仕事の仕方だけを覚えるんじゃないんだ!

2019年07月05日

 齢50を迎え、人生を振り返ると、

 私、結構働いていたなと思うのです。

 最近。

 実家が家業していたので、そのお手伝いから始まり、
 10代の頃は学校の休みに働き手として。

 他に、
 塾の講師とか、プロレスの会場設営とか、缶工場の短期とか、バイトもいくつか。

 20代はサラリーマン。

 30代はひきこもりで自助活動で社会活動。
 加えて、
 自宅でテープ起こしの請け仕事や、NPOでバイトも。

 40代はカウンセラー。

 そして現在も働いている。

 思えばずっとなんかしてる。

 ある意味働いている。

 だから、いろんな働き方を知っています。

 世の中、
 いろいろな職種、いろいろな職場があり、
 いろいろな人たちがそこで悲喜こもごもありながら、
 フツーに働いています。

 だから、いろいろな働き方があるのを身をもって知っています。

 働き方は多種多様なんです。

 そして!

 サボり方も多種多様!

 煙草を吸う人は、ちょこちょこ時間をとって休憩という名のサボりをしている。

 作業の合間をぬって、ボーッとしている人は多い。私も御同様。

 PC仕事だと、ちょこちょこ休憩がてらネットを見てたり。

 今じゃスマホをちょい見するのでしょうか。

 同僚と冗談言い合うことなんかしょっちゅう。

 そんなこんなで、
 仕事って、待ち時間がわりかし多いんです。

 すき間時間というか、スキのある時間というか。
 仕事をしないそういう時間も。

 その時間に、上手にサボる。

 仕事に支障のないように。

 息を抜く。

 そんなことも仕事を通して覚えたのでした。

 仕事の仕方と仕事のサボり方。

 両方身につけて社会人やってます。

 仕事に就いてからのことが不安で仕事に就くことに困難をおぼえる人は、

 仕事のサボり方を覚えればいいように思えます。

 ちょこちょこ上手に息を抜く方法はたくさんあります。

 お手本は、
 社会人全員!

 仕事って、上手にサボりながらやっていくもんなんです。
  
タグ :仕事サボる


寄りそっちゃダメな話

2019年03月15日

 一般的に、
 誰かを支援する際には、相手に寄りそうことが大事とされています。

 だから、
 支援職は、まず寄りそいます。

 そして、寄りそいます。

 なにがあっても、寄りそいます。

 やっぱり、寄りそいます。

 いつでも、寄りそいます。

 どうしても、寄りそいます。

 それしかやっちゃいけないかのように、

 寄りそいます。

 寄りそわねばならない!

 という呪いをかけられているように。

 否定もせず、肯定して、受容して、傷つけないように、厳しいこと言わないように、

 ほんとは病気なんだけど、その事を言わないように。
 
 ほんとは学力が足りないのだけど、それを言わないように。

 ほんとはそっちの方向だとうまくいかないんだけど、それは言わないように。

 相手の気持ちに寄りそいます。

 そして、状況に変化が起きない。ずっと、今のまま。何年も一緒。

 なんてことは割とありがち。

 こんな風になること、
 特に、ひきこもりや不登校系の支援場面では多い感じがしています。

 それゆえ、
 今ここで、相手の気持ちや行動に共感し、支持し、応援することが、

 人から助力が受けられる可能性を閉ざすことに、
 協力することにならないか?

 結果的に、
 支援者である自分の寄りそいが、
 心や身体の健康を害することに協力することにならないか?

 と、
 寄りそい・共感を批判的に考え直してみることは重要に思えます。

 例えば、
 ひきこもることで、安全を確保し、自分の心や身体を守っている場合、
 数十年これをやっているとデメリットの方が上回るようになります。

 動かないと身体は働きが悪くなります。
 また、
 社会と関わらなないと孤立により他者からの手助けも得られなくなるからです。
 ※自分がここにいる事を知っている人がとても少なくなる。

 それは、心と身体の健康を害することにつながります。

 だから、
 こんな状態になっている時、そうなりそうな予測ができるとき、
 ありきたりに共感、受容しちゃダメなんです。

 もし、ありきたりに共感受容すると、
 相手は、今のままでイイんだ、今のやり方しかないんだと思っちゃうことになりがちだからです。

 だから、
 支援する人の責任として、

 今後のリスクなり、予想されるデメリットなり、

 今のやり方以外の方法なり、

 を伝える必要はあると思っています。
 ※説明責任なんていわれてます。

 それは、
 相手が自分を否定されたと思うリスクをはらんでいます。

 それでも、伝えねばならないと思っています。

 それが、責務だからです。 
 ※支援職としておまんまくってる人は特にそうですね。

 傷つけないように、傷つかないように、当たらず障らずで、

 相手の自己回復をひたすら待つ。

 という関わり方は、この責務を果たしてないかもしれません。

 回復する力が弱っている相手には、
 こちら(支援する人)の助力が強く要されるというのは事の道理。

 だからとりわけ、
 支援職は、腰の抜けた寄りそいじゃなくて、

 腰のすわった、リスクを引き受けた寄りそい方が求められているように思えます。

 相手の困難の度合いが強ければ強いほど。

 支援する人には、心の強さ・タフネスが必要なようです。

   


親が変われば子が変わる話

2019年02月28日

ふと、こんな風に思ったのでした。

親が変われば子は変わる。
言い習わしだ。

親が変われば必ず子は変わる。
という人もいる。

きっとそうだろう。

ところが、
親は変わらない。

だからといって、
親が変わらないから子は変わらない。
親が変わらないから自分は変われない。
ということではなかろうに。

親が変わらなくても自分は変わるよ。
親は変わらないなら自分が変わる。
というチョイスは子どもの手の内にある。  
タグ :変化境界


Posted by 聞風坊 at 06:00Comments(0)アダルトチルドレン

瞑想すらできなかった話

2019年02月20日

 現在、トラウマケアから健康な人のストレスケアまで幅広く活用されている瞑想です。

 一般的に、目を閉じて行われます。

 が、この目を閉じる行為ができなかったんです私。

 瞑想では、
 気持ちを落ち着かせるために目を閉じるのですが、

 つまり、
 目からの情報を遮断するのですが。

 目からの情報がなくなるととても緊張が高まるのです。

 目から情報が来ない分、耳をすましてしまいます。

 身体全体で情報を補足しようと全身を緊張させます。

 結果的に、気持ちが高ぶります。
 リラックスしない。

 つまり、
 目をつぶる意図が台無し。

 ちなみに、
 夜、寝つきが悪いのもこのからくり。

 目を閉じると緊張する。
 こんな身体の状態なので、

 身体が感じる緊張・不安と付き合いながら、

 緊張をほぐしていく必要がありました。

 目を開いたままで、瞑想呼吸をする。

 それも数分はできないので、

 2~3回やる。

 2~3回分、緊張がほぐれたことを実感する。

 次は1~2回、回数を増やす。

 その次は、数十秒リラックスした時間を味わう。

 その次は、上がった肩、偏った姿勢など、気づいたところからこわばっている筋肉を緩める。

 そんな感じで自分にできる範囲で、緊張をほぐし、

 リラックスを味わい、

 そうして、

 そうして、

 そうして、

 やっと最近、フツーに目を閉じることができるようになりました。

 いたずらに緊張しなくて済む機会が増えました。

 フツーの人ってきっと、こんな状態が多いのだろうな、一日のうちに。

 なんて思います。

 そんなこんなで、やっと瞑想ができるようになってきたというお話でした。

  
タグ :瞑想瞑目


親子関係が責任のきずなで成り立っている話

2018年11月20日

 親子の絆という言葉があります。

 およそ、
 愛情にもとづいた親密な関係。を意味しています。

 一方で、
 虐待を受けた子どもは、恐怖の絆で親と結ばれている。という指摘があります。

 怖いから離れられない。そういう親子関係です。

 さて、
 親子関係について、最近ふと思いついたことがあります。

 責任で結びついている関係があるんじゃないかと。

 うちの子を何とか一人前にしないとならない! そんな親の責任。

 ご飯を食べさせ、風呂に入れ、うちの子の健康を保たねばならない! そんな親の責任。

 一方の子どもの責任は、
 子どもとしての責任を果たすこと。食事をし、眠り、お手伝いをし、学校に行き、総じて親の言うことを聞く。
 そんな責任。

 日ごろから、親の相手をし、愚痴や相談に乗り、親の問題の解決を手伝い、

 親が病気になれば、
 看病し、

 老後の世話を焼き、

 親が心地よく暮らせるように、
 最低でも心地悪さがなくなるように、
 親の世話を焼く。

 親の心の平安への責任があるから、悪さはしない、けがや病気や悩み事で心配かけない、だから相談しない。
 自分で解決する。できなければあきらめる。

 進学も勉強も遊びもほどほどに。自分が担う責任ある役目の邪魔にならないほどに。

 親が不安にならないようにいつも親の目の届くところにいて、
 それは、
 自分が不安にならないように何か起きたらすぐ対処できるようにという意味もあって、

 だから、
 常に待機しておく。
 親の安心のために。
 自分の安心のために。

 だから、仕事は早く片付ける。
 食事も遊びも勉強も何でもかんでも。

 そうして次の何かのために待機する。

 それが子どもの責任。

 親も子も、相手に対する責任ばかりで関係を築いている。

 都合、相手と関わることがまるで仕事のようにストレスになる。
 相手が重荷になる。

 それでも切れない親子の絆。

 責任の絆。

 子どもへの責任。
 こもる人の親と話をしているといつも感じることです。
 子への愛情よりも。

 食べさせにゃいかん、学校行かさないかん、親じゃかい。
 私聞風坊はよく言われました。
 しょうがないから親をやってる。
 そんな感じを受けました。

 迷惑をかけてる自分。
 消えたほうがいいはず。
 うっすらと思っていたようです。

 ならば、
 立派に役目を果たそう。

 中年大人になった今、
 より強く感じます。
 親の面倒を見る責任。

 私たちはお互いに、
 親子という役割を担い、
 その責任を果たすことでつながっていた親子だったようです。