罪悪感と感謝を入れ替えるといい話

2021年03月19日

罪悪感を感じたとき。

ふっと、意識を切り替えて、

感謝の念を持つといいんじゃないかと、

それこそふっと思い立ちました。

至らぬ私を許してくれてありがとう。

私がやらかしたことを大目に見てくれてありがとう。

私に、イケないことを教えてくれてありがとう。

反省して、これからちゃんとやっていくね。
お陰様でって言えるように。

あなたが、身を挺して教えてくれたのだから。

ありがとう。
ありがとう。

そうして、
過ち一つをその後の人生の数千の人様への貢献のきっかけにしていくのですね。

  
タグ :感謝罪悪感


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)心理・カウンセリング

誰から見つけられるかでその人の人生が決まる話 2

2021年02月27日

続きの記事です。

犯罪少年の苦悩苦境は、司法領域で発見され、対応がとられたのでした。

この経験から私たちは、
苦境にいる子どもを発見するだけじゃなく、その子を救い出す行動が必要であったのだと発見したのでした。

さて、
児童福祉に関する強い力を持っている児童相談所で発見されたら、児童養護施設で適切な養育を受ける場合があります。

児童福祉の専門家から発見され、

被虐待児として認められ虐待環境から救出され、親の代理として社会から養護を受けることになります。

社会には、児童を守り育む責任があるからですね。

その子の親・保護者に代わって適切な養育をしよう!

と、大人たちが行動します。

ゆえに、
社会の責任で、専門のスタッフが適切な養育を行います。
社会的養護と呼ばれています。

国が子どもの最善のために養護するのです。
だからこれで、
万事解決。万事順調。

となりそうですが、実際はそうはいかないようです。

児童養護施設で育った3人が、児童養護施設の実情を伝え、入所児童に対するメンタルケアが必須になるように運動が展開されています。
当該サイト
「THREE FLAGS 希望の狼煙」です。
URLは
https://three-flags-kibou-noroshi.jimdosite.com/

保護されて、適切な養育を受けたにも関わらず、精神的心理的傷は癒えておらず、

そのために社会でやっていくに際して、いろいろな苦労をしていることから、運動しているとのことです。
※施設入所した被虐待児が心理的ケアを受ける。こんな当たり前のことも実施されていないんですね日本では。

当該書の主人公とは違い、
命の危険があるとして、発見保護され、その後は比較的まともな養育を受けた人たちですら、心の傷については十分に発見されていないようです。

私個人の胸のうちを記せば、
一時期とはいえ、保護されて、比較的まともな大人たちから養育を受けて、やっていいこととか悪いこととか基本的人権とか、世の中の常識をある程度知る、経験ができると言う点から、保護された人たちのことを恵まれていていいなぁというのが正直なところです。

寄る辺がないということを知ってもらっている。
職務上とはいえ、保護の措置が終わればこの先苦労するだろうと思いをいたしてくれる人もいる。
発見してもらって、保護してもらって、養育してもらっているからです。

虐待後遺症が予見されるにもかかわらず、
そのケアが必須でないなど国の施策としては不十分であり、
18歳になると支援が終わり、
世間に独り放り出される状況になってしまうという不完全な制度であったとしても。
寄る辺ない状況に戻ってしまうとしても。

一時的とはいえ
救い出してもらったから。
まともな扱いをしてもらったから。

この、社会的養護を受けた子どもの数はどれくらいかというと、
4万5000人だそうです。※報告書作成時点で。
(令和2年10月 「社会的養育の推進に向けて」 厚労省HP掲載)
URLは、
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/syakaiteki_yougo/index.html
(「社会的養護とは」の項のPDF資料)

一方で、児童相談所での児童虐待相談対応件数は、
19万4000件だそうです。※令和元年中の速報値
(「令和元年度児童虐待相談対応件数(速報値)」 厚労省HP掲載)
URLは、
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/dv/index.html
(「児童虐待相談対応件数の動向」の項のPDF資料)

4万5000人は、報告書作成時点現在で養護している人数で、
※数年前に発見されて現在まで養護している人数も含む。

児童相談所の相談件数は1年間の件数なので、

お互いを比較して何分の一だとか何倍だとか言うことはきませんが、

苦境にいることが発見され公的支援機関に認知された子どものうちの、
だいぶ少人数が苦境から保護・養護されているみたいです。
※当該書主人公少年は、児童相談所が介入していました。

ということは、
実のところ、
当該書の主人公のように、
苦境にいることは発見はされ児童相談所にも認知されているけど、

苦境から脱するサポートが不十分で、
ゆえに、まともな養育を受けずに大人になったところの、

児童福祉の恩恵に十分に与っていない被虐待児童、逆境の中で成長して行っている子どもたちが、日本にはとても多くいるということです。

さらには、
人々から発見されていても、
児童相談所などの支援につながっていない子どもや、

発見すらされていない子どもも含めると、

日本では、
ものすごい数の子どもたちが苦境に中で暮らしていることが想像できます。


それは、
発見されていたとしても、十分なサポートが提供されなかった。
あるいは、
発見されなかった。

その状態で子ども時代を過ごし、
大人になった子どもたち、親になった子どもたちが多くいることを示唆しています。

そんな大人になった子どもたちが立ち上がった運動もあります。

大人の未来 ~虐待サバイバーが生きやすい社会へ~
当該サイトURL
https://otona-mirai-55.jimdosite.com/
「(仮)児童虐待被害者支援法」の制定を目指しています
~支援法に盛り込みたい支援~
①虐待の後遺症(複雑性PTSD等)のトラウマ治療の無償化もしく は保険対象化
②トラウマ治療ができる専門的治療者の育成
③経済的支援(就労支援や障害年金など)

とのことです。

私聞風坊は、こちらの属性なので、訴える内容がよくわかります。
ほんとに苦労してますもの。

治療者や理解者を探し出すのに一苦労ですし、それにはお金がかかるのだけどお金を稼ぐための就労で苦労するし、

そもそも、そこまでしてまで生きる意欲はないし、でも苦痛は24時間感じてるしで。

誰も救い出してくれない自分でやるしかない相変わらずの混沌の中で生きていますもの。

とはいえ、社会的に養護された人はこんな苦労をしないかというと、まったくそんなことはなくて、
この点、ほとんど同じ苦労をするみたいです。

寄る辺ないをキーワードにNHKが特集していますが、
両者同じく寄る辺がないんです。
社会でのやって生き方も教わってないんです。
だから、生きづらいんです。

虐待・逆境体験した子どもたち、大人になった子どもたちは一様に生きていくことに苦悩しています。
痛みを抱えています。

発見。

されるかされないかで大きな違いが生じる。
特に適切な力を持った人に発見されるかされないかで大きな違いが生まれる。

つらつらと記してきて、最後に一つ。

アリス・ミラーは、虐待は魂の殺人の旨指摘しています。
『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(アリス・ミラー著 山下公子訳 新曜社刊) 
出版元サイト
https://www.shin-yo-sha.co.jp/book/b455681.html

生命の危険に注目している支援者・支援機関から発見されると、比較的すぐ保護されるような気もします。

魂の危険に注目している支援者・支援機関がいてくれたらいいのに。
そう思うのでした。

この項終わり。
  


誰から見つけられるかでその人の人生が決まる話 1

2021年02月26日

なにかしらで困っているとき
や、
誰かの手助けがいるとき
に、

自ら誰かに助力を求めたり、
または、
誰かから助力の申し出があったりして、

困難が解消されることは一般的です。

ところがこの際、
(あなたが)助力を求めた相手、
または(あなたの力になろう)と助力の申し出をしてきた相手

の立場によって、

困難が解消されるかどうかが決まることは少なくありません。

解消するかどうか、
相手次第の面があると言うことです。

どういうことでしょう?

”誰に”発見されるかで結果が違ってくるように思えるからです。

例えば、
スポーツの才能、勉学の才能、アートの才能、職業上の才能・・・などなど。
発見されたからこそ、その才能が開花し、人生の往く道が決まることが多くあります。

才能を見出し、才能を開花させ、伸ばし、そして次のステップへつなげられる人に発見されれば、存分に自分の才能を発揮できる人生を送れるでしょう。

また例えば、
虐待や逆境体験から逃亡した未成年が、夜露をしのごうと他人の住居に侵入して警察に捕まると、

非行少年として発見されたことになるでしょう。

悪いことをした人として公認されその認識にもとづいて対応されるでしょう。

つまり、
虐待などの心の傷みのケアは後回しにされ、懲罰指導・再犯防止に重点を置かれると言うことです。

この未成年者がもし、
学校に通ってないときに、先生から発見されたとしたら、不登校児童生徒になるでしょうか。

そうなったら、
不登校児童生徒として公認され対応されるでしょう。

もし、
眠れてないようだし食欲もないようだし、全体的に具合が悪いようだから、なんかの病気かもしれないからと保護者が心配して、

精神科を受診したとしたら、精神疾患の患者として発見されることになるでしょう。

精神的な不調の未成年者とし認識され治療されるでしょう。

もし、
ひきこもりの支援機関だったらひきこもりとして。

またもし、
ワンストップ相談窓口に行って、就労支援が希望だとなったら、ニートとして発見されたことになるでしょうか。

そしてもし、
親が学校の先生だったり、弁護士だったり、宗教家だったり、医者だったり、里親だったりしたら・・・。
先生の子ども、弁護士の子ども、宗教家の子ども、医者の子ども、里親の子どもとして発見され、認知されるでしょう。

そして、
理想的な環境で養育されてる!
虐待があるなんてあり得ない!
と決めてかかられることが多いでしょう。

その環境でひどい目に遭っているなんてまさか!?
って感じで。

そのためもし、
不適切な養育を受けていたり虐待があったりしたとしても、
発見は相当遅れるかもしくは発見されないでしょう。

『誰もボクを見ていない なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(山寺香著 ポプラ社刊 2017)
という本があります。
祖父母を殺めた被虐待児童のドキュメンタリーです。
この未成年者は、犯罪者として強く発見されます。

でも実は犯罪者として発見されるまでに、いろんな大人たちに発見されていました。

実父とも交流はあったし、親戚もいたし、数年間とはいえ学校にも通っていたし、生活保護も受けていたし、児童相談所も関わっていたし、仕事もしていたし・・・。

インフォーマル、フォーマル両方の大人たち、特に虐待に意識の高い教育や福祉の専門家すら関わっていたんです。

それは、
犯罪者として発見される前にいろいろ場面でたくさん発見されていたことを意味しています。

でも、これといって手助けしてもらえなかった。
虐待環境から救出してもらえなかった。
罪を犯して、やっとしっかり発見された。

そうしてやっと裁判を通して逆境体験に目が向けられた。
やっと一番の核心を発見してもらえたのでした。

それは、(社会が・大人たちが)何をすればいいいいのか? の発見でもあったようです。

社会や大人たちは、少年が罪を犯すことで犯罪少年を発見しました。
そして、法に従い犯罪者として収監しました。
収監したことが虐待環境から救い出すことになったことを発見しました。

裁判によって、少年の境遇がつぶさに明らかになってきました。
報道によって、社会の多くの人が少年を発見しました。
犯罪少年が虐待を受けた児童であったことを認識しました。

ジャンルでいうと、司法の力が発揮されたとなります。
司法の力で裁かれ、刑を受け、そして救われるきっかけが生まれた。

でもそれでは遅いので、
そうじゃない方法で、救い出す方法が必要なんだということを発見(気づき)しました。

いえ、思い知らされました。

発見だけじゃなく、救い出す行動が必要であったのだと発見しました。

この項続く  


罪悪感や恥の感覚は邪念なので払うのがよろしい話

2021年02月18日

心理支援場面では、罪悪感や罪責感によく出会います。

そして、
罪悪感や罪責感とセットみたいに恥の感覚も持ちます。
自分を恥じ入るのですね。

悪かったなぁ。
いかんことしたなぁ。
お恥ずかしい限りです。
穴があったら入りたい。

これらは、
実はよくなじんだ感覚ですし、

次は恥をかかないように十分に準備して取り組もうとか、
罪悪感を解消するために、まずは誤って、そして次からはよりよいことをしようとか、
うまく使えば、改善に役立つ感覚なのですが、

悪さすることも少なくありません。

罪悪感にさいなまれて、それしか考えられなくなってしまうこともあるからです。

一向に、
じゃ、次こそはうまくいくように、あの点を変えてやってみよう。
とか、ならない。

罪悪感にひたる。

わびる気持ちででいっぱい。

恥の感覚にひたる。

だけ。

そんなとき、誰かからの、改善のための助言は聞き入れられません。
穴があったら入りたい気分だもの。

でも、
助言を聞いて、言動を改善すれば、同じように罪悪感を感じるようなことはやらかさなくなるのに。
恥かくこともなくなるのに。
他人様に迷惑をかけることもだいぶ減るのに。

ただ、やらかしたことを改めればいいだけなのに。

それは、
テレビのリモコンでエアコンを入れようとして失敗して、

あ、ちごた。

として、
改めてエアコンのリモコンを使って、エアコンを入れるようなもの。

ただそれだけで、ご機嫌な環境が提供できる。

このとき、
お客さんにエアコンが使えなかったという罪悪感とか、風邪をひかせちゃったかもしれないとという罪責感とか、エアコンも使えないのか自分とかいう恥の感覚とか、
無用なんです。

間違った行動をすぐ止めて、
エアコンのリモコンであることを確認して、スイッチオン。
という適切な行動をして、その習慣を身につければいいだけだもの。

古い行動を改めて、
新しい行動を身につけようとしてるのに、

もし、
罪悪感や恥の感覚のせいで、それが邪魔されているとしたら、その感覚は邪念です。

邪念は捨てるのが得策。

望ましい行動をすることに集中しましょう。
  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)心理・カウンセリング

寄り添いは腰が引けた支援じゃない

2021年02月10日

心理カウンセリングの基本は、寄り添いといわれています。

私は、
相手の心の動きに寄り添う。
と習いました。

それはつまり、
行動には(原則)寄り添わないってことですね。

例えば、予約時間外にやってきたときは、
その気持ちは察するけれども、時間外来所の行動には寄り添わず、
次の予約を入れて帰ってもらうようにしたりします。

もし、このとき、腰が引けてて、
時間外でもカウンセリングしたとしたら、

社会生活の基本のキである
人との約束
は破ってもいいよ。
ってメッセージを伝えることになるかもしれません。

対人支援は総じて、
社会生活をなるべくスムーズに送れるようにするのが役目です。

腰が引けた支援は、この邪魔をすることになるかもしれないからです。

相手が、自分の問題を、自力で解決したり、自力で解決するために誰かに協力を得られる力を強めるたりすること
を支えるのが、
そして、
その道のりに寄り添う
のが支援職の仕事です。

この道のりは決して平坦ではありません。

へっぴり腰ではともに歩んでいけません。

腰を入れて、
腹をくくって、

相手の心に寄り添わねばなりません。

いえ、腰を入れねば寄り添えません。

人の心に寄り添うには、
心の強さ、
腰の強さがいるのです。

寄り添いと言うと、
ただ話を聞きているだけ、共感しているだけ、励ますだけ、の表面的な弱っちい支援の印象すら持つこともあります。

きっと、そんな心構えで支援している支援職が少なからずいるのでしょう。

本来は、ものすごく心の芯の強さのいる関わり方なんです。
寄り添いって。

支援職は、今一度自分の寄り添い方を見直してみるとイイかもしれません。

心に寄り添っているのか?
行動(要望)に寄り添っているのか?



  


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)心理・カウンセリング