2017年12月31日

1年のお礼申し上げます。

 皆さま

 本年もご訪問ありがとうございました。

 心よりお礼申し上げます。

      平成29年12月31日大晦日

              聞風坊  
タグ :大晦日


Posted by 聞風坊 at 18:00Comments(0)社会のこと

2017年12月09日

話し言葉と書き言葉のこと。

 『NHKアナウンサーとともに ことば力アップ 2017年10月~2018年3月』 (NHK)
というラジオ講座のテキストを読んで、思い至ったことの記事です。

 文章には、話し言葉で書かれたものと、書き言葉で書かれたものがあり、

 音声を使って相手に伝える場合、話し言葉で書いたものの方が、伝わりやすいとのことでした。

 書き言葉は例えばこんな感じ。
 
 昨夜、午前11時頃、宮崎市末広の○○さん48歳の自宅で、子猫が発見されました。

 昨夜、午前、自宅、発見など熟語が多く、言葉が途切れずに流れていきます。

 情報がどんどん渡されてくる感じ。

 文字にして読むと分かりやすいけど、聞くとなるとちょっと苦労する。

 話し言葉だと、

 昨日の晩の、11時ごろに、宮崎市の末広町に住んでいる○○さんのうちで、子猫が見つかりました。

 みたいに、砕けた言い方になるようです。

 そして、相手が聞き分けるには時間が必要なので、文章の区切りを多くして、間を置くのだそうです。

 なるほどと思いました。

 私聞風坊は、どうしているかと考えたら、

 皆さんにお話しさせて頂く時や、このブログを書く時は、なるべく砕けた物言いになるようにしています。

 なので、普段からなにか発信する時は、自分は話し言葉なんだなぁと気づいたのでした。

 さて、最近の若い人の言葉遣いに興味を持っています。

 接続。分節。装置。回路。なんて言うのです。

 これらは、工業系、電子機器系で物品に対してよく使う言葉です。

 それを、
 人の心や動きや、行いについて使うのです。

 例えば、

 ここ最近、頭が混乱していたので、自分の行動を分節してみると、
 他者と接続しようと試みてはいるけど、なにかしらの一般人とか異なる回路が作動して、
 期待された結果とは違う様相を呈していることに気づいたのでした。
 ある意味自分は、そういう装置化された人間なのだと改めて気づきました。

 みたいな感じ。※慣れてないので、うまくできませんが。

 新しい言葉遣いが大好きな私聞風坊なので、この使い方を面白く感じていますが、

 同時に分かりづらさも感じていました。

 なるほど、通常の会話において、もっぱら物に使うところの書き言葉を使っているからなんですね。

 もちっとかみ砕いて、人に対して使う言葉に言い換えてくれんね。

 と言いたくなるオジサン聞風坊でありました。

 若い皆さん、その節はよしなに。 
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと

2017年11月09日

相模原やまゆり園の事件についてのフォーラムを聞いて

 ↓フォーラム・私たちが生きる意味を聴講しての感想です。



 いわゆる相模原やまゆり園の事件を検証するフォーラムだったのですが、

精神疾患があると認定された加害者を簡単に退院させた医療制度の問題だ。

精神疾患者は、危険だ。という風潮が助長されてしまったことが問題だ。

障がい者を不幸しか生みださないと考える偏見があることが問題だ。

など、いろいろな面から問題提起がされている、とても複雑な出来事です。

加えて、このような社会問題としての側面の他に、
 障がい当事者だから感じる危機感があるようです。

 特に、誰かの介助がなければ身を守れない状態の人は、我が事のように身の危険を感じています。

 さて、この事件について、

 社会が無意識のうちに持っている差別意識が大元の原因だという考えを基調講演の大熊由紀子さんは披露されました。

 そもそも、障がい者だからという理由で、1つの大きな施設に集めて暮らさせることに違和感を持たない感覚が、自分とは違う者を排除する意識の現れで、それが今回の事件につながっているという指摘だと受け止めました。

 また、事件を長年取材している成田洋樹さんは生産性が高いものに価値があり低いもの無いものには価値を置かない社会意識が問題だと指摘されました。

 だからか、障がい者だってなにかを生産している・社会の役に立っているという考え方には疑問を呈しているような印象を持ちました。

 人は存在するだけで生きる価値があるということをなにより大事にされているようでした。

 私聞風坊は、障害のあるなし・程度の大小に関わらず、人は存在するだけで何かしら社会に影響を与えていて、つまり社会貢献していると考えています。

 差別・排除意識については、仕方のないことだと思っています。人間は同類を好む性分のようだからです。

 ただし、差別・排除意識はあったとしても、行動・施策として実行する際は熟考に熟考を重ねて考え抜いてやるべしと思っています。

 人を自分のコミュニティから排除するということは、それほどの重みがあると思っているからです。
 
 フォーラムを拝聴して考えたのはこのようなことでした。

 そして、フォーラム後に考えたのは、やはり加害者が加害者になるまでの心の動きです。
 それは、福祉職員が加害者になるまでの心の動きかもしれません。
 フツーの人が犯罪者になっていく心の動きかもしれません。

 そもそも加害する人は精神的にフツーではない。私たちとは違う。

 の一言で片付けていいようには思えません。

 それこそ、排除の論理です。

 加害者の心の動きの中にこそ、この問題の核心が隠されているように思えています。 

 そこには、万民が安全に暮らしていくためのとても大切ななにかが隠れているように思えています。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと

2017年10月27日

イジメとからかいの境目の話

 その行為は、
 イジメているのか、からかっているだけなのか?

 境目はあいまいです。

 そもそも、多少のからかいはOKという認識だからですね。

 ちょっとしたいたずらは許されるのが人間、人類としてのデフォルトだからなんでしょう。

 でも、やりすぎてはなりません。

 やり過ぎると、イジメになったり、暴力になったりします。
 だから、その境目はとても大事。
 そしてそれはとてもあいまい。

 さて、
 その境目の基準となるのは何か?

 それは、からかわれた人の気持ち、思いとなるようです。

 そのため、
 相手が嫌がったらなんでもイジメになる。

 みたいな風潮があります。

 かつて、セクハラが知られ出したころ、女性に「髪切った?」と訊くことがセクハラだと物議をかもしたことがあったように記憶しています。
 「髪切った?」
 と聞かれた女性が少しでも嫌な気持ちを持ったら、即セクハラになってしまう。大問題だ! みたいに。

 そのため、女性のことに対して何も口にできない雰囲気も一時期ありました。

 イジメについても、相手が嫌だったらイジメになるという理屈で言うと、
 嫌だと思えばなんでもイジメになるし、

 もし、
 嫌だと思いません。
 と返答すれば、どんなひどいことでもイジメではなくなりそう。
 
 そんなこんなで、嫌だと思えばハラスメント・イジメになるという説には私聞風坊は慎重なのです。

 そんな折、やめてほしいと思えばイジメになると言う判断があると知りました。

 LITALICO発達ナビさんの記事です。

 これによると、
 「悲しい」や「やめてほしい」と思うかどうかも判断の基準になるとのことです。

 嫌だけど、我慢できるからいい。と言う理由で嫌とは思わない・言わない場合でも、

 悲しい。とは感じるかもしれません。
 なんか涙が出る。うつむく。言葉にならない元気がなくなり感から。

 そして、

 やめてほしい。

 そうじゃないやり方ならなおいい。もう少し軽くなら大丈夫。
 だから、今のはやめてほしい。今までのはやめてほしい。

 こんな感じだと、どんな風にしたら、よい関係が築けるかの提案ができそうです。

 髪切った? と言う時は、さらりと言ってほしい。失恋しただろうなんてうがった思いはナシで。
 みたく。

 今回は、相手に害を加え続けることを主な目的とする悪意を持ったイジメとは別の、からかいがイジメになってしまう場合について考えました。
 前者は純粋な暴力です。
   
タグ :イジメ境界


2017年10月18日

障害者就労を学んだのでした。

 この前、宮崎市自立支援協議会 就労支援部会さん主催の

 障がいのある方の「働く」を知る事例発表会を拝聴してきたのでした。

 一般企業で働いている障害当事者の3人が自分の体験を語られました。

 皆さん
 たくさんの苦労を重ねながらも今の仕事に就かれたようです。

 皆さんに共通するのは、
 相談に乗ってくれる人がいたということ。

 一般の人には、※福祉職以外の専門職にもですが
 障害者就労の仕組みはまだよく知られていません。

 だから、
 その人の困難を障害者就労に結びつける人材に出会えるかどうかが肝となるようです。

 この人の働きづらさ、暮らしづらさは、努力不足じゃなくて、障害から来るものではないか?

 そう、ピンと勘が働く人。

 こういう人材が地域にたくさんいるようになると、もっと暮らしやすい社会になるのでしょう。

 印象的だったのは、
 どんな点が仕事をする時の喜びですか?
 の問いに、

 職場の人やお客様から感謝されることに加え、
 職場の人たちとの慰労会などのレクレーションが楽しみという答えです。

 仕事のやりがいを重視している風潮がありますが、

 どっこい、福利厚生が労働者の喜びになっているようです。

 日々、しゅくしゅくと仕事をこなし、

 時折、ねぎらいがてらのレクレーションがあって、

 あぁ、この職場でよかったなと思う。

 働き続けようと思う。

 働くって、存外そういうものかも知れないなと思ったのでした。

 そうして、
 日常の日課のようになっていく。
  
タグ :就労障害


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のことニート

2017年07月29日

ひきこもりと生活保護のこと

 セイフティネットとして知られる生活保護制度ですが、

 実際は、私たち一般人がイメージしているのとはちと違ってる感じがするので、記事にしました。

 まずは、生活保護は、申請主義による契約であること。

 生活保護は、日本国憲法や生活保護法に従って実施されますが、

 生活保護制度を利用する、または利用しないかは、個人の自由だということです。

 困窮状態にあったら自動的に保護されるものだと思ってましたが、そうではないようです。

 申請した場合に限り、生活保護が受けられる可能性が生じるのです。

 これは、保護を受ける権利と同様に、保護を受けない権利を保障しているとも言えますね。

 だから、
 こもっている人も、この手続きをしないと保護が受けられません。
 こもっている人にとっては、最初のハードルでしょうか。

 そしてそれはつまり、主体的に契約するということを意味しています。
 契約には条件がつきます。

 その条件により、保護する者と、保護を受ける者の両方に権利と義務が生じます。

 保護する者は、法に則って、各種扶助を行う(暮らしを金銭的に支える)義務が生じます。

 保護を受ける者は、節制に努め、健康を維持し、勤労の義務が生じます。

 勤労の義務については、稼働能力の活用として扱われているようですが、

 これは、

 勤労して収入を得て、自立した生活(自活)をできるだけはやく再開・開始するよう、

 最大限努力することのようです。

 この時、病気やケガなどで働けない状態の場合は、治療を勧められます。この医療費は扶助されます。

 働ける程度の健康状態でなければ、勤労できないからですね。

 受診すると、医師の診断が降りるので、健康状態が客観的に把握され、それに応じて勤労の義務を頑張ればイイとなります。

 もし、治療しながら勤労できるとなれば、そのように。

 しっかり治療しないと就労は無理な状態です。となれば、まずは治療に専念となるようです。

 この場合は、勤労のかわりに治療することが義務のような感じになるでしょうか。
 まずは健康な生活の確立ですね。

 さて、こもる人は、受診にも治療にも消極的です。もちろん勤労にも。
 となると、治療もしないし、働かないしと、何もしない状態をずっと続ける事となります。

 これは、義務を果たしていない状態という解釈が成り立ちそうです。

 となると、
 生活保護契約の条件を満たしていないとなる可能性も出てきます。
 
 これは、契約打ち切りの可能性を意味しています。

 契約違反だから、こうなります。

 こう考えてくると、

 親亡き後は、生活保護で保護してもらって。

 という淡い期待は、現実的ではないようです。

 今こもっていて、社会とまったく関わっていない人は、

 今後日本という社会で、さしあたり一人で生きていくのに、最低限必要な技術・知識を身につける必要があるようです。

参考:宮崎県HP
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/fukushihoken/kenko/shakaifukushi/index-02.html
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと

2017年07月05日

精神疾患の親に育てられた子どもたちのこと

 NHKの番組ハートネットTV で、精神疾患の親を持つ子どもをテーマにした番組があったので視聴したのでした。

 番組URLはこちら→http://www.nhk.or.jp/hearttv-blog/hntv/267884.html

 今回は、子どもの立場に力点を置いた番組作りだったとか。
 親の立場に力点を置いた番組はきっと後日あるでしょう。

 さて、この番組を観て考えたのは、

 親の顔色をうかがわないと生きていけない子どもたちがいるということ。

 そうして大人になった人たちがいるということ。

 人知れず。

 一番身近な大人が、気分の波が激しく、

 だから家庭は緊張感が高く、安らぎの時間が十分でないこと。

 何が起きるか予想がつかないことが多く、

 自分の身の危険を常に感じながら暮らしているのが常となっていること。

 そんな状況で生き残るために、少しでも心の平安を得るために、

 親の状態、

 家庭の状態、

 周囲大人のひそひそ話を、

 観察し、聞き耳を立て、適切な行動をとらねばならないこと。

 もし、それに失敗すれば、

 今より悪い状況が到来すること。

 それは、自分の責任であること。

 だから、命がけで、

 親の顔色(健康状態の意味も込めて)、行動、雰囲気は良好か? 不良か?

 家の状態・・・ものは壊れていないか、なくし物はないか、増えているものはないか?

 人員が揃っているか、不明になっていないか?

 闘うか、逃げ出すか?

 人に助けを求めてイイか? 
 
 このことを口にしてイイか? イケないか?

 そうして安全か? もっと悪いことにならないか?

 しっかり考えたか? 十分に考えたか?

 と毎瞬毎瞬観察と思考と行動をしているのでしょう。

 そうして、密やかな安全を確保する。

 自分の精神的健康とひきかえに。

 不信感、猜疑心、用心深さ、人当たりのよさ、なじめなさ、心を開かないこと、親密がわからないこと、

 感情がわからないこと、自分の意見を口にすることができないこと、将来設計ができないこと・・・。

 そんな困難をかかえた大人になることとひきかえに。
   


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(2)社会のことトラウマ

2017年07月02日

野生の労働について考える

 
 に関連します。

 以前、100分de名著「野生の思考」を観たのですが、

 労働を意味するフランス語はトラヴァイユで、これは”労苦(travail)”、つまり「厭わしい時間を耐えなければいけないというニュアンスが含まれて」いるそうです。

 「ところが、例えばメラネシアのいわゆる未開社会の言語には、travailにあたる語や概念自体が」なく、

 「古代ギリシャにも、travailに相当する言葉は」ないそうです。

 「西欧の労働概念には、神によって科せられた「罰」という、ユダヤ=キリスト教特有の考え方が影響しているよう」なのだそうです。 
      (引用いずれも番組テキストp89より)

 楽園であるエデンの園を、自らの行いによって追放されたために、人は働かねばならなくなったということなのでしょう。

 また、西欧の考え方では、自然は人間の脅威であり、だから、人間が生きるために支配し、管理すべきもののようです。

 人間社会を発展、拡大させていくという歴史を作るためには、自然の驚異を徹底的に排除し、支配、管理せねばならないようです。
 となると、そのための営みである労働は、徹底管理されることになりそうです。

 さて、
 支配と管理の思想と労働が結びつくと、
 1日8時間で週5日、合計週に40時間働くことが、基準の労働の姿。
 このルールに従うように、このルールを基準に生活するように。
 
 そうじゃないと自然の脅威には対抗できない!

 こんな風になりそう。
 労働や労働する者をしっかり管理する姿勢は、ややもすると拘束する印象すら持ちます。
 ※労働社会の縮図でもある教育現場も、なんだか似た感じがします。

 一方で、ポイエーシスという取り組み方があるそうです。

 これは、自然や自然物の中にある「はたらき」を、うまく活用して道具や料理などを作り出し、暮らしに役立てる取り組みのようです。

 科学技術などの人智を駆使して、目的に合致するように、がっちり設計して、材料を調達し加工して、予定通りに作り上げるのではなく、

 自然物がそもそも持っている特性を取り出して、組み合わして、人間に有用なナニカを作り出すのだそうです。

 これを可能にするのが、私たち人間が本来持っている野性的な思考力なのだそうです。

 後者は、素材を活かした。なんて表現されますね。

 自分が決めた型にはめていくのが前者。
 自然の持ち味を考慮せず、自分の都合を最優先にする。

 型にはまらない自由さがあるのが後者。
 自然の持ち味をどうすれば活かせるかを終始考える。

 後者的な働き方をする職場環境は、きっと働く人の特性、持ち味を活かし、うまく活用して利益を上げるでしょう。

 そこにあっては、労働は喜びになるでしょう。
   


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のことニート

2017年06月27日

相対的貧困について考えてみたのです

 子どもの貧困として必ず話題に上るのが、

 相対的貧困。

 です。

 一般的な状況と比較すると、貧困である。

 ということ。

 フツーは、スマホを持っている。

 フツーは、高校に行っている。

 フツーは、三食食べている。

 という風に、フツー一般的にみんなができること。

 が、保護者にお金がないから、できない状態。

 制約がある状態。

 そんな状態のことを、相対的に言って貧困である。
 
 という風に考えるみたいです。

 貧困と言うと、ご飯も満足に食べられない、義務教育も受けられない、ケータイとかパソコンとかネットとかぜいたく。

 衣服はぼろぼろ、身体は汚れていて、医療が受けられないので歯もぼろぼろ。

 なんてイメージは、健康を維持するのすら難しいところの絶対的貧困となるでしょう。

 今、
 日本で問題になっているのは、絶対ではなくて相対の方です。

 つまり、
 人と比べるまでもなく困難(危険・不健康)と分かる絶対的貧困ではなく、

 人と比べたところ経済的に問題があると考えられる状態のことです。

 さて、
 このことからふと考えたのです。

 ここでもし、
 人と比べない。自分がどう受け止めるか?
 幸せを感じ取れるかどうかが大事なんだ。

 という価値基準(絶対基準と呼んでいいのかしら)で子どもの貧困を考えたらどうなるか?

 生きてるだけでありがたいよね。

 衣食住あるんだから感謝しないとね。

 こんな風になるような気がします。

 なんだか、複雑な気持ちになります。
 確かにそういう見方はあるけどさぁ・・・。みたく。


 そんなこんなで、

 フツーの人がそんなに苦労しないでできていること。

 与えられている物。

 手にしているチャンス。

 が、ものすごい苦労をしないとまたは犠牲を払わないと、

 できない。手に入らない。状態にある人たち。

 への思いやりと優しい社会は、

 他者と比べることから始まるのだなと、思い至ったのでした。
   


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと

2017年06月21日

なにかあったら来て下さいという病院

 なにかあったらまた来て下さい。

 きっと世界中の病院で言われているセリフだと思います。

 今のところ治療を要するほどではないけれども、

 今後、何か変だなと不調を感じたら、遠慮なく来て下さい。

 その時の状態を見て、必要ならば治療しましょう。

 という意味でしょう。

 実はこれ、前提がスゴいんです。

 患者が、自分の心身の不調に気づく!

 その力があるというのが前提なんです。

 そして、それを病院で治す! という意思というか希望というか、

 そういう判断が下せて、

 実際に病院に行く行動力、

 そして病院で自分の具合の悪さを説明できる力、

 そんないくつもの力を患者がもっているという事、

 そして力を発揮できるという事。

 が前提になっています。

 患者力と言ってもいいかもしれません。

 患者力。
 医療って、そんな患者頼みで構築されているんだなと再確認したのでした。
  




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