。

魂の危険に注目している支援者・支援機関がいてくれたらいいのに。
そう思うのでした。

この項終わり。
  


誰から見つけられるかでその人の人生が決まる話 1

2021年02月26日

なにかしらで困っているとき
や、
誰かの手助けがいるとき
に、

自ら誰かに助力を求めたり、
または、
誰かから助力の申し出があったりして、

困難が解消されることは一般的です。

ところがこの際、
(あなたが)助力を求めた相手、
または(あなたの力になろう)と助力の申し出をしてきた相手

の立場によって、

困難が解消されるかどうかが決まることは少なくありません。

解消するかどうか、
相手次第の面があると言うことです。

どういうことでしょう?

”誰に”発見されるかで結果が違ってくるように思えるからです。

例えば、
スポーツの才能、勉学の才能、アートの才能、職業上の才能・・・などなど。
発見されたからこそ、その才能が開花し、人生の往く道が決まることが多くあります。

才能を見出し、才能を開花させ、伸ばし、そして次のステップへつなげられる人に発見されれば、存分に自分の才能を発揮できる人生を送れるでしょう。

また例えば、
虐待や逆境体験から逃亡した未成年が、夜露をしのごうと他人の住居に侵入して警察に捕まると、

非行少年として発見されたことになるでしょう。

悪いことをした人として公認されその認識にもとづいて対応されるでしょう。

つまり、
虐待などの心の傷みのケアは後回しにされ、懲罰指導・再犯防止に重点を置かれると言うことです。

この未成年者がもし、
学校に通ってないときに、先生から発見されたとしたら、不登校児童生徒になるでしょうか。

そうなったら、
不登校児童生徒として公認され対応されるでしょう。

もし、
眠れてないようだし食欲もないようだし、全体的に具合が悪いようだから、なんかの病気かもしれないからと保護者が心配して、

精神科を受診したとしたら、精神疾患の患者として発見されることになるでしょう。

精神的な不調の未成年者とし認識され治療されるでしょう。

もし、
ひきこもりの支援機関だったらひきこもりとして。

またもし、
ワンストップ相談窓口に行って、就労支援が希望だとなったら、ニートとして発見されたことになるでしょうか。

そしてもし、
親が学校の先生だったり、弁護士だったり、宗教家だったり、医者だったり、里親だったりしたら・・・。
先生の子ども、弁護士の子ども、宗教家の子ども、医者の子ども、里親の子どもとして発見され、認知されるでしょう。

そして、
理想的な環境で養育されてる!
虐待があるなんてあり得ない!
と決めてかかられることが多いでしょう。

その環境でひどい目に遭っているなんてまさか!?
って感じで。

そのためもし、
不適切な養育を受けていたり虐待があったりしたとしても、
発見は相当遅れるかもしくは発見されないでしょう。

『誰もボクを見ていない なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(山寺香著 ポプラ社刊 2017)
という本があります。
祖父母を殺めた被虐待児童のドキュメンタリーです。
この未成年者は、犯罪者として強く発見されます。

でも実は犯罪者として発見されるまでに、いろんな大人たちに発見されていました。

実父とも交流はあったし、親戚もいたし、数年間とはいえ学校にも通っていたし、生活保護も受けていたし、児童相談所も関わっていたし、仕事もしていたし・・・。

インフォーマル、フォーマル両方の大人たち、特に虐待に意識の高い教育や福祉の専門家すら関わっていたんです。

それは、
犯罪者として発見される前にいろいろ場面でたくさん発見されていたことを意味しています。

でも、これといって手助けしてもらえなかった。
虐待環境から救出してもらえなかった。
罪を犯して、やっとしっかり発見された。

そうしてやっと裁判を通して逆境体験に目が向けられた。
やっと一番の核心を発見してもらえたのでした。

それは、(社会が・大人たちが)何をすればいいいいのか? の発見でもあったようです。

社会や大人たちは、少年が罪を犯すことで犯罪少年を発見しました。
そして、法に従い犯罪者として収監しました。
収監したことが虐待環境から救い出すことになったことを発見しました。

裁判によって、少年の境遇がつぶさに明らかになってきました。
報道によって、社会の多くの人が少年を発見しました。
犯罪少年が虐待を受けた児童であったことを認識しました。

ジャンルでいうと、司法の力が発揮されたとなります。
司法の力で裁かれ、刑を受け、そして救われるきっかけが生まれた。

でもそれでは遅いので、
そうじゃない方法で、救い出す方法が必要なんだということを発見(気づき)しました。

いえ、思い知らされました。

発見だけじゃなく、救い出す行動が必要であったのだと発見しました。

この項続く  


目的志向型であることが腑に落ちた話

2021年01月20日

LABプロファイルという人の心理に影響を与えるアプローチがあるのだそうです。

それによると、
人には目的志向型と問題回避型があるとか。

私の解釈が間違っていなければ、
目的志向型は、明確な目的を持って取り組むことに動機が強まるタイプ。
問題回避は、嫌な気分を避けることに動機が強まるタイプ。
みたいです。

私はどうも目的志向型みたいです。
目的達成のために何をすればいいのかを考える。
必要ならば、人から嫌われても、孤立してもかまわない。
目的のため、目標到達のためなら。リスクを負う。デメリットを引き受ける。

そうなので、
目的や目標が明確であれば、なるほど、こうすればいいのね。
と別にそんなに興味のないことにも積極的に取り組みます。
一方で、目的や目標が明確でないと、一向に取り組まない。心が動かないんです。

壁のペンキが剥がれている。
問題があるのは発見した。不安ではある。そして見てくれも悪い。

けど、別段機能低下はないので放っておく。

ペンキは、雨風から壁を守るために塗っているのだから。
だから、壁の下材が見えたときにはその日のうちにすぐに塗り上げます。
防護という目的を復活させるために!

誰かと何かをするときも同様です。
なんのためにするのか? 
どういう状態を目指すのか?
が明確でないままに、とりあえずやっといて的な感じでは、不満がたまってしょうがない。

または、目的に向かっていかないやり方にはまったくやる気が起きない。
気持ちを奮い立たせてやっててもそう長くは持たない。
そのうちやめたくなる。
そんな感じです。

森田療法という伝統的な日本の心理療法に、目的本位という考え方があるそうです。
こもった当初、この一言がとても気に入って、これを頼りにひどい状態をしのぎました。

こもりたいという望みを叶えるという目的のために今こうしてこもっているのだから、遠慮なくこもろうじゃないか。
こんな風に、こもって身を守るという目的を達成するために、こもる日々を過ごしたのでした。

また、やることなすことやらないことなさないことのいちいちに目的を求めました。

なにを目的にこの部屋に居るのか?

今とても怯えているが、なんで怯えているのかを探りあてようじゃないか?
そのために、しばらくこのままで観察しようじゃないか。

この状態からなにかをを得ようじゃないか。
それを目的にしようじゃないか。
こんな感じで。

自分の自然な欲求を叶えることを最優先にすることを目的にして、日々を過ごしていました。
おかげで、こもる日々が自分を理解するためにとても充実した毎日となったのでした。

と考えてくると、
親との関係、家業との関係も目的志向だったように思えます。
生きると言う目的のために、親の元で暮らす。親の言う通りに過ごす。
自力をつけるという目的のために、なんでも挑戦する。特に家業に専念する。

学び、知識を増やし、経験を重ね、知恵をつけ、多くのことができるように、
そのために、あらゆることに関心を持って、積極的に取り組んでいく。

目的達成のためなら、
嫌なことでも辛抱強くやる。
嫌な環境にも身を置く。

仕事ですから。
を口癖に。

そうやって生きてきたようです。
※やること重視=タスク重視という解釈もあるでしょうね。

親愛の情があるから。
ただ楽しいから。
というわけではない。
感情は横に置いて、やること=仕事=タスクに意識を向けて、
それを達成することに意欲を燃やす。
仕事の達成という目的からブレない!

というのも、
親は、稼業の目的も目標もまったく教えてくれなかった。
どれほど問いかけても。
保育所に行く理由も、学校に行く理由も、家を増改築する理由も、自分が不機嫌な理由も、怒鳴る理由も。

どうしてもやらねばならないだけが目の前にあった。
次から次に。果てしなく。
それを強要されてきた。

そのため、
自分にできることといえば、

今をしのぐ。
生きる。
これを目的に据えて生きてきた。
目的思考になったいきさつは、こんな感じかもしれません。

思えば、学校よろしく、ある程度学びが終わり、自力がつくと、次のステージに移りたくなる性分でした。
もちろん、今でもそう。

飽きっぽいのかなと思ってましたが、
そうでもないんです。
数年間のめり込むんです。
いっぱしにできるようになると、徐々に気持ちが冷めてくる。
というか、別のことをしたくなる。
タスク終了。

そしたら、
次の目的、目標を探したくなる。

数年ひきこもって、外に出だしたのも存外こんな感じだったのかもしれません。
もう十分こもったし。やることやったし。
みたいな感覚。

一方で、回避型の生き方はどうにもうまくできない。
こもりだしてからは、文字通り世間との接触を回避していた。
怯えて暮らしていた。悪いことが起きないように起きないように。必死になって完璧に対応しようとしていた。
この生活のつらいことつらいこと。
不安や問題ばかりが目について、心がざわついてばかりで、安らぎからはほど遠い暮らし。
一言で言うと、回避しきれないのですね。

現在は、
本来の目的志向型に戻ってだいぶ自然に暮らせるようになってきました。

目的志向型。
最近、妙に腑に落ちた話でした。

※蛇足
他に、決められた手順を疑いもせず従うプロセス型じゃなくて、どういうやり方が最適かを常に考えて選択するオプション型じゃないかという感じもしてます。
既定の段取りなんかどうでもいいんだ。結果を出すために最善のやり方を選ぶんだ。的な。
また、仕事の達成に意識があるならタスク重視型かも。

参考文献
『影響言語」で人を動かす』 (シェリー・ローズ・シャーベイ 著 上地明彦監訳 実務教育出版刊 2010)