卒業式や入学式への思い入れがない話

2020年06月04日

新型コロナウィルス感染拡大予防のために、
今年2020年の卒業式や、入学式が中止や、形を変えての実施など、さまざまな影響を受けました。
中止のニュースに心を痛めたり、一生の大切な思い出となるべきことを取りやめるなんて! と怒りすら表明する人たちもいました。

そんな世間を、私は少し心に距離を置いて見ていたのでした。

卒業式や入学式っていうと、

思い出のいっぱいつまった学校生活を終える卒業式。

これから始まる新しい学校生活の第一歩である入学式。
希望を胸に晴れの入学式。

みたいな感覚が社会一般の感覚みたいです。

でも、私は違います。

卒業式も入学式も学校生活で行われる普通の集会。
いわば朝礼のような感覚でした。

だって、
卒業したからといって、卒業式をしたからといって何が変わるというのだろう。
何も変わらないじゃないか。
そんな思いだったからのように思えます。

思い出がいっぱいつまった学校生活だったかどうかについては、
楽しいことや悲しいこと悔しいこと頭に来ること感謝していることはたくさんあります。

卒業というのは、それらができなくなることを意味しているのでしょう。
だから悲しい。涙するほどに。

でも私は、
卒業式があってもなくても、思い出・経験は経験だから。
恩師や友人に会いたかったら会えばいいし、会えないなら仕方がない。
会うほどのこともないなら会わなければいい。
そんな風に考えていたようです。
なんてクールなんでしょう。
これをリアリストというのでしょうか。

きっと、
いずれ別れる・離れることを大前提に学校生活を送っていたからでしょう。
いつかはみんなサヨナラする。
そんな感覚。

そもそも、卒業することがおめでたいとは言えないから。
おめでたいと言えるような暮らしはしていないから。
何かが終わって新しい何かが始まる。
そんなことはないと思っていたから。

今までもこれからもどうしようもなくずっと悪いまま。今がそうだから。
そんな感覚だったからのようです。

このことは、
入学式についても同様です。
式があったからなかったから何がどう変わるというのだ?
何も変わらない。

この先、
自分の希望が叶うとも限らない。
学校生活をいつまで続けられるかも分からない。

安穏とした夢や希望や予測を持っていない私は、入学式に何も意味を見出していませんでした。
むしろ、ちゃんと入学の手続きが済んでいるかの方が気になっていたのでした。
うっかりミスが多いんです。

そんなこんなで、
卒業式、入学式、終了式、修了式、始業式。
儀式が中止や変更を求められることがとても落胆や悲しみをともなう大きな話題になっている世間に対して、
とても冷ややかな思いなのでした。

そして、そんな人は私以外にもわりと多くいるんじゃないかなと密かに思っているのでした。

蛇足
ちなみに給食に対しても同じような感覚です。
おいしく食べたのですが、大人になって、懐かしい献立について話題にするほどの気持ちの盛り上がりはありませんの。
揚げパンはおいしかった。とクールに記憶を言葉にする感じでしょうか。

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと過去の出来事

新型コロナウィルス感染症のことについて思うこと

2020年05月23日

目下、
新型コロナウィルスによる感染症(COVID-19)が私たちの最重要関心事の一つになっています。
現在、
緊急事態宣言が宮崎県を始め多くの地域で解除され、社会活動(仕事・学校・余暇など)が再開され始めました。

ここで大事なことは、緊急事態宣言が解除されたために、もう感染の心配はなくなったと勘違いしないことでしょう。
感染収束宣言、安全宣言が出されたわけではないからです。

私たち市民の行動自粛によって新規の感染者数が減ってきて、
懸命の医療行為があって、現感染者数は減ってきているようです。
これらは、私たちの辛抱の成果です。
もしここで気を緩め辛抱をやめれば、また爆発的に感染者が増えるだろうことは常に念頭に置いておかねばなりません。

なにより、今でも現感染者数はとても多いことを忘れてはなりません。
だからきっと、今も医療・治療現場のそんなに負担は減ってないはずです。

そもそも、
医療現場には、コロナ感染症以外の病気やケガや治療が必要な人たちの治療やケアがこれまで通りに求められています。
医療現場では、コロナ以外の治療環境も保持しながら、コロナ感染症対策せねばなりません。
いつにも増して負担が増えている状況は続いているはずです。

このようなことから、
私たち市民に求められることは、引き続き自分たちがコロナウィルスに感染しないように、またうっかり感染を広めないように最善を尽くすことでしょう。
気を緩めずに。

そんなことから今回は、
コロナウィルス感染症について私が理解しているところとあわせ、感じたことを記したいと思います。

新型コロナウィルスによる感染症(COVID-19)対策として、
私たちは、いろいろな行動変容を求められています。

基本的感染症対策としての、
丁寧な手洗いと消毒を折々に実施すること。
うがいも。
※これは自分が感染しないように。

それから、
マスクを着用すること。
※これは誰かを感染させないようにの意味合いが強いかしら。ウィルスに感染していても無症状の人が多くいるので、どちらかといえば誰かにウィルスを移さないためにマスクを着用するように思えます。

感染は、
ウィルスが粘膜(主に目鼻や口)に接触することで起きるとか。

どんな風にウィルスと接触することになるかというと、
ウィルスを含んだ咳やくしゃみ、会話や呼吸で生じる飛沫(しぶき)が拡散されて、それに接触してしまうことで感染するようです。
普通に呼吸する際の呼気にもウィルスは含まれているらしいです。
※つばやたんや鼻水や呼気中の湿気の中に、ウィルスが含まれているのでしょう。

どんな風に接触して感染するかというと、主に、
飛沫感染と呼ばれる、ウィルスを含んだ飛沫が直接に口や目鼻(の粘膜)に付着・接触する場合と、
接触感染と呼ばれる、ウィルスを含んだ飛沫が付着した物体に接触したりする場合が
あるようです。

接触感染については、
飛沫が付着しがちな物体としては、ドアノブや電話機、スイッチボタン、遊具、手すり、いろいろな品物などがあり、
それらに触れた手指にウィルスが付着し、その手で口や目鼻(の粘膜)に触れることで感染するという仕組みだそうです。

だから、感染予防のために、
マスクをして、飛沫が飛ばないように、飛沫に接触しないようにすることと、
物体に接触する機会の多い手指をとにかく清潔に保つことが何より重要みたいです。
もちろん物体の消毒も重要ですね。
※マスクをすると手が口や鼻に触れづらくなることから、感染しない効果が期待されていますね。

さらには、
ウィルスは、人の飛沫を通して感染するので、
そもそも人と接触することを減らす。できうる限り。

どうしても今必要であるため(不要不急でない)に、やむを得ず人と接触するにしても、
飛沫が付かない(届かない)ように距離を取る。なるだけ2メートル以上とか。

でも、
これらを実践したら、生活が成り立たなくなってしまった感覚を多くの人が持ったのではないでしょうか。
私もその1人です。
身動きが取れず、なにもできない感覚すら持ちました。
ほんとに、ステイホームするしかない。
生活を守るためにすることが逆に生活をしづらくしてしまった感じがしています。
※そんな状態だったので、血液が足りません! 献血は不要不急の外出じゃありません! の呼びかけに、30年ぶりに献血に行きました。

近年、
人との関わりが昔に比べて減ってきたとよく言われてきましたが、
現下の状況になり、現在でも人と関わる機会は存外とても多かったことに気づくこととなりました。

むしろ、人と関わらずにこの世は成り立たないんだ。
昔の様相とは違ったとしても、人の手が関わっているからこの世が成り立っているんだ。
ということがよく分かりました。

今、これらの経験を踏まえて、
新しい生活様式として、私たちが暮らしていく上で、特に人と関わる際の望ましい行動が新しく提起されました。
厚労省のサイト
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_newlifestyle.html

宮崎県のサイト
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/kansensho-taisaku/kenko/hoken/kinkyujitaisengen_covid19.html

この報に接し、私が受けた印象を一言でいうと、

人とは距離を置いて下さい。

です。

きっと、
人と直接関わる際には十分に注意してという意味合いでしょう。
それは配慮だという言い方もできますが、いずれにしても人と関わる際にはこれまでとは違う新しい緊張感が求められることになります。

人と、ある意味密接に関わることを最善としていた、
それを目指していた社会が、変容した印象を私は持ちました。

現在では、外出が徐々に再開されてきていますが、一朝事あるときは「家にいよう」となることが私たちの共通認識です。

このようなことから全体的な意識の変化に心を向けると、

人と関わることはお互いの身の安全を脅かすリスクが高い行動だとして世界的に再定義された感じがします。

多くのこもる人は、
誰かと関わるという社会参加に命の危険を感じるためにこもる。
自分の居場所にステイします。

そんなこもる人への働きかけ、ひきこもり支援の根幹は人と関われるようになることです。
こもる人の望ましい行動としては、人と関わることにつながる行動とされています。
だからとにかく外に出て人とかかわることが勧められてきました。
ときに寄りそいながら、ときに強引に。

それは、
人と関わらないとやっていけない。それが社会の鉄則だから(だったから)です。

ところが、
無条件にそうとも言えなくなってきたようなのです。
世界全体が。

常識は変わる。
望ましい行動も変わる。

世は移り変わる。
無常の理・ことわりを実感しています。

この数ヶ月のうちに、
人と関わることは危険をともなう。
という新しい意識の中で、人と関わり、物体と接触し、暮らしていく世界になったのかもしれません。

こんな急激な変化に振り回されながらも、
健康と安全を取り戻すための、
私たちの必死の努力が報われますように。

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと

パートナーという言い方が実は嫌いな話。

2020年05月19日

パートナー。
(異性の)夫婦や、夫妻、連れ合いや、伴侶や、嫁や、婿をパートナーと呼ぶこと(運動)についての話です。
※一言でいうと、配偶者の呼称について。

私、男女共同参画系の運動に親しくしていたので、少々詳しくなっていますので、記してみようと思いました。
しばらくおつきあい下さいませ。

なぜこの呼び名が台頭してきたかというと、どうやらそれまでの配偶者に対する呼び名が不評を買うようになってきたからみたいです。

注目嫁、婿は「家」に嫁いだというニュアンスなので、好まない人が多いのです。
私もその一人です。

結婚観が家同士から個人間の縁結びになってきたことの影響があるでしょう。
家同士の結びつきじゃなくて、結婚する者同士の気持ちの結びつきに重きを置くようになってきたこと。
それから、
家同士の結びつきによる個人の気持ちが軽んじられてきたことへの不同意が強くなってきたことなど。

注目夫妻が一番世間馴れしているようですが、相手を呼ぶときが難しい。
「夫さん」「妻さん」って呼ぶのはどうにも馴れない。
馴れていると言えば、長年の家制度での呼称「奥様」「旦那様」が正直しっくりきます。
他に、
奥方、山の神、大蔵大臣、主人、亭主、大黒柱なんて呼び方もありますが、やはりいずれも家制度での呼び名なので、個人を大事にする場合は抵抗が生じます。

関連で、「婦人」はあまり好まれなくなって来ました。
成人女性をさす言葉として使われてきましたが、
婦というのは掃き掃除を担う女性という漢字の成り立ちだそうで、誰それの婦人。家事に従属する人。誰それが所有する人。みたいなニュアンスを含んでいるからのようです。
他人の妻をさす「○○婦人」という呼称は控えられ、
成人女性をさす「婦人」は「女性」と呼ばれるようになってきました。

個人的には連れ合いが一番好みです。
連れ合って飛ぶ2羽の鳥みたいな表現が合っています。
でも、
お連れ合いは?
なんて言い方しても分かってもらえません。古風すぎる感じ。それが難題。
ご夫君、ご妻君も同様で、いかめしい。

さて、パートナー。
それぞれがパートを受け持つ人。みたいなニュアンスを感じます。
一緒の人生を歩むそれぞれのパート担当という感じでしょうか。
もはやあなたは私の人生の一部なんだ。みたいなニュアンスもあるのかしら。

いずれにしても、
別個のとか、部分とかを担う。
なんだか、分離したイメージが大前提にある感じ。

分離独立。という熟語がありますが、
パートナーは、
きっと独立した個人に重点を置いた考えから来ているのでしょう。

男尊女卑とか、嫁・婿は家の所有物とか、個人の人権を軽んじた思想に対して、
夫婦同権。平等、公平公正を求める人たちで使われ始めたように私は記憶しています。

でも気になるんです。

関係が続いている間中、パート意識でいることが。
それは、
自分たちは、分かれているんだという意識づけ、別れるニュアンスが続くこと。
それは私の受け持つパートじゃない。(だから、私には関係のないこと)みたいな意識をはらんでいる感じがするのです。

お付き合いのある間ずっと。
夫婦である間ずっと。
分れている。
そんな意識。

DV被害者など、別れた方がいい相手といつまでも関わり続けてしまう場合は、この意識はとても大事です。
自分さえ我慢すれば関係は続けられるから。
そうすれば、暮らしていけるから。そうじゃないと暮らしていけないから。
として、自分の人権を軽んじて相手を優先し、
あたかも相手の人生に飲み込まれて一体になっているのを当然と思っている人、思い込んでいる人には、
あなたと私は違う個人だよ、尊重しあうべき存在なんだよと言うパート意識は大事でしょう。

別れても大丈夫。別れる権利がある。そんな意味合いで、支援者が使うのは賛成です。

でも、そんな間柄ではない親密な関係の人たちもこの感覚でやっていけということになると、
どうにも賛成できかねるんです。

昔は、世話好きの人がいたそうです。
独り者の若者を鵜の目鷹の目で見つけてはくっつけたがる。半ば強引に。
あんた、贅沢ばかり言っててもしようがないよ。そんな贅沢が言えるほど上等じゃないんだから、いい相手がいるから、一緒になんなさい。
として、
今風に言うと個人の意見など尊重せずお仕着せな感じで結婚させていたのでしょう。

だからかどうかは特定できませんが、
結婚生活では問題が起きます。別れる別れないもありがちでしょう。
そんなとき、
世話好きな人は、その相談に乗って、なんとか結婚生活を続けるように持って行くようです。
夫と妻の間に入って、一緒にやっていくための折り合いをつけるように働きかけるのでしょう。
結婚している当事者も、なんだかその気になってまた結婚生活を頑張ってみようという気になっていたみたい。
※もちろん、どちらかが相手に心を配らずあまりにも身勝手な場合は、別れることを勧めたかもしれませんね。

世話を焼く人。
人と人をくっつける、くっつけ続ける人みたいな役目。
これ、
パートに分ける感覚とは真逆な感じ。
一緒にやっていくことを強く押し進める感じ。

孤独死、孤立、孤(子)育て、ワンオペ。
現在、
孤の問題が取り沙汰されています。
あまりに個を意識しすぎると、孤になって逆に生きづらくなるのかもしれません。

補完し合って生きる存在。
それが人間なのかもしれません。

他人とともに人生を歩む営み。
それが結婚なんでしょう。

そもそも他人同士なのだから、苦労の連続。
努力なしには結婚生活は営めません。

だから、
どうすれば、相手といい関係で暮らせるか?
その努めをお互いが負っているはずです。
※逆に言うと、努めを果たさない相手とは別れていいとなりますが。

嫌なら別れる。
だってそもそも分かれているのだから。

最初からあまりにも別れることに軸を置いた関係作りに何の意味があるでしょう。
別れる緊張をはらんだ関係。

その象徴の言葉がパートナー。

そんなこんなで、配偶者の呼称としてのパートナーって言い方が嫌いなんです。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと

人が寛容でいられる状態

2020年05月11日

最近の世の中で話題に上っている言葉には、以下があります。
たいがい英語です。

インクルージョンは包摂。

ダイバーシティは多様性。

ともに、
お互いの違いに寛容であることを重視しています。

と言うのも、
トライバリズム・部族主義・民族主義と言われるところの、
自分たちの集団のみ正しくて他の集団は正しくないので否定して排除していいという考えにもとづく、
相手を自分と同じ人間と扱わないことをお互いにしあうことで、
社会のデバイド・分断が進んでいる現状があるからです。

現在、
心を整える手段として産業界・教育界・スポーツ界・医療界・心理界などなどあらゆる場面で重宝されているマインドフルネス瞑想では、コンパッションとして思いやりが重視されていることはとても示唆的です。

さて、この寛容。

身体の中枢神経・自律神経系でも、
window of toleranceとして重視されています。

一般的には、トレランスを耐性と訳し、
耐性領域と呼ばれています。
直訳的に、耐性の窓なんて言い方もあります。
この状態にいるとき、耐性領域にいるとか耐性の窓の中にいるなんて言います。
さまざまな不測のストレスがかかっても耐えられる、受容できるという意味なのでしょう。

私はこのwindow of toleranceを研修で習ったのですが、その時の訳が寛容だったので、寛容という表現に愛着があります。
世界や他者と関わる場面について語る際に、耐える、忍耐というのがどうにも受け入れがたいですし。

だから、
寛容領域とか慣用の窓の中にいるという言い方も好みます。

人は、神経の覚醒状態・興奮状態・緊張状態によって、3つの状態になるのだそうです。

一つは、激しく活動的な状態。そのとき人は、何かまたは誰かを攻撃するか逃走するかしている。

もう一つは、とても不活動な状態。動かない、固まっている状態。そのとき人は、じっとしている。意識を失っていることもある。

そしてもう一つは、イイ感じで活動的でかつイイ感じでじっとしていられる状態。人や動物や世界と穏やかに交流している。
反応はいいけど攻撃的でもなく、逃げ腰でもない。
じっとしているときも穏やかにそこにいて、思いやりを持って周囲を受け入れ、周囲からも優しく受け入れられている感じ。

一番最後の状態にいるとき、耐性領域にいると言います。
周囲と自分に寛容でいられる状態ですね。

この状態のときは、
心拍数を抑えるヴェーガルブレーキがゆるんでいるので、
普段より脈拍は少し多く、ゆえに脳や全身の筋肉に血液が豊富に行き渡り、穏やかに活動的です。

そして、
顔面に末端がある腹側迷走神経が活発になるので、表情豊かになり、声に魅力が増し、
人と心地よく交流します。
相手はきっと、この人、優しいし関わりやすいなぁと感じるでしょう。
そんな状態です。

さまざまな不測の事態が起き、
それらに対処する際、
寛容性が問われる場面では、この状態・寛容領域を意識することが役立つかと思います。

例えば、
攻撃的な相手に対して、
こちらは慣用の窓の中にいれば、攻撃的にならずに交流できます。
もちろん、一目散に逃げ出したりもせずに。
そうして、慣用の窓の中に帰ってくることを手助けします。
お互いに寛容の窓の中にいるように働きかけるのです。

もし相手が、ぼーっとして心ここにあらずなようだとしたら、優しく声をかけ近づき、「今ここ・ナウアンドヒア」にいざなうでしょうか。

このようなことから、耐性領域・慣用の窓を広げることが大事とされています。
そのためには、前述のマインドフルネス瞑想がいいんだそうです。

穏やかに今ここにいるあるがままの自分(の状態)を、感じ、観察し、受け入れる。
そういう姿勢が身につくようです。
  


その人は、その人たちの典型例ではないかもしれないこと

2020年04月01日

ある人が、自分のことについて世間に知らせる。

それにより、私たちは、そのある人について知るとともに、

そのある人の属性についても知ったような気になります。

例えば、不登校の人が自分のことについていろいろ話をしたとき、

私たちは、その人を通して不登校を理解した気になります。
不登校って、こんななんだぁ。ってな感じで。

それは、ある人が、
ゲイだとしても、ひきこもりだとしても、身体障害者だとしても、統合失調症だとしても、
サラリーマンだったとしても、厚生労働省の官僚だったとしても、ハリウッド映画に出てる俳優さんだったとしても。
同様です。

でも忘れてはなりません。
その人は、その人と同じカテゴリーに割り振られた他の人たちとは違うことを。
決して、そのカテゴリーの代表ではないことを。

共通する点、典型的な点はあるのでしょう。
でも、そのある人を典型例とするのは過ぎるかもしれません。

私たちは、
その意見が、ある当事者(たち)の意見を取り入れているからといって、
当事者全員がそう思っているわけではない可能性を心に留めておく必要があります。

情報をどのように受け止めるか?
情報リテラシーの話でした。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと