一般社会のフィールドになじまないことを痛感したのでした

2021年08月09日

ここしばらくフィールドの違いを痛感するのでした。

思い返せば、アダルトチルドレンやらメンタル不全やらひきこもりやら不登校やら障害者福祉やら生活困窮者やら、社会参加に困難を抱える人たちの側にずっといる私。

当事者でありつつ支援者であり続ける私。
自分にとって当事者と支援者の領域は地続きです。

当事者体験こそ支援の役に立つと思ってるし、
人を支援するという発想は自分自身を支援するという意味合いで当事者の生きる役に立つと思ってるからです。

ゆえに、
私の感覚、ものの見方、価値観などなどは、
すべて社会参加困難側の立場から形作られています。

そんな私が最近、社会参加できてる人たちとその人たちを支援する人たちと関わるようになって、痛烈な感覚を伴ってやってきたフレーズが
「フィールドが違う!」でした。

社会のルールや常識がフツーに守れる。
朝起きて学校や仕事に行って夕方帰宅して、食事して風呂入って寝る、必要な連絡は適宜取れてなどがフツーにできて、

心揺さぶられることは色々あるけど大きく崩れることもなく基本精神的に安定してて、

今日と同じような感じで明日が来ると疑っていない暮らしぶり。

数ヶ月後も今の状態とさほど変わらず安定し、

数年後の明るい未来(子どもの健全な成長だったり、家族みんながいい状態のままのよりよい便利な暮らしになってるだったり、笑顔があったり、孤立せず仲間で集まったり)を描ける人たちと、

そんな普通人の平凡な日常がこの先の人生でも送れるようにサポートする支援。
ってのがあるんだなと衝撃を受けたのであります。

だって、自分の関わる人たちは、明日のことが明るく考えられない人たちなんだもの。

これから何が起きるか戦々恐々としていたり、どうせまた同じ痛い目に遭うさと確信めいたものを持っている人たちだったり。

そのときに体調が良ければね。と予定を立てるにしても人生に強く制約がかかっている人たちなんだもの。
自分も含めてね。

一応存在は知ってはおりました。でも別世界のことだと思っておりました。だから、ノーチェックでした。

元気で明るく、走り回っている子どもが、成長に合わせてより社会適応できるように、大人になって社会で能力を発揮出来るようにと心を込めてのサポートする人たち。

夢を叶えるために、勉強したり練習したりする子を熱心にサポートする人たち。※オリンピアンとそれを支える人たちのように。

自分に合った職を見つけるために、相談し、訓練し、求人先を探す人たちを対人支援の腕によりをかけて熱意を持ってサポートする人たち。

自分とは違う感覚、ものの見方、価値観で生きている人たち。
その人たち同士のサポート。その人たちの中での支援される人と支援する人。

私とはフィールドが違う。

そしてきっと、その人たちも
私のフィールドに身を置けば同じ感覚を味わうと思う。

子どもは元気に走り回るもの。だから、どうケガなく元気に走り回らせるか? をわくわく考える支援者は、一言も発せずうつむいたまま固まった子どもに大きく戸惑うのだろう。

就労困難な人でも受け入れてくれる企業を熱心に開拓し、そこで働けるように面接練習やらちょっとした作業の練習のプランを立てる熱意ある支援者は、

連絡も無く予約をすっぽかす相手に怒りやら落胆やら複雑な気持ちを抱くんだろう。

それが、メンタル不全による過緊張(ほぼパニック発作)のせいだと気づくことは期待できないかな。

固まったままでいい、その状態でなにかできることを探してなにかをして成果を喜ぶ。
そういう小さな変化にやりがいを感じる支援者は、そんな繊細な配慮がいらない現場にとても戸惑うと思う。

私に何をしろというの?
この子、この人たちに何が必要だというの?
もう十分すぎるほど社会(他人の中で)でやれてるじゃん!

って。

自分のフィールドを確認しておくことは、
そして相手のフィールドを理解しておくことは、
大事だなと思うオリンピック閉会翌日なのでした。

※ここ数ヶ月作文する元気がなくて久しぶりのアウトプットは、ちょうどブログ開設11年目の8月でした。
  


精神疾患を抱える親の子なんだと腑に落ちた話

2021年06月16日

自分が精神疾患を抱える親の子だと気づいたのは、わりかし最近です。

子の名前を気に入らない。ってことを子に言う。
ひどいことばかり言う。
なにごとも必ずけなす。 
子の立場を思いやらない。
いつも一方的。
子に共感しない。

子と関わることをめんどくさそうにしてる。
食事作りや洗濯や弁当作りや風呂の準備やなにやかにや、
子に関する世話が自分を困らせていることを子にはっきり伝える。

子がどれほど親に迷惑をかけたか、
子がどれほど親に配慮していないかを繰り返し責め立てる、

これやられると、子どもはとても混乱します。
世話してくれて有り難いうれしい気持ちを持ちそうなのに、
気がつくと責められてごめんなさいな気持ちも生じる。
これ、メンタル的にとてもマズいんです。
いわゆる、頭が変になる感覚を持ちます。

そういえば私は、
混乱の中に生きてきた感じがします。

頭が混乱してる。あれやこれや思考がまとまらない。行動が落ち着かない。混乱してる。
気持ちも整理できない。混乱してる。

いつもあたふた。
だから、いつもその場しのぎ。目先のことだけ片付ける。それなら混乱しててもできる。

親は、
私が子どもだからと言うだけで、まったく我が家で起きていることを説明しませんでした。
同様に私の気持ちや考えを聞かない。※私からの説明を聞く気がない。
親は指図し、子はそれに従う。
そういうシンプルな構図で親子関係を認識していたようです。

だから、
私が自我を持って、No! と言い出したとき、親はとても困っていました。
同時に怒っていました。
(あいつのように)言うこと聞かない甘やかされたわがままおぼっちゃま息子だと。

つまり、
説明もなし、相談もなし、意見を聞くこともなし。
だからといって、高圧的に命令するでもなし。
指示だけ出す。
そこに意図のやりとり、感情の受け渡し、心の交流はなし。

説明しない、意見を聞かない、相談しない、
それは、
相手に価値を置いていないから。
馬鹿にしている、軽んじているから。

それは、私を家族の一員として扱わないってこと。
いつも部外者にしていたってこと。
蚊帳の外。

それでいて、
都合のいいようには利用する。
例)家族だから助けてくれ。子どもだから言うこと聞きなさい。
(親に)都合の良い子。

道具として扱う。
必要なときだけ利用する。
人として扱わない。モノ扱い。
メシを食わしてやってるのだから言うこと聞くのが当然という感じ。
今風に言えば、奴隷とか、よくて住み込みの従業員って感じでしょうか。
つまりは、
丁稚奉公の子の扱い。
または、
ケア提供者 care-giver

こんな風なので、

私の親はいわゆる毒親に当てはまるんですが、

それらは、
親の性格の問題とか、子育て方針の問題とか、しつけとかの問題とか、愛情のあるなしの問題とかではなくて。
精神疾患や精神機能障害とか精神科領域で診断がつくような状態から来るものだと、専門職となった今では分かります。
思いを言葉にすることがとても苦手だったり、自分の感情の起伏に振り回されたり。

特に、
ストレス脆弱性と呼ばれていますが、
ストレスの対処が不得手だと、状況の変化にひどく動揺するために、
自分の気持ちのやり場に困って、他者や自分を傷つける言動をすることがあるのですが、

親は、
それを小さな子どもの私に対して遠慮もなく繰り返しやってたのです。

ストレスでいっぱいいっぱいになっているので、
子がどう感じるか、どう思うか、
子にどんな影響があるかなんて気にしません。

子への配慮なんてありません。
親の心に子を思う余裕がないからです。

配慮がないと言えば、
私からしてほしくない言動をやめてほしいと頼んだ際に、
親は、

ただ、自分がそうしたかったからやった(言った)だけ。

と、悪ぶれる様子もなく笑顔でよく言ってました。
あきれる一言です。

これはストレスと言うより衝動性の問題でしょうね。
きっと自力で止められないんです。

さらに配慮がないと言えば、
我が家には、
私の他に、預かっていた子どもがいて、そっちの方が大事だとそのこと私の目の前ではっきり言っていました。わりかし何度も。

確かに、
預かっていた子は、自分の進路は親と相談しながら決めていたようです。
私は相談できませんでした。
※兄弟差別と言います。

預かっている子だから、よそ様の子だから大事にすることについて、
なぜか納得した私は、実の親にわがままを言わないようになりました。
親は預かっていた子の世話を優先する。
実子の自分は我慢する。
※とはいえ、こんな親なので、預かっていた子どもも相当苦労してました。

自分は親を頼らずに。
やりたいことは自分でかなえる。できないことは端からあきらめる。

どうせ大事にはされないのだもの。それならそれでいい。私は私。そんな気持ちでした。

親がかける愛情は、その子への方が強かったかもしれません。
激しい親子げんかしてました。エスカレートして親の折檻となりました。
※面前DV。

ちなみに、
私は激しい親子げんかはしたことありません。私が心を開いてなかったのでしょう。
早い段階で親に期待しなくなっていたのでしょう。

他者をけなすことは両親そろって盛んにやっていました。

そしてそれは、
誰とも関わらないことを推奨しているということ。

そんな両親は、
自分たちだけが正しいと思っていたようでした。
私の親は、自ら孤立を選んだ人たちでした。

親同士のけんかは毎日数時間続くことがざらでした。
目の前で罵り合うことも、遠くでケンカしていて、こちらに移動してまたケンカして、また別の所に行ってケンカしてと。
※これも面前DV。

その中で、私はテレビを観、ご飯を食べ、眠っていました。宿題もやってたかしら。
何が起こるか分からない、どんな悪いことになってもおかしくない。
だから、
早く、速く、早く、自分のやるべきことをやって、いつも何があってもいいように待機していました。
早く大人になって。力をつけて。強くなって。焦りにも似た願いを胸に。

子にまったく配慮しない、配慮ができない親の都合に合わせるために、
辛抱強く待機しておくのです。

夫婦ゲンカの動静に、聞き耳を立てながら。
おかげで変に聴力と思考力が発達したようでした。
そして、
断片的な情報から状況を把握するために、空想力、妄想力も。

親の私への関わり方は、
虐待分類で言うと、心理的虐待に当たるでしょう。
※ちなみに身体的虐待の折檻は時代背景的に普通にありましたヨ。

虐待は許されないことですが、
それは、相手(子)の立場に立てないことから来るようです。今なら分かります。

親は私に対する愛情がないわけではない。気遣いもしてくれてる。
でも、子が愛情を必要としている大事なときには・・・。
親の心に余裕のないときには・・・。
※日常ほとんどですが

きっと、
今、子のために自分が何をすればいいかが分からないのでしょう。

片親は実家から捨てられて厳格で冷酷な他人の中で大人になったようでした。
人権という言葉を心底毛嫌いしていたのですが、自分が人権を踏みにじられてきた思いが強かったからでしょう。

片親は、いわゆる合理的な配慮を受けていない。

両親とも配慮ある扱いを受けて育たなかった。
だから、自分の子への配慮が分からない。
当然です。

このことは、私は、
虐待の連鎖の中にいたということを示します。
間違いないようです。

そして・・・、

言葉は救いにもなるし呪いにもなります。
虐待の連鎖。
私がこの言葉に怯えて人生を送るようになるのは程なくでした。
  
タグ :虐待連鎖


我が家を施設のようだと思った話

2021年06月12日

自分の家は、施設のようだとの感覚を持ったのは、ごく最近です。

You Tubeなどで施設で育った人たちの体験談を見聞きするようになって、近しい感じがいっぱいあったからです。

一般家庭とは違う暮らしの独特のルールがあって、なによりもそれが優先される。
だから、
基本我慢している。
一定の緊張感が持続している。

自分を養育する大人は、
親じゃない。
世話をよくしてくれる人。

だから、敬語を使う。

許可を取らねばならない人。

食事の世話や病院に連れて行ったりの世話をしてくれる人。

よくしてくれる人。
一定の範囲で甘えられる。条件付きで欲求をかなえてくれる。

自分が子どものうちの今、
育ててくれてる人。

そういう意味で感謝してるし、心も寄せている。

そんな感じ。

さて、我が家は、
親たちの気まぐれでどうとでもなるルールに支配された緊張感のある場でした。
だから、気まぐれにいつ自分が捨てられるか分からない。

このことはきっと、
親が同じような境遇で育ったことの影響は大きいでしょう。
私と同じような緊張感を持っていたかもしれません。

片親は他人の中で育ち、力による支配を学んだようです。
家族でない他人が支配する環境です。
※丁稚奉公のイメージが近いでしょうか。

片親は折檻する実親を恐れています。
こちらも親の機嫌に振り回されるところの、力による支配の養育体験です。

※虐待の英語表記は、ub-useです。きっと親の力の不適切な利用って意味でしょう。親の権限の悪用です。
力・権限を濫用しての養育は虐待になるということですね。

言葉を手にすることは救いになります。
施設のようだった。
との言葉は、私の苦悩を言い表すのに適切です。

最近、宗教2世という言葉を知りました。
親の宗教が自分の人生を縛っている子って感じです。
私これそうなんです。

クリスマスは経験したことありませんし、そもそも話題にも上りませんでした。
地区の子どもみこしを担ぐの担がないので親は役員さんと一悶着ありました。
宗教行事の日には、学校を休むのが本来だが、うちは学校に行かせてやっているとして、親は自分の寛容さを何度も主張していました。

世の中のルール・常識より宗教が優先されていました。
もちろん子どもの気持ちよりも。
ひょっとしたら、親の気持ちよりも。

当時の私は、
死んだ人だけ大事にする家だと評していました。

今改めて考えると、
実は親も宗教に縛られていたように思えます。

信仰の喜びが両親から感ぜられなかったからです。
死んだ人を大事にするために、やらねばならないことばかりの、義務感ばかりが際立っていました。

言葉は、気づきを促します。
救いにつながります。

最近の救いにつながる言葉は、他に、
ヤングケアラーがあります。
幼い頃から、親の世話をすることが役目となって、自分の人生に大きな制限がかかっている人って感じです。
これも私です。

精神疾患や障害のためや、宗教のことで手一杯で、
いろいろなことがおろそかになる両親に配慮するのが子である私の役目でした。
そうじゃないと、家が持たないのです。
暮らしがやっていけないのです。

これまた最近、
親を捨ててもいいですか? という刺激的なNHKの番組がありました。
NHKのクローズアップ現代+です。
URLは、
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4541/index.html

どんな親でも捨ててはならないという世間の常識に呪われている大人になった被虐待児。
って印象を持ちました。

嫌なら会わなければいいじゃない。
縁を切ればいいじゃない。
という、これまた世間の常識にもとづく通説が役立たないことが明らかにされます。

家族は家族の世話を、親の世話を焼くもんだという社会の常識があるために、
たといしばらく会わなくても、縁を切ったとしても、

親が死んだとき、病院に入院したとき、などひどい状態で、
連絡を受けた方としては逃げられない状態で、

自分の元に親とのつながりが無理矢理やってくる予想ができるから、

親を捨てられない。

なんだか、
結局つけが回ってくる感じ。

だから、そういう夢は捨てて親と関わり続ける。
親の世話を焼く。

番組に出た当事者の人は、そんな感じなんだろうなと思えました。

私も同様です。

結局、社会は家族とつなげて来る。
それが社会常識的に正しいことだから。
戸籍でつながっているから。

そんな予想がつくから、親と縁が切れた人生を捨てている。
親がつきまとわない人生を捨てている。
そんな人たちに、

親を捨てる。

という言葉は、救いになるかもしれません。

実のところ、そういう心持ちになると、
親との新しい関わり方ができるようになるようです。

親の世話を専門業者に頼むとか、割り切って世話を焼き、新しい関係を築くとか。
いろいろ。

  


生きづらさを抱える人のために

2021年05月23日

Nacoaという国際組織があるようです。

参照引用サイトNacoa(UK)
https://nacoa.org.uk/

"The National Association for Children of Alcoholics"
親のアルコール依存症などの犠牲になっている子どもたちが必要としている手助けを提供する組織だそうです。

提供される手助けは、アルコール依存症に限らず、安全に安心して育っていける環境で育っていない子どもや大人になった子どもたちにも共通して役立つと思えます。

私もサイトを読んでとても助かりました。
心に残った点をいくつか記します。

年齢ごとに分けられたページの、
ヘルプとアドバイス(Help&advice)の各ページです。

アルコール依存症などの問題の影響を受けた人々が共有する感覚が記されています。
ページURL
https://nacoa.org.uk/support-advice/

・他の人と違う感じ

・親密な関係を築き、維持することの難しさ

・忠誠に値しないときでさえ忠誠であること

・楽しむのが難しいと感じる

・容赦なく自分自身を判定(ジャッジ)する

・自分が制御できない変化に過剰反応する

・「通常」が何であるかを推測する

・誰もあなたに何が起こったのか本当に気にしないと感じますか?

・罪悪感を感じ、理由がわかりませんか?

・あなたの家族の問題について秘密を守りますか?

・誰もあなたの気持ちを理解できないと思いますか?

私もこれらの感覚は、常に強く経験しています。

行く先々、出会う人出会う人に対してなんか違う感じを持っていました。

親密になること、親密でいることにとても疲れます。距離感が難しい。

責任感が強いといつも通知票に書いてありました。
職責・忠誠心と言ってもイイでしょう。ムダに忠誠なんです。
献身と言い換えてもいいかもしれません。
自己犠牲をいとわないでもいい。

そのために時間を取って遊ぶ感覚や趣味を楽しむ感覚が分かりません。
どうしていいのか分からない感じ。
自由にしてていいよ。と言われた時の感覚と似てます。

自己批判はとても強いです。判定は自分に厳しく一方で人には寛容です。
他の人が今の自分と同じことしたらどうする? の判定はまったく異なります。

状況をしっかり把握し、コントロールしたい気持ちを強く持っています。
じゃないと、気が変になるぐらい怖くてしようがない。
必死に状況を把握しコントロールしようとします。

いつも「フツー」を気にします。フツーどうしますかね?
が口癖だったりして。
多くのことがフツーとは違う家庭で育ったからです。
でも、
学校や職場や地域など私が生きていく世界はフツーの世界だから、そのフツーを知らないことはとてもとても困ります。

自分は誰からも気にかけてもらえないと思っています。
※私が誰かを気にかける役であることも一因です。

罪悪感や罪責感や恥じ入る感や屈辱感や無力感はよく感じます。

自己紹介を含め家族のことなど自分の私生活に関することはあまり口にしません。
公開するにしても厳選されたことのみを口にします。
厳しい検閲をへて言葉が発出されます。

分かってもらえない感覚は強く持っています。
きっとそもそもの前提が共有されていないからでしょう。
私、フツーと違う世界で生きてきたんです。

唯一、
自助グループでは前提が共有されていたので、理解し合う感覚を味わいました。

独りじゃないって思えました。

もし、
あなたがこれらの感覚を共有できるなら、Nacoaなどのアダルトチルドレンの知見が役立つかもしれません。

さしあたり、下の6つのフレーズは心を軽くし、希望への指南となるでしょう。

私はそれを引き起こしませんでした。
    ※原因ではありませんでした。

私はそれを制御することができません。
    ※ちょうどいいくらいに管理したり監督したりできません。

私はそれを治すことができません。
    ※病気や親の問題や家族の問題は治せません。直せません。

私は自分自身の世話をすることができます。
    ※その代わり、自分の面倒を見ることはできます。

私は自分の気持ちを伝えることができます。
    ※自分の心のケアもできます。

私は健康的な選択をすることができます。
    ※自分の健康管理もできます。

なにより、あなたはひとりではありません。

I didn’t cause it
I can’t control it
I can’t cure it
I can take care of myself
I can communicate my feelings
I can make healthy choices

You are not alone.

  


虐待の連鎖という言葉は配慮がないと思う。

2021年05月19日

支援者や専門家がまことしやかに胸を張ってさも正しいことのように口にするワードのうち、

どうにも受け入れられないものがいくつかありますので、列記することにしました。
お役に立てれば幸いです。

1、虐待の連鎖
虐待予防の場面で必ずと言っていいほど出てくる言葉です。

虐待した親が、子どもだった頃に虐待を受けていたというエビデンスに基づいて、こう言っているのだろうけど、
かつて虐待を受けていたところの、今では親になった子どものほとんど全員が虐待しているというエビデンスはありません。

それは、
虐待を受けた人は将来虐待をする!
とは言い切れないということ。
※虐待した人のほとんどが過去に虐待を受けていたと言うことはしっかり言えるだろうけど。

でも、
虐待の連鎖という言葉・ワードが一人歩きしているせいで、自分は虐待をするんだという呪いをかけられている被虐待児や大人になった被虐待児はたくさんいる感じ。

ややもすると、
自分は犯罪者予備軍だという感覚で怯えて生きている人たち。
こういうのをスティグマと言います。
心に刻まれた烙印ですね。

実のところ、
虐待していない被虐待児や大人になった被虐待児は多いと言う知見も見聞きします。
※被虐待経験者の多くは虐待しないって知見です。

自分の経験を自己の反面教師にしているからと思います。
虐待しないように日頃から意識している。
自分が受けた仕打ちを誰かにしないように誓っている。

こういうことから、
被虐待児・者への支援をする者が、この言葉・ワードを使うときは、とても慎重にならないといけないと思うのです。

加害し、その自分の行為に打ちひしがれている人に対して、あなたの人間性の問題じゃない、虐待を受けたことが原因なんだ。
という意味で使うのは理解できます。
その人の心のケアを意図した利用の仕方ですね。

一方で、
多数の人向けに、予防の意味で使う際は、多数の中に混じっているかつて虐待を受けた人たちが支援者が発するその言葉をどう受け止めるかについて、
くれぐれも思いやらねばならないと思うのです。

虐待についてなにかを伝えるときに、やみくもに判で押したように、軽々しく口にしてはならない! って。

支援者は、
自分たちが、支援対象者にスティグマを押し、そしておとしめて苦しめていることに鈍感であってはなりません。

2、問題行動
問題のある行動という意味ですね。

だから、
大人や支援者が矯正してもいい行動だ。
という意味合いで使われている感じです。

それは、
大人や支援者は、自分たちはまったくいつも正しい人だ!
だって、
自分たちはそんな存在だからだ!
という認識に基づいてる感じの言葉・ワードです。

問題行動。
ただ、パニクってるからやってるんだとか、
そういう社会適応の仕方(行動パターン)しか知らないとか、
それが実は、その子にとってその人にとっての唯一やりなれた問題解決行動だとかって見方・評価はありません。

問題行動。このワードは、
逆境体験の中で生き抜いてきた、
そうしないと生き残ることができなかった、
そのやり方で生き延びてきたところの支援対象者(子どもたちや大人になった子どもたち)の
心理への配慮が不足する一言ですね。

これについても、
支援者のこの姿勢によって、
逆境を体験した子どもや大人になった子どもたちは、

自分はこれからも問題行動を起こす人間だ。
これまでも問題行動ばかりしていたダメな人間だった。
という認識を持つかもしれません。

スティグマです。

支援者は、
支援をしている人と支援はしてないけど支援対象に当てはまる人たちに、
自分たちがスティグマを押し、その人たちをおとしめ苦しめていることに鈍感であってはなりません。

3、試し行動
(子育て系)業界では、養育者がどれくらい自分に配慮してくれるかを試すことを目的に、子どもがいろいろわがままをすることをこう呼ぶならわしのようです。
ニュアンス的には問題行動の範疇です。
被虐待児童は、まずやるんだそうです。

養育者が、自分が試されているような気になるからこう呼ぶようになったのでしょうね。
子どもが自分に嫌がらせや意地悪して私を困らせるって感じ。

自分の養育能力が試されてる、愛情がテストされてる、自分の包容力の限界をテストされてるって重圧感を持つのかしら。

英語訳はtesting of limitsらしいです。
※私未だに最初に言い出した人は誰か見つけきれません。原著・出典にたどり着けていません。

工業系の言葉に、
限界評価試験っていうのがありますが、これに近いかしら。

さて、この限界を見定める行為。

私は、
親の限界を見定める意地悪な行為と言うよりも、むしろ、

新しい世界(人間関係・ルール・安全な環境)で自分がどれくらいやっていいのか試してる(テストしてる)感じじゃないかと思っています。
※経験的に。

自分の振るまいがどこまでなら問題が起きないか?

どういうのが正しくて、どういうのから良くないことになるのか?

どんなことまで自分は安全でいられるか?

その限界を見極めようとしている感じ。

これまで生きてきた世界では、
それ以上はダメよって限界・境界までの距離がとても短かったり、
日によって、(養育者の気分次第で)あやふやだったりしたけど、

どうもここでは、
これまでのやり方とは全然違うやり方でやっていかないとならないようだし。
そしてなんかそれ良さそうだし。

どれをやっていいのか?
どこまでやっていいのか? この世界は?

どれくらい安定しているのか? ここは?

どんな反応があるのか? 今度の人たちは?

を評価試験しているんじゃないかしら。

悪意とか、意地悪とかって気持ちからじゃなく、
純粋にクールに自分の置かれた環境を評価する意図で。
あるいは、
お互いに、いい関係でいられるように。

その行為は、
新しい社会のルールを体験によって学ぼうとしているようにも思えます。
ある意味、探索行動。

養育者に挑むって言うより。
世界を再探索している感じ。

最近、
横断歩道の前で歩行者が横断待ちしていたら、車は停止する。
ってルールが強調されていますが、

これぐらいで止まればいいんだなとか、こんな風に注意して走行しとけばいいんだなとか、
走行中のルールを再点検したドライバーは多いんじゃないかしら。

きっとこの感覚に近いと思う。

で、今のでよかった?
って同乗者に尋ねたりして。

砕けた言い方をすれば、
さぐりさぐりやってる。

そうして手応えを得ようとしている。
だって、見知らぬ世界だもの。

そういう意味合いもあるだろうに、
※他には、純粋にトラウマ反応でなじみのあるそのやり方をやっているだけって場合もあるでしょう。

あるいは、
Tryingと言う意味での試すの要素もあるように思えます。
試みてみる。試しにやってみるって意味。

これだと、主体的に取り組んでる感じ。問題行動じゃない。
だって、
試行錯誤はとても大事な学びの形態だもの。

だのに、
支援者や養育者は、一律自分が試されている、挑まれてる、テストされてると定義するのです。
訳知り困り顔で支援対象の子どもや大人になった子どもたちをまなざして。

これこそ、問題行動のような気がします。
※でも、これは誰も矯正しません。矯正されるのはいつも弱者の子ども・当事者ばかり。
だって、支援者・養育者はいつも正しいのだもの。

一方で、
試し行動というワードを知ったところの、
虐待・逆境を体験した子どもや大人になった子どもたちは、

自分は、親密な大人に対して、優しくしてくれる大人に対して、
あるいは(性的にも)親密な関係になった人たちに対して、
その人たちを

試す行為をする人だ。
という認識を持っているかもしれません。

人を試す行為は、世界的に歓迎されません。
歓迎されないことをする自分は、よくありません。ダメです。
つまり、
自分は悪い子、悪い人。ダメな子。ダメ人間。という認識を持っているかもしれません。

スティグマです。

支援者は、
支援をしている人と支援はしてないけど支援対象に当てはまる人たちに、
自分たちがスティグマを押し、その人たちをおとしめ苦しめていることに鈍感であってはなりません。

さてこれらのスティグマ。
あまり意識されていません。

虐待・逆境体験者自身が、自分がスティグマを負っていることや、
支援者たちが、誰かにスティグマを捺していることを気づきづらいのは、

私たちがフツーに、
そういう傷を負うことを、
誰かから誤解され、誰かを誤解することを仕方のないことだと織り込んで日常を生きている、

日々を営んでいるからでしょう。

でも実際は、思った以上に傷んでるんです。
スティグマを捺された人たちは。

はやりの歌のフレーズを援用するならば、

あなたが思うより不健康です!

ってな感じなんです。

支援者は、このことに思いを致さねばなりません。

だって、
あえて捺さなくていいんだもの。