親の宗教に囚われた子どもがいる

2021年04月06日

NHKのハートネットTVで放送された
「”神様の子”と呼ばれて ~宗教2世 迷いながら生きる~」
という番組を観ました。
番組サイトURLはこちら。
https://www.nhk.or.jp/heart-net/program/heart-net/1647/

印象に残ったのは、このフレーズです。

親は子どもを誰よりも愛している。

だから、こうしなさい、あーしなさい、そーしちゃダメ、あーはダメ、
と子どもを訓育する。
宗教・信仰についても。
と言う文脈です。

親は子どもを誰よりも愛している。
これ、実は親の視点。
親の独りよがりなんです。

大事なのは、

子どもが、
愛されていると感じているか?

子の視点から、
自分は親から愛されているか?

望むような愛を受けているか?

と言う視点なんです。
親目線じゃない。
親の言い分じゃない。

子がどのように認知しているか?
認知的共感の問題です。

宗教上の理由で、
学校の授業や行事に参加できない。

恋愛も制限がある。

医療を受けることすら制約を受ける。

宗教最優先の生活。

を強いる親から、

果たして子は、
愛されていると感じるだろうか?

そして、
子どもたちの気持ちは横に置いておいて、

そういう形で子どもたちは愛されているんだ。

ということにしようという意識は働いていないか?

私たちは、
こういう視点を持つ必要があるようです。

不登校の子ども
非行の子ども
病気の子ども
など、
社会参加が難しくなっている
現役の子どもたち。

や、
大人になった子どもたち(の話)を見聞きする際に。

さて、世の中には、
信じない権利
と言うのがあるそうです。
番組中で専門家が指摘していました。
なるほどと思いました。

親の宗教、親の信条、親の言い分。
を信ずる権利とともに信じない権利。

その両方を子どもを含む私たちはすべて持っているのだそうです。

なにかを自由に信仰する権利を奪われることは虐待でもあるでしょう。

色々考えた番組でした。

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと

フードバンクみやざきが設立されています!

2021年03月29日

支援機関運営者の人や、生活に困っている人などへの食材食品提供を行っている、
フードバンクみやざきさんですが、
https://fbmiyazaki.jimdosite.com/

先日、設立記念イベントとして
「食料は買う時代から配る時代へ」と題したオンラインフォーラムが開催されました。

それを視聴して、色々考えたので記します。

講師の方は、研究者であり支援実践者の方々でした。
学究色の強い内容だったので、講義について行くのにすんごく苦労しましたが、ポイントは押さえられたかなと思っています。

ポイントの一つは、フードロスでした。

食糧不足が生じている反面、廃棄される食料・食材がとても多いこと。
もったいない!

食料生産段階(農畜水産物など)の廃棄はフードロスで、
食品製造段階(工場やお店で作った食品など)や消費者(冷蔵庫で腐らせたり作りすぎ食べ残しなど)の段階は食品ロスだとか。

これらの問題を解決する必要があるとのことです。
当然ですね。

もう一つのポイントは、宮崎の農畜産業のすごさと懸念でした。

宮崎は、ものすごく効率よくたくさんの良質の農畜水産物を生産しているにもかかわらず(日本トップクラス)、
生産者の利益・収入がとても低い! (日本の最低クラス)。

宮崎の物価安が響いている様子が窺えました。

そういえば、
このことは、直近、餃子日本一! の話題でも取り上げられていました。

朝日新聞デジタル2021/2/5号
https://www.asahi.com/articles/ASP2553VBP25TIPE01M.html
購入頻度は日本一なのに、購入額は3位。

つまり、おいしくて安いから何度も買っているということ。

大量に出回る餃子の値段が安い。
それは、質がよくお手頃なお値段の商品をたくさん作って消費者にも支持されているのに儲けが少ないということ。

つまり、
食材生産段階の農畜水産業でも、
その食材を使って食品を製造販売している産業でも、
なんだか同じような問題があるみたいなんです。

生産製造する側の儲けが少ない。
食料提供という川の上流下流ともに同じ問題を抱えている感じです。

このことは、
そこで働く人たちの可処分所得が低くなることに通じるので、
都合、財布のひもが固くなり、
それによってお金が市中に潤沢に流通しづらくなり、

結果、
お金が回ってこない人が発生する。

つまり、
全体的にお金に余裕がなくなり、困窮リスクが高まる。
という懸念を持ちます。

これ、
宮崎の経済全体の問題のように感じています。

さて、
商品にならない余剰な農畜水産物は廃棄処分だそうです。

廃棄せずに社会貢献のために利用しようという意志が、
今回イベントのテーマの買わずに配るにつながったのでしょう。
困窮などの理由で食品を購入しづらくなっている人に配るのですね。

これについては、
生産者-利用者ともにwin-winなので大賛成です。

とはいえ、
生産者の収入の低さについても何か対策を考える必要があるなと感じました。

だって、
余剰廃棄分を生産するのにもコストがかかってるんだもの。
コストを回収したくても商品の「安さ」は変更できないため価格に転嫁できないのだから相当経営を圧迫しているはずです。

質がいいのに廃棄せざるを得ない食材食品を配る仕組みができたら、
余剰廃棄は減るし、おいしい食材食品を食べられて喜ぶ人が増える。

それは、
生産者の人にとってもきっとうれしいことでしょう。
働きがいにつながるでしょう。

でも、
頑張って働いても収入が増えないという今の状況だと事業維持継承が難しいだろうから、
余剰分を配るというフードバンクモデルも持続継続できなくなるリスクが低くないんじゃないかなと思うのでした。

そもそもから、
事業者とその家族が困窮状態になりかねない状況は改善しなきゃならないと思うのです。

と言いながら、
私にはどう改善したらいいかのアイデアが絞り出せないのが悔しいところ。
アイデアの困窮ですね。

こんなことを色々考えながら、
フードバンクの根本思想は何だろうなと考えました。

その結果、

フードバンクの大本の発想は、

私の蓄えを、蓄えが不足するあなたと分ける。

という発想なのかもしれないなと思いいたりました。

あくまでも私の勝手な解釈です。

とはいえ、この勝手な解釈を元に、
思索を進めてみました。

分けるとき、
何を分けるかについての基準は、
あなたと分けても私が困らないもの。
でしょうか。
有り体に言えば、余っている蓄えでしょう。

蓄えのジャンルは、
元気が有り余っている人は、労働力かしら。

お金が有り余っている人は、お金。※お金配っている著名人がいますね。

時間が有り余っている人は、時間。

食材が有り余っている人は、食材。

専門スキルが有り余っている人は、スキル。
※プロボノはこれになるかしら。

アイデアが有り余っている人は、アイデア。
・・・

自分が分けやすい蓄えは何?

こういう自問を一般人がフツーにする時代が来るのかもしれませんね。

そして、
この思想を大規模に組織的に実行する際には、

私とあなたの間に、第3の蓄える場があった方がいいのでしょう。

社会の共有資源を蓄える場。

その象徴がフードバンクのような気がします。

関係皆さんに感謝。

  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと

「助けて」を知らないってこと。

2021年03月18日

人様に迷惑をかけることにとっても気が引ける。
そのために、
どれほど辛い思いをしていても、孤独で痛みを抱えていても、どれほど困窮していても、

自己責任だからしょうがない。
そもそも自分は助けられるほどの価値はない。

などと
と思い込んでいるところの、

「助けて」と言えない。

人がいます。


そしてその他に、

「助けて」を知らない人たちがいると思ったのです。

これまでに、人が自分の助けになるってことを教えてもらえなかった人。

虐待・逆境体験などで。



いずれにしてもとにかく、
困ったときは、

助けてって言っていいんですよ。  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のこと

虐待は他者と比べることが第一歩

2021年03月17日

自分が虐待を受けているかどうかと言うことは、

フツーと比べることで気づきます。

だから、
フツーの人と比べることは大事なんです。

それが自分の心と身体の安全確保につながるからです。

このようなことから、
支援者は、フツー(の状態)を教える必要があります。

もちろん適切に。
その子が、恥の感覚を持ったり、自分にスティグマを持ったり、責任を背負い込まないように慎重に慎重に配慮して。

と思っています。

  
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Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)社会のことトラウマ

誰もボクを見ていない 3

2021年03月05日

ノンフィクション書籍
『誰もボクを見ていない なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(山寺香著 ポプラ社刊 2017)
の感想の続き最後の記事です。

以下、引用部分は17歳少年の思いです。

さて、ここまでつらつらと考えてきて、大問題が立ち上がります。
少年と共通する部分が多く、勝手な推測ではありますが共感理解する点がとても多いのです。

でも、
私は、犯罪を犯していないのです。
よく考えると、虐待を受けても逆境に遭っても犯罪を犯していない人は大勢います。

この違いは何なんだ?! と考えます。新たな大問題です。

私の両親は、世間の権威やルールを軽んじていました。
そして、我流でやっていくのが好きな人たちなんです。

私も、幼い頃はその流儀に従っていましたが、学校に行き出すと、それはまずいことに気づきます。
どちらかというと、うちの家がおかしい。親が常識知らずだ。ということに。

そのため、
中学に上がる頃には、親と距離を置きだしたのでした。
全幅の信頼を置かなくなったというか、自分と関わりのあるフツーの大人としてみるようになったというか。
その頃から、親には丁寧語で話しています。
親にですます調で話す私の様子に、びっくりした級友がいました。

親の言う通りにやってたらいかん!
との思いから、
物心ついたときには、
犯罪だけはやらない!
そう決心していました。

逆に言うと、
そう強く決心せねば暴力犯罪に手を染めそうだったからでしょうね。

少年の言葉を借りれば、
「流れに逆らわないと手遅れになりかねない」
と直観的に思ったのでしょう。

お陰で現在まで、
親を親とも思わないという心の痛みは残りつつも、なんとか手遅れにならずにすんでいます。

少年の言葉が胸に残ります。

でも誰も教えてくれない。危ないから、と。誰も見ていない。p192


誰も、
少年がそこまで追い込まれていることに気づけなかった。
まさに、
犯罪を行おうとしている姿を、
高層ビルから飛び降りねばならないような状況になって怯えている孤独な少年の姿を、
誰も見ていなかった。見ることができていなかった。

だから、
誰も教えてくれなかった。少年がマズい状況にいることを。
それはマズいよって。

そして、
どうやったらその状況から脱出できるかを。
誰をまたはどの機関を頼ればいいかを。

そうなんです。止めてくれないんです。親は。
ガイドなんかしてくれない。
期待ばかりして、要求ばかりして、結果の批判ばかりして、子どもをバカにするばかりで。

だから自分で自分を強く縛り付ける。
立派であることに命をかける。

だからでしょう。
自分が配慮のないこと人様に迷惑をかけるようなことをした記憶が自分を繰り返し繰り返し厳しく責めます。
今では大分軽減したとはいえ、心が疲れているときはフラッシュバックに悩まされます。

とはいえ、
この決心だけで、犯罪を犯さなかったというのは、言い過ぎのように思えます。
仮にもし、少年の母親が自分の母親であったらと想定したら、もはや自信はありません。

私の両親は、世間は軽蔑していましたが、悪いことはしない。という人並みの良識はありました。

法を守るとか。金を稼ぐには働くとか。も。

親特有の奇妙な寛容さのために相当ずれていたとはいえ、親の認識はぎりぎり常識の範疇であったと言えるでしょうか。

犯罪をそそのかすこともないし、犯罪しないことを責めることもしない。悪いことをしたら咎める。
こういう普通常識は持ち合わせていました。

それですら、ひどい虐待・逆境だったのです。
いわんや少年の環境をやです。

人は環境の影響を大きく受けます。
非力な子どもであればなおさらです。

私の親レベルの常識を持ち合わせていれば、
主人公は罪を犯さなかったかもしれません。

私の親が主人公の母親だったら私は罪を犯していたかもしれません。

結果が、環境次第の面は拭えません。

とはいえ、
結果を左右する要件としては、

やはり子どもの自力に頼る部分は相当大きいのが現状です。

非力な子どもにできることはとても限られているけど、
流れにまかせるだけじゃダメになってしまうから。

チャンスを逃さず流れに逆らう。
流れに上手に棹さして。
したたかに。
自分の望みをそれなりに叶えて。
そこは厚かましく。

隙あらば逃げ出す心構えで。
安全第一としながら少しでも自分の利益になるよう環境に働きかけて。

負ける戦いはせず。
今は負けを受け入れ。
隙あらば勝ち逃げする覚悟で。

自分の利益になる環境を探し出し。
信頼できる人に助けを発し。
時が来るのを待ち。
それまで備えておく。

自力を蓄えておく。
知識を蓄えておく。
体力をつけておく。
味方を確保しておく。

いろいろやりながらしのぐのです。

その時が来たときに、チャンスを逃さないように。

高層ビルから飛び降りることを強要されたときは、もう怖いものはないのだから吹っ切って逃げ出して助けを求めるように。

この項終わり
  
タグ :犯罪虐待